最終更新日:2022年8月25日

第1章 元明天皇の時代

元明(げんめい)天皇

第43代天皇
諱は阿閇(あえ)/阿陪(あべ)
斉明7年(661)生誕
在位は慶雲4年(707)~和銅8年(715)
元正に退位後は上皇として君臨
養老5年(721)崩御(享年61)
子は文武・元正以外に吉備内親王がいる(長屋王に嫁ぎ、「変」にて自殺)

本講座関連系譜(稲用章作成)

 

元明の事績

足掛け9年の在位中、以下の政治を行った
 -慶雲4年(707)7月21日 授刀舎人寮(じゅとうとねりりょう)を創設
 -和銅元年(708)正月11日 武蔵国秩父郡から和銅を献じられ改元し、大赦や高齢者への支援などを行う
 -同年3月13日に政府の新体制人事を発表
 -同年5月11日、和同開珎の鋳造を開始
 -和銅2年(709)、律令国家初の蝦夷征討
 -和銅3年(710)3月10日、平城京遷都
 -和銅5年(712)、古事記完成(『続日本紀』に記載なし)

 

元明の即位

慶雲4年(707)6月に文武が崩御した時、文武の子・首(おびと)皇子は7歳で皇太子にもなっていなかった(なれる年齢ではなかった)
天武の諸皇子(文武の叔父たち)が健在で彼らの誰かが皇位に就くことも可能であった
 -穂積 ・・・ 第5皇子 母は蘇我赤兄の娘・大蕤娘(おおぬのいらつめ)
 -舎人 ・・・ 第6皇子(このとき32歳) 母は天智天皇の娘・新田部皇女
 -長 ・・・ 第7皇子 母は天智天皇の娘・大江皇女
 -新田部 ・・・ 第10皇子 母は藤原鎌足の娘・五百重娘(いおえのいらつめ)
将来、首を即位させたいと考えていた元明は、それまでの時間稼ぎ(中継ぎ)の自覚をもって自ら即位したと考えられる

 

私兵の創設

元明は即位の4日後に、授刀舎人寮(じゅとうとねりりょう)という官司を新設
宮中の警護にあたる
大宝律令では同じような役目の五衛府があり、授刀舎人寮は令外官(りょうげのかん)
⇒笹山晴生氏は首皇子を護る意図で元明や不比等が創始した部署と推定(元明の私兵的役割を担う)
つぎの元正の代になるが、養老6年(722)には、この長官に房前(42歳)が任じられる

 

元明朝新体制

元明は即位の翌年3月には以下の人事を発令
 左大臣 ・・・ 正二位 石上麻呂(69歳)
 右大臣 ・・・ 正二位 藤原不比等(51歳) ・・・ 位階では石上麻呂に並んだ
 大納言 ・・・ 正三位 大伴安麻呂
 中納言 ・・・ 正四位上 小野毛野
 同 ・・・ 従四位上 阿倍宿奈麻呂(すくなまろ)
 同 ・・・ 従四位上 中臣意美麻呂(おみまろ)
 参議 ・・・ 従四位上 下毛野古麻呂(こまろ)
 このほか各省や各国の長官も任じられた

 

下毛野古麻呂

参議に任じられた下毛野古麻呂は、このとき式部卿に叙任
古麻呂は下毛野国造家の末裔とされ、本拠地は下野国河内郡(宇都宮市の鬼怒川以西ほか)
古麻呂は大宝律令の編纂にも参加している
『公卿補任(くぎょうぶにん)』によると、和銅元年(708)7月10日に、正四位下大将軍に叙せられた
和銅2年(709) 12月20日卒去(享年不詳)
⇒下毛野氏の支配領域には、古墳時代には下野型古墳といって広い基壇を備え、埋葬主体を前方部におく独特な古墳が見られた

 

和銅の産出と和同開珎の鋳造

和同開珎の読み方は「わどうかいほう」と「わどうかいちん」がある
慶雲5年(708)1月11日、武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が献上され、それを瑞祥として和銅に改元
⇒日本では鉱物の発見を瑞祥として改元することがあるが、中国では鉱物の出現を祥瑞とする発想はない
同年2月11日、初めて催鋳銭使(さいじゅせんし)を置いた
同年5月11日、和同開珎の銀賤を使用開始
⇒これより前に無文銀銭や富本銭が鋳造されている
⇒中国の長安からも和同開珎の銀銭が発掘されることがある
同年7月26日、近江国で和同開珎の銅銭を鋳造
同年8月10日、和同開珎の銅銭の使用を開始
翌和銅2年(709)年8月2日には銀銭の通用を停止して銅銭を使うようにした

 

第2章 律令国家初の蝦夷征討

元明朝の国郡建置

元明朝では、他の天皇の時と比べて新たな国や郡が多く作られている
和銅元年(708)9月から元明が退位する直前の霊亀元年(715)7月までを列挙すると下記の通りとなるが、北東北と南九州での行政区画の整備が、それぞれ蝦夷(えみし)や隼人(はやと)の反乱につながる
 和銅元年(708)9月28日、越後国出羽郡を建置
 ⇒翌年の蝦夷の反乱の原因の一つと考えられる
 和銅2年(709)2月20日、遠江国長田郡を二郡に分割
 同年10月8日、備後国芦田郡を建置
 和銅4年(711)3月6日、上野国多胡郡を建置
 和銅5年(712)9月23日、出羽国を建置(郡から昇格)
 同年10月1日、陸奥国の最上郡(山形市周辺)と置賜郡(おいたみ・おきたま=米沢市周辺)を出羽国に併合
 和銅6年(713)4月3日、丹波国を割いて丹後国、備前国を割いて美作国、日向国を割いて大隅国を建置
 ⇒元正天皇の養老4年(720)の大規模な大隅隼人の反乱へつながる
 同年9月19日、摂津国能勢郡を建置
 同年12月2日、陸奥国丹取郡を建置
 霊亀元年(715)7月27日、美濃国席田郡を建置

 

律令国家初の蝦夷征討

和銅2年(709)3月5日、陸奥・越後の蝦夷が、「野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える」ということで、律令国家初の蝦夷征討が行われた
文武天皇のときに遣唐使に節刀が与えられたが、このとき軍事作戦として初めて節刀授与が行われた
節刀を授けられた将軍は戦地においては天皇であり、将兵に対する生殺与奪の権限を持っている
兵が動員された国は、遠江(静岡県)・駿河(同)・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)・越前(福井県)・越中(富山県)など
前項で見た建郡記事と蝦夷関連の記事を併せると以下のようになるが、後述する通り、和銅3年(710)3月10日には藤原京から平城京へ遷都が行われているなかでの征夷であり、普通であれば考えられない
 和銅元年(708)9月28日、越後国出羽郡を建置
 和銅2年(709)3月5日、陸奥・越後の蝦夷を討つために征討軍出陣
 同年8月25日、蝦夷征討軍が軍事行動を終えて入朝
 同年9月、房前(29歳)が東海道と東山道へ視察に赴く
 和銅3年(710)3月10日、藤原京から平城京へ遷都
 和銅5年(712)9月23日、出羽国を建置(郡から昇格)
 同年10月1日、陸奥国の最上郡(山形市周辺)と置賜郡(おいたみ・おきたま=米沢市周辺)を出羽国に併合
 和銅6年(713)12月2日、陸奥国丹取郡を建置
 和銅7年(714)10月2日、尾張等200人、出羽柵戸に移す
 霊亀元年(715)5月30日、関東6か国の富戸1000、陸奥に配する

 

律令国家以前の蝦夷征討

『日本書紀』には、元明朝の蝦夷征討以前に以下のような蝦夷征討記事が見られる
 ① 仁徳天皇の時代の上毛野君田道(たぢ)による蝦夷征討
 ② 舒明天皇9年(637)の上毛野君形名による蝦夷征討
 ③ 斉明天皇の658年から足掛け3年にわたる阿倍臣の北方遠征
①に関しては、上毛野氏に対する王権からの命令というよりかは、上毛野氏が自分たちのために自主的に行った戦いの記録が日本書紀に転載されたものと考える
②に関しては、蘇我政権の東国における最大与党である上毛野氏が蘇我氏に協力するために行った東北地方への作戦行動と考え、国家規模での軍隊派遣ではない
③に関しては、征夷というよりかは視察に近い
 ⇒奥尻島の青苗砂丘遺跡は、オホーツク人の最前線の拠点集落で、戦いの形跡が見られることから、日本書紀に記されている阿倍臣と粛慎との戦いは、阿倍臣が続縄文文化人の勢力を援助して、彼らと敵対していたオホーツク人勢力と戦った事件であると考えられる
 ⇒北海道における続縄文文化から擦文文化への移行を土器から追うと、タイミング的には阿倍臣の遠征の頃から、続縄文人の擦文化が進んでいることが分かるため、7世紀後半には阿倍臣の遠征に代表されるような王権の北方へのアプローチが盛んに行われていた可能性が高い
以上のことから、元明朝での征夷は日本史上初の国家権力による征夷を目的とした軍勢派遣であると考えられるが、後述する通り、それは名目に過ぎなかった可能性がある

 

将軍の任命

以下の将軍を任命
 陸奥鎮東将軍 左大弁・巨勢麻呂(こせのまろ)
 征越後蝦夷将軍 民部大輔・佐伯石湯(さえきのいわゆ)
 副将軍 内蔵頭・紀諸人(きのもろひと)
翌4月16日には陸奥守の上毛野小足(おたり)が没し、7月1日には上毛野安麻呂が陸奥守に任じられた
⇒小足は昨年3月13日に陸奥守になったばかりだが、上毛野氏が引き続き陸奥守となった

 

作戦行動と戦果

安麻呂の陸奥守叙任と同日、諸国に命じて兵器を出羽柵に運ばせた
⇒この時点で出羽柵が存在したことが分かるが、具体的にどの遺跡のことを言っているのかは不明(庄内地方か?)
⇒征越後蝦夷将軍佐伯石湯以下の日本海側の討伐軍は、庄内平野から沿岸部を船によって北上して現在の秋田県域に侵攻したか?
⇒その地域の情報は、阿倍臣以来の蓄積があるだろう
7月13日には、越前・越中・越後・佐渡の船100艘を征狄所に送らせた
⇒「狄」の字を使っていることから日本海側であることがわかり、つまりは石湯への支援である
8月25日、石湯と諸人が征討を終えて帰還し入朝し、二人は元明に招かれ手厚い恩寵を与えられた
一方、東山道方面を進んで陸奥に入った陸奥鎮東将軍巨勢麻呂の帰還記事がないが、麻呂は2年後に正四位下から正四位上に一階上がっているので大きな失敗はしていない
以上のことからこの時の征夷は日本海側が主体であり、もしかすると巨勢麻呂は示威行動のみで戦わずに帰ってきたかもしれず、そもそも朝廷からそういう指示を受けていたかもしれない

 

元明朝の蝦夷征討の意義

征討前年の出羽郡建置によって現地に派遣された官吏と現地住民(蝦夷)とのあいだで軋轢が生じ、それが騒乱に発展したことは十分考えられる
ただし、正式な国家の軍隊を派遣するほどのものであったかは疑問であり、このときの征夷は、平城京遷都の直前に不比等与党の力を見せつけるための一大デモンストレーションであったのではないだろうか
律令国家が完成したことにより、令制を運用しての戦争の演習の意味合いもあったと考える

 

第3章 平城京遷都

平城京遷都

和銅元年(708)2月15日、平城京遷都の詔を発布
⇒「衆議忍び難く詩情は深切である」とあり、元明からは積極的な様子が見られない
和銅3年(710)3月10日、藤原京から平城京へ遷都
⇒「藤原京」という言葉は近代の学術用語で、『日本書紀』によると当時は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれていた
桓武天皇が延暦3年(784)に長岡京(現在の京都府向日市・長岡京市・京都市西京区)へ遷都するまで、7代、足掛け75年間、日本の都となる
⇒この時代を奈良時代と呼ぶ
和銅4年9月の条には、「諸国の役民、造都に労して奔亡なお多し。禁ずといえども止まず」とあることから遷都後も工事は続いていたことが分かる

 

大極殿の完成は遷都5年後

大極殿の完成は遷都から5年後の和銅8年(715)
平城京遷都の際、藤原京には石上麻呂が残った
⇒不比等は上司である麻呂を新たな都での政治運営から外したが、これより2年前に20歳を迎えた宇合は、時期は不明だが麻呂の娘と婚姻している

 

寺院の移転

藤原京からは例えば以下の寺院が移転
 法興寺(飛鳥寺) ・・・ 移転後は元興寺
 大官大寺 ・・・ 移転後は大安寺
 厩坂寺(うまやさかでら) ・・・ 移転後は興福寺
 薬師寺 ・・・ ただし、移転後も藤原京の伽藍も維持していたらしい
すべての寺院が移ったわけではなく、法興寺・大官大寺・薬師寺と並んで「飛鳥の四大
寺」の1つであった川原寺(かわはらでら=現・弘福寺<ぐふくじ>)は残った

 

平城京の造営と古墳の破壊

和銅2年(709)10月11日、工事中に古墳が発見された場合は、発いたまま放置せず、埋め戻して死者の霊を祭るように勅された
⇒発くこと自体を禁止していないのが面白い
平城京造営の際に多くの古墳が破壊されたことが判明しており(あちこちで埴輪片が見つかる)、例えば、現在100m級の大型円墳に見える市庭(いちば)古墳は、元々は墳丘長253mの超大型前方後円墳古墳だった

 

元々あった道を基準とした造営

藤原京もそうだが、平城京も元々あった道路を基準線としている
⇒中国の都城や長岡京・平安京では元々の道路は無視

 

平城京の構造

中国と違い、城壁で囲むことはしなかった(形ばかりの羅城門)
⇒このため京域をはっきりさせることが難しい
発掘調査によれば、大内裏は東側に張り出し部分があり、そこに東院や東宮があった可能性がある
⇒林睦郎氏は、元々不比等の別邸か関係寺院があった土地に平城京を誘致したとする

 

藤原京と平城京の比較

藤原京の規模は東西5.3km×南北5.3km
平城京の規模は東西4.3㎞×南北4.7㎞

 

平城京の人口構成

人口の正確な記録はないが、6~7万人、多くても10万人
それ以外に外から来た人々が一時的に滞在
人口内訳は以下の通りで、一般人は少ない
 五位以上の貴族層(以下、その家族を含む) ・・・ 1200人
 六位以下の長上官層 ・・・ 6000人
 番上官(地方の有力者の子弟が兵衛<ひょうえ>として勤務) ・・・ 3万人
 全国から集められて労働に従事する一般人 ・・・ 2万人 
 僧侶 ・・・ 数千人
⇒役人は本籍地を元の場所に残したままの者が多かった
⇒全国から多くの人びとが集まったため、我が国初の「日本語」という共通語ができたとされる

 

奈良時代の政治

持統天皇から奈良時代にかけては皇親政治と呼ばれる政治体制が敷かれた
天武の時代、高市皇子は太政大臣として政務を見た
刑部親王、ついで穂積親王は知太政官事(ちだじょうかんじ)として政務を
見た
⇒大宝律令制定後は皇族が太政大臣に叙せられることはなくなり、その
かわり知太政官事が置かれた
知太政官事と上皇との継投で政治を見るのが皇親政治

『律令制の虚実』(村井康彦/著)より転載

 

参考文献

『日本の女帝』 上田正昭/著 講談社 1973
『藤原不比等』 上田正昭/著 朝日新聞社 1986
『続日本紀 現代語訳 上』 宇治谷孟/著 講談社 1988
『続日本紀 現代語訳 下』 宇治谷孟/著 講談社 1988
『日本古代の国家と都城』 狩野久/著 東京大学出版会 1990
『日本書紀 現代語訳 下』 宇治谷孟/著 講談社 1992
『蝦夷と古代国家』 関口明/著 吉川弘文館 1992
『長屋王家木簡と奈良朝政治史』 大山誠一/著 吉川弘文館 1993
『クマソの虚構と実像』 中村明蔵/著 丸山学芸図書 1995
『熊襲と隼人』 井上辰雄/著 ニュートンプレス 1997
『新装版 人物叢書 藤原不比等』 高島正人/著 吉川弘文館 1997
『日本の誕生』 吉田孝/著 岩波書店 1997
『古代東北と王権』 中路正恒/著 講談社 2001
『隼人の古代史』 中村明蔵/著 平凡社 2011
『なるほど!「藤原京」100のなぞ』 橿原市ほか/編 柳原出版 2012
『古代国家と東北』 熊田亮介/著 吉川弘文館 2003
『歴代天皇・年号事典』 米田雄介/編 吉川弘文館 2003
『古代国家と軍隊 皇軍と私兵の系譜』 笹山晴生/著 講談社 2004
『律令制の虚実』 村井康彦/著 講談社 2005
『飛鳥の宮と藤原京』 林部均/著 吉川弘文館 2008
『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』 渡辺晃宏/著 講談社 2009
『平城京100の疑問』 橿原考古学研究所/編 学生社 2010
『シリーズ日本古代史④ 平城京の時代』 坂上康俊/著 岩波書店 2011
『東北の古代史3 蝦夷と城柵の時代』 熊谷公男/編 吉川弘文館 2015
『古代の都市と条里』 条里制・古代都市研究会/編 吉川弘文館 2015