後醍醐に呼応した赤松則村は、3月10日に瀬河(大阪府箕面市)で六波羅軍と戦って敗れたが、翌日には再度戦いこれを破り、京都を目指した。一方、千早城では楠木正成が幕府軍の攻撃を防いでいたが、幕府軍に加わって戦っていた新田義貞は病と称して千早城攻めの戦線から離脱している。後醍醐天皇の綸旨(りんじ=天皇の意志が認められている)、あるいは護良親王の令旨(りょうじ=皇太子や皇后などの意志が認められている)を得たための戦線離脱ともいわれる。
義貞は尊氏や頼朝と同じく、八幡太郎義家の子孫であるが(第1回「系図1」参照)、7代前にあたる初代の義重が頼朝に協力的でなかったため、それ以降、幕府内では重用されてこなかった。足利氏が代々従五位下以上の位に叙せられていたのに対し、義貞の家系は祖である義重が従五位下に叙せられた以降は代々無位無官であった。つまりは、幕府によって冷遇されてきたのだ。しかし義貞は後述する通り、こののち幕府に止めをさすことになる。
赤松軍は12日には一時的に京都に入り、危険を感じた光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇は、御所を出て六波羅北方に避難した。六波羅は北方と南方に分かれている。
後醍醐挙兵と京都での戦闘の知らせを受けた幕府は、足利高氏と名越高家を援軍に差し向けた。高氏の出自についてはさきに述べた。一方の高家は、承久3年(1221)の「承久の乱」で北陸道の大将軍を務めた式部丞朝時の後胤で、名越家は北条家の一門である。
高氏らは4月下旬京都に入り、伯耆攻めのための軍議の結果、高氏が山陰道から、高家は山陽道から攻めることになり、27日京都を出陣した。ところが出陣早々、高家は、久我縄手(こがなわて=京都市伏見区から山崎方面への街道)の戦いで討ち死にしてしまった。
そしてここに幕府にとって一大事が発生した。高氏が後醍醐側に寝返ったのだ。
名越高家軍が善戦虚しく潰えたという報告と、足利高氏が裏切ったという知らせは、幕府を震撼させた。その知らせを聞いた京都の幕府側勢力は恐慌を呈し、逃亡するものが多く、上洛して戦っていた南奥の白河結城親光らは後醍醐側に寝返った。
高氏は東上してきた千種忠顕・赤松則村らと合流し、5月7日六波羅を攻めた。幕府軍は六波羅を支えることができず、六波羅探題北方の北条仲時や南方の同時益は、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を連れ出し京から逃れた。しかし一行は野伏に襲われ、時益は討ち死にし、残る仲時ら幕府側武将たちも、5月9日、近江国伊吹山の麓、番場(滋賀県米原市)の蓮華寺の前で切腹して果てた。その数は432人だったという。
一方その頃、関東でも大きな動きがあった。5月8日、上野国新田庄(群馬県太田市)で、さきに戦線離脱していた新田義貞が倒幕のために挙兵し、鎌倉に向けて進発したのだ。
義貞軍は、武蔵国に侵攻し、12日に挙兵した足利千寿王(尊氏嫡男で後の義詮)と合流し、その後も雪だるま式に軍勢を膨張させ、分倍河原(東京都府中市)に迫った。対する幕府は北条泰家(第十四代執権高時の同母弟)を迎撃に出発させ、15日には、一度義貞勢は敗れたが、翌日には逆に泰家を討ち破った。そして18日には鎌倉近傍に攻め寄せた。
『遠野南部家文書』(『青森県史 資料編 中世1』所収)の元弘3年12月付け「南部時長・師行・政長陳情案」によると、この義貞の鎌倉攻撃軍のなかに、甲斐国南部郷(山梨県南部町)の南部時長とその子行長、それに奥州から駆け付けた時長の弟政長が加わっていた。このあと北奥の南部地方に根を張ることになる南部氏の者たちである。時長は、のちの三戸南部氏(盛岡藩南部氏)の祖と推測され、政長は事実上の八戸根城南部氏(遠野南部氏)の祖である。また、上記文書が南部氏と奥州との関わりを示す最初の史料となる。
20日には、南部氏の親類中村三郎二郎常光が討ち死にし、21日は若い行長が先頭を切って奮戦している。その日義貞軍は、稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市街に乱入した。そして22日には、東勝寺で北条高時以下の一族だけでも283人が自害し、鎌倉全体で自害した数は6千人を超えたといわれている。鎌倉幕府の滅亡である。
近江国太平護国寺(滋賀県米原市)に幽閉されていた光厳天皇は、5月25日、伯耆の後醍醐からの詔書で退位し、それとともに正慶という元号も廃され、すべては後醍醐が光厳に譲位した1年9ヶ月前に引き戻された。
後醍醐は6月4日京都に舞い戻ったが、復位したわけではなく、単に帰京しただけだということを強調した。後醍醐の言い分では、光厳天皇は存在しなかったことになる。そしてここに、46歳の後醍醐の、世に言う建武の新政が始まったのである。