ところが、「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」という大変な意気込みで始められた後醍醐天皇の新政府は、その当初から一枚岩とはならなかった。武家の棟梁たらんとする足利高氏と、それを鎌倉幕府の再来になると危険視した護良親王が対立したのだ。後醍醐は早速、京都帰還の翌日の6月5日に高氏を鎮守府将軍に任じ、同月13日には護良親王を征夷大将軍に任じた。
鎌倉を落とした後そこに滞在していた新田義貞は、5月中に高氏が下した細川和氏・頼春・師氏三兄弟と対立し、合戦寸前にまでなったが、義貞は「野心は無い」との起請文を出し、その後上洛した。後には高氏の子千寿王が残された。千寿王はまだ4歳だったので、『東国の南北朝動乱』によると、実質は足利氏一族の斯波家長が鎌倉を掌握したというが、家長もこのときまだ13歳であるので、細川三兄弟などの援けがあったものと考えられる。
その頃東北地方では旧幕府の北条得宗家の影響が非常に強く、新しい建武政権に加担して良いものか迷う領主もいた。そのような中で、建武政権は8月5日、北畠顕家(きたばたけあきいえ)を陸奥守に、同15日に葉室光顕を出羽守に任じ、奥羽支配を開始した。
顕家は10月に義良(のりよし)親王を奉じて、父親房とともに陸奥国多賀城に入り政務を開始した。その組織の顔ぶれを見ると、首脳部に顕家とともに下ってきた公家の冷泉家房らとともに、奥州に所領を持つ結城宗広・親朝や伊達行朝らが加わり、旧幕府の役人だった二階堂行朝(行珍)なども顔を連ねている。これを奥州小幕府と呼ぶこともある。
顕家は当時まだ16歳だったので、佐藤進一氏は『保暦間記』の記述を証拠とし、奥州小幕府の制度を作ったのは父の親房と護良親王としているが、伊藤喜良氏は親房が記した『神皇正統記』の記述を証拠とし、奥州小幕府は親房と後醍醐との合作だとしている。
一方関東地方では、顕家の陸奥守就任と同時に高氏が武蔵守に任じられ、名も後醍醐天皇の諱尊治から一字を賜り尊氏と改名し、11月8日には尊氏の弟直義(ただよし)が相模守に任じられ、12月14日、直義は上野国守護成良親王を奉じて鎌倉に向けて出発し、関東10ヶ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・甲斐・伊豆)を管轄とした。後の鎌倉府の先駆けだ。