既出した「南部時長・師行・政長陳情案」によると、南部時長の弟で政長の兄である師行(もろゆき)も義良親王とともに奥州に下っている。そして、その後の働きから分かる通り師行は奥州小幕府に幹部として参画している。

 師行が建武政権に参画したいきさつは判っていないが、当時時長・師行・政長兄弟は、従兄弟の武行から所領の問題で訴訟を起こされていた。武行は、長崎左衛門入道思元(高光)の婿であり、思元は北条得宗家執事長崎高資の一族であるから、武行は得宗家の力を背後に持っていた。そのため師行は、それに対抗する必要上、得宗家を打倒しようとしていた後醍醐側に近づいたものであると考えられる。

 師行は義良親王らと下向した後、陸奥国府からさらに北進して糠部郡に入り、郡衙で政務を執り始めたと考えられるが、広大な糠部郡のどこに入部したかどうかを史料上で確かめることはできない。しかしおそらくその場所は、地理的に見て、馬淵川をほんの少し下れば外洋と繋がる八戸の根城(青森県八戸市根城)であったと思われる。当時根城には旧政権の工藤氏がいたはずだが、根城の発掘調査によると、火災の形跡がないことから、師行は工藤氏から根城を平和裏に接収できたようだ。また当時の根城は、現在見えるように8つの郭が揃っていたわけではないと考えられる。そのわけは、最終形である近世初頭の根城の形を見ると、八戸根城南部氏の権力が向上する度にその都度郭を増築して行ったように見えるからだ。

 さて、師行に与えられた任務が何であったかというと、それは糠部郡奉行と、糠部・津軽・鹿角・閉伊・久慈・比内各郡の検断職(けんだんしき)であった。

 かなりの広範地域の行政と司法を任されたわけであるので、非常に強力な権力を持ったことになるが、中条時長との兼任であったので、政権側も権力が師行ひとりに集中することは上手に回避している。師行がこのような要職に就任できたのは、師行の能力が高く評価された結果ともみえるが、当初は師行の行政能力は政権側には未知数であったはずなので、人物重視の抜擢であり、なおかつ奥州の情勢に精通していたことも要因のひとつである可能性が高い。

 師行が奥州の情勢に精通していたと推測できる材料の一つに、『新渡戸文書』の建武元年(1334)と比定される2月20日付け「安倍祐季書状」がある。安倍祐季は安藤孫二郎と称し、津軽の人物である。この文書の宛名は「南部殿」になっており、これが師行であれば、師行は津軽に人脈を持っていたことになる。師行はおそらく以前から奥州に散在する南部氏の所領維持に関して自身も奥州に下向したことがあり、その折に安倍祐季と知り合って、それ以降文通をする仲となったのであろう。もしかすると、後述する鎌倉時代末期の「安藤氏の乱」がきっかけで知り合ったのかもしれない。

 またもう一つ、『遠野南部家文書』の建武元年(1334)と比定される2月2日付け「南部師行寄進状」によると、師行は奥州小幕府に参画して早々に、三戸の「わせた」(早稲田)や「おほむかゑ」(大向)などの若干の土地を「たてのひし里の御坊」(館の聖の御坊)という人物に寄進しているので、以前から三戸周辺に所領を持っていたと判断できる。さらに既述した通り、師行の弟の政長が新田義貞の鎌倉攻めに奥州から馳せ参じている。なお、政長が居た場所というのはどこであるか史料で確かめることはできないが、新田義貞の挙兵から政長の参陣までの日数を考えると、政長は軍勢を率いず、数騎で兄の軍勢に参加した可能性が高い。義貞が8日に挙兵して、『太平記』がいうところの「天狗山伏」によって甲斐にその日のうちに情報が届けられてから、師行らが甲斐で軍議を開き、政長のもとに使者を発すると、政長の居場所が南奥(南東北)だとしても、政長のもとに使者が着くのは11日か12日になってしまう。「南部時長・師行・政長陳情案」に記されているように15日から戦い始めるには軍勢を催している暇はないと考えられる。南部氏が義貞挙兵の情報を事前に得ていたとは考えづらい。

 ともあれ繰り返すが、そもそも師行に郡奉行や検断職などの重要な任務を負わせた要因のひとつに、すでに南部氏が鎌倉時代から奥州に所領を持っていて、地元の地理民情に明るかったことが挙げられるだろう。

 ところで師行あるいは時長・政長といった南部家の人物の出自を簡単に述べると、南部家は、第56代清和天皇の末裔で、一般的に清和源氏の流れの甲斐源氏と呼ばれる武士団の内に入る(「系図2」参照)。

 

 経基王の孫頼義は、前九年の役(1051~1062)で奥六郡(岩手県中部の岩手・紫波・稗貫・和賀・江刺・胆沢の各郡)の領主であった安倍氏を滅ぼした武将であるが、その三男義光の曾孫に甲斐国加賀美郷(山梨県南アルプス市)を領する加賀美(加々美)遠光という武将がいた。そしてその遠光の三男光行が、父から甲斐国南部郷(山梨県南部町)の所領をもらい分家して、苗字を南部とした。この光行が現代にまで続く南部家の初代である。

 遠光・光行らは、結果的に源頼朝の挙兵に協力する形になり、鎌倉御家人になる。そしてその子孫が鎌倉で権力を持った北条得宗家と親しくなった。南部家は得宗家が得ていた奥州の領地の管理を任されていたと推定され、それが南部家と奥州との関係の端緒となったと考えられる。

 なお、光行は文治5年(1189)の頼朝による奥州平泉藤原泰衡征伐に功を立て、頼朝から糠部五郡を拝領し、それ以来糠部を支配したという言い伝えが残っているが、それは言い伝えに過ぎず事実ではない。

 時長・師行・政長兄弟は、光行から数えて4代後にあたる。

 さて、奥州小幕府の幹部として師行が糠部に下向した頃、北奥はどのような情勢であったか。次項では鎌倉時代末期の北奥の様子を述べてみたい。

 

(つづく)