南北朝時代という時代は、鎌倉時代と室町時代の間の戦乱の時代で、同じ戦乱の世の中であった戦国時代とはまた違う趣を味わえます。戦国時代は近世への確実なステップアップというイメージがありますが、南北朝時代は中世社会にドップリと浸かった中で展開します。
南北朝時代と戦国時代の大きな違いは、南北朝時代には同時に2人の天皇が存在し、列島各地の勢力はどちらかに味方して戦いました。日本中に南朝側と北朝側の勢力がまだら模様のように混在して戦いまくったのです。そして、南北朝時代の魅力は個性的な人物たちの活躍にあり、人物を知ると、まるで三国志のように面白い時代です。
そんな南北朝時代の中でも、本稿は現在の岩手県北部と青森県東部で、その後、江戸時代末に至るまで勢力を振るうことになる南部氏を中心に叙述したもので、10年以上前に書いて2016年まで別サイトに掲載していた記事をこちらに再掲しました。
北条得宗家とは
本文中には「北条得宗家」という言葉がよく出てきますが、北条得宗家とはいったい何でしょうか。
鎌倉幕府は、源氏が征夷大将軍だったのは3代目までで、4代目以降は藤原氏と皇族出身の人が将軍に就任しています。
形の上からは、将軍が最高権力者のはずですが、実際は初代将軍の頼朝時代を除いては、頼朝の妻政子の実家である北条家が実権を握っていました。
その北条氏の嫡流のことを北条得宗家といいます。
頼朝の義父(政子の父)時政から、義時、泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時までの9代を数えることができます。
得宗家は得宗領といわれる所領を持ち、御内人(みうちびと)と呼ばれる直属の家臣を所領の代官にしていました。
南北朝時代以降に、南部氏が活躍することになる南部地方(青森県東部と岩手県北部)も得宗領があり、南部氏は得宗家の御内人と化し、代官をやっていくうちにその所領のいくつかを押領したのではないかというのが私の仮説で、それが南部氏のそもそもの奥州との関係の始まりだと考えています。
目次
第1回 後醍醐天皇
第2回 南部時長らの奮戦と鎌倉幕府の滅亡
第3回 奥州小幕府
第4回 南部師行の糠部派遣
第5回 津軽安藤氏の乱
第6回 鎌倉幕府の滅亡と曽我氏の内部対立
第7回 糠部郡衙での師行
第8回 北奥になかなか根付かない建武勢力
第9回 認められない旧得宗領の所領宛がい
第10回 持寄城降伏
第11回 師行が手にした津軽内摩部郷
第12回 師行の津軽出動と中先代の乱
第13回 師行文書の終焉と尊氏の謀反
第14回 顕家の第一次西上作戦
第15回 師行出陣と尊氏の九州下向
第16回 尊氏の復活と南北朝時代の幕開け
第17回 顕家の第二次西上と師行・顕家の死
第18回 後醍醐の死
第19回 顕信奥州に登場
第20回 津軽・糠部方面の戦いの終焉
第21回 北関東と南奥の情勢
第22回 多田系和賀氏の発祥
第23回 政長の死