鎌倉時代末期の元亨元年(1321)12月9日、後宇多法皇は院政(天皇を引退した上皇・法皇が政治を見ること)を停止して、子で34歳の後醍醐天皇に政務を執らせることにし、これにより後醍醐の親政が始まった。念願かなった後醍醐はすぐに記録所を設置した。記録所は、所領問題など各種の事案を天皇みずからが決裁する機関である。
後醍醐は自分を頂点とする秩序の構築を願っていたが、それを遮るものがあった。幕府である。幕府の存在によって、後醍醐は自分の後継者を決めることも不可能とされていた。したがって後醍醐は、親政を始めると密かに側近とともに倒幕の準備を進めていった。
ところが、後醍醐らの企ては、仲間の密告によって幕府の知るところとなり、元亨4年(1324)9月19日、六波羅(ろくはら=幕府の京都の出先機関)が出動、京都市街において戦いになり、後醍醐の側近はあるいは討たれ、あるいは逮捕された(「正中の変」)。
幕府は後醍醐を咎めることをしなかったが、当然幕府の朝廷に対する監視の目は厳しくなった。しかしそれでも依然として倒幕計画は進められ、後醍醐は嘉暦2年(1327)12月6日には、子の尊雲法親王(そううんほっしんのう=のちの護良<もりよし>親王)を天台座主(比叡山延暦寺の貫主)に補すなどし、寺社勢力の糾合を目論んだ。
しかし、元徳3年(1331)4月29日、今度もまた密告により後醍醐らの謀議は幕府の知るところとなった。なお、そのころ後醍醐は精神的な不良を訴えている。倒幕の謀議が発覚したことによる発症であろう。
そしてついに8月24日、後醍醐は神器を携え宮中を出て、奈良に潜伏し、ついで27日に笠置山(京都府笠置町)で挙兵した。その間の25日には、倒幕関係者が六波羅によって逮捕されている。なお、この年の密告に始まり、鎌倉幕府が滅亡するまでの一連の事件のことを「元弘の乱」と呼ぶ。
六波羅は27日に比叡山を攻撃し、尊雲法親王らが東坂本で六波羅軍と戦った。その一方で六波羅は、ことの次第を鎌倉に伝え、幕府は9月2日、「承久の乱」の先例によって、西上の令を下し、9月上旬には軍勢が進発した。その中には足利高氏(のちの尊氏)も含まれている。
高氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と先祖を同じくし、8代前があとに出てくる新田義貞と同祖の義国で、その孫の義兼が頼朝に協力して以来、鎌倉御家人として重要な地位を保ってきた(「系図1」参照)。

9月20日には、幕府の命によって後伏見上皇の詔でその第三皇子の量仁親王が践祚(天皇になること)した。光厳天皇である。こうして後醍醐は天皇の座から引きずり落とされたのだ。笠置山は28日に陥落し、後醍醐は赤坂城(大阪府千早赤阪村)の楠木正成を頼って逃亡したが翌日に捕らえられた。
一方、楠木正成は10月15日に幕府軍により赤坂城の攻撃を開始され、21日には落城、行方をくらませた。
後醍醐は六波羅に拘禁されたが、翌元弘2年(1332)正月17日には脱走を企て失敗する。そして3月7日には隠岐に流されるため京都を出発し、4月1日に隠岐に到着した。なお、元徳3年(1331)8月9日に後醍醐は元号を元弘に改元したが、9月20日に践祚した光厳は元弘への改元を認めず元徳を使い、翌元徳4年の4月28日に正慶と改元した。この時点では厳密にはまだ南北朝時代は始まっていないのだが、光厳が践祚した時点で既に南北朝時代が始まったともいえる。
後醍醐が隠岐に流された後も各地の不穏な動きは治まらず、尊雲が京都に出没するとの噂が流れ、人心は動揺した。尊雲は11月に還俗(げんぞく=僧から一般人に戻ること)して名を護良(もりよし)と称し、吉野(奈良県吉野町)で兵を挙げる。一方、楠木正成も河内国千早城(大阪府千早赤阪村)で兵を挙げそれに応じた。翌正慶2年(元弘3年・1333)年正月には播磨国(兵庫県)の赤松則村が兵を挙げ護良らに味方した。
それに対して幕府は大軍を差し向け、閏2月1日吉野は陥落し、護良は高野山に走った。しかし、正成が拠る千早城は粘り強く抵抗し、なかなか落ちない。それらの状況を隠岐で聴いていた後醍醐は、ついに閏2月24日、隠岐を脱出、伯耆国(鳥取県)の名和長高(このあと後醍醐の命によって長年と改名する)に奉じられて船上山(鳥取県琴浦町)から各地に兵を募った。