最終更新日:2022年8月2日

※北海道の縄文時代の解説は、ツアーをより楽しむための古代史講座に移動しました。

 

縄文時代晩期

 晩期後半、道南は北東北の亀ヶ岡文化の影響を受けたが、道東や道北では、在地系の縄文土器群である幣舞(ぬさまい)式や緑ヶ岡式土器が成立した。これらの土器にはのちの続縄文文化の母体となる要素が多く見いだされる。

 関東地方では、柄鏡形敷石住居といって、平面形がその名の通り、柄鏡のような形状の家が造られるが、道東・道北地方では、その「柄」の部分がさらに伸びた平面形の住居が造られ、例えば、北見市・栄浦第二遺跡の13号竪穴は、居住部分の7.5m×6.5mの場所から長さ8m、幅1.5mの長大な張り出しが付いている。この張り出し部分は住居の出入口(玄関)であるので、寒冷地に適した形状だ。こういった竪穴住居は、続縄文時代前半に流行する。

 

続縄文時代

 続縄文時代の開始時期を実年代で表すと、紀元前4世紀や紀元前3世紀とする研究者が多いが、本稿では紀元前4世紀として論を進める。7世紀には擦文文化へと切り替わっていく。また、この間、5世紀からは道北・道東にてオホーツク文化が栄え始める。

 続縄文時代はその名からは縄文時代の延長のような印象を持つかもしれないが、そういう面もありながら新しい面もある。例えば、縄文時代は墓への副葬品は目立たなかったが、続縄文時代には多数の副葬品を収めた墓が現れ、一部の墓は他の多くの墓と比べて際立って多くの副葬品が収められているケースもあり(多副葬墓)、社会にはある程度の階層化が認められる。縄文時代というと、のんびりとした「みんな仲良しで平等」的なイメージが浮かぶかもしれないが、続縄文時代には権力者が生まれていた可能性がある。

 また、続縄文文化の住居は既述した通り、柄鏡形の平面形を持つが、晩期から流行した形式である。
具体的にはこのような形状で検出される。

江別市郷土資料館にて撮影

 続縄文時代の後期以降には、土器が斉一化され、また竪穴住居跡がほとんど確認されなくなるため、平地式の建物に変わった可能性が高く、そうなると旧石器時代のような遊動生活再び戻り、簡易的な建物での生活に戻ったとする考えもある。

 

① 早期(紀元前4世紀~紀元前3世紀)

 この時代は、青森県以南では弥生時代にあたるが、北海道では稲作が行われなかったため、縄文時代と同様な文化が続き、続縄文時代という呼び方がされる。いつまでが縄文時代で、いつからが続縄文時代なのかは、例えば道央の江別市郷土資料館では、タンネトウL式土器は縄文晩期、大狩部式土器は続縄文時代初頭とする。

 下の集合写真の向かって一番左の上下の2個が大狩部式土器である。

江別市郷土資料館にて撮影

 同じ頃、道東部の網走地域では元町2式が、釧路地域では興津(おこつ)式が造られる。

 

② 前期(紀元前2世紀~紀元1世紀)

 この頃、道南の渡島半島に恵山文化が発祥した。火山である恵山にほど近い場所にある北海道指定史跡・恵山貝塚は著名な遺跡である。恵山文化の人たちは、縄文時代の人たち以上に海の幸の恩恵にあずかっており、同じ恵山文化圏にある有珠モシリ遺跡から出土した人骨の調査結果によると、生前摂取していたタンパク質の割合は、海産大型動物が42%、魚介類が35%であった。反対に陸の動物は3%しかない。

恵山貝塚から見る恵山

 恵山式土器群は、恵山貝塚を標識とする土器で、恵山1式、同2式、同3式の順に編年される。土器の特徴としては、帯状と縞状の縄文をベースに上半部に平行や鋸歯状の沈線文を施し、口縁部が外側に広がっていることにある。

アヨロ2式土器(aかbかは不明)(江別市郷土資料館にて撮影)

 恵山式土器群に分類されるアヨロ2a式土器は、道央部への進出を果たし、次のアヨロ2b式土器は、道央全体に広まり、道央には道東の文化も見え隠れしていることから、各勢力がせめぎあう様相を見て取れる。例えてみれば、函館のラッキーピエロが札幌に進出したことにより、道央のマックの業績が悪化したようなものだ。

ラッキーピエロの「チャイニーズチキンバーガー」

 地元の噂では、ラッキーピエロが函館から出ることは無いということなので、これは例え話に過ぎないが、話を戻して、手元には恵庭市郷土資料館で撮影してきた、単に「恵山式」と表示された土器の写真がある。これもアヨロ2式土器だろうか?

恵山式 中島松7遺跡出土(恵庭市郷土資料館にて撮影) 

 これ以外にも、恵庭市郷土資料館には、「前半の土器」として以下の土器が展示してあった。

型式不詳 ユカンボシE7遺跡出土(恵庭市郷土資料館にて撮影)
型式不詳 カリンバ遺跡出土(恵庭市郷土資料館にて撮影)

 

③ 中期(2世紀)

 恵山文化圏の道南部ではこれまでの流れで恵山4式が造られるが、同じ頃、各勢力がせめぎあっていた道央では、後北A式、つづいて同B式という土器を造る文化が発生していた。これらの土器のことを江別市では「江別太式」と呼び、江別太式土器を使うこの新興勢力の文化のことは、江別文化と呼ぶ。

 なお、後北式は、「後期北海道式薄手縄文土器」の略称で、これの「前期」の方はすでに型式名が消滅している。

江別太式土器(江別市郷土資料館にて撮影)

 後北B式は、「江別文化の成立と発展」では、坊主山1式と呼んでいる。

 後北B式は、古式と新式に分けられ、これまでの特徴であった沈線文は完全に消滅。器形は、これまでは深鉢形のみだったが、壺形や浅鉢形も現れる。

江別B(古)式土器(江別市郷土資料館にて撮影)
江別B(古)式土器(江別市郷土資料館にて撮影)
江別B(古)式土器(江別市郷土資料館にて撮影)
後北B式 ユカンボシE7遺跡(恵庭市郷土資料館にて撮影)

 後北B式が造られた中期後半は、竪穴住居が急激に減っていくため、おそらく住居は平地式に切り替わっていったと考えられる。この時期、江別文化は概ね北海道全体に分布域を拡大する。

 下図の「B式」と書かれている勢力範囲が、この時期の江別文化の勢力範囲である。

江別市郷土資料館のパネル展示を撮影

 後北B式の新式は、『新北海道の古代2 続縄文・オホーツク文化』(野村崇・宇田川洋/編)所収「江別文化の成立と発展」では、坊主山2式と呼んでいる。貼付文がより細くなり、疑縄隆起線文と呼ばれる。

江別B(新)式土器(江別市郷土資料館にて撮影)
江別B(新)式土器(江別市郷土資料館にて撮影)

 

④ 後期前半(3世紀) 

 後期の江別文化圏では、後北C1式が出現する。実年代は、3世紀(「オホーツク文化の土器・石器・骨角器」<右代啓視/著>)。

 この頃になると、道北の先端の狭い地域で鈴谷式土器を使う勢力がいたほかは北海道は江別文化に席巻されてしまい、なおかつ、江別文化は北東北にまで進出した。

 土器が北海道全体で斉一化されていくなかで、稚内地方に混ざって存在する鈴谷式土器は、サハリンの鈴谷貝塚が標式で、大陸極東地方で伝統的な櫛目文様を持ち、サハリン南部から中部にかけた地域が中心分布域である。

 下の図の「C1式」がこの頃の江別文化の勢力圏だ。

江別市郷土資料館のパネル展示を撮影

 北東北では2~5世紀前半の集落がほとんど見つかっていないが、各地で墓や土師片が見つかるため、従来住んでいた在地の弥生人やその末裔が気候寒冷化の影響で南へ逃れたあとに、住居跡の痕跡が残りづらい平地建物に住んでいた続縄文人がやってきて居住したと考えられる。

 また、続縄文人の墓は、楕円形の土抗墓で、両端にそれぞれ1~2個の柱穴があるか、片方だけに柱穴があるのが特徴で、秋田県能代市の寒川Ⅱ遺跡では、弥生時代末期の続縄文系の墓が6基見つかっている。上の図の通り、この時代には続縄文人は北東北に進出していたことが分かる。なお、北東北においては、こういった続縄文系の墓で7世紀以降に造られたものは見つかっておらず、その時代からは末期古墳の築造が始まる。

 続縄文時代の時代区分に関しては、北海道大学の高瀬克範先生の考古学講座のレジュメをもとに、早期、前期、中期、後期、晩期の5期に分け、そのうち、早期、前期、中期を「前半」、後期、晩期を「後半」とする。さらに後期と晩期はそれぞれ2つに分割して、以下に7つの時代に分けて考察する。
 

江別C1土器(江別市郷土資料館にて撮影)
江別C1土器(江別市郷土資料館にて撮影)

 

⑤ 後期後半(4世紀)

 後期後半の4世紀には、後北C2・D式が登場。この時期、江別文化はさらに広域化し、福島県北部~新潟県北部あたりのラインにまで進出した。これは、アイヌ語の最大分布圏に相当することから、アイヌ語地名を付けて行ったのは、江別文化の人たちであるといえる。

江別市郷土資料館のパネル展示を撮影

 この時代、続縄文文化人の南下範囲と、ヤマト王権のフロンティアの地域は重なっており、北は北上川中流域から南は大崎平野までの南北約60㎞におよぶ範囲で、続縄文文化と古墳文化の考古資料が混ぜこぜで見つかり、互いが敵対していた様相は見えない。宮城県域では、古墳文化人によって前方後円墳が築造されているのを近くに住んでいる続縄文人が見て驚いたこともあったであろう。

 両者は交易によって結びついており、例えば双方の有力者同士が婚姻関係にあった可能性もゼロとは言えないだろう。盛岡市の永福寺山遺跡では、続縄文系の土坑墓が7基見つかり、後北C2・D式土器と古墳時代の土師器である塩釜式が一緒に出土している。

 ヤマト王権の北進の理由の一つは、続縄文人と交易をするためだったはずで、一方の続縄文人の南下も、この時代の気候の寒冷化も指摘されているが、それよりも王権のフロンティアの人たちと交易することが一番の目的であっただろう。

 また、おおよそ全国的には古墳時代中期にその地域での最大の前方後円墳造られる傾向にあるが、東北地方ではそのブームが前期の4世紀後半になっている。これは、続縄文人が住んでいる近くに大型の前方後円墳を築造することによって、王権の力強さをアピールする目的もあったのではないかと考える。

東北最大の前方後円墳・雷神山古墳(宮城県名取市)

後北C2・D式 ユカンボシE4遺跡(恵庭市郷土資料館にて撮影)

 なお、元々はC2式とD式が別の型式としてあったが、その後の研究により両者に時間差は認められないとして、C2・D式と呼ばれるようになった。「江別文化の成立と発展」では、坊主山4式と呼んでいる。

 

⑥ 晩期前半(5世紀)

 晩期の前半には、続縄文人は北大Ⅰ式土器を造った。

 北大Ⅰ式の実年代は5世紀で、5世紀後半には岩手県内で唯一の前方後円墳である角塚古墳(奥州市)が築造され、胆江地方の勢力もヤマト王権の影響下に入ったことが分かる。

本州最北の前方後円墳・角塚古墳(岩手県奥州市)

 角塚古墳のすぐ近くには同時代の豪族居館跡(中半入遺跡)も見つかっていることから、この地は古墳文化の範囲内に入ったことが分かるが、角塚古墳の後継古墳は築造されず、おそらく角塚古墳の被葬者一代限りの王権所属ではなかろうか。

 

⑦ 晩期後半(6世紀)

 5世紀後半から6世紀末までの1.5世紀の間、北東北では土器片すら見つからなくなるため、つづく北大Ⅱ式の時代(6世紀)には、続縄文人は北海道へ撤退し、古墳文化人も国造の分布から見ると、宮城県南部の阿武隈川河口周辺までは進出したものの、それより北には進出しなかった可能性が高い。

 なお、この時代のヤマトでは継体天皇やその後継の天皇たちによって、列島各地に国造制を推し進めるとともに、朝廷の直轄地である屯倉の設置に力を注ぐようになった。 

北大Ⅱ式 ユカンボシE5遺跡(恵庭市郷土資料館にて撮影)

 

⑧ 擦文文化への移行(7世紀)

 7世紀になると、江別文化は急激に衰退する。いや、衰退というよりかは、変容と言った方がいいかもしれない。その理由は、蘇我氏や、そのあとの改新政府の政策によって多くの日本人が東北地方に進出し、その文化的圧力を受けたからである。結果、変容をきたし、ついに「続縄文時代」が終焉を迎えた。「擦文時代」の始まりだ。

 645年の乙巳の変以降の改新政府による城柵設置に先立ち、郡山遺跡ではⅠ期官衙に先行する竪穴住居跡から関東系の土師器が出土している。6世紀末から7世紀中葉の土師器で、千葉県印旛沼周辺の遺跡で出土する土師器に酷似している。郡山遺跡に隣接している南小泉遺跡は、弥生時代から古墳時代にかけての仙台平野最大の集落跡で関東系の土器が出土するが、6世紀末葉から7世紀初頭に掘られたと考えられる大溝も見つかっており、郡山遺跡に先行して倭王権が東北経略を推し進めていた可能性が高い。

 時代的には大化改新前の蘇我氏が政権を運営していた時代なので、蘇我氏が東北経略を推し進めていた可能性が高く、その際、協力したのが関東の国造たちで、郡山遺跡には印波国造が進出していた可能性が高い。

 日本書紀によれば、改新政府によって越の国に渟足柵と磐舟柵が造営されているが、太平洋側でも同じ頃に、仙台市太白区の郡山遺跡で、第一次陸奥国府に先行する城柵遺構が見つかっている。

 また、同じく日本書紀の斉明紀によると、阿倍比羅夫(あべのひらぶ)が王権の命令により船団を率いて北方へ遠征した(斉明紀の干支を単純に西暦にすると658~660年)。遠征先では蝦夷は支配下に入ったが、蝦夷と敵対していた粛慎とは交戦した。粛慎とはオホーツク人のことと考えられ、彼らが本拠地とした幣賂弁嶋(へろべのしま)は奥尻島で、青苗砂丘遺跡がその拠点である可能性が高い。考古学的に見てもこの時期以降、オホーツク人はオホーツク海沿岸に撤退し、続縄文人の居住域は安定化しており、日本書紀の記述と整合性がある。

 このように、7世紀後半から朝廷の東北進出は活発化し、それが続縄文人に影響し、擦文化が進んでいった。「擦文文化の成立過程と秋田城交易」(鈴木琢也/著)によると、北海道では、8世紀を画期として墓制・葬送、土器型式・組成などが大きく変化するが、その前段階として、上述の阿倍比羅夫の遠征などがあった。

 北東北では7世紀に末期古墳の築造が始まるが、北海道でも8世紀に石狩低地帯で末期古墳が築造される。ただし、在地の墓制も残っており、両者の大きな違いは、末期古墳は伸展葬だが、在地の墓制は以前からの伝統である側臥屈葬である。末期古墳を築造した人びとは、北東北から石狩低地帯に進出してきた古墳文化人であろう。

江別市の江別古墳群(後藤遺跡)

 8世紀は続縄文時代から擦文時代への移行期で、擦文時代早期の土器は、北大Ⅲ式土器である。

「あーもう 縄文やめやめ!」と言っている擦文時代早期の北大Ⅲ式土器(北海道立埋蔵文化財センターにて撮影)

 この時代の土器にはもう縄文を付けなくなり、刷毛によって表面を擦るように調整することから「擦文土器」と呼ばれる。擦文土器を使った時代だから擦文時代。

 擦文時代には長らく使用してきた石器も使わなくなる。北海道の一般家庭でもようやく鉄器が普及したのだ。
 

オホーツク文化

 オホーツク文化は、サハリン南部から北海道北部の宗谷海峡を挟んだ狭い地域が発祥の文化で、文化自体の存続期間は5世紀から13世紀だが、北海道では9世紀に滅んでいる。オホーツク文化を担った人々のことをオホーツク人と呼ぶ。

 オホーツク人の最大の特徴は、海洋適応だといわれる。彼らの集落跡などの遺跡は、海岸至近にあり、遠くても1㎞ほどしか内陸に入っていない。ただし、北海道におけるオホーツク文化の最終段階には、海岸から遠く50㎞の地点にまで進出したケースもあるが(弟子屈町<てしかがちょう>下鐺別<しもとうべつ>遺跡)、そうなってしまうと海との繋がりが乏しくなるはずで、そのように変容した人びとの文化は、トビニタイ文化と呼んでオホーツク文化とは区別している。

 オホーツク文化の最大領域は、サハリン全土と千島列島、それに道北、道東の沿岸部全体に及び、南は奥尻島にまで進出している(奥尻町青苗砂丘遺跡)。

函館市北方民族資料館にて撮影

 オホーツク式土器の編年は研究者によって区々だが、「オホーツク文化の土器・石器・骨角器」(右代啓視/著)では、プレ期(2~4世紀)、前期(5~7世紀)、後期(8~9世紀)、トビニタイ期(10~12世紀)の4つに分けている。

 古墳時代前期にあたる3~4世紀の頃、サハリン南部の鈴谷文化が利尻島や礼文島、稚内周辺に進出してきた。その時期の代表的な遺跡としては、稚内市のオンコロマナイ1遺跡があり、その遺跡からは晴れた日にはサハリンが望めるという。

 北海道北端に進出してきた鈴谷文化の土器の特徴は、口縁部下に突瘤文・撚紐圧痕文をめぐらせ、胴部は無文、あるいは縄文で施文し、器形は丸底あるいは平底の深鉢形である(「オホーツク文化の土器・石器・骨角器」<右代啓視/著>)。

 サハリン南部は、明治38年(1905)から昭和20年(1945)まで日本領だったこともあり、その時期に日本人による発掘調査が多数行われ、昭和17年にはサハリンの土器編年が報告された。古い順に、宋仁式、遠淵式、鈴谷式、十和田式、江の浦B式、江の浦A式、南貝塚式、東多来加式、内耳土器というように9つの型式に分類され、この編年的な流れは現在でも使用されている。これらのうち、十和田式から東多来加式の土器群が使用されていた時期が、オホーツク文化の時期にあたる。

 昨年(2021年)、大阪の近つ飛鳥博物館などで開催されていた「オホーツク文化」展の図録では、前期を5~6世紀に留め、7世紀は中期としている。上記の地図は、オホーツク文化が最大に広がったときの勢力図だが、7世紀の頃をイメージしているようだ。

 その7世紀には、モロヨ貝塚などの拠点的な集落が形成されるが、この時期の土器は、刻文系土器と呼ばれる。刻文系土器は、アムール川下流域の靺鞨式土器と器形・文様が良く似ており、この時代は北海道で大陸系の遺物の出土例が増加することから、大陸との交流が盛んであったことが分かる。

オホーツク式土器 茂漁8遺跡出土 (恵庭市郷土資料館)
※恵庭市は内陸なのでオホーツク人の集落があったわけではなく、沿岸部のオホーツク文化からの搬入品か?

 後期になると、各地で地域色の強い土器が見られるようになる。

 後期前半の道北では、沈線文系土器が造られる。器形は甕形で、口縁部の幅が広くなり肥厚帯は消失する。

オホーツク式土器 モロヨ遺跡出土 函館市北方民族資料館にて撮影

 後期後半には、道東の貼付文土器の影響が道北に及び、道北の土器として定着し、後期末には沈線文系は消滅する。

オホーツク式土器 モロヨ遺跡出土 函館市北方民族資料館にて撮影
オホーツク式土器 モロヨ遺跡出土 函館市北方民族資料館にて撮影

オホーツク式土器 モロヨ遺跡出土 函館市北方民族資料館にて撮影