最終更新日:2024年6月17日
※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。
※便宜上、横芝光町と芝山町は上総のページに記載しています。
目次
印西市
木下貝層
きおろしかいそう
🅿あり
🚻あり(木下万葉公園)
12万年前頃は海進が極端に進んでいて、古東京湾と呼ばれる内湾が広がっており、例えば多摩川の河口は青梅にあったが、そんな時代に造られた地層。
木下万葉公園の西側と南側に露頭が観察できる場所があり、両方とも近くに駐車場がある。西側の方が間近で見える。
木下交流の杜歴史資料センター横の説明板には「一見もろく見えますが、強度があり、古墳時代終末期の横穴式石室や江戸時代の常夜灯など、古くより構造物の石材として利用されてきました」とある。
この種の岩石を使用して横穴式石室を構築した古墳としては、龍角寺古墳群の岩屋古墳が有名だが、横穴式石室の石材として使うには、脆いとされて評判は良くない。
20240612A
20240616A
道作古墳群
どうさくこふんぐん
印西市小林
🅿あり
🚻なし
印西市を代表する古墳群で、前方後円墳7基、円墳14基、方墳1基の合計22基から構成される群集墳。築造時期は6世紀後半で、主墳は墳丘長46mを誇る1号墳。
印旛沼沿岸の大規模群集墳としては、龍角寺古墳群や公津原古墳群が著名だが、それらと並ぶ重要な古墳群といえるだろう。
現地は公園になっており、下図の内、1号墳、4号墳、5号墳が公園内にあり、北側隣の畑に6号墳がある。
46
道作1号墳
墳丘長は46mあり、印旛沼西岸域では最大規模を誇る。周溝あり。下総型埴輪が出土している。
20240612A
20240616A
11
道作4号墳
20240612A
20240616A
15(推定)
道作5号墳
円墳状のものが2つ並んでいるのだが二つ合わせて前方後円墳。
20240612A
20240616A
37
道作6号墳
墳丘長37mは道作古墳群で2番目の規模。周溝あり。鉄斧が見つかっている。
20240612A
20240616A
23
松山2号墳箱式石棺(移築)
木下交流の杜歴史資料センターのに移築展示がある。
20240612A
20240616A
?
上宿古墳
かみじゅくこふん
印西市大森
🅿なし(駐車場のように見えるが民家の敷地だろう)
🚻なし
当該地域には12万年前に形成された貝化石砂岩である木下貝層やそれに類する岩石を使って横穴式石室を造っている古墳が、判明しているだけで7基あるが、上宿古墳もその一つ(*1)。
古墳は民家の敷地内にあり、入るのを躊躇すると思うが、道路近くの説明板には「この古墳は、個人宅内にありますので、マナーを守って見学しましょう」と書いてあるので静かに見学すれば大丈夫だと思うし、所有者にお会いしたらご挨拶しよう。
敷地内に入ると古墳の場所を示す小さな立て札があるので、それに誘われて素敵な竹林の中を歩いて行くと、すぐに横穴式石室が開口した墳丘が見える。
石室内は快適でいい石室だ。
墳形に関しては不明と言われてきた古墳だが、入口側の説明板には方墳とある。
最近の調査で方墳であることが分かったのかどうかは分からないが、他の判明している貝化石墳はすべて方墳である。
(*1)『7世紀印波における横穴式石室の考古学的研究』(川村悠太/著)による。ただし、『印旛沼周辺の終末期古墳』(永沼律朗/著)によると、八千代市・沖塚古墳、印西市・後庵山2号墳も貝化石の横穴式石室とし、柏市(旧沼南町)・船戸1号墳も貝化石によって石室あるいは石棺を造った古墳としているほか、印西市・森内古墳、香取市(旧利根町)の城の台3号墳や横須賀台古墳が貝化石の箱式石棺としている。
20240616A
小林鳥見神社
🅿あり
🚻なし
20240612A
20240616A
印西市立木下交流の杜歴史資料センター
印西市木下1489-1
0476-40-3500
9:00~17:00
月・祝休館
印西市内の利根川寄りの旧石器時代遺跡や縄文遺跡、古墳などから出土した遺物が展示してあり、木下貝層の貝化石の展示もある。
素晴らしい展示なのだが、展示室内の写真撮影はNG。その代わり、『印西市 歴史読本』という本が3種類売っているのでそれを購入しよう(古代史が好きな人は「原始・古代編」だけで良いだろう)。オールカラーで写真や図版が多く、読み応えのある優れた本だ。
20240612A
20240616A
印西市立印旛歴史民俗資料館
印西市岩戸1742
0476-99-0002
9:00~17:00
月・祝休館
縄文・弥生・古墳時代の土器などの遺物が展示されており、大木台2号墳出土の形象埴輪や人物埴輪は、下総型埴輪を知る上でとても良い教材になる。
吉高立田台第2遺跡出土の箱式石棺の展示は、この地域の多数埋葬を知る上で貴重。
20240612A
20240616A
香取市
120
三之分目大塚古墳
20191208
富田1号墳
20191208
香取神宮
20191208
栄町
龍角寺古墳群
栄町龍角寺から成田市大竹にかけての下総台地上に造営された古墳時代後期から終末期にかけての群集墳で、現在のところ115基の古墳が確認されている(数は房総風土記の丘資料館の展示パネルによる)。2009年には、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として岩屋古墳と他の92基の古墳が国史跡に指定された。場所によっては中近世の塚が混ざり、外見的に判別することが難しい場合がある(そういった塚の上には板碑が立てられているものが見られる)。
著名な古墳としては、終末期方墳の岩屋古墳(105号墳)と、みそ岩屋古墳(106号墳)、最後の大型前方後円墳の浅間山古墳(111号墳)、それに現地に埴輪の模造品が並べてある101号墳があり、これらは発掘調査がされている。
それ以外では、8号墳、24号墳、53号墳、65号墳、75号墳、113号墳、さらに道路などの開発によって湮滅した2号墳、108号墳、112号墳が調査されている。つまり、古墳群の全体数からすると発掘調査がされた古墳は1割ほどなので、まだまだ不明点が多い古墳群なのである。
栄町や成田市では古墳のスペックを示す立て看板の形状を古墳の形状と同じにしているため分かりやすくて良いが、形状を誤認している可能性もあるので油断はできない(以下の一覧のアイコンは、前方後円墳は111号墳以外と円墳は後期を示す黄色のアイコンを使用したが終末期の築造の可能性もあるる)。
築造時期に関しては、最も古い101号墳が6世紀第2四半期で、あとはそれよりも新しく、追葬を含めると8世紀初頭までは使われていた。遺物が見つからない事には築造時期の判断は難しいが、もし埴輪片が見つかれば、後期古墳であることが分かる。
なお、前方後円墳の70号墳の看板は、上から白く塗り潰されている。古墳でないことが判明したか?(要確認)
42
龍角寺21号墳
龍角寺古墳群の中では比較的大きめの前方後円墳。埴輪がみつかっている。
20180525
13
龍角寺52号墳
20170503
27or31
龍角寺53号墳
発掘調査がされている。
20170503
32
龍角寺54号墳
20170503
12
龍角寺55号墳
20170503
48
龍角寺57号墳
埴輪が見つかっている。
20170503
25
龍角寺58号墳
20170503
17
龍角寺62号墳
20170503
17
龍角寺63号墳
20170503
20210502A
龍角寺65号墳
発掘調査がされている。
20170503
20210502A
19
龍角寺66号墳
20170503
20210502A
18
龍角寺67号墳
20170503
30
龍角寺68号墳
20170503
20210502A
28
龍角寺69号墳
20170503
27
龍角寺71号墳
20170503
20
龍角寺72号墳
20210502A
19
龍角寺73号墳
20170503
20210502A
22
龍角寺75号墳
発掘調査がされている。
20170503
35
龍角寺78号墳
20170503
12
龍角寺80号墳
20170503
11
龍角寺81号墳
20170503
16
龍角寺82号墳
20170503
22
龍角寺84号墳
20170503
15
龍角寺85号墳
20170503
15
龍角寺86号墳
20170503
12
龍角寺99号墳
20170503
22
龍角寺100号墳
時期不詳だが、他の方墳が終末期の築造のため、アイコンは緑色にした。
20170503
25
龍角寺101号墳
栄町龍角寺
6世紀第2四半期に築造された当初は二重の周堀を持つ径25mの円墳だったが、のちに周堀の一部を埋め立て、そこに埋葬施設を作ってしまったため、造出付きの円墳のような変な形の古墳になってしまったという面白い経歴を持つ古墳。
埋葬施設は5基みつかっており、墳頂の第1施設(初葬者用の施設)は、木棺直葬だったと想定されている。
第3施設は凝灰質砂岩で造った石棺が直葬されており、その中からは、成人男性3体、成人女性3体、小児1体、幼児1体の計8体の人骨が出土。当地域らしく1つの石棺内に多数の遺体を納めている。
20170503
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
20230827A
20240612A
20240616A
13
龍角寺102号墳
20170503
21
龍角寺103号墳
埴輪が見つかっている。
20170503
34
龍角寺104号墳
栄町龍角寺
貝化石を使用して横穴式石室を構築した。周辺の貝化石墳の築造順は、『7世紀印波における横穴式石室の考古学的研究』(川村悠太/著)によると、龍角寺104号墳と上福田岩屋古墳が同時期、つづいて龍角寺岩屋古墳東石室と西石室、そして龍角寺みそ岩屋古墳と上福田13号墳が造られ、最後に上宿古墳が造られたとする。
20210502A
20230827A
20240612A
20240616A
78
岩屋古墳(龍角寺105号墳)
栄町龍角寺
浅間山古墳に続いて7世紀に築造された一辺78m、高さ13.2m、3段築成の方墳で、方墳としては奈良県橿原市の舛山古墳(96×90m)、蘇我蝦夷の墓の可能性のある小山田古墳(最長辺80m)についで全国で3位。二重の周堀までを含めた兆域は、東西108m、南北96mとなる。
【墳丘】
墳丘は3段築成。1段目は地山削り出しで、2段目と3段目は盛土で構築している。
内側周溝は全周していた。測量図や現地での目検では、南側の石室前面部分の標高が高いため、その部分は周溝が無く広場状になっていたのかと思ったが、発掘調査報告の資料を見ると、トレンチを開けて周溝の存在を確認している。
少し高くなっているのは、後世に盗掘した際の廃土だろうか。
内側周溝の外は周堤がめぐっているが、南側はおそらくなかったであろう。外側周溝も北・西・東では確認できているが、南側は地形から見てもないだろう。
古墳に関係する遺構らしきものとして注目すべき箇所がある。現地説明板の図を見ても分かる通り、南側の地形が舌状に張り出しているが、この部分では、発掘調査によって人為的な地形の改変が認められている。実際に現地で確認しても人工的な段差が分かる。
【石室】
1段目頂部テラスに南側に開口する横穴式石室が2つ設けられており、2つともハの字に開く前庭部を持っている。石室同士は9m離れており、両室ともに短い羨道の付く単室構造。石室規模は、東石室が全長6.5m、西石室が4.8m。
石材は貝化石を多く含む約12万年前に堆積した木下貝層と呼ばれる砂岩で、よく見ると貝の化石が含まれている。
20170503
20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
20230827A
20240612A
20240616A
35
みそ岩屋古墳(龍角寺106号墳)
栄町龍角寺
20170503
20210502A
78
浅間山古墳(龍角寺111号墳)
栄町龍角寺
7世紀初頭に築造された墳丘長78mの前方後円墳。発掘調査によって横穴式石室が見つかり調査された。石室は筑波石を使用し、壁面を白く塗っていた。
漆塗木棺に使用された漆膜など貴重な遺物が見つかり、遺物の一部は房総風土記の丘資料館に展示している、また、横穴式石室の実物大模型もあり、中に入ることができる。
墳丘は後円部墳頂が不自然に高いが、後世、神社を作ったときに1.5mほど土盛りしている。
過去8回訪れたが、いつ行っても主要古墳の内、この古墳だけは綺麗に草が刈られた状態を見たことが無い。
20170503
20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
20230827A
20240612A
白鳳道
栄町龍角寺
20170503
20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20240612A
龍角寺
栄町龍角寺
天竺山寂光院と号する天台宗の寺院。寺伝では和銅2年(709)に天から龍が降りてきて一夜にして伽藍を建て並べ、龍閣寺と呼ばれたとあるが、調査の結果から、さらに古い7世紀後半に創建された寺院だということがわかった。本尊の薬師如来像は国の重要文化財に指定されている。
伽藍配置は、法起寺式伽藍配置で、中門をくぐると、左手に金堂、右手に三重塔が建ち、その奥に講堂が建っていた。
創建時の軒丸瓦は、周縁に三重園文のある単弁八葉蓮華文で、奈良県桜井市の山田寺と同系統の瓦。風土記の丘資料館には、山田寺の仏頭のレプリカが展示してある。
龍角寺には聖武天皇の御代、日照りに苦しんでいる人びとのために、大龍の許可を得ずに雨を降らせた結果その怒りをかって死んだ小龍の伝説が残っており、小龍の頭のミイラといわれるものが祀られている。
20170503
20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
20230827A
17.2×20
瓢塚41号墳石室(移築)
20170503
20180602C
20190306C
20190317C
20230827A
20240612A
20240616A
21
龍角寺108号墳石室(移築)
20170503
20180602C
20190306C
20190317C
20230827A
20240612A
20240616A
旧平野家住宅(移築)
20170503
20180602C
旧御子神家住宅(移築)
20170503
20180602C
旧学習院初等科正堂(移築)
20240612A
千葉県立房総のむら 風土記の丘資料館
栄町龍角寺1028
千葉県の考古遺物を学ぶのに最も優れた施設の一つ。2023年のリニューアルによってさらに素晴らしくなった。
1階には浅間山古墳の石室の実物大模型があり中に入ることができるほか、龍角寺古墳群や関東最古級の寺院である龍角寺についての展示がある。
2階には旧石器・縄文・弥生時代の遺物が並び、市原市の新皇塚古墳(前方後方墳)の出土遺物の展示もある。
20170503
20180602C
20190306C
20190317C
20230827A
20240612A
20240616A
佐倉市
飯郷作遺跡
20191208
飯郷作1号墳
20191208
桔梗塚(将門1号墳)
将門の妻・桔梗の塚との伝承がある
20231018
20231203A
将門口ノ宮神社
将門と佐倉惣五郎を祀る神社
20231018
20231203A
八幡神社
勝胤創祀の神社と伝わるが、将門の父・良将の館跡で将門はこの地で生まれたという伝承もある
20231018
20231203A
麻賀多神社
麻賀多十八社の一社
20231018
20231203A
勝胤寺
千葉氏第3代勝胤開基の寺
20011123
20231018
20231203A
千葉家供養塔
20011123
20231018
20231203A
宝珠院
近世における佐倉五山筆頭寺院
20231018
印旛郡市文化財センター
20220726
国立歴史民俗博物館
19990327
20220726
20230827A
酒々井町
上岩橋貝層
🅿なし
🚻なし
20231018
20231203A
35
鬼塚古墳
🅿なし
🚻なし
説明板なし
20231018
20231203A
カンカンムロ横穴群
🅿なし
🚻なし
酒々井町内で唯一の横穴墓群。真冬に行くと横穴墓が見られるそうだがどうだろうか。
20231018
20231203A
下宿麻賀多神社
20231018
白山大神社
20231018
玉光大神
20231018
妙胤寺
寺号は勝胤の「胤」を取り、山号の常勝山は、勝胤の「勝」から取った。加藤清正を祀る。
20231018
20231203A
吉祥寺
20231018
清光寺
天文年間、家康の父・松平広忠の葉骨を安置供養
20231018
伝説 酒の井の碑
20231018
本佐倉城跡
20011123
20231018
20231203A
国史跡本佐倉城跡案内所
20231018
20231203A
白井市
河原子台Ⅱ-3遺跡
20170503
千葉市中央区
千葉市埋蔵文化財センター
20220213P
千葉市若葉区
加曽利貝塚
20220213P
20230827A
千葉市立加曽利貝塚博物館
20220213P
20230827A
成田市
公津原古墳群
こうづはらこふんぐん
公津原古墳群には昔からたくさんの古墳が存在することが知られていたが、この地に成田ニュータウンを造ることが決まったため、昭和44年(1969)10月から昭和46年(1971)8月にかけて64基の古墳が発掘調査された。これを端緒として、その後も地道に発掘調査が進められ、現在のところ130基の古墳が確認されている。
公津原古墳群の領域は広く、下図の通り、八代台古墳群と天王・舟塚古墳群、それに瓢塚古墳群の3つの古墳群が支群として存在する。
それぞれの古墳群の墳丘別の内訳は上図の通りだが、重ねて列挙すると、八代台(やつしろだい)古墳群は、前方後円墳が3基、方墳が6基、円墳が25基。天王・船塚古墳群は、長方墳が1基(上図では前方後方形で描かれているが実際は長方墳)、前方後円墳が3基、方墳が9基、円墳が33基。そして瓢塚(ひさごづか)古墳群は、前方後円墳が1基、方墳が19基、円墳が30基である。
上記の古墳は破壊されてしまった物も多いが、これらのうち県指定史跡となっている38基に関しては、今後破壊される心配は普通に考えて無い。
公津原古墳群の築造時期は主に古墳時代後期(6世紀)で、列島各地で群集墳が盛んに造られた時代。公津原古墳群の多くの古墳は群集墳として評価することができるが、大型(やや大型含む)の古墳が何基か含まれていることには注意する必要があり、とくに非常に珍しい長方形の大型墳である船塚古墳の特異性が際立っている。
85
船塚古墳(公津原8号墳)
公津原古墳群
赤坂公園内
🅿あり(赤坂公園東側の学園東通沿い)
🚻あり
築造時期は、6C前半。以前は前方後方墳と言われていたが、珍しい大型の長方形墳ということで確定。周堀は二重にめぐっていたとされている。
なお、すぐ近くには円墳の9号墳がある。
20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
20240612A
20240616A
13
公津原9号墳
公津原古墳群
20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
20240612A
20240616A
63
天王塚古墳(公津原21号墳)
公津原古墳群
🅿なし
🚻なし
築造時期は、6C前半(「印旛のはにわ」根本岳史)。
天王・船塚古墳群に残る3基の比較的大きな古墳のうちの1基で、墳丘長63mの前方後円墳。この大きさは、公津原古墳群で2番目の大きさを誇る。主体部は不明。
20191208
20210502A
33
石塚古墳(公津原16号墳)
公津原古墳群
🅿なし
🚻なし
築造時期は、6C前半(「印旛のはにわ」根本岳史)。
天王・船塚古墳群にある3基の前方後円墳のうちの1基で、墳丘長は40mとの説もある。主体部は不明で、埴輪が多く採取されている。
近くには10号墳から15号墳もあり、10号墳は径33mの大型の円墳。また、吾妻小学校の校庭には17号墳から20号墳の4基の円墳が保存されている。
20210502A
33
公津原10号墳
公津原古墳群
20210502A
公津原20号墳
公津原古墳群
吾妻小学校の校庭にある中の1基。
20210502A
8
公津原22号墳
公津原古墳群
20191208
20210502A
公津原23号墳
公津原古墳群
20191208
20210502A
11
公津原24号墳
公津原古墳群
20191208
20210502A
公津原30号墳
公津原古墳群
20210502A
12
公津原31号墳
公津原古墳群
20210502A
12
公津原32号墳
公津原古墳群
20210502A
12
公津原33号墳
公津原古墳群
20210502A
13.5
公津原34号墳
公津原古墳群
20210502A
12
公津原35号墳
公津原古墳群
20210502A
14.5
公津原36号墳
公津原古墳群
20210502A
12.5
公津原37号墳
公津原古墳群
20210502A
23
公津原38号墳
公津原古墳群
20210502A
35×36
伝伊都許利命墳墓(公津原39号墳)
🅿あり(麻賀多神社)
🚻なし
船形麻賀多神社の境内にある一辺が36mの大型方墳で、印波国造伊都許利命(いつこり)の墓との伝承のある終末期方墳。
公津原古墳群の他の古墳が集中する地域から少し離れた場所に築造されており、規模から見ても特別な古墳であることは間違いなく、実際に印波国造が埋葬されている可能性はあるだろう。
20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
37
上福田岩屋古墳
🅿なし
🚻なし
貝化石は脆いため強度に問題があるが、上福田岩屋古墳の横穴式石室は比較的残り具合が良い。常時開口しているので見学をお勧めしたい。
ただし、説明板に「T字形」とあるのは微妙だと思う。確かに玄室の奥行きよりも幅の方が長いが、この程度で「T字形」というのはどうかと思う。本物の「T字形」は、対馬の矢立山2号墳がそうだし、渡来系との関りを想起させられる古墳が多い。
20240612A
20240616A
古墳?
20240612A
20240616A
公津原埴輪窯跡
千葉県ではたくさんの埴輪が見つかっており、ここ印旛地域やここより南側の山武地域では、とくに多くの形象埴輪が見つかっている。ところが、埴輪窯跡は県内ではここ公津原埴輪生産遺跡と、木更津市の畑沢埴輪生産遺跡の2ヵ所しか見つかっておらず、しかもその埴輪窯と出土した埴輪たちが結びつかない。
現地は完全に市街地化されており、当時の地形もほとんど分からない状態で、説明板もない。
20210502A
八代玉作遺跡
やつしろたまつくりいせき
八代玉作遺跡は東日本ではじめて発見された玉作遺跡で、玉作遺跡というのは一般的には装身具あるいは祭祀具として用いる勾玉や管玉などの玉類を製作していた遺跡のことを言う。
八代玉作遺跡の場合は、玉作の工房跡が谷を囲むように10軒見つかっており、4世紀後半から5世紀前半にかけて、主として緑色凝灰岩を材料とした管玉の生産が行われていた。
4世紀後半から5世紀前半というと、公津原古墳群で盛んに古墳が造られた時期と違う。
20191208
20210502A
吾妻神社
あずまじんじゃ
20191208
台方麻賀多神社(稷山社)
だいかたまかたじんじゃ
麻賀多神社は、印旛沼畔に麻賀多十八社と言われる信仰圏を持ち、台方の社はその本宮。祭神は和久産巣日神(わくむすひのかみ)。
戦争末期に岡本天明が自動書記によって「日月神示(ひつきしんじ)」を成した場所として有名だ。
境内には樹齢1300年で東日本一といわれる樹高40mの大杉が生えており神秘的な場所。
境内社の中には、馬来田郎女神社があるが、上総には馬来田(まくた)国造が存在し、印波国造に馬来田国造から嫁入りしたのかと想像が膨らむし、そもそも「まかた」と「まくた」は音が似ているのも気になる。
祓戸の神として、瀬織津姫も祀られているし、いろいろ気になる神社。
20180525
船形麻賀多神社(手黒社)
ふながたまかたじんじゃ
船形の社は麻賀多神社本社の奥宮。
奥宮である船形の麻賀多神社は、稚日霊命(わかひるめのみこと)を祀っている。
境内には伝伊都許利命墳墓(公津原39号墳)がある。
20180525
20180602C
20190306C
20190317C
20210502A
下総歴史民俗資料館
成田市高岡1500(下総運動公園内)
0476-96-0080
初めて行くと場所が分かりにくいかも知れないが(私はカーナヴィに変な場所を案内された)、丘の上に展望台のようなタワーが建っているのが見えるので、そこを目指そう。
元々は合併前の下総町の歴史民俗資料館。有名な全国で唯一例のムササビ形埴輪を含め南羽鳥正福寺1号墳から出土した埴輪の展示、猫作・栗山16号墳出土の石枕、南羽鳥中岫(なかのごき)第1遺跡出土の縄文前期の人頭形土製品(これも全国唯一だが複製)など貴重な遺物が展示してある。
20240612A
20240616A