最終更新日:2022年10月16日

 本ページでは、古墳時代に関連する雑多な記事を掲載していますが、知っておくと現地講座がより楽しめるような内容を書きます。ある程度分量が多くなってきたらページを分けて整理しますが、それまではこのページに書き連ねていきます。

 

目次

古墳時代を探る史・資料にはどのようなものがあるか

古墳時代はいつから始まったのか

いつから政治に文字が導入されたのか

日本書紀に記された出来事の実年代について

三角縁神獣鏡  (10月4日追記)

椿井大塚山古墳の被葬者は誰か (10月4日追記)

オオヤマト古墳群 (10月5日追記)

大和古墳群 (10月16日追記)

 

 

古墳時代を探る史・資料にはどのようなものがあるか

 歴史を解明するための史料として、その出来事が起きたのと同じ時期の史料があれば一番役に立ちます。これを同時代史料と呼びます。例えば、中世史は古文書を主たる史料として解き明かしていきますが、戦国武将が誰かに宛てた手紙や、神社を建立した時の棟札などが同時代史料となります。そして、これらは一次史料として第一級の史料となります。なお、系図の類は中世史研究者も鵜呑みにしません。

 古事記がリリースされたのは712年、日本書紀がリリースされたのは720年で、これらは古墳時代の歴史を知るための同時代史料とはなりません。ただし、記紀には豊富な内容が記されているため、他の文献や考古学的成果などをもとに裏を取りながらその内容を慎重に判断して利用すれば非常に価値が高いものになりますし、むしろ記紀を無視して古墳時代の歴史を復元することはできないと考えます。ただし、その場合はどんなに高名な研究者でも、どうしても恣意的な解釈になりがちで、それを完全に排除することは難しいと考えます。

 古墳時代の同時代史料としては、中国の正史があります。三国志や晋書、宋書、隋書などですが、それらとて王朝が滅びた後に編纂されるものですからかなりのタイムラグが生じる場合もあり、完全な同時代史料とは言えず、二次史料になりますし、しかも極めて政治的な書物であることを前提に取り扱う必要があります。

 そして最強の同時代史料は古墳や豪族居館跡などの遺跡や、そこから出土する遺物です。ただし、遺跡や遺物も現在言われている年代比定が必ずしも合っているとも限りません。理化学的な年代決定の精度はいまだ研究者全員を納得させられるほどの精度はありませんし、考古学は遺物を古い順から順番に並べて行くのは得意ですが(この「編年」自体が学問の根幹です)、それが具体的に西暦何年なのかを決めるのは得意ではないのです。さらに、遺物によっては地中に溶けてしまう性質のものもありますし、すでに破壊されてしまった遺跡やなくなってしまった遺物を調べることはできません。

 遺物のなかでも数は非常に限られますが、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣などの鉄剣や鉄刀に刻された文字は最強の史料となります。これらは年代決定が難しいことがありますが、とても重要な文字史料で、古文書と同様の扱いの一次史料となります。

 神社の由緒や伝承なども興味をそそられますが、そういったものは話のネタとしては面白いですが、科学的な扱いは難しいです。ただ、発生して現代まで語り継がれている伝承は、それが古い物か新しい物かは別としても、人びとの心を掴んでいることは確かですから、そういう「心の問題」をヒントとするのは有効でしょう。なお、最近の私は、現代の神社のベースは国造時代(6世紀後半から7世紀前半頃)に確立し、ある意味で仏教とは双生児ではないかと考えるようになっています。

 以上のような史・資料をもとに江戸時代から研究が積み重ねられており、21世紀になってからも数えきれないほどの論文や一般向けの書籍が刊行されていますが、いまだに日本国民の大多数の人びとが納得する古代史は発表されていません。それを承知の上で、私たちも先人と同様なやり方で研究をしているのです。

 

 

古墳時代はいつから始まったのか

 古墳時代というのは考古学からの呼び名ですから、その始まりをいつにするかは、考古学が決めることです。弥生時代の始まりは、灌漑水田が始まったときなので、古墳時代の始まりは、初めて古墳が築造されたときです。北部九州では、弥生時代中期から古墳といっても良いような墳丘を持った有力者の墓(墳丘墓)が現れますが、墳丘墓の変遷を追っていくと、2世紀には、吉備の楯築墳丘墓や、出雲の西谷墳墓群に見られる四隅突出型墳丘墓など、60~70mほどのそれまでにない大型のものが現れ、3世紀には奈良県桜井市で100m級の纒向古墳群の造営が始まります。これらも十分に巨大な墓ですが、ついに280mの箸墓古墳の造営を見ることになります。

 箸墓古墳は、定型化された古墳の第1号として研究者によって説明されることがあり、以前は私もそのように説明していましたが、最近私は箸墓古墳の段階ではいまだ定型化まで至っていないと考えています。前期前半の大型古墳を見てみると、造るたびに新たな要素を取り入れて試行錯誤した形跡があり、きちんとフォーマット化されるのは早くても前期後半だと考えます。ただ、280mという大きさはそれまでの墳丘墓の流れからするとやはり異様であり、ここに大きな飛躍があると考え、多くの研究者と同様、私も箸墓古墳の築造をもって古墳時代の始まりと考えます。

 問題は、箸墓古墳の築造時期です。少し前までは3世紀後半の築造と説明されていたのが、最近は佐倉の国立歴史民俗博物館が発表した研究成果によって3世紀の中頃と言われることが多くなりました。ただし、これには異論もあります。これがはっきりしないと、古墳時代の開始年代が決まらないのです。

 古墳はある特定の人物のために築造されます。その人物のことを初葬者と呼びますが、その後、追葬が行われることがあります。葬るときには墳丘上かそのすぐ近くで葬儀が行われたので、その際の遺物(供献土器など)が出土することがありますが、これを初葬のときのものか追葬の時の物か判断する必要があります。また、古墳には埴輪を立て並べることがありますが、古墳を築造して少し経ってから壊れた埴輪を並べ直した例もあります(群馬県高崎市の井出二子山古墳)。こういうこともあるので、遺物によって古墳の築造年代を決める際も慎重にする必要があります。

 箸墓古墳は墳丘自体は陵墓であるので掘ることはおろか、基本的には立ち入ることすらできません。ただし、その周辺の発掘は行われており、その際に出土した遺物や、昔に表面採集されていた土器などを見て年代を決めようとするわけですが、箸墓古墳からは布留0式が出土しています。布留0式の製作年代は、私は270年から290年と考え、箸墓古墳の造営は3世紀第3四半期(251~275年)の間と考えます。

 下の図は、『関東における古墳出現期の変革』(比田井克仁/著)に掲載されている図に、他の研究者の成果をプラスして書き込んだ図で、私自身の弥生末から古墳時代初頭の年代観はこれをもとにしています。

『関東における古墳出現期の変革』(比田井克仁/著)を加筆転載

 絶対年代に関しては、研究者によって考えが違うのですが、それを考古学的見地から調整するのは私の力ではできないことを承知のうえで、今後も勉強を重ねて修正することを前提としつつ、現状では上図のように決めています。

  

 

いつから政治に文字が導入されたのか

 古墳時代の歴史を探るうえでは、日本でいつから政治に文字が使われるようになったのかを突き止める必要があります。文字が無いと歴史を記録することはできませんし、そもそも国家を運営することはできないはずです。小さな部族集団であれば文字はいらないと思いますが、国を運営するための決まり事(法律)を作ったり、徴税のために国民を管理したり、組織的計画的に軍隊を動かしたりする(しかも海外に派兵する)ことや、朝鮮半島や中国といった外国と付き合うことを文字なしで行うことはできないと考えます。

 魏志倭人伝を読めば推測できる通り、邪馬台国連合の幹部は文字を理解していた可能性が高いですが、王や貴族層が文字を読み書きできないとしても、それができる官吏がいれば小規模な国家であれば運営可能でしょう。邪馬台国がどこにあったのかは置いておきますが、その後のヤマト王権でも、同じく文字が理解できる官吏がいれば、少なくとも外国とコミュニケーションをとることはできます。

 箸墓古墳以降、4世紀中には北は宮城県北部から南は鹿児島県大隅地方まで100mを越える大型前方後円墳を含めたくさんの古墳が築造されました。これらの古墳は文字なしで造れるでしょうか。文字がなくても、エンジニアが実務によって後輩を教育して、そのエンジニアが列島各地へ出張して現場で指揮を取れば造れると思います。4世紀までのヤマト王権は列島各地の王たちとは物々交換によって経済を回していました。それも文字なしでできます。この時代の日本列島は古墳という物をシンボルとして緩やかに繋がっていた時代で、列島各地の王たちは相互扶助的に繋がり、とてもヤマトの王権が列島を「支配」したというイメージには程遠いです。列島の大部分で前方後円墳が造られたため、一見するとヤマト王権が列島支配を確立していたように思えますが、この時代はいまだそのレヴェルにまで達していません。少なくとも古墳時代前期に「前方後円墳体制」は存在しないと考えます。

 この状況が一変するのが、多くの研究者と同様で私も4世紀末に活躍が始まると考えている応神天皇からです。応神天皇の出現によって時代は明らかに変わります。古墳時代は中期という時代区分に変わります。応神以降、一般家庭にカマドが普及し、古墳の副葬品には馬具が含まれるようなり、関東地方でも渡来人の足跡が濃厚になります。多くの研究者が応神天皇の出現を時代の画期と考えており、かつて水野祐が唱えた「三王朝交替説」の崇神、応神、継体をそれぞれの王朝の始祖とする考えは、細かいところは抜きにしても、大きな意味では妥当であると考えます。

 応神天皇は日本書紀によると九州の出身です。半島や大陸出身と考える研究者もおり、私は小林惠子氏の「符洛説」に魅力を感じます。出身がどこであろうと応神配下に半島人が大勢いたり、半島の国家とコネがあったことは、応神以降の歴史の流れを見ると確実といえます。崇神朝でも渡来人がやってきて政治顧問として活躍したことはありましたが、応神朝によって日本はようやく東アジア世界の国ぐにと同じレヴェルで肩を並べる国家になりました。その飛躍の大きな要因は、政治に文字を導入したことです。

 ただし、肝心の5世紀に記された書物が一つも出てきません。その理由について考えられるのは、政治に文字が使われ始めた後も、現代のように巷に文字が溢れかえるような状況ではありませんから、書物自体が非常に少なかったというのが根幹にあります。7世紀後半に日本書紀の編纂が始まった際に、列島各地の有力氏族からそれぞれの家の歴史書を提出させ、日本書紀が完成した後、それらは焚書したと考えられます。普通であれば王権に書物を提出する際に、写しを書いて保存しておくはずなので、それが今後発見される可能性はゼロではありませんが、そもそも日本書紀も古事記も原本は残っておらず、古事記の最古の写本である真福寺本は、14世紀後半の制作なので、古事記自体が偽書ではないかと疑われたことがありました。そう考えると、各氏族が記していた書物が現存する可能性は絶望的と言えます。

 肝心の物的証拠がないのに文字があったことを証明するのは難しく、それであれば崇神朝でも文字を政治に導入していたと考えていいではないかと指摘されるかもしれませんが、応神が文字を政治に導入したと考える理由としては、記紀に応神のときに百済の王仁(わに)が来日して千字文と論語を伝えたとあることです。この記事が、応神の文字の政治導入を伝えた痕跡であると考えます。

 高句麗の好太王碑に記されている通り、4世紀末から5世紀にかけて、倭国は朝鮮半島で戦っていますが、これは応神天皇が指揮しての戦いと考えます。応神は高句麗との戦いを当初、倭国の伝統のまま、文字なしでやってみたところ限界を感じ、文字の導入を決めて急遽百済王に相談して王仁の来日となったのでしょう。

 時代がだいぶ下りますが、中世の戦では、武将が戦場に到着した証も戦功を挙げたり戦死や大怪我した証もすべて文章化して残していました。こういった証拠がないと、上位権力者としては戦に参加した人を正当に評価することができないのです。中世にはこういうシステムが出来上がっていたのですが、こういうシステムなしに口頭だけで大軍をもって海を越える戦争をすることは困難だと考えます。

 王仁が千字文と論語を伝えたという平和的なことは表面的なことに過ぎず、実際には応神の文字普及政策の責任者として列島各地の王(国主)たちへの文字の普及を推進したと考えます。中国の王朝では歴史書を書く伝統がありましたが、日本もこの時代にその伝統に触れ、列島各地の氏族の間で歴史書を書くことが始まったと考えます。この時から書き連ねられた歴史書が日本書紀を書く際の元資料となったのでしょう。

 

 

日本書紀に記された出来事の実年代について

 日本書紀には干支が明記されているため、それによって年代を決めれば様々な歴史的出来事が起きた時期は簡単に分かりそうですが、4世紀代と想定されるより前の天皇はほとんどが超人的な寿命を持つことになるため、干支をそのまま信じることはできません。

 そもそも、干支がいつから日本に導入されたのかは不明確ですし、導入されていたとしても、文字で記録せずに神武の昔から口伝で伝えることができるでしょうか。神武は論外としても、崇神からできるでしょうか。既述した通り、歴史を文字で記録するようになったのは、応神朝の4世紀末以降と考えていますが、日本書紀の干支をそのまま機械的に西暦に変換しても内容が破綻しており、その後の継体朝に至っても、いまだ干支による年代決定はできず、6世紀終りの飛鳥時代からようやく信用できるようになると考えています。ですから、日本書紀に記されていることを実年代で表そうとしても、継体朝や安閑朝ですらそれはできず、筑紫君磐井の戦争も武蔵国造の乱も正確な実年代は不詳で、「継体の頃」とか「安閑の頃」としか言えないと考えます。

 

 

三角縁神獣鏡

 前期の古墳からは銅鏡が出土することが多いです。そのなかでも、三角縁神獣鏡は魏志倭人伝に記されている卑弥呼が下賜された「銅鏡百枚」にあたるという見解が大正時代以降、支持を集めてきたため、邪馬台国所在地論争をする際にはよく引き合いに出される資料です。三角縁神獣鏡は畿内を中心に同范鏡(同じ鋳型で造った鏡)が列島各地に分布するため、その分布を見る限りでは、配布主はヤマト王権と考えるのが最も素直ですから、卑弥呼の「銅鏡百枚」とヤマト王権が繋がることによって、「邪馬台国畿内説」を語る際に有効なアイテムとなっています。

 三角縁神獣鏡は、現状では560枚以上見つかっており、外国からもらったもの(舶載鏡)と国内で生産したもの(仿製鏡)の2種があると考えるのがポピュラーでした。

 ところが、最近の橿原考古学研究所での調査によると、重要な点として以下の2つの点が判明しています。

 一つ目として、従来舶載鏡とされていたものと仿製鏡とされていたもので、同じ鋳型から造られているものが認められることが分かりました。従来の舶載鏡と仿製鏡を区別する考えをこれに当てはめると、外国で造ったあとに、鋳型を国内に持ち込んで造ったことになりますが、いったい誰が何の目的でそんなことをするのか不明瞭で、その可能性は極めて低いです。

 二つ目として、舶載鏡と仿製鏡との間に技術的な連続性があることです。

 以上のことからは、560枚以上見つかっている三角縁神獣鏡は、すべて外国産かすべて国産かのどちらかになり、研究者の中でも意見が分かれています。

 もし、すべてが国産だった場合、卑弥呼の「銅鏡百枚」と三角縁神獣鏡はまったく関係がなくなりますから、邪馬台国畿内説を唱える人にとっては大きなダメージとなる可能性があります。

 ところで、三角縁神獣鏡は同じ鋳型で造った同范鏡がたくさんあることから、どの古墳の鏡同士が同范関係になるのか探る研究が古くからあります。

 黒塚古墳の33面の三角縁神獣鏡が見つかるまでは、椿井(つばい)大塚山古墳で見つかった32面以上(破片が多く正確な数は不明)の数が最大で、椿井大塚山古墳のものとの同范鏡が全国から見つかることから、配布の中心は椿井大塚山古墳にあったと考えた研究者がおり、その流れで、現在では黒塚古墳をはじめ比較的多くの三角縁神獣鏡が見つかる古墳が複数あることを踏まえ、それらの古墳の被葬者が配布主体と考える研究者がいます。

椿井大塚山古墳(12月9日からの現地講座で訪れます)

 その一方で、三角縁神獣鏡はヤマト王権が一元管理しており、全国で見つかるものはそこから配布されたものであって、三角縁神獣鏡が多く見つかる古墳は、ただ単にヤマトからたくさんもらっただけという考え方もあって研究者の中で一致を見ていません。

 三角縁神獣鏡が大量に見つかった古墳としては、既述した通り、黒塚古墳の33面、椿井大塚山古墳の32面以上が多い部類ですが、他には、桜井茶臼山古墳の26面、佐味田宝塚古墳の12面、新山古墳の9面などがあります。

 ところが、その著名な三角縁神獣鏡は、当時は意外と大事にされていないように見えることが多いです。

 例えば黒塚古墳の場合は、被葬者の頭の近くにあった画文帯神獣鏡が被葬者にとって最も大事な鏡だったようで、33面の三角縁神獣鏡は「その他大勢」のような扱いです。関東や東北では三角縁神獣鏡はあまり見つからないため、非常に貴重なものだったイメージがありますが、本場の畿内では貴重であるというイメージは薄れます。

黒塚古墳主体部の復元(黒塚古墳展示館にて撮影)

 ここまでをまとめると、以下の通りとなります。

・三角縁神獣鏡は、卑弥呼の「銅鏡百枚」ではない
・560枚以上見つかっている三角縁神獣鏡はすべて国産
・配布の中心は畿内
・三角縁神獣鏡は意外と大事にされていない

 さらに全国に散らばった三角縁神獣鏡が見つかった古墳を調べると、その地の有力者の墓だからといって必ずしも三角縁神獣鏡が見つかるわけではなく、反対に有力者とは思えない小さな古墳から見つかることもあります。

 もっと確実なことを言うためには天皇陵の発掘が進むことが重要なのですが、それはなかなか望み薄ということで、現状分かる範囲で述べるにとどめます。

 

 

椿井大塚山古墳の被葬者は誰か

 さてここで、三角縁神獣鏡の配布主体をヤマト王権ととるか、椿井大塚山古墳などの各地の古墳の被葬者ととるかですが、日本書紀の崇神紀に気になる記事があります。武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱伝承です。

 簡単に言うと、武埴安彦は王位の簒奪を目論んで兵を挙げたのですが、日本書紀がいうには、武埴安彦は孝元天皇の子であり、崇神天皇の叔父となります。この系譜が正しいかどうかは即断できませんが、実際に王位に就く資格がある人物であったのでしょう。

 武埴安彦は結局敗れ去るのですが、彼の本拠地には既述した椿井大塚山古墳があります。私は、椿井大塚山古墳の被葬者は武埴安彦ではなかったかと考えており、現在はその線で調査中です。この説は他にも採っている研究者がいますが、バッサリと否定する研究者もいます。

 現在の私の仮説としては、武埴安彦が起こした王位簒奪の野望はかなり大きな事件に発展したと見ます。三角縁神獣鏡を製造した主は武埴安彦で、彼は列島各地にいる自身の支持者に三角縁神獣鏡を配布したと考えています。

 ヤマト王権のコアゾーンはもちろん奈良盆地ですが、それに河内平野や摂津・山背などの淀川(木津川)流域と紀州方面の紀ノ川流域が加わります。その初期ヤマト王権のコアゾーン内でも当初はなかなか一枚岩にならず、王権は武埴安彦の反乱を乗り越えて、ようやく木津川流域の支配を確固とするものに成功したという仮説です。

 その場合、負けた人物が大きな古墳に葬られるのはおかしいと思う方もいると思いますが、私は反対に、負けた人物であってもそれなりの力があった場合は、大きな古墳に葬られても良いと考えています。力が強かったからこそ、それに見合う大きな古墳に葬ることによってその霊を慰めることができると考えます。なお、地元では今もなお、武埴安彦は英雄として祀られています。

 ※椿井大塚山古墳は、12月9日出発の現地講座にて訪れます。

 

 

オオヤマト古墳群

 奈良県の天理市から桜井市にかけては、ヤマト王権発祥の地であり、列島最大規模の大型古墳密集地域であります。あまりにも古墳がたくさんあるため、研究者は便宜上それらを地域ごとに分けて名前を付けています。下図をご覧ください。

『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)より転載

 呼び方は研究者によって少しの違いがあるのですが、上図の分け方(呼び方)がポピュラーで私もこれを採用しています。一番北は大和古墳群で、「おおやまと」と読みます。あとで詳しく述べますが、墳丘長230mの西殿塚古墳が最大の古墳です。

 その南は柳本古墳群で、墳丘長300mの渋谷向山古墳(景行天皇陵)や墳丘長242mの行燈山古墳(崇神天皇陵)以下、多く大型古墳が存在します。ここまでは天理市。

 さらにその南は、墳丘長280mの箸墓古墳を擁する桜井市の纒向古墳群です。奈良盆地最古級の古墳はここにあり、おそらくヤマト王権発足時の本拠地はこの範囲内でしょう。

 またさらに南の同じく桜井市内にポツンと超大型古墳が2基あります。墳丘長207mの桜井(外山<とび>)茶臼山古墳と墳丘長250mのメスリ山古墳です。この2基の周辺にも小さな古墳があるのですが、この2基は古墳群としては呼ばず、「磐余(いわれ)の古墳」などと呼ばれています。

 そして、これらを総称する場合は「オオヤマト古墳群」というようにカタカナで表記します。

 このオオヤマト古墳群の範囲内には、初期ヤマト王権の大王墓と目されている古墳が6基あり、白石太一郎氏は、以下の順で築造されたと考えており、この築造順を採用する研究者は多いです。

 ① 箸墓古墳 280m 宮内庁は倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)の陵とし、卑弥呼の墓と考える研究者もいる
 ② 西殿塚古墳 230m 宮内庁は継体天皇皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)の陵としているが、時代が合わない
 ③ 桜井茶臼山古墳 207m
 ④ メスリ山古墳 250m
 ⑤ 行燈山古墳 242m 宮内庁は崇神天皇の陵としている
 ⑥ 渋谷向山古墳 300m 宮内庁は景行天皇の陵としている

 ただし、どの古墳も被葬者の確定までは至っていません。現状ではあくまでも推定の域です。

 ※AICTでは、すでに②を除く古墳を現地講座で訪れています。②を含めた大和古墳群に関しては、10月21日からの現地講座の3日目に訪れます。

 これらの6基の発掘調査が行われると初期ヤマト王権についてかなりの部分が分かるのですが、①・②・⑤・⑥は宮内庁管理の古墳なので原則的に発掘調査はできません(部分的な発掘は行われています)。③と④に関しては本格的な発掘調査が行われていて、重要な資料が揃っています。

 

 

大和古墳群

 前期ヤマト王権を解明するには、大和古墳群を調べることも重要です。そのため、橿原考古学研究所や天理市によって大和古墳群の発掘調査が進められてきて、少しずつ内容が明らかになっています。まずは全体図を見てください。

『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)より加筆転載

 上の図は、『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)の図に支群名と古墳名および墳丘長を追記したものです。立地の上から、丘陵上の古墳を中山支群(薄く色を塗っている部分)、丘陵緩斜面から扇状地の古墳を萱生(かよう)支群と分けていますが、中山支群には古墳群最大の西殿塚古墳もあり、高所に位置することからこの地のリーダーの墓域であると推定され、萱生支群の方は大型の前方後方墳と前方後円墳が混在し、出自の異なるリーダーたちで、かつ中山支群よりも下位のリーダーたちの墓が混在していると見られます。

 ちなみに、研究者の中には前方後方墳は前方後円墳よりも下位の層の人びとの墓と考える者がいますが、日本全国の主要な前方後方墳を現地で見ている私の感想としては、そう単純に言い切れるものではなく、事情はもっと複雑であると考えます。

 確かに副葬品を見ると前方後円墳よりも前方後方墳の方が貧弱な傾向にあり、墳丘長でも敵わないため、王権内での序列の差はあると思いますが、前方後円墳の被葬者と前方後方墳の被葬者は、そもそも出自が違うと考えています。要するに弥生時代から続く文化の違いが墓の形状に現れており、王権が被葬者の生前の地位の高さによって前方後円墳か前方後方墳かを決めるということはないと考えます。

 大和古墳群の前方後方墳の数は、小さいものや湮滅したものを含めると図中に6基あります。前期ヤマト王権の謎を解くには、前方後方墳の解明が不可欠ですが、大和古墳群にはこのように興味深い資料が揃っているわけです。前方後方墳の問題についてはまた項を改めて述べます。

 なお、前期古墳ばかりはひしめく中に、大型古墳としては唯一の後期古墳が西山塚古墳です。宮内庁は、継体天皇の皇后である手白香皇女の陵を西殿塚古墳に治定しているのですが、研究者の間では真陵は西山塚古墳ではないかと言われています。

 それでは、これらの古墳の中で大きさから判断して重要と思われる古墳について、『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)に基づいて築造順を述べます(実年代は私の考えで研究者によって違いがあり、かつ私自身も今後の研究の発展により変える可能性があります)。

 ① 庄内式後半から末にかけて(250年前後)

 中山大塚古墳(後円・130m)やノムギ古墳(後方・63m)、ヒエ塚古墳(後円・130m)が築造されました。これらの古墳は、箸墓古墳よりも古い古墳と考えられます。中山大塚古墳とノムギ古墳に関しては発掘調査が行われ、いろいろなことが分かっており、ノムギ古墳は、纒向古墳群のメクリ1号墳と並んで奈良盆地最古級の前方後方墳です。

 ② 布留式初頭(270年頃~)

 西殿塚古墳(後円・230m)と馬口山古墳(後円・110m)が築造されます。箸墓古墳と同時期の古墳です。既述した通り、白石太一郎氏は、箸墓古墳につづいて西殿塚古墳が築造されたと考えていますが、天理市ではほぼ同時期という認識です。西殿塚古墳は大和古墳群最大の古墳ですが、宮内庁管理のため触れないのが痛いです。

 ③ 布留式の古相段階(290年頃~

 東殿塚古墳(後円・175m)、波多子塚古墳(後方・140m)が相次いで築造され、おおよそ同じ時期には、柳本古墳群の黒塚古墳が築造されています。

 ④ 布留式の中相段階(310年頃~

 燈篭山古墳(後円・110m)と下池山古墳(後方・125m)が築造されます。下池山古墳は、橿原考古学研究所によって発掘調査が行われています。

 支群ごとに築造順を記すと、中山支群の大型前方後円墳は、中山大塚古墳(130m)、西殿塚古墳(230m)、東殿塚古墳(175m)、燈篭山古墳(110m)となり、萱生支群の大型前方後方墳は、ノムギ古墳(63m)、ヒエ塚古墳(130m・これのみ前方後円墳)、波多子塚古墳(140m)、下池山古墳(125m)の順になります。大型前方後方墳のフサギ塚古墳(110m)についてはひとまず保留します。

 

130
中山大塚古墳

 墳丘長130mの前方後円墳です。『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)では、箸墓古墳よりも古い時期の築造としていますが、白石太一郎氏は、箸墓と同時期と考えています。

 昭和60年から橿原考古学研究所による発掘調査が行われ、一般向けの書籍としては、『下池山古墳・中山大塚古墳 調査概報 付.箸墓古墳調査概報』(橿原考古学研究所/編・1997)が出版されています。以降、該書を典拠として説明します。

 墳丘の軸線はおおむね南北方向で、後円部を北に向けます。後円部は中世の頃に山城として使用され、また前方部端は大和神社の御旅所が設営されたため、ともに改変されています。

 後円部の北側には「張り出し部」があり、また前方部西側のくびれ近くに、のちの古墳に造られる造出のようなものがありますが、三角形をしていて、こちらも造出とは言わず「張り出し部」と呼ばれます。

 墳丘は葺石で覆われていました。葺石には裏込めがあることが多いですが、特筆すべきこととして、中山大塚古墳の場合は、奥のほうまで念入りに裏込めがされていて、厚い場所は90㎝に達します。発掘調査をした人は、まるで積石塚のようだったと感想を述べています。

 中山大塚古墳の墳丘図と発掘時の写真は、橿原考古学研究所附属博物館にて展示してあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 埋葬主体は後円部中央で竪穴式石室が1基検出されています。墓壙は墳丘の長軸に沿って、南北約17m×東西約12m。石室自体の底の長さは7.5mで、高さは2mあり、側壁は板石を積み上げていますが、最初の50mは垂直に積み上げ、それ以上は持ち送りをして、天井部分ではかなり両壁は接近し、天井石は小型のものを10枚程度で覆っていました。発掘時に現位置にあった天井石は2枚だけです。石室内の写真も橿原考古学研究所附属博物館にて展示してあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 上の写真の右側が中山大塚古墳の石室の写真ですが、こいう壁の作り方を持ち送り式と言います(左側の桜井茶臼山古墳の場合はほぼ垂直に壁を作っています)。

 面白いのは、石室内をベンガラで塗っていないことです。私たちのイメージでは石室内は真っ赤っかであると想像しがちですが、中山大塚古墳ではそうではないのです(上の桜井茶臼山古墳の写真はモノクロのようですが、実際は石室内はベンガラで赤く塗られていました)。

 棺は見つかっていません。木棺が腐って無くなったものと思われます。

 墳頂からは都月形埴輪、壺形埴輪、円筒埴輪といった時代的に幅のある土器が見つかっており、石室被覆石材の上からは、特殊器台と特殊壺が見つかっています。特殊器台の文様のモチーフは、宮山型に通じるものがあります。

 特殊器台や特殊壺は、吉備にルーツがある土器で、古墳に円筒埴輪が並べられる時代よりも前に並べられていたもので、弥生墳丘墓として有名な楯築墳丘墓に並べられていたもの以降、以下のような変遷をたどっています。

岡山県総社市埋文学習の館にて撮影

 宮山型の特殊器台は実際にはこのようなものです。

宮山墳墓群出土の宮山型特殊器台のレプリカ(総社市埋文学習の館にて撮影)

 ※総社市埋文学習の館や総社市の遺跡には、1月の吉備の現地講座にて訪れます

 中山大塚古墳の現地の説明板も併せてお読みください。

 説明板に「前方後円墳の築かれ始めたころの古墳」と記されている通り、初源期の前方後円墳として位置づけられ、同じ頃の纒向古墳群ではホケノ山古墳などが築造されています。

 一般的に、前方後円墳の第1号を箸墓古墳として、箸墓古墳が築造されたときから古墳時代が始まると考える人が多く、そうなると、それより前の中山大塚古墳やホケノ山古墳は弥生墳丘墓と考える研究者がいてもおかしくありません。

 私も箸墓古墳を紹介する際に、「前方後円墳の第1号」と呼びますが、実際に見られる中山大塚古墳やホケノ山古墳は「古墳」と言っても間違いはない構築物ですので、古墳時代の始まりの定義や、古墳という物の定義についてはもう一度深く考えてみる必要があるでしょう。

 ただし、講座で一般の方に説明するときはそういった学界のルールとかに準じると面倒くさい話になるため、ホケノ山古墳などの纒向古墳群の墓たちも普通に「古墳」として紹介しています。細かい定義とかは、その道の世界の方々が議論していればよく、純粋に古墳を楽しむことが目的の人たちにはあまり関係がない話と考えます。

 

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ノムギ古墳

 東西方向に主軸を持ち後方部を東側に向けています。現状の墳丘を見る限りでは段築は認められず、墳丘には埴輪の樹立も確認できません。ただし、後方部南側斜面と周堀内からは石材が見つかっていることから、葺石は施されていたようです。主体部は発見に至っていないため不明。

 奈良盆地では纒向古墳群のメクリ1号墳を並ぶ最古級の前方後方墳です。

 

 

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下池山古墳

 下池山古墳は、墳丘長125m(説明板による)の前方後方墳で、前方部の長さと後方部の長さがほぼ一緒です。前方部、後方部ともに2段築成。現在は墳丘の周りに溜池がありますが、往時も周堀がめぐっていました。ただし、現在の溜池の形状とは違います。

 墳丘上には埴輪の樹立は認められず、少量の二重口縁壺が出土しています。

 中山大塚古墳と同じく、『下池山古墳・中山大塚古墳 調査概報 付.箸墓古墳調査概報』(橿原考古学研究所/編・1997)にてその内容を知ることができます。

 後方部に造られた竪穴式石室は、全長6.8mで、石室内にあったコウヤマキ製の割竹形木棺は4.7mに渡って遺存していました。元々は6mはあったと考えられており、橿原考古学研究所附属博物館に展示してあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 木棺は通常土中で溶けて無くなってしまうのでこれだけ残りが良いものは貴重です。

 面白いのはこの主体部とは別に、その北西側に小さな石室が造られており、その中には径37.6㎝というかなり大きな仿製内行花文鏡が収められていたことです。かなりの特別感のある収め方ですが、三角縁神獣鏡ではなく、内行花文鏡です。

 現地の説明板もご覧ください。

 下池山古墳は、大和古墳群で造られた前方後方墳の中で、もっとも最後に築造された古墳で、このわずか後には、日本最大の前方後方墳である西山古墳が築造され、ヤマトでの前方後方墳の築造が終焉を迎えます。

 

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