最終更新日:2022年7月7日

古墳時代を探る史・資料にはどのようなものがあるか

 歴史を解明するための史料として、その出来事が起きたのと同じ時期の史料があれば一番役に立ちます。これを同時代史料と呼びます。例えば、中世史は古文書を主たる史料として解き明かしていきますが、戦国武将が誰かに宛てた手紙や、神社を建立した時の棟札などが同時代史料となります。そして、これらは一次史料として第一級の史料となります。なお、系図の類は中世史研究者も鵜呑みにしません。

 古事記がリリースされたのは712年、日本書紀がリリースされたのは720年で、これらは古墳時代の歴史を知るための同時代史料とはなりません。ただし、記紀には豊富な内容が記されているため、他の文献や考古学的成果などをもとに裏を取りながらその内容を慎重に判断して利用すれば非常に価値が高いものになりますし、むしろ記紀を無視して古墳時代の歴史を復元することはできないと考えます。ただし、その場合はどんなに高名な研究者でも、どうしても恣意的な解釈になりがちで、それを完全に排除することは難しいと考えます。

 古墳時代の同時代史料としては、中国の正史があります。三国志や晋書、宋書、隋書などですが、それらとて王朝が滅びた後に編纂されるものですからかなりのタイムラグが生じる場合もあり、完全な同時代史料とは言えず、二次史料になりますし、しかも極めて政治的な書物であることを前提に取り扱う必要があります。

 そして最強の同時代史料は古墳や豪族居館跡などの遺跡や、そこから出土する遺物です。ただし、遺跡や遺物も現在言われている年代比定が必ずしも合っているとも限りません。理化学的な年代決定の精度はいまだ研究者全員を納得させられるほどの精度はありませんし、考古学は遺物を古い順から順番に並べて行くのは得意ですが(この「編年」自体が学問の根幹です)、それが具体的に西暦何年なのかを決めるのは得意ではないのです。さらに、遺物によっては地中に溶けてしまう性質のものもありますし、すでに破壊されてしまった遺跡やなくなってしまった遺物を調べることはできません。

 遺物のなかでも数は非常に限られますが、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣などの鉄剣や鉄刀に刻された文字は最強の史料となります。これらは年代決定が難しいことがありますが、とても重要な文字史料で、古文書と同様の扱いの一次史料となります。

 神社の由緒や伝承なども興味をそそられますが、そういったものは話のネタとしては面白いですが、科学的な扱いは難しいです。ただ、発生して現代まで語り継がれている伝承は、それが古い物か新しい物かは別としても、人びとの心を掴んでいることは確かですから、そういう「心の問題」をヒントとするのは有効でしょう。なお、最近の私は、現代の神社のベースは国造時代(6世紀後半から7世紀前半頃)に確立し、ある意味で仏教とは双生児ではないかと考えるようになっています。

 以上のような史・資料をもとに江戸時代から研究が積み重ねられており、21世紀になってからも数えきれないほどの論文や一般向けの書籍が刊行されていますが、いまだに日本国民の大多数の人びとが納得する古代史は発表されていません。それを承知の上で、私たちも先人と同様なやり方で研究をしているのです。

 

古墳時代はいつから始まったのか

 古墳時代というのは考古学からの呼び名ですから、その始まりをいつにするかは、考古学が決めることです。弥生時代の始まりは、灌漑水田が始まったときなので、古墳時代の始まりは、初めて古墳が築造されたときです。北部九州では、弥生時代中期から古墳といっても良いような墳丘を持った有力者の墓(墳丘墓)が現れますが、墳丘墓の変遷を追っていくと、2世紀には、吉備の楯築墳丘墓や、出雲の西谷墳墓群に見られる四隅突出型墳丘墓など、60~70mほどのそれまでにない大型のものが現れ、3世紀には奈良県桜井市で100m級の纒向古墳群の造営が始まります。これらも十分に巨大な墓ですが、ついに280mの箸墓古墳の造営を見ることになります。

 箸墓古墳は、定型化された古墳の第1号として研究者によって説明されることがあり、以前は私もそのように説明していましたが、最近私は箸墓古墳の段階ではいまだ定型化まで至っていないと考えています。前期前半の大型古墳を見てみると、造るたびに新たな要素を取り入れて試行錯誤した形跡があり、きちんとフォーマット化されるのは早くても前期後半だと考えます。ただ、280mという大きさはそれまでの墳丘墓の流れからするとやはり異様であり、ここに大きな飛躍があると考え、多くの研究者と同様、私も箸墓古墳の築造をもって古墳時代の始まりと考えます。

 問題は、箸墓古墳の築造時期です。少し前までは3世紀後半の築造と説明されていたのが、最近は佐倉の国立歴史民俗博物館が発表した研究成果によって3世紀の中頃と言われることが多くなりました。ただし、これには異論もあります。これがはっきりしないと、古墳時代の開始年代が決まらないのです。

 古墳はある特定の人物のために築造されます。その人物のことを初葬者と呼びますが、その後、追葬が行われることがあります。葬るときには墳丘上かそのすぐ近くで葬儀が行われたので、その際の遺物(供献土器など)が出土することがありますが、これを初葬のときのものか追葬の時の物か判断する必要があります。また、古墳には埴輪を立て並べることがありますが、古墳を築造して少し経ってから壊れた埴輪を並べ直した例もあります(群馬県高崎市の井出二子山古墳)。こういうこともあるので、遺物によって古墳の築造年代を決める際も慎重にする必要があります。

 箸墓古墳は墳丘自体は陵墓であるので掘ることはおろか、基本的には立ち入ることすらできません。ただし、その周辺の発掘は行われており、その際に出土した遺物や、昔に表面採集されていた土器などを見て年代を決めようとするわけですが、箸墓古墳からは布留0式が出土しています。布留0式の製作年代は、私は270年から290年と考え、箸墓古墳の造営は3世紀第3四半期(251~275年)の間と考えます。

 下の図は、『関東における古墳出現期の変革』(比田井克仁/著)に掲載されている図に、他の研究者の成果をプラスして書き込んだ図で、私自身の弥生末から古墳時代初頭の年代観はこれをもとにしています。

『関東における古墳出現期の変革』(比田井克仁/著)を加筆転載

 絶対年代に関しては、研究者によって考えが違うのですが、それを考古学的見地から調整するのは私の力ではできないことを承知のうえで、今後も勉強を重ねて修正することを前提としつつ、現状では上図のように決めています。

  

いつから政治に文字が導入されたのか

 古墳時代の歴史を探るうえでは、日本でいつから政治に文字が使われるようになったのかを突き止める必要があります。文字が無いと歴史を記録することはできませんし、そもそも国家を運営することはできないはずです。小さな部族集団であれば文字はいらないと思いますが、国を運営するための決まり事(法律)を作ったり、徴税のために国民を管理したり、組織的計画的に軍隊を動かしたりする(しかも海外に派兵する)ことや、朝鮮半島や中国といった外国と付き合うことを文字なしで行うことはできないと考えます。

 魏志倭人伝を読めば推測できる通り、邪馬台国連合の幹部は文字を理解していた可能性が高いですが、王や貴族層が文字を読み書きできないとしても、それができる官吏がいれば小規模な国家であれば運営可能でしょう。邪馬台国がどこにあったのかは置いておきますが、その後のヤマト王権でも、同じく文字が理解できる官吏がいれば、少なくとも外国とコミュニケーションをとることはできます。

 箸墓古墳以降、4世紀中には北は宮城県北部から南は鹿児島県大隅地方まで100mを越える大型前方後円墳を含めたくさんの古墳が築造されました。これらの古墳は文字なしで造れるでしょうか。文字がなくても、エンジニアが実務によって後輩を教育して、そのエンジニアが列島各地へ出張して現場で指揮を取れば造れると思います。4世紀までのヤマト王権は列島各地の王たちとは物々交換によって経済を回していました。それも文字なしでできます。この時代の日本列島は古墳という物をシンボルとして緩やかに繋がっていた時代で、列島各地の王たちは相互扶助的に繋がり、とてもヤマトの王権が列島を「支配」したというイメージには程遠いです。列島の大部分で前方後円墳が造られたため、一見するとヤマト王権が列島支配を確立していたように思えますが、この時代はいまだそのレヴェルにまで達していません。少なくとも古墳時代前期に「前方後円墳体制」は存在しないと考えます。

 この状況が一変するのが、多くの研究者と同様で私も4世紀末に活躍が始まると考えている応神天皇からです。応神天皇の出現によって時代は明らかに変わります。古墳時代は中期という時代区分に変わります。応神以降、一般家庭にカマドが普及し、古墳の副葬品には馬具が含まれるようなり、関東地方でも渡来人の足跡が濃厚になります。多くの研究者が応神天皇の出現を時代の画期と考えており、かつて水野祐が唱えた「三王朝交替説」の崇神、応神、継体をそれぞれの王朝の始祖とする考えは、細かいところは抜きにしても、大きな意味では妥当であると考えます。

 応神天皇は日本書紀によると九州の出身です。半島や大陸出身と考える研究者もおり、私は小林惠子氏の「符洛説」に魅力を感じます。出身がどこであろうと応神配下に半島人が大勢いたり、半島の国家とコネがあったことは、応神以降の歴史の流れを見ると確実といえます。崇神朝でも渡来人がやってきて政治顧問として活躍したことはありましたが、応神朝によって日本はようやく東アジア世界の国ぐにと同じレヴェルで肩を並べる国家になりました。その飛躍の大きな要因は、政治に文字を導入したことです。

 ただし、肝心の5世紀に記された書物が一つも出てきません。その理由について考えられるのは、政治に文字が使われ始めた後も、現代のように巷に文字が溢れかえるような状況ではありませんから、書物自体が非常に少なかったというのが根幹にあります。7世紀後半に日本書紀の編纂が始まった際に、列島各地の有力氏族からそれぞれの家の歴史書を提出させ、日本書紀が完成した後、それらは焚書したと考えられます。普通であれば王権に書物を提出する際に、写しを書いて保存しておくはずなので、それが今後発見される可能性はゼロではありませんが、そもそも日本書紀も古事記も原本は残っておらず、古事記の最古の写本である真福寺本は、14世紀後半の制作なので、古事記自体が偽書ではないかと疑われたことがありました。そう考えると、各氏族が記していた書物が現存する可能性は絶望的と言えます。

 肝心の物的証拠がないのに文字があったことを証明するのは難しく、それであれば崇神朝でも文字を政治に導入していたと考えていいではないかと指摘されるかもしれませんが、応神が文字を政治に導入したと考える理由としては、記紀に応神のときに百済の王仁(わに)が来日して千字文と論語を伝えたとあることです。この記事が、応神の文字の政治導入を伝えた痕跡であると考えます。

 高句麗の好太王碑に記されている通り、4世紀末から5世紀にかけて、倭国は朝鮮半島で戦っていますが、これは応神天皇が指揮しての戦いと考えます。応神は高句麗との戦いを当初、倭国の伝統のまま、文字なしでやってみたところ限界を感じ、文字の導入を決めて急遽百済王に相談して王仁の来日となったのでしょう。

 時代がだいぶ下りますが、中世の戦では、武将が戦場に到着した証も戦功を挙げたり戦死や大怪我した証もすべて文章化して残していました。こういった証拠がないと、上位権力者としては戦に参加した人を正当に評価することができないのです。中世にはこういうシステムが出来上がっていたのですが、こういうシステムなしに口頭だけで大軍をもって海を越える戦争をすることは困難だと考えます。

 王仁が千字文と論語を伝えたという平和的なことは表面的なことに過ぎず、実際には応神の文字普及政策の責任者として列島各地の王(国主)たちへの文字の普及を推進したと考えます。中国の王朝では歴史書を書く伝統がありましたが、日本もこの時代にその伝統に触れ、列島各地の氏族の間で歴史書を書くことが始まったと考えます。この時から書き連ねられた歴史書が日本書紀を書く際の元資料となったのでしょう。

 

日本書紀に記された出来事の実年代について

 日本書紀には干支が明記されているため、それによって年代を決めれば様々な歴史的出来事が起きた時期は簡単に分かりそうですが、4世紀代と想定されるより前の天皇はほとんどが超人的な寿命を持つことになるため、干支をそのまま信じることはできません。

 そもそも、干支がいつから日本に導入されたのかは不明確ですし、導入されていたとしても、文字で記録せずに神武の昔から口伝で伝えることができるでしょうか。神武は論外としても、崇神からできるでしょうか。既述した通り、歴史を文字で記録するようになったのは、応神朝の4世紀末以降ですが、日本書紀の干支をそのまま機械的に西暦に変換しても内容が破綻しており、その後の継体朝に至っても、いまだ干支による年代決定はできず、6世紀終りの飛鳥時代からようやく信用できるようになると考えています。ですから、日本書紀に記されていることを実年代で表そうとしても、継体や安閑ですらそれはできず、筑紫君磐井の戦争も武蔵国造の乱も正確な実年代は不詳で、「継体の頃」とか「安閑の頃」としか言えないと考えます。

 

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