最終更新日:2023年10月30日
本サイト上では、別稿にて土器を中心とした縄文時代の通史を詳細に論じていますが、ここでは土偶について、古い順に簡単に概観してみます。
土偶は珍しいもの
縄文遺跡から出土する遺物の中で、土偶は高い人気を誇っています。土偶の用途については、研究者の方々が、ときに現代人的発想でいろいろ述べていますが、本当のところは誰にも分かりません。しかし、単純にデザインを見ると、現代の日本のアニメやキャラクター文化のルーツにも見え、その末裔の私たちにとっては誇るべき遺物だと思います。
さて、その土偶ですが、私たちは博物館などで当たり前に見ていますので、珍しいものではないと思うかもしれません。少し古いデータですが、1992年に刊行された佐倉の歴博の研究報告37集によると、見つかった数は10,683点です。
1万点もあるのか!ではなく、1万点しかないのか!と、驚いてください。
縄文時代は、私は1万6500年前に始まって2900年前に終わると考えています。これ以外の考えを持っている研究者も多いと思いますが、この考え方の場合、1万3600年続いたことになります。
土偶は縄文時代になってすぐに造られ始めたものではないですし、時期や場所によって数に偏りがありますが、単純計算すると、全国で1年に1個くらいしか造られなかった計算になります。
実際には、雑な造りの小さな土偶も無数にあったと考えられ、そういったものは土に還って消滅することも多いですし、見つかっていない土偶もあるため、もっとたくさんの土偶が造られたと思いますが、それなりにしっかりとした造りの土偶は、当時の人びとにとっても珍しいものであったはずです。
ましてや、現在国宝や重文になっているような極めて精巧な造りの土偶は、当時の人びとの中にも一生見ることがない人も大勢いたわけです。
ですから、私たちが博物館などで土偶を見るときは、例え「ちゃちいなあ」とか、「こんなの俺でも作れる」などと思ったとしても、当時は大変貴重な物であったということを理解した上で鑑賞しましょう。
土偶のネーミング
土偶は、構造(造り方)によって大きく中実(ちゅうじつ)土偶と中空(ちゅうくう)土偶に分かれます。
中実土偶は粘土の塊ですが、中空土偶は中が空洞になっています。最初は中実土偶から始まりますが、本稿を読み進めると、あとで中空土偶が出てきますよ。
本を読んだり展示を見ていると、いろいろな土偶の名前が出てきます。それらは、土偶の分類上の呼び方だったり、その地域でのニックネームだったり、文化財として登録した時の名称だったりします。
まずは、分類する上でどういう名前があるのか知っておきましょう。
・板状(ばんじょう)土偶
・バンザイ形土偶
・ハート形土偶
・山形土偶
・みみずぐ土偶
・蹲踞(そんきょ)土偶
・遮光器(しゃこうき)土偶
・結髪(けっぱつ)土偶
これ以外にもありますが、これだけ知っていればそれほど困らないと思います。
これらの呼び名は、固有のひとつの土偶を指して呼ぶのではなく、分類上での呼び名です。固有のひとつの土偶に付けられたニックネームに関しては、本稿ではカッコ書き(「」)で示します。なお、分類は便宜的な物ですから、どの分類にも当てはまりそうもないものもあります。そう感じた時は、短気を起こして暴れたりせずに、大らかな気持ちで土偶と接しましょう。
縄文時代草創期(16500年前~11500年前)の土偶
草創期の土偶は大変少ないです。縄文時代というと、東日本が優勢だったイメージがありますが、興味深いことに現在のところもっとも古い土偶は、滋賀県大津市の相谷熊原遺跡と三重県松阪市の粥見井尻遺跡で見つかっています。ただし、滋賀県と三重県は、歴史的に見ると、時期によっては東日本の範疇に含めることが可能な微妙な場所です。
この2つの土偶は、佐倉の国立歴史民俗博物館でレプリカを見ることができます。
こちらが滋賀県大津市の相谷熊原遺跡で見つかった土偶。
そしてこちらが、三重県松阪市の粥見井尻遺跡から見つかった土偶です。
この2点から分かることは、土偶は女性を表現していることです。そしてそのためには、大きな胸があればよくて、顔や手足は重要視されていないということです。現代人の中にはそういう特殊な性癖の人もいますが、縄文時代においてはこれがどういう意味を表していたのか・・・。
ともかく、土偶はこういうデザインから始まったわけですが、以後でその進化の様相を見てみましょう。
ちなみに、初期の土偶は数が少なすぎるため、分類上の名前はおそらく無くて、「初期の土偶」とか呼んでいると思います。
縄文時代早期(11500年前~7300年前)の土偶
早期には、北海道から九州まで土偶が造られました。例えば、現状で東北最古の土偶は、青森県三沢市根井沼(1)遺跡から出土しています。
これも残っている部分(見つかった部分)は3㎝しかない小さなものです。
北東北では、中期以降に板状(ばんじょう)土偶という十字架のような形をした板状の土偶が流行しますが、草創期の土偶と比較するとこれは板状ですので、北東北では土偶を作り始めた頃から板状にこだわっていたのかもしれません。
縄文時代前期(7300年前~5500年前)の土偶
前期の土偶のデザインは、早期とそれほど変わりませんが、分布域が大きく変わり、早期までに土偶を作った西日本でほぼ見つからなくなります。西日本では、晩期になって一挙に遺跡が増えるまで、遺跡自体が少ないため、これ以降は、多くの人びとのイメージ通り、縄文時代といえば東日本、という図式になります。
縄文時代中期(5500年前~4500年前)の土偶
中期には、いよいよ様々なデザインの土偶が現れてきます。縄文時代が始まってからもう1万年以上経っています。
この頃には地域によってデザインの違いが顕著になってきて、それは土器の文化圏に対応します。土偶に施されている文様は、基本的にはその地域の土器に施されている文様と同じです。
中期前半からは北東北で本格的に板状土偶が造られ始め、青森県三内丸山遺跡からみつかったこの土偶はとくに有名です。
上の板状土偶と同じ頃、山形県舟形町の西ノ前遺跡では、国宝「縄文の女神」が造られました。
そして同じく国宝の「縄文のビーナス」が長野県で造られています。
このように中期前半になると一気に精緻な造りになってきます。
また、火焔土器の第1号が見つかった新潟県長岡市の馬高遺跡からは、「馬高のビーナス」と呼ばれている土偶が出ています。
そしてこちらは、秋田市坂ノ上F遺跡から出土した土偶。
中期後半には、「縄文のビーナス」の棚畑遺跡から近い坂上遺跡にて「始祖女神像」と呼ばれている土偶が造られました。
板状土偶以外のこれら中期の土偶は、バンザイ形土偶と呼ばれ、その特徴としては、手が短いことが挙げられます(板状土偶には足の表現がありませんが、その後、南東北の大木式土器の文化が流入すると、足を表現するようになります)。そして、「馬高のビーナス」以外は、乳房の表現がしっかりしており、妊娠の表現もあることから女性をイメージして造っていることが分かります。
ただし、男性を表現していると考えられている土偶もわずかながらあります。こちらの土偶は晩期の所産になりますが、北海島千歳市のウサクマイ遺跡から出土した土偶です。
確かに男性器のような表現がありますし、胸や腹が膨らんでおらず、妊娠線もありません。これを作った人が実際のところ何を考えていたのかは分かりませんが、こういうものもあります。
中期の土偶の中で、とくに変わっているものといえば、東京都八王子市宮田遺跡から出土した「子を抱く土偶」です。
歴博の考古遺物にしては珍しく本物を展示してあります。
この土偶は、お姉さん座りをしているお母さんが赤ちゃんを抱いておっぱいをあげているところです。
展示のキャプションにも書いてありますが、現代のように代替食がない当時は、乳の出が悪いと赤ちゃんは死んでしまいます。縄文時代は現代とは比較にならないほど、子育てが困難な時代でしたが、これを造った人はどのような思いを込めていたのでしょうか。
そういえば、私は男ですが、右利きのせいか娘を抱っこしていた時は、これと同じで頭を左にしていました。
縄文時代後期(4500年前~3500年前)の土偶
中期にはスター級の土偶が現れましたが、後期になるとさらに凄いものが出てきます。最初の頃の土偶と比べるとまったく別物となっていることが分かりますね。
「縄文のビーナス」が生まれた信州では、後期の中葉には同じく国宝土偶の「仮面の女神」が造られます。
見た目以外の変化として、これは中空土偶と呼ばれ、中を空洞にして造られています。縄文土器を造るのと一緒で、粘土紐を輪積みして造っているのですが、よく輪積みで造れるなあと感心します。でも、縄文人のなかでも土器づくりが得意な人は、それを応用してこういうものが造れたのです。
一方で、これまで紹介してきた土偶たちはすべて中実土偶と呼ばれ、普通の粘土の塊です。しかし実は、中実土偶は焼くのが難しいという欠点があり(粘土部分が分厚いと破裂する)、そう言うこともあって、土器と同じ製法で土偶を造るというアイディアが出てきたのかもしれません。
「仮面の女神」と似た土偶は、山梨県韮崎市の後田遺跡からも出ています。通称「ウーラ」です。
こういったバリエーションを探して博物館や資料館を巡るのも楽しいですよ。
同じ頃、群馬県ではハート形土偶の代表格ともいえる土偶が作られました。「郷原の土偶」と呼ばれているものです。
このように、後期中葉以降は、デザインの先鋭化が加速しますが、関東では山形土偶と呼ばれるジャンルのものが見え始めます。
山形土偶もそうですが、この頃から手の先を外反させて、ドリフの「ヒゲダンス」でも踊りそうなデザインのものが現れ、東日本各地で盛行します。
秋田県北秋田市の漆下遺跡から出土したこちらの後期の土偶は、本当にダンスをしているような雰囲気ですね。
後期の北海道では、国宝の大型中空土偶が造られました。「カックウ」の愛称で親しまれている土偶です。
後期の終りの頃には、関東地方でみみずく土偶が造られました。
山形土偶とみみずく土偶の分布圏は重なりますが、山形土偶の方が出現が早いです。
例えば、千葉県の加曽利貝塚では、安行2式期のみみずく土偶と、その前段階の加曽利B3式期の山形土偶が見つかっています。
後期後半の東北地方では、しゃがんだ造形の蹲踞(そんきょ)土偶が造られます。
もっとも有名なものは、風張(1)遺跡から出土した国宝の「合掌土偶」でしょう。「いのるん」というキャラクターの元にもなっています。
同じ風張(1)遺跡では、「合掌土偶」よりも少し古い「頬杖土偶」も見つかっています。
蹲踞土偶では、福島県福島市上岡遺跡出土の「しゃがむ土偶」も有名で、「ぴ~ぐ~」というニックネームが付いています。
真横から見ると、妊婦であることが分かります。
こういった力作ではありませんが、個人的には岩手県遠野市の夫婦石袖高野遺跡出土の「たそがれ土偶」も好きです。
このように、後期の東北地方ではしゃがんだ造形の土偶が造られました。
縄文時代晩期(3500年前~2900年前)の土偶
いよいよ縄文時代も終わりに近づいてきましたが、土偶作りは相変わらず盛んです。
関東地方では晩期初頭は引き続き、みみずく形土偶が造られます。
そして、晩期と言えば遮光器(しゃこうき)土偶ですね。
北東北の亀ヶ岡文化で成立した土偶ですが、亀ヶ岡文化は東日本を席巻して、近畿地方にまで影響を与え、兵庫県まで及んでいるようです。
ただし、西に行けば行くほどデザインがかけ離れていくので、そういうものを追いかけて行っても面白いでしょう。例えば長野県松本市のエリ穴遺跡の土偶は、遮光器土偶の要素がはいっているものの、製作者は何を思ったのか、目をダブルで付けてしまいました。
晩期には西日本の遺跡が急増して、それに反比例するかのように東日本が寂しくなっていくのですが、この人口バランスの変化は、亀ヶ岡文化の人びとの西への移動と関係してそうです。
晩期の終り頃の北東北では、遮光器土偶に代わって結髪(けっぱつ)土偶と呼ばれる土偶が流行します。
結髪土偶はその名の通り、髪を結っているイメージの造りなのですが、様々なヘアスタイルがあって面白いのです。
紀元前10世紀には、九州で灌漑稲作が始まり、それが列島各地に普及していき弥生時代が始まりますが、興味深いことに、弥生時代になるとパッタリと土偶は造られなくなります。ただし、一部地域ではまだ土偶が造られており、ライフスタイルとの関係が予想されます。
弥生時代に作られたこの「奇跡の土偶」は、2000年に上半身が表採されたのですが、なんとその9年後に下半身が表採され、見事に接合した土偶です。そのため、「奇跡の土偶」と呼ばれています。