最終更新日:2026年6月26日
本サイト上では、別稿にて土器を中心とした縄文時代の通史を詳細に論じていますが、ここでは土偶について、古い順に簡単に概観してみます。
本当は岩偶や人面土器、人面把手、土面、土版、動物形土製品などの関連製品も一緒に述べたいのですが、今はまだ手が回りません。
※写真はすべて稲用が撮りましたが、ピンボケしているものはご容赦ください。
目次
はじめに
土偶は珍しいもの
縄文遺跡から出土する遺物の中で、土偶は高い人気を誇っています。土偶の用途については、研究者の方々がときに現代人的発想でいろいろ述べていますが、本当のところは誰にも分かりません。しかし、単純にデザインを見ると、現代の日本のアニメやキャラクター文化のルーツにも見え、その末裔の私たちにとっては誇るべき遺物だと思います。
さて、その土偶ですが、私たちは博物館などで当たり前に見ていますので、珍しいものではないと思うかもしれません。古いデータですが、1992年に刊行された佐倉の歴博の研究報告37集によると、見つかった数は10,683点です。
1万点もあるのか!ではなく、1万点しかないのか!と、驚いてください。
縄文時代は、私は1万6500年前に始まって2900年前に終わると考えています。これ以外の考えを持っている研究者も多いと思いますが、この考え方の場合、1万3600年続いたことになります。
土偶は縄文時代になってすぐに造られ始めたものではないですし、時期や場所によって数に偏りがありますが、単純計算すると、全国で1年に1個くらいしか造られなかった計算になります。
実際には、雑な造りの小さな土偶も無数にあったと考えられ、そういったものは土に還って消滅することも多いですし、見つかっていない土偶もあるため、もっとたくさんの土偶が造られたと思いますが、それなりにしっかりとした造りの土偶は、当時の人びとにとっても珍しいものであったはずです。
ましてや、現在国宝や重文になっているような極めて精巧な造りの土偶は、当時の人びとの中にも一生見ることがない人も大勢いたわけです。
ですから、私たちが博物館などで土偶を見るときは、例え「ちゃちいなあ」とか、「こんなの俺でも作れる」などと思ったとしても、当時は大変貴重な物であったということを理解した上で鑑賞しましょう。
土偶のネーミング
土偶は、構造(造り方)によって大きく中実(ちゅうじつ)土偶と中空(ちゅうくう)土偶に分かれます。
中実土偶は粘土の塊ですが、中空土偶は中が空洞になっています。最初は中実土偶から始まりますが、本稿を読み進めると、あとで中空土偶が出てきますよ。
本を読んだり展示を見ていると、いろいろな土偶の名前が出てきます。それらは、土偶の分類上の呼び方だったり、その地域でのニックネームだったり、文化財として登録した時の名称だったりします。
まずは、分類する上でどういう名前があるのか知っておきましょう。
・板状(ばんじょう)土偶
・バンザイ形土偶
・ハート形土偶
・山形土偶
・みみずぐ土偶
・蹲踞(そんきょ)土偶
・遮光器(しゃこうき)土偶
・結髪(けっぱつ)土偶
これ以外にもありますが、これだけ知っていればそれほど困らないと思います。
これらの呼び名は、固有のひとつの土偶を指して呼ぶのではなく、分類上での呼び名です。固有のひとつの土偶に付けられたニックネームに関しては、本稿ではカッコ書き(「」)で示します。なお、分類は便宜的な物ですから、どの分類にも当てはまりそうもないものもあります。そう感じた時は、短気を起こして暴れたりせずに、大らかな気持ちで土偶と接しましょう。
縄文時代草創期(16500年前~11500年前)の土偶
草創期の土偶は大変少ないです。縄文時代というと、東日本が優勢だったイメージがありますが、興味深いことに現在のところもっとも古い土偶は、滋賀県大津市の相谷熊原遺跡と三重県松阪市の粥見井尻遺跡で見つかっています。ただし、滋賀県と三重県は、歴史的に見ると、時期によっては東日本の範疇に含めることが可能な微妙な場所です。
この2つの土偶は、佐倉の国立歴史民俗博物館でレプリカを見ることができます。

こちらが滋賀県大津市の相谷熊原遺跡で見つかった土偶。
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そしてこちらが、三重県松阪市の粥見井尻遺跡から見つかった土偶です。
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この2点から分かることは、土偶は女性を表現していることです。そしてそのためには、大きな胸があればよくて、顔や手足は重要視されていないということです。現代人の中にはそういう特殊な性癖の人もいますが、縄文時代においてはこれがどういう意味を表していたのか・・・。
ともかく、土偶はこういうデザインから始まったわけですが、以後でその進化の様相を見てみましょう。
ちなみに、初期の土偶は数が少なすぎるため、分類上の名前はおそらく無くて、「初期の土偶」とか呼んでいると思います。
縄文時代早期(11500年前~7300年前)の土偶
早期には、北海道から九州まで土偶が造られました。例えば、現状で東北最古の土偶は、青森県三沢市根井沼(1)遺跡から出土しています。
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これも残っている部分(見つかった部分)は3㎝しかない小さなものです。
北東北では、中期以降に板状(ばんじょう)土偶という十字架のような形をした板状の土偶が流行しますが、草創期の土偶と比較するとこれは板状ですので、北東北では土偶を作り始めた頃から板状にこだわっていたのかもしれません。
茨城県でも早期の土偶が見つかっており、そのひとつが完形の「花輪台のビーナス」です。胸が強調されているところが草創期の土偶の伝統を受け継いでいるように見えます。
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利根町立歴史民俗資料館に展示しているのは複製品で、実物は南山大学が所蔵しているとのことですが、南山大学人類学博物館には展示されていません。
「花輪台のビーナス」以外にも花輪台貝塚からは早期土偶が出土しています。

鹿児島県にも早期土偶があります。鹿児島県を代表する縄文遺跡の一つである霧島市の上野原遺跡から出土した土偶です。

九州の縄文文化はこのあとの早期と前期を区切る約7300年前の鬼界カルデラの噴火によって大打撃を被り、とくに南部は壊滅に等しく、その後の発展に多大な影響がありました。
ちなみに、鬼界カルデラ噴火は過去1万年間で世界最大といわれており、「ナショナルジオグラフィック日本版」のこちらのページに記事があります。
縄文時代前期(7300年前~5500年前)の土偶
前期の土偶のデザインは、早期とそれほど変わりませんが、分布域が大きく変わり、この時期からは西日本の土偶はほぼ見つからなくなります。西日本では、晩期になって一挙に遺跡が増えるまで、遺跡自体が少ないため、これ以降は、多くの人びとのイメージ通り、縄文時代といえば東日本、という図式になります。
では、前期土偶を紹介します。
これを土偶と言うと怒り出す人がいるかもしれませんが、土偶なのです。

中期の板状土偶に発展しそうな気配がありますね。
中央が凹んでいて、それが北東北の前期土偶の特徴でもありますが、凹み具合が分かりやすいのがこちらです。

まとまった展示もありました。
こちらは宮城県栗原市の嘉倉貝塚出土の前期土偶。

そしてこちらは、同じく宮城県大崎地方の登米市の糠塚貝塚から出土した前期土偶。

どれもこれも真中を凹ませていますが、いったい何なんでしょうね。
一方、こちらは凹ませていません。
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襟元のVラインがお洒落に見えますが、土偶はこの後、眼窩上隆起(眉毛の部分)を強調したデザインのものが多くなるので、このVラインはそれを表しているのかもしれません。
上述の糠塚貝塚の土偶にも穴を複数空けたものがありますが、こちらも穴を4つ空いています。2つの目と両耳のアクセサリーを表現しているのかもしれません。

縄文人のデフォルメは私たちの想像の斜め上を行きます。
やたらと丸印を付けたい衝動に駆られてしまったらしい作品もあります。

縄文時代中期(5500年前~4500年前)の土偶
中期にはいよいよ様々なデザインの土偶が現れてきます。この時代の土偶からヴィジュアル的な面白味が一気に加速しますが、縄文時代が始まってからもう1万年以上経っています。
この頃には地域によってデザインの違いが顕著になってきて、それは土器の文化圏に対応します。土偶に施されている文様は、基本的にはその地域の土器に施されている文様と同じです。
中期前半からは北東北で本格的に板状土偶が造られ始め、青森県三内丸山遺跡からみつかったこの土偶はとくに有名です。

青森県青森市・三内丸山遺跡出土の板状土偶(さんまるミュージアムにて撮影)三内丸山遺跡では、国内最多の2000個以上の土偶が出ており異常です。
その多くは、中期の板状土偶です。文化が異なるので単純な比較はできませんが、出土数2位の1116個の土偶が出土した山梨県笛吹市の釈迦堂遺跡が粗雑な作りの土偶ばかりなのに比べて、三内丸山遺跡は数も多ければ優品も多いという違いがあります。
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この異常な数については考えこんでしまいますが、今は考察はせず話を進めましょう。
ところで、三内丸山遺跡から出土した中期の板状土偶を見ると、頭部に2つの穴が空いているものが多いです。
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ここに紐を通して、吊るしておいたことが想定できますが分かりません。
三内丸山遺跡のある青森県の隣県の秋田県は、大雑把に言って北部の米代川流域が三内丸山遺跡と同じ円筒土器文化圏で、南部の雄物川流域が大木式土器文化圏でした。
米代川流域の鹿角市の遺跡からは板状土偶が出土しています。

板状土偶は十字形土偶と呼ばれることもあり、不思議な作風の物もあります。

まるで乳房の直上に顔があるような造形ですが、下の土偶はモロにそうです。

前期の土偶でも身体の真ん中が口のように陥没しているものがありますが、その流れでここに顔を造形してしまったのでしょうか。良く分かりません。
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ここまでの板状土偶は足が1本、というよりも足の表現はなく、そのために十字形ともいわれるわけです。
下の板状土偶は、これまでの板状土偶と比べるとプリミティヴな感じがしますが、個人的には中期の土偶で日本一可愛いと思っています。

前期の項で紹介した岩手県北上市・高畑遺跡出土のグレーの土偶と何となく似た風合いですが、こちらは中期ということです。
そして、足が2本ありますが、東北南部の大木式土器文化圏の土偶は足を2本作るといわれており、その影響の元造られたと思われる土偶が秋田市の坂ノ上F遺跡から出土しています(ただし、大木式土器文化圏の土偶は少ない)。

この造形は三内丸山遺跡に代表されるような板状土偶とは異なりますね。
顔の表現らしきものが頭部にあり、頭の形は上述の八戸の土偶と似ています。
なお、この土偶は正面から写真を撮っているので分かりづらいですが、板状を呈していてもお腹は少しふっくらして下半身に重量感があります。
これらの板状土偶と同じ頃、山形県舟形町の西ノ前遺跡では、国宝「縄文の女神」が造られました(45㎝)。

山形県舟形町・西ノ前遺跡出土「縄文の女神」(山形県立博物館にて撮影)本当にこの土偶は最高傑作だと思います。

山形県舟形町・西ノ前遺跡出土「縄文の女神」(山形県立博物館にて撮影)後期土偶ほどはゴテゴテしておらず、文様はシンプルですが、なんでこういう造形を思いつけるのでしょうか。

山形県舟形町・西ノ前遺跡出土「縄文の女神」(山形県立博物館にて撮影)このように中期前半になると一気に精緻な造りになってきます。
縄文好きの間で「国宝土偶のうちどれが一番好きか?」なんていう話をすることがあると思いますが、どれも甲乙つけ難い。でも強いて言えばこの子が一番好き、というか、一番カッコいいと思います。
一緒に出土した土偶たちも「附(つけたり)」として国宝になっています。

山形県舟形町・西ノ前遺跡出土(山形県立博物館にて撮影)

山形県舟形町・西ノ前遺跡出土(山形県立博物館にて撮影)似た形の土偶ばかりですが、それらと比べると「縄文の女神」がいかに傑出した作品であるかが分かるでしょう。
本当に神憑り的です。
そして同じく国宝の「縄文のビーナス」が長野県で造られています(27㎝)。

長野県茅野市・棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」(尖石縄文考古館にて撮影)この安定感がたまりません。

長野県茅野市・棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」(尖石縄文考古館にて撮影)頭の渦巻きもお尻も可愛い。

長野県茅野市・棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」(尖石縄文考古館にて撮影)パッと見では「縄文の女神」とはだいぶ違う印象がありますが、お尻が出っ張っているのは同じで、これもこの時代の特徴の一つなのです。
「縄文のビーナス」はカッパ形土偶と呼ばれることがありますが、やはり類例はあります。
国宝と比べるのは酷ですが、こういった似た作風の作品もあるんですよ。

山形の「縄文の女神」もカッパ形土偶と言われ、重ねて言いますが、「縄文の女神」と「縄文のビーナス」はパッと見ではだいぶ違う印象であっても、考古学的な分類では近い存在なのです。
中期中葉には、壺を抱えた土偶が製作されており、このような造形は1点しかありません。
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でも展示されているのはレプリカで、実物は接合されない状態で展示されています。

この時期の土偶はどっしりとした安定感があります。その安定感は、岩手県の土偶でも見ることができます。


火焔土器の第1号が見つかった新潟県長岡市の馬高遺跡からは、「馬高のビーナス」と呼ばれている土偶が出ています。

笑っているような表情がいいですね。
中期後半には、「縄文のビーナス」の棚畑遺跡から近い坂上遺跡にて「始祖女神像」と呼ばれている土偶が造られました(22㎝)。

板状土偶以外のこれら中期の土偶は、バンザイ形土偶と呼ばれ、その特徴としては、手が短いことが挙げられます。そして、その多くに乳房や妊娠の表現もあることから女性をイメージして造っていることが分かります。
ただし、男性を表現していると考えられている土偶もわずかながらあります。こちらの土偶は晩期の所産になりますが、北海道千歳市のウサクマイ遺跡から出土した土偶です。

確かに男性器のような表現がありますし、胸や腹が膨らんでおらず、妊娠線もありません。また、前期土偶で見かけた胸の窪みがここでも復活しているように見えます。
なお、山梨県でも男性土偶と思われたものが見つかったことがあるのですが、その後、股間にあるのは男性器ではなく、子供の頭であることが判明し、まさに生れ出る瞬間を表現した土偶だったのです。
ついでに、男性土偶をもう一点。福島県楢葉町の高橋遺跡から出土しており、こちらは後期です。

多分ですが、私は確実に男性土偶と言われているものはこの2つしか見たことがないと思います。
話を中期に戻すと、秋田県湯沢市では中期後半に造られたこんな可愛い土偶が見つかっています(19.6㎝)。
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頭の横に出ているのは耳じゃなくて手だと思います。そして、足が2本あってちゃんと指まで表現されているのは、三内丸山遺跡に代表される円筒土器文化圏の土偶とは一線を画しており、先ほど述べたのと同じで、大木式土器文化圏の土偶の範疇に入ると思います。
ジオスタ☆湯沢を見学した際に解説してくださった方の話によると、子供たちに大人気ということです。とくにニックネームは無いようですが、展示品は複製品であるもののかなりスター性の高い子で、湯沢市はこの子を中心に縄文時代を盛り上げて行けば成功間違いありません。
ちなみに、胸の表現が無く、妊娠線もありません。おへそに見えるものが実は男性器だったりすると面白いのですが(後述)。
中期の関東地方を見ると、東関東では中期前半の阿玉台式土器文化圏では、ほぼ土偶は作っていません。一方、甲信地方と同じ勝坂式土器文化圏である西関東は作っています。例えば、東京都稲城市では「多摩ニュータウンのヴィーナス」と呼ばれている土偶が出ています。

国宝の「縄文のビーナス」には敵わないものの中々優れた作品だと思います。
都内西部の多摩ニュータウンにある東京都埋蔵文化財センターには中期の土偶のまとまった展示があります。

まるで皆で集まって朝のラジオ体操をしているようですが、中期後半のバンザイ形土偶が多いです。多摩ニュータウンの各遺跡から出土した子たちで、中期の西関東の土偶の特徴が良く分かるでしょう。
中期の東京西部は、勝坂式土器文化とその後裔が繁茂した地域ですが、勝坂系の人たちは上述した「壺を持つ妊婦土偶」のように自由闊達な造形をします。土器に関しても全時代の全国の中で最も個性的だと思っています。そのような人びとが作った土偶の中でとくに変わっているものといえば、東京都八王子市宮田遺跡から出土した「子を抱く土偶」を挙げることができます。

歴博の考古遺物にしては珍しく本物を展示しています。
この土偶は、お姉さん座りをしているお母さんが赤ちゃんを抱いておっぱいをあげているところです。
展示のキャプションにも書いてありますが、現代のように代替食がない当時は、乳の出が悪いと赤ちゃんは死んでしまいます。縄文時代は現代とは比較にならないほど、子育てが困難な時代でしたが、これを造った人はどのような思いを込めていたのでしょうか。
そういえば、私は男ですが、右利きのせいか娘を抱っこしていた時は、これと同じで頭を左にしていました。
縄文時代後期(4500年前~3500年前)の土偶
中期にはスター級の土偶が現れましたが、後期になるとさらに凄いものが出てきます。最初の頃の土偶と比べるとまったく別物となっていることが分かりますね。
「縄文のビーナス」が生まれた信州では、後期の中葉には同じく国宝土偶の「仮面の女神」が造られます(34㎝)。

長野県茅野市・中ッ原遺跡出土の「仮面の女神」(尖石縄文考古館にて撮影)見た目以外の変化として、これは中空土偶と呼ばれ、中を空洞にして造られています。縄文土器を造るのと一緒で、粘土紐を輪積みして造っているのですが、よく輪積みで造れるなあと感心します。でも、縄文人のなかでも土器づくりが得意な人は、それを応用してこういうものが造れたのです。

長野県茅野市・中ッ原遺跡出土の「仮面の女神」(尖石縄文考古館にて撮影) これまで紹介してきた中期までの土偶たちはすべて中実土偶と呼ばれ、普通の粘土の塊です。しかし実は、中実土偶は焼くのが難しいという欠点があり(粘土部分が分厚いと破裂する)、そう言うこともあって、土器と同じ製法で土偶を造るというアイディアが出てきたのかもしれません。
「仮面の女神」と似た土偶は、山梨県韮崎市の後田遺跡からも出ています。通称「ウーラ」です。

こういったバリエーションを探して博物館や資料館を巡るのも楽しいですよ。
同じ頃、群馬県ではハート形土偶の代表格ともいえる土偶が作られました。「郷原の土偶」と呼ばれているものです(30.5㎝)。

ハート形土偶は福島県域が発祥と考えられており、いわき市考古資料館には後期初頭のハート形土偶のプリミティヴなものを展示しています。

後期中葉以降は、デザインの先鋭化が加速しますが、関東では山形土偶と呼ばれるジャンルのものが見え始めます。
特に好きなのがこちらですが、大阪歴史博物館が所蔵しており普段は展示しておらず、何かの時に登場します。私はまだ実物にお会いできていません。
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土偶が絶望的にない大阪で孤軍奮闘しているわけですが、もっと活躍できる場所を当地の担当者はプロデュースして欲しいものです。
簡素化された山形土偶も作られています。

下の土偶は、山形土偶の特徴である顔も腕もなくなっていますが山形土偶です。しかもお腹が大きいヴァージョンになっています。

今まで紹介した土偶を見ていると、土偶は縄文時代の最初の頃からずっと作り続けられてきたと思うかもしれませんが、東北地方はそうであっても、関東地方の場合は、中期の土偶製作は低調で、中期の終りころにはほぼ造られなくなります。
その断絶を経て、関東人が久しぶりに世に送り出した作品が山形土偶なわけです。おそらく、これをデザインした人は中期までの関東の土偶を見ていないと思います。土偶が作られなくなったということは、土偶を必要としなくなったということですが、それがまた必要とされる世の中になった。こういう社会の変化についても深く考えなければなりません。
山形土偶もそうですが、この頃から手の先を外反させて、ドリフの「ヒゲダンス」でも踊りそうなデザインのものが現れ、東日本各地で盛行します。
北海道千歳市の美々4遺跡の土壙墓からほぼ完形(足先が欠けているだけ)で出土した後期末頃の土偶も似たポーズをしています。

この写真は「発掘された日本列島2024」で千葉県に遠征してきたときに撮ったものですが、普段は北海道立埋蔵文化財センターに寝かせられています。後頭部には櫛のような表現があります。

お腹がポコッと出ているような表現もありますが、こういう表現の土偶はよく見かけるので注意してみましょう。
秋田県北秋田市の漆下遺跡から出土したこちらの後期の土偶は、本当にダンスをしているような雰囲気ですね。

上の子と同じ北秋田市内にある伊勢堂岱遺跡からは同遺跡を代表する後期前葉の板状土偶が出土しています。

横から見ると面白い形をしていますよ。

そして興味深いのは、青森県野辺地市の有戸鳥井平4遺跡から出土した後期前半の板状土偶との関連です。

顔と胴体は伊勢堂岱の土偶と似ているのですが、こちらはちゃんと足があるんです。
しかも自立できるようにっていることから「くらら」の愛称が付けれています。
「アルプスの少女ハイジ」の1シーンから採られていることは言わずもがなことですね。
「アルプスの少女ハイジ」をご存じでない方は、土偶を見る前にアニメを見たほうがいいかもしれません。
後期になると、それ以前の土偶の足を1本に造る円筒土器文化は滅んでしまって2本になってしまいました。
この形状の脚をした土偶を探すと、後期前葉の面白い土偶が秋田県大館市で出ています。

脚の形が一緒です。
こんな形で可愛らしく立っている土偶を見かけたら「後期前半のお生まれですか?」と声を掛けてあげてください。
それはそれとして、この土偶の目の部分は黒くなっていますが、アスファルトが塗りこめられています。
アスファルトは接着剤として使用されたので、勝手な想像では、目の部分に何かを嵌め込んでいたんではないかと思ったりします(だとしたら異例ですが)。
手のひらの形状に関しては後述します。
後期前葉の自立する土偶に関しては、青森県平川市にこんな子がいます。

腕が太いし、脚の形状も上のアスファルト土偶とは違うし、こちらは指の表現もあります。
下の土偶も自立しそうな足の形をしています。

白っぽいのは画像を補正したせいでなく、焼くと白くなる粘土を使用して製作したためで、実際に白い土偶です。
ところで、伊勢堂岱縄文館には北秋田市内の遺跡から出土した後期から晩期の個性的な土偶や岩偶が集まっており、土偶好きには非常にお勧めです。

これらの土偶や岩偶などの中で、ある種の異彩を放っているのが「笑う岩偶」と同じ白坂遺跡から出土した普通の顔の土偶です。

先日、AICTで見学したときは、参加者から「ターバンを巻いている説」が出ました。土偶は好き勝手なことを言えるのが魅力ですね。
以前、伊勢堂岱遺跡をひとりで見学していたらNHKが「ジュニアボランティアガイド」の取材に来ていて、私はお客さん役をやり小学生に遺跡と縄文館を案内してもらいました。最後にこの土偶コーナーに来て、「一番好きな土偶は何ですか?」と尋ねられたので、「これ!」と下の土偶を指さしました。

小学生のガイドさんの顔が引きつりました。
テレヴィのオンエアは確認していませんが、絶対にカットされたはずです。
お隣の岩手県一戸町にはこの子がいます。

面白いことにこの二人が出た遺跡の距離は遠いのですが、緯度が同じくらいなんですよね。
縄文文化も含めて東北地方の歴史を探るときは緯度に注目してください。
話を伊勢堂岱縄文館に戻して、さらに同館の俊逸な後期土偶を紹介します。
上述したヒゲダンスを踊っているような子と同じ遺跡からの出土で、この子も中々よいプロポーションをしています。

あんまり言うとセクハラになるのでやめておきますが、昭和生まれの男はこういうデリカシーに欠けたところがあります。
威張って言うことではありません。
ちなみに後ろ姿はこちら。

伊勢堂岱縄文館には始めから頭部を造らなかった後期の土偶を展示しています。

極めて珍しい土偶です。
後期の終り頃の関東地方では、上述した山形土偶の後輩としてみみずく土偶が造られました。

埼玉県さいたま市岩槻区・真福寺貝塚出土のみみずく土偶(東京国立博物館 平成館にて撮影)80年代風なファッションです。
なんか昔、こういう学生服を着た不良がいましたよね。
私自身がみみずく土偶の文化圏で生まれているせいか、みみずく土偶は特に好きです。



山形土偶とみみずく土偶の分布圏は重なります、今の霞ヶ浦(古代の香取海)沿岸がその中心です。
千葉県の加曽利貝塚では、安行2式期のみみずく土偶と、その前段階の加曽利B3式期の山形土偶が見つかっています。

みみずく土偶の多くは中実土偶ですが、中空の大型品も作られました。

自立できるようになっており、中空になるとだいぶイメージが変わりますね。
後期後半には北海道や東北で大型の中空土偶が造られました。「カックウ」の愛称で親しまれている国宝の土偶は有名ですね(41.5㎝)。

北海道函館市著保内野遺跡出土「大型中空土偶」(函館市縄文文化交流センターにて撮影)

北海道函館市著保内野遺跡出土「大型中空土偶」(函館市縄文文化交流センターにて撮影)

北海道函館市著保内野遺跡出土「大型中空土偶」(函館市縄文文化交流センターにて撮影)大きさ勝負で言ったら、大湯環状列石から出土しているこの土偶も大きいですが、無くなっている部分が多いのが悔やまれます。

同じ秋田県民として、この子も中々立派な体躯をしています。

上の2つの中空土偶と同じ顔をした土偶が東京都町田市からも出ています。

こういう顔が縄文時代後期後半の「流行り顔」だったのでしょうが、北海道や北東北の土偶の顔と東京の土偶の顔が一緒というのは面白いですね。
これらの中空土偶が作られていたのと同じ頃の後期後半には、しゃがんだ造形の蹲踞(そんきょ)土偶も造られました。
もっとも有名なものは、風張(1)遺跡から出土した国宝の「合掌土偶」でしょう。「いのるん」というキャラクターの元にもなっています。

青森県八戸市・風張(1)遺跡出土の「合掌土偶」(是川縄文館にて撮影)この国宝土偶と同様に肩に装甲を付けたような土偶は他でも見つかっており、例えば秋田県三種町からも出ています。

またまた伊勢堂岱縄文館の展示ですが、北秋田市でも出ています。

伊勢堂岱の子は大柄ですが、反対にとんでもなく小さい子もいます。

ちょっと起きてもらいましょう。

どれだけ小さいかと言うと、これで分かると思います。

小さいのに文様がきちんと施されています。

そして面白いことに、この土偶は頭部が着脱式なのだ!

後期には数は少ないですが、このようなスロット土偶が造られるといいます。でも、なぜこんな小さな土偶をわざわざスロット式にしたのでしょうか。
この子は青森県階上町の階上町民俗資料収集館で対面したのですが、同館には他にも後期のスロット土偶があります。


それで、ここを訪れたのは2025年5月なんですが、その前年の8月に遠く離れた山梨県大月市でスロット土偶を見ています。

ただ、こちらは晩期前半の所産と言うことで時期が違うんですよね。
この土偶については、後日学芸員さんに電話して聴いたのですが、首から股間まで穴が貫通しているとのことです。迂闊にも見学時には股間を覗くことはしていませんでした。まあ、土偶は女性ですから、そんな失礼なことはできませんよね。
股間繋がりで話すと、階上町民俗資料収集館にはこれまた凄いものがあります。
後期後葉の筒形土偶です。

筒形をした土偶は関東人からすればそれほど珍しいものではありませんが、東北では大変珍しいもので、青森県には恐らく現状ではこの子しかいません。
真横から見てみましょう。

私は正面下部についているおへそのようなものは、男性器じゃないかと思います。
ちょっと失礼。

どうでしょうかね?
私はこの子は男の子じゃないかと思います。
まるで小動物の股間を確認しながら話しているみたいですが、ここから類推すると、中期の節で述べた秋田県湯沢市の可愛らしい土偶も男の子ではないかという思いが強くなります。
まあ、現実として男性土偶は存在しますから、男性土偶がどのような意味を持っていたのか想像をめぐらせてみるのも楽しいですね。
さて、青森県に話を戻して、国宝の合掌土偶が出た風張(1)遺跡では、「合掌土偶」よりも少し古い「頬杖土偶」も見つかっています。

蹲踞土偶では、福島県福島市上岡遺跡出土の「しゃがむ土偶」も有名で、「ぴ~ぐ~」というニックネームが付いています。

真横から見ると、妊婦であることが分かりますね。

まあ、妊婦じゃなくてもこういう人はいますが。
いま紹介した後期後半の中空土偶や蹲踞土偶(しゃがむ土偶)は、大体みな同じ顔をしていますね。この顔にピンと来たら「後期」なのです。
ただ、しゃがむ土偶の仲間らしきものの中にも顔立ちの違うものがあります。

力作とは言えないかもしれませんが、しゃがんでいる土偶に関しては、個人的には岩手県遠野市の夫婦石袖高野遺跡出土の「たそがれ土偶」も好きです。

結構小さな土偶ですよ。
このように、後期の東北地方ではしゃがんだ造形の土偶が造られ、私は「ストレッチ土偶」と呼んでいます(稲用語)。
なお、「たそがれ土偶」の手のひらに注目すると、上述した大館市のアスファルト土偶と同じなんですよね。これもこの頃の流行りです。
後期には現存する中では日本最大の土偶が造られました。
鼻先だけ欠けていたようですが、顔はしっかりと残っています。

岩手県盛岡市・萪内遺跡出土(岩手県立博物館にて撮影)顔の長さだけでも23㎝あります。
右脚の一部も出土しており、本来は1mを超えた製品であったと考えられています。
でか。

岩手県盛岡市・萪内遺跡出土(岩手県立博物館にて撮影)何というか、生々しい。

岩手県盛岡市・萪内遺跡出土(岩手県立博物館にて撮影)
縄文時代晩期(3500年前~2900年前)の土偶
いよいよ縄文時代も終わりに近づいてきましたが、土偶作りは相変わらず盛んです。
関東地方では晩期に入った頃は引き続き、みみずく形土偶が造られます。



そして、晩期と言えば遮光器(しゃこうき)土偶ですね。
その中でも一番有名なのはおそらく「しゃこちゃん」でしょう(34.2㎝)。

青森県つがる市・亀ヶ岡石器時代遺跡出土の遮光器土偶(東京国立博物館・平成館にて撮影)

青森県つがる市・亀ヶ岡石器時代遺跡出土の遮光器土偶(東京国立博物館・平成館にて撮影)

遮光器土偶は出始めの頃は体形がスリムで、段々身幅が大きくなっていきます。
それらの中で最も初期型と言われている土偶は岩手県八幡平市にいます。

これが遮光器土偶だと言われて違和感を覚えるのは、頭の飾りがないことが大きいと思われます。
遮光器土偶に見慣れている人には不思議に見えるでしょう。
何ていうか、仏教っぽい。

後頭部には穴が開いており、最初からこういう造形なのです。

前節で後期の蹲踞土偶について述べましたが、晩期にも蹲踞土偶と呼ばれるものがあり、上のプリミティヴな遮光器土偶と何となく顔が似ています。

ところで、遮光器土偶の本貫地は、実は「しゃこちゃん」の青森県と言うよりかは岩手県です。2017年6月の「岩手県立博物館だよりNo.153」によると、岩手県は土偶の出土数が6500点以上で日本一。そして、遮光器土偶は1138点見つかっており、すべての遮光器土偶のうちの7割近くを占めます。
その遮光器土偶王国の岩手県において、1138点の中のトップに君臨すると言っても過言ではないのが盛岡市手代森遺跡のこの子です。

岩手県盛岡市・手代森遺跡出土の遮光器土偶(岩手県立博物館にて撮影)秋田県の遮光器土偶にも優品があり、「岩手県立博物館だよりNo.153」によると234点の遮光器土偶が見つかっています(ちなみに青森県は336点)。

遮光器土偶が寝ているところを見るとゾクゾクする。

ごく部分的ですが、結構鮮やかな朱が残っている土偶もあります。

色の感じからしてベンガラではなく水銀朱ではないでしょうか。
こちらの身幅のある遮光器土偶は宮城県の生まれで、「岩手県立博物館だよりNo.153」によると宮城県は65点出ています。

遮光器土偶は下のようなタイプもいますよ。
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遮光器土偶は、北東北の亀ヶ岡文化で成立した土偶ですが、亀ヶ岡文化は東日本を席巻して、近畿地方にまで影響を与え、兵庫県まで及んでいます。亀ヶ岡文化の土器(大洞式土器)に関して言えば、西日本で模倣されたものが沖縄本島でも出土しています。
遮光器土偶に関しては、西に行けば行くほどデザインがかけ離れていくので、そういうものを追いかけて行っても面白いでしょう。
茨城県稲敷市の人が作ったらこうなりました。

さらに遠くの長野県松本市のエリ穴遺跡の土偶は、遮光器土偶の要素が入っているものの製作者は何を思ったのか目をダブルで付けてしまいました。

まるでサングラスを下げて掛けている80年代の人みたいです。
晩期には西日本の遺跡が急増して、それに反比例するかのように東日本が寂しくなっていくのですが、この人口バランスの変化は、亀ヶ岡文化の人びとの西への移動と関係してそうです。
遮光器土偶を作っていたのと同じ頃の東北地方では、X字形土偶という小さな土偶も作られます。この写真の左から2番目が典型的な形をしています。

ちょっと分類できないんですが、晩期の会津にはこんな子もいます。

脚の形からすると似たものとして、北海道江別市大麻3遺跡出土の著名な「ペア土偶」がいます。2体の土偶が仰向けに重なった状態で出土したのです。そういう状態での出土は極めて珍しい。
下になっていたのがこの子。

そして上にはこの子。

ところで、土偶は現在見ると土色ですが、たまに赤い色が残っているのがありますよね。土偶は元々はこんな感じで真っ赤っかのものもあったと考えられます(左側が赤彩した復元品)。ただし、土偶の用途は多様であったと考えられるので、造った土偶をすべて赤彩したとは言い切れません。

本稿では今のところ北陸の土偶をほとんど紹介していませんが、下の土偶は上越市の晩期土偶です。

そして、晩期の終り頃の東北では、遮光器土偶に代わって結髪(けっぱつ)土偶と呼ばれる土偶が流行します。

結髪土偶の優品は、秋田県立博物館にデュオでいますよ。

結髪土偶はその名の通り、髪を結っているイメージの造りなのですが、様々なヘアスタイルがあって面白いのです。

この二人の結髪土偶の故郷にあるジオスタ☆ゆざわにはレプリカが展示されているのですが、そちらだと土偶の後ろも観察することができます。
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晩期の山梨県では、縄文時代の終りを告げるような際立って風変わりな土偶が造られました。
土偶と呼んでよいのかもわからないような不可思議な作品で、その奇妙な見た目とは裏腹に「ちゅうたくん」というポップなニックネームが付いています。

フリーハンドで描かれた真ん中の渦巻きが良いですね。
紀元前10世紀には、九州で灌漑稲作が始まり、それが列島各地に普及していき弥生時代が始まりますが、興味深いことに、弥生時代になるとパッタリと土偶は造られなくなります。ただし、北東北の一部地域ではまだ土偶が造られており、ライフスタイルとの関係が予想されます。

弥生時代に作られたこの「奇跡の土偶」は、2000年に上半身が表採されたのですが、なんとその9年後に下半身が表採され、見事に接合した土偶です。そのため、「奇跡の土偶」と呼ばれています。
北東北では弥生土偶に会うことができますよ。


おわりに
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
ここまで見てくださった貴方はよっぽどの土偶好きなのでしょう。
そうであればすでに気づいていると思いますが、土偶の使い方に関しては、「分からない」というのが正確な答えで、時代や場所、そして土偶の種類によってさまざまな使い方があったことが容易に推察できると思います。
ですから、どこかの資料館や講演会などで、「土偶はこういう使い方をした!」というような断定的な説明を受けた時は疑ってください。
その人の説は、「ある時代のある場所のある形状の土偶」に関しては当たっているかもしれませんが、土偶すべてについて説明しているものではありません。
分からないことを考えるのが縄文時代の魅力ですから、皆さんも楽しく悩み、そして想像力で遊んでください。
