最終更新日:2024年5月27日
※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。
目次
大垣市
17.6
東町田墳墓群 SZ27
ひがしちょうだふんぼぐん
東町田墳墓群には説明板は設置されていない。
大垣市HPによると、東町田墳墓群では2基の円形墳丘墓と2基の方形周溝墓が確認されており、すべて築造時期は弥生時代終末期(庄内期)でほぼ同時期に築造されたとしている。
SZ27は、東町田墳墓群の中核をなす墳墓で、円形周溝墓とする資料もあるが、高さが3mほどあり、大垣市では現在は円形墳丘墓としている。
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90
矢道長塚古墳
やみちながつかこふん
4世紀後半ごろに築造された墳丘長90mの前方後円墳。
写真の通り素晴らしい遺物が出土している。
墳丘はいつもの逆パターンで、後円部が破壊されている。陪塚のように見える塚状の物は、後円部の削り残しで後円部の中心部分に当たる。
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100
粉糠山古墳
こぬかやまこふん
🅿なし
🚻なし
4世紀の終わりから5世紀の初め頃の築造とされる。
周溝・葺石・埴輪あり。前方後方墳としては、大きさは東海地方で1位、全国で10位。
墳丘は墓地となっており、古墳見学の楽しみを味わうことは難しい。
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20240123
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150
昼飯大塚古墳
ひるいおおつかこふん
🅿バッチリあり
🚻ちょっと離れた場所にあり
墳丘長150mを誇る岐阜県最大の前方後円墳。4C末の築造。
綺麗に整備されており見学しやすいが、整備の都合上本来の3段築成で整備されているのは後円部の一部のみ。後円部では、竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という3つの埋葬施設が検出された。
出土遺物の一部は、大垣市歴史民俗資料館に展示してある。
なお、墳頂からは関ヶ原合戦の要地が見渡せるため、墳頂で合戦の解説をすると聴く側も分かりやすいはず。関ヶ原合戦に興味がない人は残念でした。
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20240123
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大垣市歴史民俗資料館
大垣市青野町1180-1
0584-91-5447
9時~17時(16時30分)
火、祝の翌日休館
美濃国分寺跡の展示が豊富で大きなジオラマもある。大垣市のみならず美濃の古代史を知る上で必ず訪れるべき施設。古墳に関する展示も充実している。
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大野町

上磯古墳群
上磯古墳群は、3世紀後半から4世紀前半にかけて、3基の前方後方墳と1基の前方後円墳が契機的に築造された。

上図に記されている通り、それら4基の古墳のうち笹山古墳はすでに湮滅している。また、他の3基も墳丘の残りは良いとは言えず、現状では特に整備されているわけではなく、ヴィジュアル的に良くない。
現地にある説明板には最新の情報が反映されておらず、現在ではこの説明板を製作した時点よりも各古墳の造営時期が全体的に前にスライドしている感がある。

ただしこの説明板に、笹山古墳の東南にそれと同規模の前方後方墳の存在が明らかになってきたとあることは要注目だ。
2024年春に岐阜市歴史博物館で行われた「企画展 ここまでわかった! 岐阜の古墳」の展示パネルによると編年は以下の通りで、これが今のところ最新の研究成果ではないかと考えられる。


野古墳群
🅿バッチリあり
🚻なし
5世紀中葉から6世紀初頭にかけて造営された古墳群。そのうち、墳丘が残るのは下図の緑色の9基で、前方後円墳が多いのが特徴。その他、開墾等で墳丘が削平された8基の古墳が発掘調査によって確認されている。


築造時期に関しては、野古墳群のある大野町ミュージアムのヴィデオでは以下の通り。

また、2024年春に岐阜市歴史博物館で行われた「企画展 ここまでわかった! 岐阜の古墳」の展示パネルによると以下の通り。

このように研究者によってかなり見解が違う。解釈によって実年代の一致が見られないのは仕方がないとしても、築造順の前後が甚だしいのは一体どういうわけだろうか。
83
登越古墳(野4号墳)
野古墳群最大の古墳で、二重周溝を備えており、周溝を含めた全長は130m。主体部は未発掘。円筒埴輪や形象埴輪の破片が出土しており、5世紀中頃の築造。
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54
モタレ古墳(野1号墳)
前方部が失われているが本来は帆立貝形古墳。主体部は未調査。
周濠から円筒埴輪や朝顔型埴輪の破片が見つかり、TK23型式の須
恵器が出土していることから5世紀後半の築造と推定。
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20240523A
海津市

庭田貝塚
海津市南濃町庭田
🅿なし
🚻なし
縄文前期に集落の形成がはじまり、中期に貝塚が造られ始めた。岐阜県で唯一の海水産貝塚で、マガキを主としてアカニシ・ハマグリ・オオノガイ・イボニシなどがみられる。
出土遺物は海津市歴史民俗資料館に展示してある。
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羽沢貝塚
海津市南濃町羽沢
🅿なし
🚻なし
縄文晩期後半に貝塚が形成された。貝類はほとんどがヤマトシジミ。土器・石器・人骨・甕棺などが出土。
出土遺物は海津市歴史民俗資料館に展示してある。
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53
円満寺山古墳
海津市南濃町庭田
🅿霊園にあり
🚻霊園にあり
前期後葉の築造。三角縁神獣鏡2面と画文帯神獣鏡1面が出土。後円部は縦長。2段築成で葺石あり。
川原石を用いた竪穴式石室と木棺直葬の計2基の埋葬施設が見つかっている。
霊園内の登り口から5分ほど登ると到達できるが、雨の日は危ないかも知れない。
以前は天井石のなくなった竪穴式石室が露出していたようだが、現在は蓋がされており見ることができない。
出土遺物は海津市歴史民俗資料館に展示してある(銅鏡はレプリカを展示)。
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海津市歴史民俗資料館
海津市海津町萱野205-1
0584-53-3232
🅿あり
🚻あり
輪中について詳しく説明しているが、古墳と貝塚のブースがあって、そこそこの量の遺物の展示がある。
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各務原市

炉畑遺跡
ろばたいせき
各務原市鵜沼三ツ池町
6-342 炉畑遺跡公園
🅿あり
🚻あり
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82
柄山古墳
からやまこふん
各務原市那加柄山町154
🅿なし
🚻なし
4C後半~5C初頭(説)
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52
衣裳塚古墳
いしょうづかこふん
各務原市鵜沼羽場町2-244
🅿空安寺を参拝すれば可
🚻なし
4世紀後半の築造という説と、4世紀末から5世紀前半の間の築造という説がある。径52mあり、美濃では最大の円墳となるが、前方部が削平された前方後円墳との考えもある。
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120
坊の塚古墳
ぼうのつかこふん
各務原市鵜沼羽場町5-26
🅿後円部側の説明板前の狭いスペースに1台停められるが場所を間違えないように注意
🚻なし
4世紀末から5世紀前半の頃に造られた全長約120メートルの前方後円墳。岐阜県で2番目の大きさ。3段築成。
発掘調査が行われ、多量の葺石と埴輪が見つかった。後円部墳頂では石槨が見つかり、割竹形木棺が安置されていたと推定されるが、石槨は破壊されて盗掘にあっており、副葬品らしきものは無かった。墳丘斜面では盗掘の際に外されて転落した石室の天井石が見つ
かった。
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加佐美神社
かさみじんじゃ
各務原市蘇原古市場町5-1
🅿あり
🚻なし
未訪ではあるが、加佐美神社の東側には各務原市内で見つかった2基の弥生墳丘墓のうちの1基である加佐美山1号墳があるという。
加佐美山1号墳は、一辺15mほどの方形をなしており、前方後方形との説もある。
加佐美山1号墳の立地は、それまでの墓とは異なり、集落とは隔絶した丘陵上に造られており、村のリーダーの権力がさらに向上してきたことが分かる。
主体部は未確認だが、墳丘東側には竪穴状遺構があり、その床面直上からは、儀礼に供したと考えられる高杯・甕・鉢などが見つかり、時期的には山中Ⅱ式に位置付けられ、赤塚次郎氏は2世紀初頭の築造としている。
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各務原市歴史民俗資料館
かかみがはられきしみんぞくしりょうかん
各務原市那加門前町3-1-3 中央図書館3階
058-383-1361
月曜定休
🅿あり
🚻あり
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可児市
72
長塚古墳
可児市中恵土1990-1
古くから「前波の三ツ塚」と呼ばれている3基の古墳があり、西寺山古墳、野中古墳、長塚古墳の順で4世紀半ばから後半にかけて相次いで築造された。
長塚古墳の墳丘長は72mあり、可児市内のみならず東美濃で最大の二段築成の前方後円墳。
埴輪は確認されていない。長塚古墳よりも古い西寺山古墳には葺石が施されていたが、長塚古墳
では葺石は確認されていない。周溝を掘った際の土で墳丘を構築している。
平成7~9年に発掘調査がされており、後円部と前方部にそれぞれ1基ずつ埋葬施設が見つかっており、後円部では粘土槨を検出したが、未開封(未盗掘)のようで、それ以上は掘っていない。前方部には船底型を呈する木棺が直葬されていたようだ。
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20201225
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62
野中古墳
可児市中恵土1977ほか
墳丘の3分の2が失われている。復元すると2段築成で墳丘長は62mとなり、葺石で覆われていた。
明治時代と戦中の土取りの際に、後円部に2基の石槨が見られたということだ。

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60
西寺山古墳
可児市中恵土1944(弘福寺)
弘福寺境内にある4世紀半ばに築造された墳丘長60mの前方後方墳。2段築成で葺石あり。
この時代の可児では円筒埴輪は並べられず、墳丘には朱塗りされた二重口縁壺(壺形埴輪)が並べられていた。
主体部の発掘調査はされていないが、平成10年に後方部をレーダー探査で調査し、石槨があることが分かっている。
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36
身隠山御嶽古墳
みかくしやまおんたけこふん
築造時期は、長塚古墳と同じ頃とされている。地形がダイナミックに改変されているため、見る際は要注意。なお、身隠山古墳群から出土した遺物は、トーハク平成館に展示してある。
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42
身隠山白山古墳
可児市内の身隠山の丘陵上にはかつては多数の古
墳があったようだが、現在は身隠山白山古墳と身隠山御嶽古墳が残るのみ。
白山古墳の築造時期は、野中古墳と同時期とされている。

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20211001C
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30
熊野古墳
7世紀前半に築造された円墳。規模は径30mに復元される。横穴式石室の残存長は13.32m。
金銅装大刀が出土し、石室の規模や巨石の使用から、同時代の可児地方の首長墓と考えられる。
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29.5
次郎兵衛塚1号墳
一見、上円下方墳に見えるが、一辺29.5mの2段
築成の方墳で、7世紀初頭の築造。
3基の横穴式石室を備えており、向かって左から西副室、主室、東副室と呼ぶ。
築造当初は主室のみだったのが、少し後に西および東副室を増築しており、東副室は子供用と考えられている。
主室の全長は15.5mある。
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川合考古資料館
可児市川合北2-14
0574-63-4339
1990年から翌年にかけて行なわれた川合地区の発掘調査によって出土した縄文土器や古墳からの遺物を展示。稲荷塚1号墳の石室の復元もあり、小規模ながら見ごたえのある施設。


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可児郷土歴史館
可児市久々利1644-1
0574-64-0211
可児市内の遺跡から出土した考古遺物を展示。前波の三ツ塚に関する展示もあり、市内久々利地区で出土した立派な銅鐸も展示。可児市内には明智光秀ゆかりの明智城跡を始め多くの中世城郭跡があるため、城関係の展示も多く、また、美濃焼の展示コーナーもある。


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岐阜市

瑞龍寺山頂遺跡
岐阜市上加納山
岩盤を刳り抜いて長方形の穴を2基構築。その一つからは、弥生時代後期の土器や墳墓から出土することのある長宜子孫銘雷雲文連弧文鏡(内行花文鏡)が見つかり、山中Ⅰ式の土器を伴っていた。内行花文鏡は舶来品で、破砕鏡とされている(現品は国立歴史民俗博物館所蔵ということだが、同館で撮影してきた写真の中にはなかった)。
現状では、濃尾平野で最初の特定個人墓とされる。その時代は西暦100年くらいとの考えがあるが、赤塚次郎氏はもっと古く、1世紀半ばくらいと考えているようだ。もしそうであれば、吉備の楯築墳丘墓や出雲の西谷墳墓群よりも格段に早い。
北部九州ではすでに特定個人墓が築造され、古墳時代への助走が始まっていたが、濃尾平野でも「最初の王」が誕生していたのだ。
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115
琴塚古墳
岐阜県で3番目に大きい古墳。
二重周溝を備え、内堀は広く中堤も見事。
景行天皇の妃・五十琴姫命の墓と伝承されている。
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関市
関ケ原町

野上行宮跡
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若宮八幡神社
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真念寺
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山内一豊陣跡
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徳川家康最初陣地(桃配山)
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本多忠勝陣跡
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松平忠吉・井伊直政陣跡
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田中吉政陣跡
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徳川家康最後陣地
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東首塚
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岐阜関ケ原古戦場記念館
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高山市
赤保木遺跡

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赤保木2号墳

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赤保木3号墳

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赤保木4号墳

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高山市風土記の丘学習センター


写真撮影NG
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こくふ交流センター


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久々野歴史民俗資料館


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垂井町

金蓮寺(足利春王丸安王丸処刑の旧蹟)
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春王・安王の墓
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池田輝政陣跡
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浅野幸長陣跡
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蒼野ヶ原(青墓)一里塚跡
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一里塚跡.jpg)

垂井一里塚
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日守の茶所
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タルイピアセンター・歴史民俗資料館
古代に関しては美濃国府跡や古代寺院跡の展示が豊富で、竹中半兵衛の故郷なので戦国関係も充実している
垂井町垂井町2443-1
10:00~18:00
月曜休館


20211022A
【食事】台湾料理 盛華
垂井一里塚近くの国道沿いにあってメニューも豊富
岐阜県垂井町810-6
0584-22-3931


富加町
御嵩町
41.5
高倉山古墳
御嵩町伏見
伏見古墳群
🅿なし
🚻なし
尾根と切断して前方部を造り出している前方後方墳。段築無し。葺石は見つかっていない模様。
伏見古墳群の築造順は、高倉山→東寺山2号墳→東寺山1号墳と考えられる。
墳丘に近づけなかった。
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美濃加茂市
【ラーメン】岐阜タンメン 美濃加茂店
美濃加茂市蜂屋町上蜂屋字石塚3501-21
0574-58-7146

本巣市
船来山68号墳

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古墳と柿の館
本巣市上保1-1-1 富有柿の里
058-323-9333
9:00~16:00
月曜休館


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20240523A
養老町

象鼻山古墳群
ぞうびざんこふんぐん
養老町橋爪
🅿なし
🚻なし
濃尾平野のみならず、東日本全体の古墳時代の始まりを考える上で非常に重要な大規模古墳群。1990年の段階で、象鼻山の山頂から山腹にかけて、前方後方墳2基、方墳17基、円墳40基、形状不明3基の合計62基が判明していたが、現在は70基が確認されているようだ。築造時期は、2世紀前半に築造された3号墳を皮切りに、後期にまで及ぶ。
南麓に登山口がある(位置は下図参照)。

登山口の扉は閉まっているが自由に開閉できる。駐車場がないため、近くで交通の妨げにならない場所を見つけて停めるとよいが、交通量が多い道なので、道路を渡るときは車に轢かれないように注意しよう。
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上図の通りに道がついており、登り始めは古墳はないが、数分登ると最初の古墳が見えてきて、さらに数分で3号墳の隣にある東屋に到達する。

東屋には説明板が設置されている。



山頂付近の古墳の方が規模が大きく、綺麗に整備されていて、とても素敵な古墳ポコポコ地帯だ。


2024年5月に訪れた時は、1号墳付近にシカがいるのを目撃。

象鼻山の麓には獣除けのフェンスが張り巡らされているようだが、彼らには関係ないようだ。
86.4×70
象鼻山3号墳
現地説明板では、方墳のマークが付いているが、赤塚次郎氏によると、なんと下段が86.4×70mもある上円下方形の墳墓だという。しかも、築造年代は2世紀前半としている。
それが事実であれば、吉備の楯築墳丘墓や出雲の西谷墳墓群と同じ時代に、ここ濃尾平野でもそれと同等以上の巨大墳墓が構築されたことになる。そしてその時代は、巨大集落である朝日遺跡が衰退する時期と重なり、地震や水害などの自然災害にも見舞わられた時期とも重なる。
象鼻山3号墳は、濃尾平野の新たな時代の幕開けと共に築造された画期的な墳墓である。
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40.4
象鼻山1号墳
濃尾平野では2世紀末に西上免遺跡SZ01が築造され、本格的な前方後方墳の時代が始まるが、それから半世紀少し遅れた3世紀中葉には、西上免遺跡SZ01と同規模の象鼻山1号墳が築造された(現地説明板では3世紀末の築造とする)。
不思議なことにこれに先行する3号墳や4号墳は象鼻山のピークには造られておらず、ようやく1号墳の築造によって、墳墓がピークに選地された。
そうすると、実は1号墳より前に象鼻山の山頂にすでに墳丘墓が築造されていたのではないかとの疑いが生じてしまう。
墳頂からの眺望は素晴らしいが、角度的に昼飯大塚古墳は見えない。
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20240522A