※本記事は草案です。

 本講座では日本書紀に記されていることを紹介しつつ、それをどう解釈するか、先学の研究成果と自分自身の考察を交えて紹介していきます。あくまでも、ここの記されたことは一つの考えに過ぎないことを前提の上お読みください。

 まず、良く知られている通り、日本書紀のリリースは720年で、この時代の歴史の1次史料ではなく、かなり時代が離れている。天皇という称号も7世紀後半の天武天皇のときに確立された説が有力で、日本書紀に記されている天皇のほぼ全員は、当時は天皇とは呼ばれていない。また、崇神というのは亡くなった後に贈られる諡号であり、しかも漢風諡号といって奈良時代の確立である。実際にリアルタイムで何という名前で呼ばれていたのかは、各天皇の記事にある本名らしきものがヒントになる。

 

崇神紀の概要

 崇神紀における崇神天皇の事績を列挙すると以下の通り。

 ① 崇神天皇即位
 ② 大物主神顕る
 ③ 四道将軍の派遣と武埴安彦の挙兵
 ④ 倭迹々日百襲姬の神婚と箸墓の築造
 ⑤ 御肇国天皇誕生と出雲の屈伏

 崇神が活躍した時代はいつだろうか。崇神紀には、箸墓の築造記事があることから、それを箸墓古墳と見て、近年では箸墓古墳の築造は3世紀半ばとする説が幅を利かせていることから、なんとなくその頃に活躍していた天皇というイメージが強い。そのため、崇神即位の干支である甲申を機械的に西暦に直した場合は、204年あるいは264年がそれに相応しいという理論になると思う。

 ただし、この干支は信用できない。書紀を編纂した時に、神武天皇の即位干支を決めたが、それをベースにして後の時代の天皇の事績に干支を当てはめて行ったのだろう。では、崇神紀には崇神が活躍した年代を決定させるような事績はあるかというとそれはない。そうすると、私たちからすると歴史書なのにいつのことが記されたものなのか分からなくなってしまう。でもそれは私たちの感覚、というか願望であって、書紀の編纂者は知ったこっちゃない。

 では、他の天皇で実年代が分かるヒントはないだろうか。それは、後述するが、神功皇后の記事にある。神功皇后を一つの基準として考えつつ、纒向遺跡の突然の発展と畿内における前方後円墳の築造ラッシュという考古学的成果を併せ、崇神天皇のハツクニシラスという称号を考えると、崇神天皇の活躍年代は3世紀半ば以降と考える。なお、後述する通り、崇神5年に大変な疫病に見舞われ民の半数が死んだとあるが、尾瀬ヶ原泥炭地の花粉分析によると246年以降、日本列島は寒冷化傾向にあり、疫病が発生しやすくなっていた可能性がある。

 この時代の歴史はまだ文字に残される段階ではなかったと考えている。ただし、世界の部族を見渡すと、口伝によって自分たちの歴史を伝承する文化が見られることから、この段階は口伝による歴史の伝承があって、その中でも崇神という人は画期的な王であったということが伝承されたのだろう。

 文字に残されていないということは詳細な歴史は伝わらなかったと考えていいが、日本書紀には以下に述べる通り、詳細な歴史が伝わっている。それらはコアになる部分は伝承によって伝わったことで、それに後世になって尾ひれが付いたものが多いのだろう。さらに時代が違うものを編集の方針によって挿入した場合もあるだろうし、政治的な意図をもって架空の話を挿入した場合もあるだろう。それらのことを念頭に置きつつ、詳細に日本書紀を読み解いていきたい。

 また、重要なことはこの時代の支配体制がほとんど分かっていないことで、王権がどのようにして政治を運営していたのかが分からない。日本書紀で使われている政治用語は、書紀編纂の段階で整えられた用語であるので、リアルタイムで使われていないものが多い。

 

① 崇神天皇即位

①-1 崇神天皇生誕

【原文】
御間城入彥五十瓊殖天皇、稚日本根子彥大日々天皇第二子也。母曰伊香色謎命、物部氏遠祖大綜麻杵之女也。天皇年十九歲、立爲皇太子、識性聰敏、幼好雄略。既壯寛博謹愼、崇重神祇、恆有經綸天業之心焉。六十年夏四月、稚日本根子彥大日々天皇崩。

【ポイント】
・御間城入彥五十瓊殖天皇は、稚日本根子彥大日々天皇(第9代開化天皇)の第二子
・母は伊香色謎(いかがしこめ)で、物部氏の遠祖・大綜麻杵(おおへそき)の娘
・崇神天皇は19歳で皇太子に立った
・開化天皇60年夏4月、開化天皇が崩じた

 

①-2 崇神天皇の即位と后妃および子

【原文】
元年春正月壬午朔甲午、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。二月辛亥朔丙寅、立御間城姬爲皇后。先是、后生活目入彥五十狹茅天皇・彥五十狹茅命・國方姬命・千々衝倭姬命・倭彥命・五十日鶴彥命。又妃、紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛一云、大海宿禰女八坂振天某邊、生豐城入彥命・豐鍬入姬命。次妃尾張大海媛、生八坂入彥命・淳名城入姬命・十市瓊入姬命。是年也、太歲甲申。

【解説】
崇神天皇は開化天皇が崩御した翌年に皇位に即いた
上記を系図に表したものを次ページに記載
皇位に即いた歳の実年代については後述

 

①-3 崇神天皇の妃・子の系図

①-4 御間城姫

紀では、御間城姫(みまきひめ)の出自について記載がないが、記では名を御真津比売とした上で大毘古の娘とある
⇒大彦(古事記では大毘古)は、第8代孝元天皇の子なので、系譜上は崇神の伯父にあたり、御間城姫はイトコにあたる
記での妃の記載順は、遠津年魚目目微比売(とおつあゆめまぐわしひめ)、意富阿麻比売(おおあまひめ)、御真津比売の順であるので、紀で后とされる御間城姫の序列が気になる
⇒ただし、3名の妃の中で御間城姫の父である大彦の勢力のみが倭の勢力であることを考えると后は御間城姫と考えるのが妥当であろう
⇒今回は述べないが、私は第8代の孝元天皇以前は葛城の在地勢力と考えており、大彦はその流れを汲む現在の桜井市南部を治めていた勢力と考えられ、桜井茶臼山古墳の被葬者の可能性がある

 

①-5 遠津年魚眼眼妙媛

記では、親の名前は荒河戸畔だが、「とべ」は女性に付けられる称号のようなものなので、荒川戸畔は、紀国(のちの紀伊国)の女性首長であった可能性が高い
紀伊の荒川戸畔は、葛城地方を経由して紀ノ川流域を抑えるために重要なパートナー

 

①-6 尾張大海媛

紀では、尾張大海媛の出自について記載がない
記によると、名前は意富阿麻比売(おおあまひめ)で、尾張連の祖とあり、通常であれば祖にあたる父親の名を挙げてその娘と記載するところが、富阿麻比売自身が祖となっている
尾張に関しては、纒向遺跡の外来土器の半分が東海の土器であることからわかる通り、マンパワーの供給源として非常に重要なパートナー

 

①-7 大入杵の謎

 崇神天皇の子らのなかで、なぜか大入杵のみ、日本書紀に登場せず古事記のみに登場する
古事記では能登臣の祖とされているが、名前のみの登場で具体的な事績はない
元々能登臣は崇神天皇の後裔との伝えがあったと考えられるが、日本書紀編纂時の7世紀末から8世紀初の時点で、不都合があった可能性がある
⇒斉明紀では能登臣馬身龍は名誉の戦死を遂げているが、その後継者が663年の白村江の戦いで不手際があったか?
⇒令制の能登国が最初に成立したのは、日本書紀が完成する間際の養老2年(718)5月2日で、それまでは能登は越前国に含まれていた

 

リアル日本書紀探訪 小田中親王塚古墳

石川県鹿島郡中能登町小田中
大入杵の陵墓参考地として宮内庁が管理している
径64m、高さ15mの円墳で、円墳として北陸最大級
三角縁神獣鏡や玉類、腕輪形石製品などが出土し、築造時期は4世紀中頃と考えられている

 

リアル日本書紀探訪 小田中亀塚古墳

小田中親王塚古墳のすぐ隣にあり、宮内庁により「大入杵命墓飛地い号」として管理されている
現状は墳丘長61mの前方後方墳だが、後方部の端部は削られている可能性があり、その場合は復元長は約72mとなる
集成編年は2期で、葺石を備える

 

リアル日本書紀探訪 八坂入彦の墓

岐阜県可児市久々利
陵墓参考地として宮内庁が管理
大萱古墳と呼ばれ中期の方墳とされるが、一辺は数メートルほどしかなく、本当に古墳なのか疑わしい
八坂入彦命には、娘が二人いたが、第12代景行天皇が美濃へ行幸した際、弟媛の代わりに八坂入媛を妃として召し抱え、八坂入媛は第13代成務天皇を生んでいる
⇒これに関しては本講座の景行天皇の段で再度取り上げる予定

 

①-8 磯城瑞籬宮に遷都

【原文】
三年秋九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮。四年冬十月庚申朔壬午、詔曰「惟我皇祖・諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎。蓋所以司牧・人神、經綸天下。故能世闡玄功、時流至德。今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。」
古事記では、坐師木水垣宮

 

リアル日本書紀探訪 磯城瑞籬宮跡伝承地

奈良県桜井市金屋にある志貴御県坐(しきのみあがたいます)神社が伝承地

 

② 大物主神顕る

国内に疫病が蔓延

【原文】
五年、國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。

疫病が蔓延し百姓が流浪したり背いたりして徳を以ても治められなくなった

 

天照大神と倭大国魂

【原文】
先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂神、託渟名城入姬命令祭、然渟名城入姬、髮落體痩而不能祭。

【意訳】
天照大神と倭大国魂を大殿内に並べて祀っていたが、共に住むのに不安になったため、天照大神は豊鍬入姫に命じて倭笠縫村に祀り、日本大国魂神は、渟名城入に命じて祀らさせたが、姫は髪が抜け痩せ細り祀ることができなかった

 

リアル日本書紀探訪 倭笠縫村

奈良県桜井市の神社が、倭笠縫村の伝承地とされている

 

リアル日本書紀探訪 大倭神社

奈良県桜井市

悩める崇神天皇

【原文】
七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰「昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意今當朕世數有災害、恐朝無善政、取咎於神祇耶、蓋命神龜以極致災之所由也。」於是、天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰神也。」答曰「我是倭國域內所居神、名爲大物主神。」

 

大物主神登場

【原文】
時、得神語隨教祭祀、然猶於事無驗。天皇、乃沐浴齋戒、潔淨殿內而祈之曰「朕、禮神尚未盡耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。」是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主神曰「天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。」

 

大田田根子

【原文】
秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神淺茅原目妙姬・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢而奏言「昨夜夢之、有一貴人誨曰『以大田々根子命爲祭大物主大神之主、亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神主、必天下太平矣。』」天皇、得夢辭、益歡於心、布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。」天皇曰「朕當榮樂。」乃卜使物部連祖伊香色雄爲神班物者、吉之。又卜便祭他神、不吉。

 

【原文】
十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄而以物部八十平瓮作祭神之物。卽以大田々根子爲祭大物主大神之主、又以長尾市爲祭倭大國魂神之主。然後、卜祭他神、吉焉。便別祭八十萬群神。仍定天社・國社及神地・神戸。於是、疫病始息、國內漸謐、五穀既成、百姓饒之

 

高橋邑の人・活日

【原文】
八年夏四月庚子朔乙卯、以高橋邑人活日、爲大神之掌酒。掌酒、此云佐介弭苔。冬十二月丙申朔乙卯、天皇、以大田々根子令祭大神。是日、活日、自舉神酒、獻天皇。仍歌之曰、

許能瀰枳破 和餓瀰枳那羅孺 椰磨等那殊 於朋望能農之能 介瀰之瀰枳 伊句臂佐 伊久臂佐

 

リアル日本書紀探訪 活日神社

大神神社の神宮寺

【原文】
如此歌之、宴于神宮。卽宴竟之、諸大夫等歌之曰、

宇磨佐開 瀰和能等能々 阿佐妬珥毛 伊弟氐由介那 瀰和能等能渡塢

於茲、天皇歌之曰、

宇磨佐階 瀰和能等能々 阿佐妬珥毛 於辭寐羅箇禰 瀰和能等能渡烏

卽開神宮門而幸行之。所謂大田々根子、今三輪君等之始祖也。

【原文】
九年春三月甲子朔戊寅、天皇、夢有神人誨之曰「以赤盾八枚・赤矛八竿、祠墨坂神。亦以黑盾八枚・黑矛八竿、祠大坂神。」四月甲午朔己酉、依夢之教、祭墨坂神・大坂神。

崇神9年は、272年。272年正月には垂仁が即位している

 

③ 四道将軍の派遣と武埴安彦の挙兵

四道将軍の派遣

【原文】
十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。

北陸は大彦
東海は武渟川別 ・・・ 「別」の称号
西道は吉備津彦
丹波は丹波道主

古事記の将軍派遣

【原文】
又此之御世、大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴自麻下五字以音人等。又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠。此人名者也。玖賀二字以音。

大毘古を高志道へ、その子建沼河別を東方十二道へ向かわせて、まつろわぬ人らを和平に令し、また、日子坐王を丹波国へ遣わし、玖賀耳之御笠を殺した

吉備津彦

古事記では、西道方面への派遣が記されておらず、吉備津彦に関しては、第7代孝霊天皇の時に
孝霊天皇が娶った春日之千千速眞若比賣が生んだ比古伊佐勢理毘古命がまたの名を大吉備津日子命といい、また蠅伊呂杼が生んだ若日子建吉備津日子とともに吉備を平定したとある
吉備はヤマト王権発足時の主要メンバーであると考える立場からすると、崇神天皇の時の将軍派遣は、東日本のみであると考えられ、古事記の既述の方がただしいと考える

不思議な童女

【原文】
壬子、大彥命、到於和珥坂上、時有少女、歌之曰、一云、大彥命到山背平坂、時道側有童女歌之曰、
瀰磨紀異利寐胡播揶 飫迺餓鳥塢 志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望
一云「於朋耆妬庸利 于介伽卑氐 許呂佐務苔 須羅句塢志羅珥 比賣那素寐須望」

武埴安彦の謀反を知る

【原文】
於是、大彥命異之、問童女曰「汝言何辭。」對曰「勿言也、唯歌耳。」乃重詠先歌、忽不見矣。大彥乃還而具以狀奏。於是、天皇姑倭迹々日百襲姬命、聰明叡智、能識未然、乃知其歌怪、言于天皇「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞、武埴安彥之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖、必後之。」

武埴安彦の挙兵

【原文】
於是、更留諸將軍而議之。未幾時、武埴安彥與妻吾田媛、謀反逆、興師忽至、各分道、而夫從山背、婦從大坂、共入欲襲帝京。時天皇、遣五十狹芹彥命、擊吾田媛之師、卽遮於大坂、皆大破之、殺吾田媛、悉斬其軍卒。

武埴安とその妻・吾田媛は謀反をおこし、道を分けて軍隊を派遣、武埴安は山背方面から、吾田媛は大坂方面から都へ攻め込もうとした。天皇は五十狹芹彥を遣わし、吾田媛の部隊を撃ち、大坂においてこれを破り、吾田媛を殺害し、その兵士をことごとく斬った。
吾田は、五條市に阿田という地名がある
五十狹芹彥は、吉備津彦の別名

彦国葺出撃

【原文】
復遣大彥與和珥臣遠祖彥國葺、向山背、擊埴安彥。爰以忌瓮、鎭坐於和珥武鐰坂上。則率精兵、進登那羅山而軍之。時官軍屯聚而蹢跙草木、因以號其山曰那羅山。蹢跙、此云布瀰那羅須。更避那羅山而進到輪韓河、與埴安彥、挾河屯之、各相挑焉、故時人改號其河曰挑河、今謂泉河訛也。

彦国葺は和珥臣の遠祖だが、その一族が大彦の命によって派遣されたとことは、大彦の影響下の一族と言える

戦闘

【原文】
埴安彥、望之、問彥國葺曰「何由矣、汝興師來耶。」對曰「汝逆天無道、欲傾王室。故舉義兵、欲討汝逆、是天皇之命也。」於是、各爭先射。武埴安彥、先射彥國葺、不得中。後彥國葺、射埴安彥、中胸而殺焉。其軍衆脅退、則追破於河北、而斬首過半、屍骨多溢、故號其處、曰羽振苑。亦其卒怖走、屎漏于褌、乃脱甲而逃之、知不得免、叩頭曰「我君。」故時人、號其脱甲處曰伽和羅、褌屎處曰屎褌、今謂樟葉訛也、又號叩頭之處曰我君。叩頭、此云迺務。

武埴安彦とは誰か

武埴安彦は、第8代孝元天皇と河内青玉繋の娘・埴安媛(はにやすひめ)との間に生まれた皇子
葛城系の皇子で、山背に所領があったと考えられる
京都府精華町のいずもりでは武埴安彦の首が切られたと伝わっており、石碑が建てられている。

椿井大塚山古墳

墳丘長175mを誇る木津川流域最大の前方後円墳
築造時期は、集成編年1期(3世紀後半)
主体部は石槨内に割竹形木棺を安置
32枚の三角縁神獣鏡を副葬

大彦の墓

桜井市の桜井茶臼山古墳(大彦の娘・御間城姫の墓か)
長野県の川柳将軍塚古墳

④ 倭迹々日百襲姬の神婚と箸墓の築造

⑤ 御肇国天皇誕生と出雲の屈伏

古墳