最終更新日:2023年2月17日

 本稿は、平将門について知る上での根本史料と言っても良い「将門記」をもとに1万字程度にまとめた文章です。

 2013年に当時やっていたサイト上に発表した文章で、今読み返すと、将門が出世できなかった原因を「躁うつ病」のためと推測していたりして、変な点もありますが、敢えて手直しはしないで公開します。今は将門が時折不調になる原因は、「将門記」にも記されている通り、「脚の病」ではないかと考えています。

 なお、根本史料の読解に関しておかしな点を見つけた場合は教えてください。

 ※系図はテキストで打っているため、閲覧する環境によっては形が崩れます。

 

目次

第1回 将門の闘いの始まり

第2回 一族内で孤立する将門

第3回 将門と貞盛との決定的な決裂

第4回 将門と興世王との運命的な出会い

第5回 平将門の乱の勃発

第6回 平将門の乱とは何だったのか

 

 

第1回 将門の闘いの始まり

 「平将門の乱」を簡単に説明すると、下総(茨城県・千葉県)・常陸(茨城県)方面に勢力を張っていた、桓武平氏の平将門の一族が、一族内でいざこざを起こし、それが発展して天慶2年(939)に将門は国家に対して反逆を起こすことになり、結果的に将門は坂東(関東地方)を制覇して「新皇」と称して日本からの独立宣言を行い、日本国家からの褒賞に期待を寄せて出陣した下野(栃木県)の有力者・藤原秀郷や将門の従兄弟で父を将門によって殺されている平貞盛(平清盛の先祖)らが将門を討ち滅ぼして解決するという古代史上最大規模の反乱である。

 「平将門の乱」の正確な時期については、将門が国家に対して反逆をおこした天慶2年(939)11月から将門が討たれた翌年の2月までを指し、その前段階の将門一族の「私闘」の段階を「乱」には含めないという考えに私は賛成するが(そういう「私闘」は坂東では日常茶飯事だったため)、ことの経緯を説明するために、将門一族の「私闘」から取り上げてみようと思う。

 まず、将門の系図を以下に示す。

桓武天皇―――葛原親王―+―高棟王
            |
            +―高見王―+
                  |
+―――――――――――――――――+

+―高望王―+―国香―――貞盛―――維衡―――正度―――正衡―+
      |          (伊勢平氏)        |
      +―良兼―+―公雅                |
      |    |         +―――――――――+
      |    +―公連      |
      |    |         +―正盛―――忠盛―――清盛
      |    +―女
      |      |
      +―良将―――将門
      |(良持)
      |
      +―良正
      |
      +―良文
       (関東<坂東>八平氏の祖)

 将門らは桓武天皇の子孫とされているので、通常「桓武平氏」という呼び名でくくられる。

 当時、天皇家の子供の中には、臣籍降下といって、天皇家の財政上の問題もあって(要するに口減らしのため)家臣にされてしまう者がいたのだが、高望王もその一人で、平朝臣の氏姓を授けられ臣籍に降ったとされている。

 なお、高見王と高望王の父子は同時代の史料には現れず、南北朝時代から室町時代にかけて作られた『尊卑分脉』という系図集や、それ以外の信憑性の高くない各種系図に記載されている人物に過ぎない。

 つまり、将門ら高見王・高望王の流れは桓武天皇の子孫とされているわけだが、史料的裏付けは取れないということである(ちなみに、高見王の兄弟の高棟王は、正史である『日本三代実録』に現れ、子孫も都で活動し、清盛の妻の時子もその子孫である)。

 将門の本当の出自については今後も探究する必要があるが、ここでは高見王・高望王の流れの将門らは桓武天皇の子孫という「公式の見解」に従うことにして、これ以上は探りを入れないことにする。

 さて、将門と一族との争いの発端は、将門の反逆の8年前の延長9年(931)に、将門が伯父の良兼と「女論」によって不和になったことから始まる。

 その「女論」についての詳しいことは史料がなくて分かっていないのだが、将門は良兼の娘を妻としていたので、その妻が関係していると考えられ、一部の研究者は良兼が娘と将門の結婚を反対したのが不和の理由だとしている。

 単純に「不和」といっても口げんか程度で済むものではなく、将門とその伯父であり義父である良兼の不和はお互い兵を率いて争う合戦に発展した。

 当時の地方社会のリーダーたちは、「力こそが正義」だと思っており、屈辱を加えられた場合は、すぐに腕力を示すというのが普通だった。

 かくして、女性問題を発端として、将門は一族との争いを始めた。

 そしてこの争いはこの後、より一層深刻の度を増していき、最終的には関東一円を巻き込む「平将門の乱」へと発展することになる。

 

 

第2回 一族内で孤立する将門

 前回述べた延長9年(931)の「女論事件」よりも前、将門やその従兄弟の貞盛は、ともに都に出て出世の道を模索していたが、将門はついに位階や官職を得ることがなく、おそらく父の死によってだと思われるが、故郷の下総に帰った。

 当時の中央の権力者は、延長8年(930)に朱雀天皇の摂政になった藤原忠平だったが、将門は少年の頃に忠平に名簿(みょうぶ)を差し出している。

 名簿とは名刺のようなもので、それを差し出すということは、臣下の礼を取るということだ。

 ということは、将門には中央とのコネがあったということになるが、なぜ将門は少しの位階に叙せられることもなかったのだろうか。

 そのわけは、将門に重大な弱点があったからだと思われる。

 その弱点とは、心身の健康状態ではあるまいか。

 現代でいう「躁うつ病」だったのかもしれない。

 「躁うつ病」であれば、厳しい勤務の場合は安定して業務の結果を出したり、毎日淡々とコンスタントに勤務をこなすことができない。

 将門は公務に携わったことは少しあったようで、『尊卑分脉』に「瀧口小二郎」と記載されていることから、瀧(滝)口の武士に任じられていたと考えられる。

 滝口の武士とは、清涼殿の滝口に詰めて禁中の宿直警固にあたる職だ。

 おそらく調子の良し悪しがはっきりしていた将門は、滝口の武士を務めた結果、実直さが必要な朝廷の服務に適さない人物だと評価され、それで官位に付けなかったのではないだろうか。

 もちろん滝口の武士も長く務まらなかったと思われる。

 これら将門の体調に関する話は推測に過ぎないが、ともかく理由は何であれ、将門は藤原忠平という有力なコネを持っていたにもかかわらず何の官位にも付けず、故郷に帰ってきたのは事実である。

 その後、延長9年(931)の「女論事件」を経て、将門は父良将の遺領問題に関して伯父の良兼としっくり行っていなかった。       

 本来であれば良将の遺領問題に良将の兄の良兼が口を出すことではないと思うが、それがなされたということは、やはり将門に上述のような健康上の懸念があり、それを口実にして良兼が乗っ取りを画策したのではないかと思われる。

 そんな将門に、承平5年(935)、平真樹(たいらのまさき)という平姓を名乗ってはいるものの出自が不明な人物が、将門と利害が一致するということで、国香や源護(みなもとのまもる)らを討とうと話を持ちかける。

 源護は前常陸大掾(大掾<だいじょう>は通常三等官だが、常陸国の場合は次官)で、名前が一文字のことから嵯峨源氏か仁明源氏だと考えられるが、出自は不明だ。

 その護は、将門の父の兄弟の国香、良兼、良正を娘婿に持っていた。

 将門の一族の中で勢力を持っている伯叔父たちは皆、護を介しても一致団結していたのである。

 それに対して、将門は一族内で完全に孤立している。

 伯叔父たちは皆で結束して、将門排除を目論んでいたのである。

 そういう雰囲気を察していたのか、将門は真樹の提案に乗り、国香・護らと戦うことにした。

 結果は、将門軍の勝利で、国香や護の息子扶・隆・繁らは討死した。

 そして2月4日をもって、将門は敵方の支配下の住民たちの家をことごとく焼きうちにした。

 いつの時代でも合戦に放火はつきものだが、当時の合戦は、敵を倒した後にその土地を活用しようなどとは考えずに、完全に燃やしてしまうのが普通であった。

 さて、そのころ将門の従兄弟の貞盛(国香の子。清盛の先祖)は都で活躍しており、無位無官であった将門とは対照的に、左馬允(左馬寮の三等官)という武人らしい官職に付いていた。

 貞盛は父の戦死を聞いて、急ぎ帰郷する。

 そして、焼き尽くされた故郷を見て愕然とした。

 通常であればここで「父の仇の将門を生かしておけるか!」と、報復に出そうだが、貞盛は違っていた。

 「将門は本来の敵ではない。父が死んだのは縁族である源護一族の縁に引っ張られただけだ。自分は今は官職についている。やはり都へ戻って中央で頑張ろう。将門とは互いに協力し、天下にその名声を馳せるようにしたい」と思い、それらの気持ちを認めて将門に手紙を送った。

 これにより、将門と貞盛は恨みを越えて和解に進むことになる。

 しかし、彼らの仲を引き裂く人物が現れる。

 長兄の国香や義父の源護の子ら(つまり従兄弟)を殺された、将門の父の兄弟、良兼と良正だ。

 最初、良正が護と提携して将門と戦うが、良正らはそれに敗れ、良正は兄の良兼を引きずり込んだというわけだ。

 良兼は既述した通り将門の義父で、下総介(下総国の次官)の地位にあり上総に住んでいた。

 その良兼に対して、どういう意図があってか、貞盛が面会してしまう。

 そして案の定、味方に付くように説かれた。

 つい先ごろ、将門に対して和解の手紙を送っておきながら、優柔不断な貞盛は良兼の説得を断りきることができず、良兼・良正勢に味方することにし、彼らは一体となって将門軍に襲いかかった。

 合戦は承平6年(936)10月26日、下野国との国境で行われ、将門軍が機先を制して繰り出した歩兵軍の活躍で将門軍が勝利し、良兼らは下野国の国府に逃げ込んだ。

 将門は良兼らを追って下野国府を囲んだが、義父の良兼を殺すのを忍びないと思い、囲みの一角を解いて良兼らを逃がした。

 さて、北関東でこのような合戦が行われている一方で、反将門陣営は、別の手を打ってきていた。

 さきに将門にコテンパンにやられた源護が、将門や真樹を朝廷に訴えていたのだ。

 裁判を受けるため、将門は都へ上ることになった。

 そこで将門はどのような論難に出くわすのだろうか。

 

 

第3回 将門と貞盛との決定的な決裂

 宿敵源護(みなもとのまもる)に訴えられ上京した将門は、検非違使庁で道理にかなった陳述に務めた。

 将門のことなので、おそらく自信たっぷりに堂々と振舞ったに違いない。

 その甲斐あってか処罰は重くなく、そればかりか、この一件で将門の武勇は畿内一円に知れ渡り、将門は面目を一新した。

 そしてそうこうしているうちに恩赦の発表があり、将門は自由の身になり、承平7年(937)5月11日をもって都を後にした。

 将門が赦免されて故郷の下総に帰ってくると、待ち構えていたのは伯父であり義父であり、そして敵でもある良兼だった。

 8月6日、良兼は高望王と将門の父良持の霊像を陣頭に掲げて攻めてきた。

 将門は用意不十分のため惨敗を喫し、良兼は将門の領地である下総国豊田郡来栖院常羽御厩(茨城県八千代町尾崎の官営の厩<うまや>)とその周辺の百姓の家々を放火して帰った。

 将門に経済的打撃を与える作戦だ。

 つづいて将門と良兼はまた戦うが、将門は「脚の病」を発症し意識が朦朧としてしまい、またもや良兼に負けてしまった。

 将門は逃れるときに妻子を猿島郡葦津江に隠した。

 良兼は上総に向けて帰ったが、将門の陣内から良兼に通じる者が出て、将門妻を誘拐し彼女の父である良兼のところに連れて行った。

 ところが、将門妻は将門への思いが募って仕方がない。

 いっそのこと、死んでしまおうかと思うほどだ。

 すると、それを見た将門妻の弟たちが一計を案じ、将門妻を将門のもとに逃げ帰らせた。

 将門も妻も大喜びだ。

 今も昔も心が通じあっている夫婦の愛の深さに変わりはない。

 それにしても、将門妻の心境は複雑だっただろう。

 父親と夫が干戈を交えているわけだから。

 その後、将門は常陸方面でまた良兼と戦うが勝てない。

 しかし、将門も単に自分の武力だけによってでなく、「公的な権力」を使って良兼らを滅ぼす計略に出ていた。

 11月5日、良兼・源護・貞盛・公雅(良兼の子)・公連(同)・秦清文らを追捕する官符(命令)が、武蔵・安房・上総・常陸・下野等に下されたのだ。

 これによって、上記の国々の兵士が良兼陣営の諸将を討つために出動するはずだ。

 将門はほくそ笑んだ。

 ところが、上記の国々は良兼陣営の武力を恐れて、兵を出そうとしない。

 将門の目論みは上手く行かなかったのだ。

 一方、良兼は将門の駆使(領内の支配下にある公民で使用人)である丈部子春丸(はせつかべのこはるまる)を使って、将門の本拠地である石井(茨城県坂東市岩井)の営所(軍事・営農拠点)を探らせて情報を手に入れ、夜討ちを仕掛けてきた。

 それに対して、将門勢の兵(つわもの。戦いの中心になる人)は10人もいなかったが、将門は冷静に対処し、良兼軍は上兵の多治良利(たぢのよしとし)を失うなど、40余名の戦死者を出して退いて行った。

 さて、貞盛はあいかわらず良兼に加担して将門と戦っていたが、その貞盛の心にも変化が生じ、貞盛は将門との泥沼の戦いが無益に感じられ、以前将門に手紙を送って志を述べたとおり、都に上って官吏として出世する方がよいと思い、承平8年(938)2月中旬、東山道を京へ向かった。

 しかしそれを察知した将門は激怒する。

 貞盛は都に上って俺の悪口を言いふらすつもりだろうと。

 将門は兵を率いて貞盛を追いかけ、なんと関東地方を出た信濃国(長野県)まで出向き、小県郡(上田市周辺)の国分寺のあたりで貞盛を捕捉した。

 元々兵を率いていない貞盛は多勢に無勢、まともに戦えるわけがない。

 貞盛は辛くも将門の刃を逃れ、なんとか都まで逃げおおせた。

 そして、もちろん太政官に将門の不法を訴えた。

 将門は、歯がみして悔しがった。

 さて、果たして将門はまたもや国家の犯罪人にされてしまうのだろうか。

 次回、将門は窮地を脱するためにある行動に出る。

 しかしその行動は結果的に裏目に出てしまい、時代は刻一刻と「平将門の乱」へと近づいて行くのだった。

 

 

第4回 将門と興世王との運命的な出会い

 当時、武蔵国足立郡(北は埼玉県鴻巣市から南は東京都足立区にかけて)の司に武蔵武芝(むさしのたけしば)という人がいた。

 武芝の家は代々足立郡を治めてきており、武芝も民に慕われる郡司かつ武蔵国の判官代だった。

 そこに新任の武蔵権守興世王(おきよおう。権守は国の長官の仮の官)と武蔵介源経基(みなもとのつねもと。介は国の次官)が着任した。

 経基は、源頼朝の先祖にあたる。

 清和天皇(あるいは陽成天皇)――○――源経基――満仲―+―頼光
                           |(摂津源氏)
                           |
                           +―頼親
                           |(大和源氏)
                           |
                           +―頼信――――+
                            (河内源氏) |
                                   |
 +―――――――――――――――――――――――――――――――――+
 |
 +―頼義―+―義家――――義親――為義―+―義朝―+―義平
      |(八幡太郎)        |    |
      |              +―義賢 +―頼朝
      +―義綱
      |(賀茂次郎)
      |
      +―義光
       (新羅三郎)

 着任した興世王と経基は、武蔵国の長官である武蔵守が着任する前に、管轄の地域である足立郡に立ち入ろうとした。

 そこで武芝とトラブルになる。

 正式の国守がくる前にその部下が入る例はないとして武芝は興世王と経基の入部を拒んだのだが、実際は膨大な贈り物や接待をしなければならないので、それを嫌がったものという説もある。

 この事件は、承平8年(938)2月のことなので、前回述べた、将門が貞盛と信濃で合戦をしていたころである。

 武芝は興世王と経基の権勢を避け野に隠れたが、興世王と経基は武芝の財産を差し押さえてしまう。

 それに対して、武芝は文章で抗議したが埒があかない。

 さて、信濃から帰陣後、武蔵でのこの紛争を伝え聞いた将門は「功を挙げるチャンス」とみて、武蔵での紛争の調停に乗り出した。

 彼らを和解できれば、今まで一族との私闘で得た罪や先日の信濃侵攻の罪を帳消しできるかもしれない。

 将門は手兵を率いて武蔵へ出向き、武芝と興世王と経基を招き、和解の宴を催した。

 ところが、初めは順調に行きそうに見えたこの和解の酒宴であったが、何の手違いか、武芝の後陣の軍勢が経基の営所を囲んでしまったのだ。

 いまだ兵(つわもの)の道に練れていなかった経基はそれに驚き、武芝にそそのかされた将門と興世王が自分を殺そうとしているのではないかと勘違いし、その場を逃れ出て、後に都に上り、事件から1年経った翌天慶2年(939)3月3日に「将門・興世王謀反」を朝廷に訴えてしまった。

 「謀反(むへん)」は、謀叛(むほん)などと並んで八虐の一つに数えられる大罪で、国家転覆を目論む罪だ。

 経基の訴えは臆病心から出たように思えるが、おそらく将門のことなので、酒宴の席で「俺が天下を取って見せる」などと、謀反の口実になりそうなことを大言壮語していたのだろう。

 その言葉尻を経基に掴まれたものと思われる。

 また、興世王は後日将門陣営に加わるが、このときの酒宴で将門と意気投合したと思われる。

 相性が合ったのだろう。

 ある意味、将門にとっては興世王との出会いがその後の運命を大きく踏み外すポイントになったと考えられるが、悪縁に出会ってしまうというのは自分にも悪縁を引き付ける要因があるものである。

 将門と興世王が仲良くなったのを見て、経基は不安になったのかもしれない。

 しかしそれにしても、上記が頼朝ら清和源氏の祖経基の歴史デビューだ。

 後々の「武家の棟梁」のイメージとはだいぶかけ離れている。

 さて、それに対して将門は、私君である藤原忠平に弁明書を送り、また5月2日には、常陸・下総・下野・武蔵・上野から国解(こくげ。国から中央へ送る正式文書)で自分は謀反をしていないということを釈明した。

 このように将門が疑惑の渦中にいる6月上旬、将門と数年越しに戦ってきた、伯父であり義父である良兼が死亡した。

 これで、下総周辺での将門らの桓武平氏の私闘も終焉するかに見えたが、将門を巡る騒乱は一族内の私闘から次のステップに進むことになる。

 やがて、武蔵国には新任国司の百済貞連(くだらのさだつら)が着任したが、興世王はそれと不仲となり、このあと興世王はかねてより仲良しになっていた将門のもとに行き、将門を本物の謀反人へといざなうことになる。

 ところで去年、都に上って将門の不法を訴えていた貞盛だったが、良兼死亡直後の6月中旬に坂東に下向してきた。

 しかし、将門の勢力に敵わず、陸奥守平維扶(たいらのこれすけ)と知人だったので、奥州に出て態勢を整えようとしたが、それにも失敗し、常陸のあたりに身をひそめることになった。

 さて、今回まで4回に渡って「平将門の乱」に至る経緯を述べてきたが、次回ではいよいよ将門が国家に反逆したことが認定されることになってしまう。

 「平将門の乱」の始まりである。

 

 

第5回 平将門の乱の勃発

 その頃、常陸国の藤原玄明(ふじわらのはるあきら)らは、民の収穫物を盗み、国には全然税を納めず、地域の政治を乱していた。

 常陸の長官の藤原維幾(ふじわらのこれちか)は、悪行を重ねる玄明に業を煮やし、太政官に訴えたため、玄明は妻子を連れて下総に逃れる。

 玄明の逃れた先には将門がいた。

 将門は元々義侠心に溢れる男だったので、意気消沈して逃れてきた玄明を匿まった。

 玄明は維幾を恨んでいたため、将門の力を使って維幾に仕返しをしようと企む。

 天慶2年(939)11月21日、玄明の言葉に乗せられた将門は、こともあろうか、兵を率いて常陸国府を囲んでしまった。

 さきに興世王との出会いが将門のその後の運命を決定づけたと述べたが、玄明の登場もまた将門の運命を蹉跌へ向かわせる駆動力となった。

 国府側からは、維幾の息子の為憲や、将門とトラブルを抱えてしばらく国内に潜伏していた貞盛が兵を出してきて合戦になった。

 どちらかが先に攻撃してきたかは分からないが、手勢でもって国府を囲んでしまった以上、将門が合戦を仕掛けたと見られても仕方がない。

 国府に合戦を仕掛けるということはどういうことになるのだろうか。

 もちろんそれは、国家への反逆となる。

 しかも以前も下野の国府を囲んだことがあり、国府を手勢で囲んだのは二度目になる。

 将門は以前もやっているので感覚が麻痺してしまっていたのかもしれないが、今回は常陸国の長である藤原維幾を捕縛し、常陸国統治に必要な印と鍵を奪ってしまったのだ。

 将門は、ついに越えてはならない一線を越えてしまった。

 これをもって、歴史は「平将門一族の私闘」の段階から「平将門の乱」へと移行する。

 思えば将門は、今までも国家反逆になるかならないかのギリギリのラインを生きてきた。

 実際、国家反逆を疑われて訴えられたこともある。

 そういう生き方をしていたら、ふとした拍子に一線を越える事態が起きるのも、さもありなん、という感じだろうか。

 さて、ついに一線を越えてしまった将門の元に、武蔵国でつまはじきにされた興世王が現れ、将門に悪魔のささやきをする。

 「一国を討っても国の咎めは軽くないでしょう。どうせ同じことなら坂東諸国を攻め取ってしまってはいかがでしょうか」

 それに対し将門は、「その考えに賛成だ」と述べ、坂東制覇の野望を露わにした。

 こうして将門は、今後なし崩し的に国家への反逆を繰り返し、後戻りできない状況に自分を追い込むことになるが、そこに計画性というものは認められない。

 まったく感情に動かされたというか、その場の勢いで謀反人になってしまった感がある。

 将門は翌12月、今度は下野国を攻め、国司の平公雅(たいらのきんまさ。将門の従兄弟)と前の国司大中臣全行(おおなかとみのまたゆき)を降伏させ、公雅は虚しく都に逃げ帰って行った。

 将門はついで上野国を奪い、そこで神がかりになった巫女から天皇の位を授けると言われたので、将門の周りの人びとは将門を「新皇」と呼ぶようになった。

 将門は坂東諸国の国司や朝廷の文武百官を任じ、印章を制定し、皇居の選定もした。

 でも何か変な感じがしないだろうか。

 ほとんどこうなったら、将門は「お飾り」にすぎなくなる。

 おそらく笑いが止まらなかったのは、興世王や藤原玄明などの側近グループだろう。

 「平将門の乱」は表向きは将門が国家に対して起こした反逆ということになっているが、その将門を操っていたのは、興世王や藤原玄明ではないだろうか。

 興世王と藤原玄明は私怨を晴らすために将門をそそのかしたが、それにウカウカと乗ってしまった将門にも奢りの心があったのは確かであろう。

 俺はケンカなら誰にも負けないし、事情があって助けを乞うてきた弱い者を助けてやっているんだという自負である。

 さて、天慶2年(939)から翌年にかけての年末年始、この頃が、将門陣営の人たちのハッピーさの頂点だっただろう。

 しかし年が明けると、「平将門の乱」は意外に呆気なく終わりを迎えることになる。

 それに関してはまた次回述べることになる。

 

 

第6回 平将門の乱とは何だったのか

 天慶3年(940)正月11日、将門を討伐した者に恩賞を与える旨の太政官符(だいじょうかんぷ)が、東海道・東山道に対して下された。

 もし将門を殺せば、五位以上の位階に叙せられる約束だ。

 つまり、一躍貴族になれる。

 正月14日には、坂東八ヵ国の掾(じょう。国の三等官だが上総・上野・常陸は実質次官)が任じられ、判明されているのは以下の通りである。

 ・上総掾 平公雅(将門の従兄弟)
 ・下総権少掾 平公連(将門の従兄弟)
 ・常陸掾 平貞盛(将門の従兄弟)
 ・下野掾 藤原秀郷
 ・相模掾? 橘遠保

 上記の人びとは押領使(おうりょうし)も兼任した。

 押領使は国ごとに置かれ、追補官符(ついぶかんぷ)を受けて犯人を追捕する役職のことだ。

 上記のリストの中に、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が出てきた。

 このあと秀郷は貞盛とともに「平将門の乱」を鎮定することになるが、秀郷はどんな人物だったのだろうか。

藤原鎌足―――不比等―――房前―――魚名―+―末茂――(九代略)――家成
            (藤原北家祖)  |
                     |
+――――――――――――――――――――+

+―――――――藤成
        |伊勢守
        |下野大介
        |
        +―――――豊沢
        |     |下野少掾
  鳥取業俊──女     |
   下野史生       +―――――村雄
              |     │下野大掾
              |     │
        鳥取豊俊――女     +―――――秀郷―+―千晴
         下野史生       │        |
                    │        +―千常
              鹿島――――女
               下野掾

 秀郷は、藤原北家の祖房前の五男魚名の末裔で、秀郷の曽祖父藤成は下野国の大介職に任じられ、その子豊沢は同じく下野の少掾で押領使に補され、二代続けて下野の有力者鳥取氏の女を妻としている。

 豊沢の子が大掾村雄で、その子が秀郷だ。

 秀郷は将門追捕に出陣する前に、実は前科があった。

 それは延喜16年(916)のことだが、何かしらの罪を得て配流の決定が下されていたのだ。

 秀郷の罪は不明だが、下野で勢力を広げ、反国家的な動きを見せていたのだろう。

 その頃の関東地方西部には「僦馬の党(しゅうまのとう)」という集団が跳梁していた。

 「僦馬の党」というのは表の顔は運送業者だが、裏の顔は盗賊という者どもで、中央も取り締まりに苦慮していおり、そういった怪しい人びとと秀郷が結託していた可能性もある。

 結局、秀郷は逮捕されず、延長7年(929)にも再度犯行に及んでいる。

 そのときは近隣諸国から兵士が動員されるという有様であったので、下野にかなりの争乱が起きたものと思われる。

 場合によっては、「平将門の乱」よりも前に、「藤原秀郷の乱」が起きた可能性もあったわけだ。

 しかし、このときも結局秀郷は逮捕されず、そのままなし崩し的に「平将門の乱」へと時代は流れていき、そこで将門を討った秀郷は前科を帳消しにされて一気に出世する。

 さて、天慶3年(940)正月18日には政府は藤原忠文を征東大将軍に任じ、5名任じられた副将軍の一人に源経基が見える。

 しかし、征東大将軍の坂東進出を待たずして、ことは決着してしまった。

 正月中旬、将門は、仇敵である貞盛や藤原為憲の捜索を命じ、貞盛の妻や源扶の妻を捕えることに成功した。

 将門は貞盛妻に対して、密かに歌を問いかけ貞盛の居場所を聞き出そうとしたが、貞盛妻は口を割らない。

 やがて貞盛妻らは本籍の地へと返された。

 その直後、秀郷・貞盛らが4000人の兵力で将門に襲いかかった。

 将門は農繁期のため兵のほとんどを村に返しており、手勢は1000人足らずしかいなかった。

 将門はたまらず敗走する。

 そして2月14日、将門のもとにはフル稼働をすれば集まるはずの8000の兵士は集まらず、400人ほどが集まったにすぎなかった。

 将門は猿島郡の北山を背にして陣を張り、秀郷・貞盛を待ち受ける。

 最期の戦いは午後3時ごろ始まった。

 最初、風向きは将門勢に有利だったが、そのうち風向きが変わり、将門勢は劣勢に立たされ、その風の中から飛んできた一本の矢が将門に突き刺さった。

 将門の最期だった。

 将門の首は、秀郷が切り取った(なお、このとき逃れた興世王は翌3月平公雅によって殺害され、またこのあとの論功行賞では、秀郷は従四位下、貞盛は従五位上に叙せられる)。

 さてこのようにして、桓武平氏の無位無官の男・平将門が坂東を制覇した「平将門の乱」は終焉を迎えたのであった。

 将門は結局、政府が派遣した大軍に負けたのではなく、下野の国軍を率いた、自分とほとんど同じような境遇の武将である藤原秀郷や、従兄弟である平貞盛に敗れたことになる。

 将門は自らの腕力を誇る癖があり、たしかにケンカは強いのだが、戦略レベルになるとまったく不得手だった。

 そしてその将門を裏で操った興世王や藤原玄明らも、戦略を練るのを怠り、計画はあまりにも杜撰だった。

 将門の挙兵は、現代の一部の関東住民からは、中央の圧政に苦しむ関東の農民たちを解放する戦いだったと言われているが、果たしてそういう現代的な農民解放闘争に結びつけて良いものだろうか。

 「平将門の乱」の真相は、常に自らの武力を誇る心と、国家の法律を順法しない性癖をもっていた将門が、その性格ゆえについに一線を越えてしまい、同じ不法者たち(興世王や藤原玄明など)に担ぎあげられ、ヤケッパチになって無計画に突き進んで頓挫した、そのような事件であったように思える。

 しかしそうは言っても、死後1000年以上経った現代にまで残る将門信仰を考えると、将門をそのようなただの反乱分子としてだけ考えることは済まされないと思う。

 やはり関東の住民に恐れられつつ慕われる何かの要因があったはずである。

 1000年以上も後の人びとに影響を遺すほど、当時の一般住民にとっても「平将門の乱」は、とてつもなくセンセーショナルな事件であったのである。

 政府の圧政に苦しんでいた一般住民にとって、将門自身は「農民解放」を意図していなかったとしても、彼らは将門の即位に一筋の光明を見出したのかもしれない。

 そしてごく短期間ではあったが、記録にも残っていない将門の善政があったのかもしれない。

 私は将門の義侠心に溢れる純粋な心根を愛する者のうちの一人である。 

 

参考資料

・『新編 日本古典文学全集 将門記 陸奥話記 保元物語 平治物語』(柳瀬喜代志・矢代和夫・松林靖明・信太周・犬井善壽/校注・訳)
・『戦争の日本史4 平将門の乱』(川尻秋生/著)
・『尊卑分脉』(吉川弘文館)
・『伝説の将軍 藤原秀郷』(野口実/著)

 

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