最終更新日:2023年3月31日
東京には、レジェンド遺跡といえるような学史的に著名な遺跡が沢山あります。本ページではそのいくつかをご紹介します。
大森貝塚
大森貝塚は、レジェンド遺跡の代表格のようなものです。アメリカ人のモースが発見して調査したことで有名ですね。

明治10年に日本にやってきたアメリカ人のモース(Edward Sylvester Morse・1838~1925)は、考古学者ではありません。言ってみれば生物学者で、貝が専門でした。私はモースから受ける印象として、「貝の研究者」と呼ぶより「貝マニア」と呼びたい。すごくマニアの匂いがする人なのです。会ったことはありませんが。

モースはとくに腕足類という種類の貝が大好きで、アメリカに居た時に、「それだったら日本に行くと良いよ」とアドバイスをもらい、日本にやってきたわけです。明治10年に日本に行くという勇気は、おそらく腕足類が大好きでたまらないために沸き起こったものだと思います。ただしラッキーであったのは、その頃の日本は文明開化で、海外の新しい知識を得るためにはいくらでも政府がお金を使っていた時代でしたから、モースは東大教授として雇ってもらえたのです。しかもかなりの好待遇です。
そして、当初はモース自身も思っても見なかったことだと思いますが、日本が大好きになってしまったようです。貝の研究から始まり、土器や日本の陶器、民具と研究対象が広がって行き、古墳も調査しています。3度も来日して、晩年には『Japan Day by Day』(邦題『日本その日その日』)という本をリリースしています。画の才能もあったため、最初の来日の時から大量のスケッチを描き、そしてまた物凄く観察力の高い人で、その能力が著述に生かされています。
その観察力のお陰もあってか、有名な話ですが、開通してまだ5年の汽車の窓から貝塚を発見し、掘ったというわけです。ただし、仕方がないことですがその掘り方はまだ近代的ではなく、考古学というのは層位といって遺跡の重なり順が非常に大事なわけですが、そういうことを気にせず強引にガンガン掘って行ったようです。
ただし、最初の発掘の時は、シャベルを持ち込むことが禁止されたので、籠だけを現場に持ち込んで素手で掘ったというとんでもなくワイルドな作業でした。でも、その後すぐにモースの日本での地位が上がったため、その次からはスタッフも動員出来て、それなりの発掘ができるようになったようです。
このようにモースが大森貝塚を発掘したことにより日本における近代的な発掘が始まったと言われていますが、この時代に考古学を志した若者たちは、皆モースの影響を受けています。
弥生町遺跡
大森貝塚の発見から7年後の明治17年(1884)3月、東大生の坪井正五郎(1863~1913)と白井光太郎(1863~1932)、それに東大予備門生の有坂鉊蔵(1868~1941)の3名は、東大裏手の向ヶ丘弥生町の貝塚に出かけました。そこで有坂が発見した壺が、のちに「弥生式土器」と呼ばれることになる土器です。
有坂はその見事な土器を先輩の坪井に託しました。のちに国内を代表する考古学者になる坪井もこのときはまだ20代前半です。坪井は5年もかけて研究して、明治22年に報告しました。この時代はまだ、弥生時代という定義はなく、旧石器時代も日本では証明されていませんから、漠然と「石器時代」というイメージで考えられていました。
坪井は、さらに3年後の明治25年には、北区の西ヶ原貝塚を発掘し、そこでは縄文土器とは違う土器群があり、以前報告した弥生町の壺形土器に似ているものがあるという認識をもったようです。

その頃から、東大人類学教室の人びとは、弥生町の壺形土器やそれに似ている土器群は、見つかった地名を取って「弥生式」と呼び始めました。明治29年には、蒔田鎗次郎(1871~1920)が駒込の自敷地内で発掘した土器群を「弥生式土器」の名で報告し、それが普及していき、従来から知られている縄文時代と古墳時代の間には、異なる文化の時代があることが全国の発掘調査例の増加で次第に分かってきて、弥生時代と呼ばれるようになったのです。
ただし、その後、土器が発見された場所は分からなくなってしまったのです。第一発見者の有坂は、モースから直接教えを受けた人物ですが、東京大学工科大学に進み、造兵学の専門家となって、考古学からはまったく手を引いてしまったのです。そして、発見から39年後の大正12年に講演した時は「正確な位置は解りません」と語っています。

一方、坪井の弟子である、これまた著名な学者の鳥居龍蔵(1870~1953)は、坪井はモースのことが嫌いだったようにとれる発言をしています。坪井は、アイヌの民話に出てくるコロボックルを実在と信じており、埼玉県吉見町の吉見百穴は、コロボックルの住処だと主張して譲りませんでした。そういう激しい性格のため、モースに対しても敵対心を露わにしてしまったのでしょうか(ちなみに、鳥居は小学校に1年間通っただけでしたが東大助教授になりました)。
坪井は、東大で初めて人類学を学んだ学生の一人ですが、人類学と言いつつも考古学を重視し、自身で「東京人類学会」を主宰し、「遠足」と称して、都内近郊の遺跡に掘りに出かけていました。ただし、その遠足は、大多数の人間で遺跡に訪れて短時間で一気に掘り進めるため、「乱掘」といわれることもあり、現代の考古学者からはあまり良い印象が持たれていないようです。
芝丸山古墳
東京のレジェンド遺跡には古墳もあります。東京タワー古墳と呼ばれることもある、港区の芝丸山古墳もその一つです。

墳丘長100mを越える前方後円墳で、改変は受けているものの、東京のど真ん中に大型前方後円墳と分かる物体が残されていることは本当に貴重だと思います。
本墳は、坪井が明治30年11月から翌年4月にかけて発掘調査をしており、かつては周囲には複数の円墳があったようです。
既述した通り、坪井は過激な感じの人ですが、芝丸山古墳に関しては、周辺の古墳を含めてきちんと保護することをお上に具申していました。しかし、その主張はすぐには実現されず、結局いつの間にか周囲の古墳はすべて破壊されてしまったわけです。
参考資料
・『東京の古墳を考える』(品川区立品川歴史館/編)
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」031 日本考古学の原点 大森貝塚』(加藤緑/著)
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」050 「弥生時代」の発見 弥生町遺跡』(石川日出志/著)