最終更新日:2023年6月7日

自治体の掲載順は、多摩川下流からの順です。
東京都の場合は史跡と旧跡がありますが、どちらの場合でもマークを付けています。

 

目次

稲城市

大田区

狛江市

世田谷区

調布市

三鷹市

 

 

大田区

or 40?
扇塚古墳跡

荏原台古墳群

昔から都内最古の古墳と紹介されてきたが、全容が分からないまま破壊され、今はマンションの道路側に石碑が建つのみで説明板も設置されていない。

形状は前方後方形であったと言われているが決め手に欠け、今となっては確定する術はない。

築造時期に関しては、大田区立郷土博物館に展示されている廻間Ⅲ式の影響を受けた「模倣土器」の高坏が重要な手がかりとなる。

廻間Ⅲ式の影響を受けているということは、濃尾からこの地へやってきた廻間Ⅲ式を作る人の間近でそれを真似して作った土器ということだろうか。

となると、宝萊山古墳の項で述べている通り、宝萊山古墳はこれよりも古い廻間Ⅱ式土器が見つかっているため、Ⅱ式を使う人びとよりも後にさらにⅢ式を使う人びとが濃尾からやってきたことが想定できる。

ということは、扇塚古墳の築造は前方後円墳の宝萊山古墳よりも後になり、そう考えると扇塚古墳が前方後方墳である可能性はかなり低くなるのではないだろうか。

立地的にも多摩川流域を治める人物の墓としては、川から少し離れた丘の上というのは適切ではないし、また規模が40mほどと想定できることから、私は、宝萊山古墳の被葬者よりも1~2世代あとの人物が葬られた前方後円墳で、彼はこの地の王ではなく、王の下に属した有力者と推測する。

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20201101C
20210514A
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97
宝萊山古墳

ほうらいさんこふん

荏原台古墳群

現地説明板の図を見て分かる通り、後円部の大部分は破壊されいるが、発掘調査によって多くのことが分かっている。

築造時期に関しては、説明板には前期前半(4世紀前半)と記されているが、前期前半が4世紀前半にあたるという考えはかなり古い年代観だ。前期前半というのは当たっていると考えるが、その実年代は私は3世紀半ばから4世紀初頭までを指し、宝萊山古墳はその中でも最初期で、箸墓古墳と同時期であると考える。

その理由は、大田区立郷土博物館に展示してある、宝莱山古墳出土の2つの土器片にある。

一つは、廻間Ⅱ式との関係が考えられる東海系のパレススタイル土器である。

もし、廻間Ⅱ式そのものだとすると、赤塚次郎氏の編年では3世紀前半代の土器であるので、その頃の築造となってしまう。廻間Ⅱ式は、200年ごろから東日本に一気に拡散することが知られており、その時期に濃尾人が東日本の広い範囲に積極的に進出したことが分かる。

もう一点は、畿内の庄内2式の壺形土器。

私は庄内2式の時期は230~250年頃と考えている。

以上の2点の土器を見ただけだと、宝萊山古墳の築造時期は、3世紀第2四半期と考えられ、そうなると箸墓古墳よりも前になってしまい、纒向古墳群の勝山古墳(115m)と同時期の古墳となる。

箸墓古墳よりも前に、多摩川流域に100m級の古墳が築造されたとしたら非常に面白いが、そこまで攻めて考えなくても、前方部がバチ形に開くという指摘もあるため、箸墓古墳の造営とほぼ同じ頃、つまり、3世紀第3四半期の築造と考える。つまり、当時この地にはヤマト王権の有力な支持勢力が存在したということになる。

パレススタイル土器が見つかっていることから、被葬者は、関東地方の他地域と同じく、濃尾から進出してきてこの地で短期間に成長した勢力の王で、彼はいち早くヤマト王権への協力を申し出たのであろう。

なお、荏原台古墳群を造営した人びとの集落遺跡は今のところ見つかっていない。

 
 
 

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107
亀甲山古墳

古い写真を見ると昔は普通に墳丘に入れたようだが、現在はフェンスで囲まれていて立入禁止となっていて残念。真冬に行っても木々に覆われていて墳丘の状況は観察できない。

築造時期に関しては、説明板に記されている通り、一般的には4世紀後半といわれているが、発掘調査がされておらず、時代を特定できる遺物が見つかっておらず、遺物から推定するのも困難。

広瀬和雄氏は、その著書『前方後円墳の世界』の中で、前方部が低く先端が広がらない、円筒埴輪や葺石が見つからず段築がない、という事実から、「四世紀後半ごろに築造された前期古墳とみて、さほどの誤りはないと思われます」と述べている。

手がかりがほとんどないまま築造年代を決めるのは暴力的だが、現地説明板の簡単な図を見ると以下の点が分かる。

一つ目は、前方部は、桜井茶臼山やメスリ山のような柄鏡形というわけでもなく、普通に広がっていると判断できるが、バチ形ではない。

二つ目として、後円部径を全長で割ると0.62で、後円部の大きさに比して前方部の長さが短めになっている。

三つ目として、前方部の高さが後円部の約3分の2になっている。

以上のことから、あくまでも「雰囲気的」には、広瀬氏の指摘通り、前期の中でも後半(前方後円墳集成編年の第3期か第4期)となり、至近の新居里古墳からは西岡編年Ⅱ期の埴輪が見つかっていることから、新居里よりも微妙に前の時期と考え、前方後円墳集成編年の第3期で、実年代は4世紀第3四半期の古墳と推定する。

なお、段築がないというのは引っ掛かる。4世紀後半でこれだけの規模の古墳であれば、前方部2段、後円部3段で造られても良いような気がするし、建築学上、この規模で段築を設けないという選択肢は存在しないのではないだろうか。そのため、実際は段築はあるのだが、テラス部分が狭かったため、後世に土が崩れてしまって近年ではよく分からなくなってしまったのではないかと考える。

国史跡なので発掘調査をするのは難しいが、最新技術で測量すれば段築の有無の問題は一発で解決するのではないだろうか。

 
 
 

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60
浅間神社古墳(多摩川浅間神社)

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27
鵜木大塚古墳

27m(説)
時期不詳

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39
多摩川台1号墳

39m(説)

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多摩川台3号墳

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多摩川台4号墳

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多摩川台5号墳

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多摩川台6号墳

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多摩川台7号墳

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多摩川台8号墳

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多摩川台公園古墳展示室

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大田区立郷土博物館 

20121026

 

 

世田谷区

20+
上野毛稲荷塚古墳

2019年5月16日撮影
2019年5月16日撮影

二十数メートル(説)

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20190516C
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20201101C
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82
野毛大塚古墳

 
 
 

82m(説)

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20210514A
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八幡塚古墳(宇佐神社)

 
 

墳丘に登るときは神社の許可を得よう。

古墳の説明板はない。

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20201101C
20210514A
20211103C

57
御岳山古墳

みたけさんこふん

 
 

57m(説)

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20190516C
20201018C
20201101C
20210514A
20211103C

30
狐塚古墳

 
 

30m(説)

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20181124C
20181204C
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20190516C
20201018C
20201101C
20210514A
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等々力渓谷三号横穴

 
2021年5月14日撮影
 

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20201018C
20201101C
20210514A
20211103C

等々力渓谷

 
この水道管に入っていく先が九品仏川方面の本来の河道(2019年5月16日撮影)
 
 
 

23区内には渓谷は北区の音無渓谷とここしかなく、音無はかなり人工チックなため、ナチュラルな渓谷に来ようとすればここしかない。

地形・地質マニアにはたまらない場所で、武蔵野礫層から水がしみだしている場所や、矢沢川の河川争奪地点などを見ることができる。

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20181123
20181124C
20181204C
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20210514A
20211103C

等々力不動尊

 
 

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20181204C
20190505C
20190516C
20201018C
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65
砧中学校7号墳跡

だいたいこの辺(2022年3月16日撮影)

墳丘は完全に破壊されて存在しない。かつては前方後方墳とされていたが、破壊する前の調査で前方後円墳であることが分かった(4号墳の説明板にはまだ7号墳のことを前方後方墳として書いている)。

となると、扇塚古墳が都内唯一の前方後方墳となるが、扇塚古墳も確実に前方後円墳であるとは言えない。

ただし、形状が前方後円墳だとしても、前期に65mの大きさを誇ったということは重要で、この地点より多摩川上流には前方後円墳が築造されていないことと、比較的近くに築造される野毛大塚古墳との関係を考えると非常に興味深い古墳。

扇塚古墳もそうだが、なんで壊すかな?まったくもう。

65m(説)

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20220316A

37
砧中学校4号墳

 
 
 

径37m(説)

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20220316A


砧中学校3号墳

 
 

4号墳脇の説明板の図を見ると、4号墳並みの大きさがあったことが分かるが、現在はほとんど地膨れのようなものとして残っている。

道路を作る際にも完全に壊さずにこれだけでも残してくれたのはありがたいと思ったが、もしかして樹木を残すことが目的で、たまたま残ったのかな?と思ったりする。理由はともあれ結果オーライ。

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20220316A


下山1号墳跡

 

かつては南北一列に北側から下山古墳群の2号墳、1号墳、3号墳が並んでおりすべて円墳。下山遺跡の範囲に入り、古墳時代の円形周溝墓も検出されている(「東京都遺跡地図」)。

下山1号墳は5世紀後半の築造(『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」<寺田良喜/著>)。

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慶元寺古墳群

 

慶元寺古墳群は慶元寺の境内にある8基の古墳からなり、参道入口には1号墳跡、参道途中には2号墳跡がある。

1号墳からは、6世紀前半に編年される円筒埴輪が出土(『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」<寺田良喜/著>)。

境内では地膨れのような小さな円墳を見ることができる。

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20220316A


玉川神社古墳

 

円墳か?
径不詳
時期不詳

20200501


堂が谷戸1号墳跡

 

円墳で、幅4mの周溝が見つかっている(「東京都遺跡地図」)。

20200501

殿山古墳群跡

 

大蔵氷川神社の近くにあった殿山古墳群では、全部で9基の古墳が確認されており、殿山1号墳と2号墳は7世紀前葉のTK209からTK217の頃に編年される。殿山1号墳の横穴式石室は、羨道幅は1mくらいだが玄室はかなり広く、4m四方もありそうでちょっと異様(『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」<寺田良喜/著>)。

20200501

大蔵古墳群跡

大蔵古墳群跡近辺から多摩川方面を望む

区立総合運動場では大蔵1号墳から3号墳までの3基の古墳が見つかり、1号墳と2号墳は横穴式石室を備えており、7世紀前半に築造された1号墳は3室からなる立派な切石積みの横穴式石室(『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」<寺田良喜/著>)。

20200501

下野田1号墳跡

 

詳細不明。近くに2号墳もあったというが古墳ではない可能性もある。

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13
稲荷塚古墳

 
 
 
世田谷区立郷土資料館にて2022年3月16日に撮影

13m(説)

7世紀初頭の築造。径13mという小さな墳丘の中に長さ6mの横穴式石室を内蔵。石室は切石積みの精緻なもので、被葬者は終末期における多摩川流域の有力者であることは間違いないが、7世紀初頭といえば、まだ国造制が敷かれている時期で、屯倉や部民との関係を含めて、被葬者がどのような人物であったのか興味深い。

なお、世田谷区立郷土資料館には稲荷塚古墳の模型が展示してあるが、横穴式石室の側壁が墳丘の外に飛び出ている。いったいこれはどういう意味なのだろうか?

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20220316A

天神塚古墳

2020年5月1日撮影
2022年3月16日撮影

現況ではほとんど古墳の態をなしていないが、「東京都遺跡地図」によると、横穴式石室を備えているという。墳丘の上に社殿が建てられており、この様子だと石室はすでに破壊されているか。いろいろ詳細不明。

20200501
20220316A

33
第六天塚古墳

 
 

墳丘の残りはそこそこ良い。

32~33m(説)

20200501
20220316A

大蔵城跡

恐らくこの辺りが主郭跡

城主には3説あり、その一つは源義賢説で、この近くにある大将塚という古墳が敷地内にある清水家は、木曽義仲の長子・清水冠者義高(基)の子孫と伝わっている。他は、中世武士石井氏説と、源義朝の家臣・鎌田正清説。城の中心部分はちょうど東名高速が走っているあたりになり、氷川神社の辺りには居館があったのではないかと推測されている(『世田谷の中世城塞』)。

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世田谷城跡

 
 
 
 
 

19990410
20181123

慶元寺

けいげんじ


2020年5月1日撮影
2020年5月1日撮影
2020年5月1日撮影
江戸重長像(2020年5月1日撮影)

永劫山花林院と号す浄土宗の寺院で、平安末から中世初頭に江戸の地(今の江戸城周辺)を本貫とした桓武平氏一族江戸氏の菩提寺。

平安末期に「関東八箇国の大福長者」と呼ばれ、その経済力と武力が源頼朝に恐れられた江戸重長の像が建立されており、江戸氏ファンにはたまらない。

20200501
20220316A

次大夫堀公園民家園

 
 

20220316A

江ノ電601号

 
 
 

20181123


世田谷区立郷土資料館

 
 
 

19990410
20181123
20220316A

 

 

狛江市


弁財天池遺跡

 

小田急狛江駅の北口ロータリーには縄文時代中期半ばから後半にかけてが主体の集落跡である弁財天池遺跡が広がっています。

往時の河道は現在とかなり違っていて、この場所は旧野川の低地と旧清水川の低地に挟まれた武蔵野台地の東端部分に近い場所で、水が得やすい住みやすい場所だったのでしょう。

なお、この場所からは弥生時代の方形周溝墓や弁財天池1~3号の3基の円墳が見つかっています。

20220316A

40
亀塚古墳

かめづかこふん

狛江古墳群 猪方支群

 
 
 
 

40m(説)

昔から狛江を代表する古墳の一基として著名。

帆立貝式古墳で墳丘はほとんど残っておらず、少し前までは住宅街の中の細い路地を歩いて行くと、ほとんど徳富蘇峰揮毫の石碑を建てる分のスペースしかないような狭さだったが、2022年3月に訪れたら面目を一新していて驚いた。

『こまえ文化財ブックレット2 猪方小川塚古墳と狛江古墳群』(狛江市教育委員会/編・2014)によると、狛江古墳群は元々は推定で60~70基ほどの古墳から形成されており、確認されたのは40基、現在墳丘が残っているのは13基ということだ。

20160202D
20220316A

43
兜塚古墳

かぶとづかこふん

狛江古墳群 和泉支群

 
 
2016年2月2日撮影
2016年2月2日撮影
2016年2月2日撮影

6世紀前半に築造された径43mの円墳で、帆立貝式古墳の可能性もある。

狛江市の古墳でもっとも「古墳らしい」堂々とした墳丘。

なお、敷地の入口の扉が閉まっているため入れないと思うかもしれないが、普通に開けて入ることができる。

43m(説)

20160202D
20220316A

23.5
前原塚古墳

狛江古墳群 猪方支群

 

23.5m

20200501

清水塚古墳群

狛江古墳群 猪方支群

 

1号墳から3号墳までの3基の古墳が確認されており、1号墳は墳丘が残っているようだが、民家の敷地内にあるようで未確認。

20200501

40+
駄倉塚古墳

狛江古墳群 和泉支群

 

現在は辛うじて墳丘の残りが確認される程度だが、平成5年の調査によって、元々は推定で40mを越える大型の円墳で、築造時期は出土した円筒埴輪の編年によって5世紀第2四半期と推定された。

20220316A

36
土屋塚古墳

狛江古墳群 岩戸支群

 
 

径33m(説)

周囲には幅1.5mのテラスがめぐり、小規模な造出も設けられており、それを大きさに加えると36mとなる。

5世紀第3四半期(説)

20220316A

20
猪方小川塚古墳

狛江古墳群 猪方支群

 
 
 

住宅街の中に小さな公園のような形できれいに整備されており、横穴式石室が覆屋の中に保存されていて外から観察できるようになっている。

石室はもともとは玄室・前室からなる複室構造に羨道と前庭部が備わっていたと考えられているが、現状は前室と玄室のみが残っている。天井石は見つかっていない。

前室の幅は1.1mと狭く、玄室の奥壁も1.36mしかないのが特徴。見つかった鉄鏃の編年から7世紀第2四半期の築造と考えられている。

7世紀第2四半期(説)
15~20m(説)

20220316A

40
白井塚古墳

狛江古墳群 和泉支群

 

昭和51~53年の調査により、径36mの周りに幅2mのテラス部分がめぐる円墳であることが分かった。

テラス部分を墳丘に含めるかどうかは研究者によって意見が分かれると思うが、テラス部分を入れるのなら径40mの大型円墳となる。

民家の敷地内にあり、家主に見学の許可を得るようと思ったが不在だった。

20220316A

狛江市立古民家園

 

20160202D


狛江市役所

 

狛江市には歴史系の博物館や資料館がないが、教育委員会が作った図書やリーフレットは市役所の2階で入手可能。


20220316A

 

 

調布市


下布田遺跡

 

20170304D

古天神遺跡

 

20170304D

44
狐塚古墳(下布田6号墳)

 

周溝内径44m(説)

20170304D


布田天神社

 
 

20170212T

近藤勇生家跡

 

20170212T

天然理心流道場 撥雲館

 
 

20170212T

調布飛行場門柱

 
 

20170212T


調布市郷土博物館

 

20141120D

 

 

三鷹市


天文台構内古墳

 
 

20170212T

出山横穴墓群第8号墓

 
 

20170212T

掩体壕

 

20170212T

 

 

稲城市

大丸城跡

 

20170120D
20170216D


稲城郷土資料室

 

20170318D

 

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