最終更新日:2024年4月11日

自治体の掲載順は、多摩川下流からの順です。
東京都の場合は史跡と旧跡がありますが、どちらの場合でもマークを付けています。

 

目次

稲城市

大田区

狛江市

世田谷区

調布市

三鷹市

 

 

大田区


千鳥久保貝塚

20240410

 

 

 

 


久ケ原遺跡

20240410

 

 

 

 

 

 


久原小学校内遺跡

20240410

 

 


あやめ橋付近遺跡

20240410

このあやめ橋を渡った先の蒲田小学校付近が遺跡

 

呑川 

 

or 40?
扇塚古墳跡

荏原台古墳群

昔から都内最古の古墳と紹介されてきたが、全容が分からないまま破壊され、今はマンションの道路側に石碑が建つのみで説明板も設置されていない。

形状は前方後方形であったと言われているが決め手に欠け、今となっては確定する術はない。前方部は南南西を向いている。

築造時期に関しては、大田区立郷土博物館に展示されている廻間Ⅲ式の影響を受けた「模倣土器」の高坏が重要な手がかりとなる。

廻間Ⅲ式の影響を受けているということは、濃尾からこの地へやってきた廻間Ⅲ式を作る人の間近でそれを真似して作った土器ということだろうか。

となると、宝萊山古墳の項で述べている通り、宝萊山古墳はこれよりも古い廻間Ⅱ式土器が見つかっているため、Ⅱ式を使う人びとよりも後にさらにⅢ式を使う人びとが濃尾からやってきたことが想定できる。

ということは、扇塚古墳の築造は前方後円墳の宝萊山古墳よりも後になり、そう考えると扇塚古墳が前方後方墳である可能性はかなり低くなるのではないだろうか。

立地的にも多摩川流域を治める人物の墓としては、川から少し離れた丘の上というのは適切ではないし、また規模が40mほどと想定できることから、私は、宝萊山古墳の被葬者よりも1~2世代あとの人物が葬られた前方後円墳で、彼はこの地の王ではなく、王の下に属した有力者と推測する。

 

 

大田区立郷土博物館にて撮影

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97
宝萊山古墳

ほうらいさんこふん

荏原台古墳群

現地説明板の図を見て分かる通り、後円部の大部分は破壊されいるが、発掘調査によって多くのことが分かっている。

築造時期に関しては、説明板には前期前半(4世紀前半)と記されているが、前期前半が4世紀前半にあたるという考えはかなり古い年代観だ。前期前半というのは当たっていると考えるが、その実年代は私は3世紀半ばから4世紀初頭までを指し、宝萊山古墳はその中でも最初期で、箸墓古墳と同時期であると考える。

その理由は、大田区立郷土博物館に展示してある、宝莱山古墳出土の2つの土器片にある。

一つは、廻間Ⅱ式との関係が考えられる東海系のパレススタイル土器である。

もし、廻間Ⅱ式そのものだとすると、赤塚次郎氏の編年では3世紀前半代の土器であるので、その頃の築造となってしまう。廻間Ⅱ式は、200年ごろから東日本に一気に拡散することが知られており、その時期に濃尾人が東日本の広い範囲に積極的に進出したことが分かる。

もう一点は、畿内の庄内2式の壺形土器。

私は庄内2式の時期は230~250年頃と考えている。

以上の2点の土器を見ただけだと、宝萊山古墳の築造時期は、3世紀第2四半期と考えられ、そうなると箸墓古墳よりも前になってしまい、纒向古墳群の勝山古墳(115m)と同時期の古墳となる。

箸墓古墳よりも前に、多摩川流域に100m級の古墳が築造されたとしたら非常に面白いが、そこまで攻めて考えなくても、前方部がバチ形に開くという指摘もあるため、箸墓古墳の造営とほぼ同じ頃、つまり、3世紀第3四半期の築造と考える。つまり、当時この地にはヤマト王権の有力な支持勢力が存在したということになる。

パレススタイル土器が見つかっていることから、被葬者は、関東地方の他地域と同じく、濃尾から進出してきてこの地で短期間に成長した勢力の王で、彼はいち早くヤマト王権への協力を申し出たのであろう。

なお、荏原台古墳群を造営した人びとの集落遺跡は今のところ見つかっていない。

 
 
 

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107
亀甲山古墳

古い写真を見ると昔は普通に墳丘に入れたようだが、現在はフェンスで囲まれていて立入禁止となっていて残念。真冬に行っても木々に覆われていて墳丘の状況は観察できない。

築造時期に関しては、説明板に記されている通り、一般的には4世紀後半といわれているが、発掘調査がされておらず、時代を特定できる遺物が見つかっておらず、遺物から推定するのも困難。

広瀬和雄氏は、その著書『前方後円墳の世界』の中で、前方部が低く先端が広がらない、円筒埴輪や葺石が見つからず段築がない、という事実から、「四世紀後半ごろに築造された前期古墳とみて、さほどの誤りはないと思われます」と述べている。

手がかりがほとんどないまま築造年代を決めるのは暴力的だが、現地説明板の簡単な図を見ると以下の点が分かる。

一つ目は、前方部は、桜井茶臼山やメスリ山のような柄鏡形というわけでもなく、普通に広がっていると判断できるが、バチ形ではない。

二つ目として、後円部径を全長で割ると0.62で、後円部の大きさに比して前方部の長さが短めになっている。

三つ目として、前方部の高さが後円部の約3分の2になっている。

以上のことから、あくまでも「雰囲気的」には、広瀬氏の指摘通り、前期の中でも後半(前方後円墳集成編年の第3期か第4期)となり、至近の新居里古墳からは西岡編年Ⅱ期の埴輪が見つかっていることから、新居里よりも微妙に前の時期と考え、前方後円墳集成編年の第3期で、実年代は4世紀第3四半期の古墳と推定する。

なお、段築がないというのは引っ掛かる。4世紀後半でこれだけの規模の古墳であれば、前方部2段、後円部3段で造られても良いような気がするし、建築学上、この規模で段築を設けないという選択肢は存在しないのではないだろうか。そのため、実際は段築はあるのだが、テラス部分が狭かったため、後世に土が崩れてしまって近年ではよく分からなくなってしまったのではないかと考える。

国史跡なので発掘調査をするのは難しいが、最新技術で測量すれば段築の有無の問題は一発で解決するのではないだろうか。

 
 
 

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60
浅間神社古墳(多摩川浅間神社)

 

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39
多摩川台1号墳

元々1号墳と2号墳という2基の円墳があり、6世紀後葉になって1号墳と2号墳を改造して一つの前方後円墳にした(現・1号墳)。多摩川下流域最後の前方後円墳である。横穴式石室を備え、遺物としては、土師器・須恵器・鉄鏃・円筒埴輪・形象埴輪が出土。埴輪は生出塚から供給。

松崎元樹氏は、『東京の古墳を探る』において、「6世紀中葉頃に出現した多摩川台古墳群は、畿内や東海地方から鉄製武器や祭祀用土器を受容し、埼玉勢力から円筒埴輪を供給されるなどの関係性を保持しつつ、多摩川下流域における低地の開発と、地域経営を行った非在地系集団の姿が浮かんでくる」とまとめている。

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『武蔵と相模の古墳』(広瀬和雄・池上悟/編

 

『武蔵と相模の古墳』(広瀬和雄・池上悟/編)より転載

 


多摩川台2号墳

6世紀前葉に築造された円墳。礫槨。勾玉出土。その後、1号墳の前方部となった。

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13~14
多摩川台3号墳

横穴式石室
土師器 須恵器 鉄鏃 直刀 金環 

 

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18
多摩川台4号墳

凝灰質泥岩切石積みの横穴式石室で全長4.35m。矩形平面の片袖式。
土師器 須恵器 鉄鏃 刀子 埴輪 直刀 轡 

 

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20.1
多摩川台5号墳

切石積みの横穴式石室で両袖。平面は羽子板状。遺物は、鉄鏃・刀子・玉類・直刀・金環・銅環・方形立聞環状鏡板付轡(ほうけいたちぎきかんじょうかがみいたつきくつわ)。築城時期は他より少し古いか。 

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『大昔の大田区』(大田区立郷土博物館/編)より転載

 

20
多摩川台6号墳

横穴式石室

 

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18.5
多摩川台7号墳

横穴式石室
鉄鏃 大刀 

 

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16
多摩川台8号墳

凝灰質泥岩切石積みの横穴式石室で全長3.7m。玄室・前室からなる複室構造。
土師器 フラスコ状長頸瓶(湖西窯産) 鉄鏃 刀子 玉類 直刀 金環 鉾

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『大昔の大田区』(大田区立郷土博物館/編)より転載

 


多摩川台公園古墳展示室

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27
鵜木大塚古墳

松崎元樹氏は、上円下方墳の可能性を指摘している。非常に興味深い。

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20240410

 

 

 


鵜の木一丁目横穴墓群6号横穴墓

20240410

 

 

 

 

 

 

 

 

 


女塚神社

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久が原東部八幡神社

20240410

 

 

 

 

 


本門寺

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照栄院

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養源寺

20240410

 

 

 


大田区立郷土博物館

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20240410

 

 

 

 

 

世田谷区

20+
上野毛稲荷塚古墳

2019年5月16日撮影
2019年5月16日撮影

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20201101C
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82
野毛大塚古墳

 
 
 

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八幡塚古墳(宇佐神社)

墳丘に登るときは神社の許可を得よう。

古墳の説明板はない。

 
 

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57
御岳山古墳

みたけさんこふん

 
 

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30
狐塚古墳

 
 

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等々力渓谷三号横穴

 
2021年5月14日撮影
 

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等々力渓谷

23区内には渓谷は北区の音無渓谷とここしかなく、音無はかなり人工チックなため、ナチュラルな渓谷に来ようとすればここしかない。

地形・地質マニアにはたまらない場所で、武蔵野礫層から水がしみだしている場所や、矢沢川の河川争奪地点などを見ることができる。

 
この水道管に入っていく先が九品仏川方面の本来の河道(2019年5月16日撮影)
 
 
 

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等々力不動尊

 
 

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65
砧中学校7号墳跡

墳丘は完全に破壊されて存在しない。かつては前方後方墳とされていたが、破壊する前の調査で前方後円墳であることが分かった(4号墳の説明板にはまだ7号墳のことを前方後方墳として書いている)。

となると、扇塚古墳が都内唯一の前方後方墳となるかもしれないが、扇塚古墳も確実に前方後方墳であるとは言えない。

ただし、形状が前方後円墳だとしても、前期に65mの大きさを誇ったということは重要で、この地点より多摩川上流には前方後円墳が築造されていないことと、比較的近くに築造される野毛大塚古墳との関係を考えると非常に興味深い古墳。

扇塚古墳もそうだが、なんで壊すかな?まったくもう。

だいたいこの辺(2022年3月16日撮影)

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37
砧中学校4号墳

 
 
 

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20220316A


砧中学校3号墳

4号墳脇の説明板の図を見ると、4号墳並みの大きさがあったことが分かるが、現在はほとんど地膨れのようなものとして残っている。

道路を作る際にも完全に壊さずにこれだけでも残してくれたのはありがたいと思ったが、もしかして樹木を残すことが目的で、たまたま残ったのかな?と思ったりする。理由はともあれ結果オーライ。

 
 

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20220316A


下山1号墳跡

かつては南北一列に北側から下山古墳群の2号墳、1号墳、3号墳が並んでおりすべて円墳。下山遺跡の範囲に入り、古墳時代の円形周溝墓も検出されている(「東京都遺跡地図」)。

下山1号墳は5世紀後半の築造(『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」<寺田良喜/著>)。

 

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慶元寺古墳群

慶元寺古墳群は慶元寺の境内にある8基の古墳からなり、参道入口には1号墳跡、参道途中には2号墳跡がある。

1号墳からは、6世紀前半に編年される円筒埴輪が出土(『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」<寺田良喜/著>)。

境内では地膨れのような小さな円墳を見ることができる。

 

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玉川神社古墳

円墳か?
径不詳
時期不詳

 

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堂が谷戸1号墳跡

円墳で、幅4mの周溝が見つかっている(「東京都遺跡地図」)。

 

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殿山古墳群跡

大蔵氷川神社の近くにあった殿山古墳群では、全部で9基の古墳が確認されており、殿山1号墳と2号墳は7世紀前葉のTK209からTK217の頃に編年される。殿山1号墳の横穴式石室は、羨道幅は1mくらいだが玄室はかなり広く、4m四方もありそうでちょっと異様(『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」<寺田良喜/著>)。

 

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大蔵古墳群跡

区立総合運動場では大蔵1号墳から3号墳までの3基の古墳が見つかり、1号墳と2号墳は横穴式石室を備えており、7世紀前半に築造された1号墳は3室からなる立派な切石積みの横穴式石室(『多摩川流域の古墳』所収「多摩川中・下流域左岸の古墳」<寺田良喜/著>)。

大蔵古墳群跡近辺から多摩川方面を望む

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下野田1号墳跡

詳細不明。近くに2号墳もあったというが古墳ではない可能性もある。

 

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13
稲荷塚古墳

7世紀初頭の築造。径13mという小さな墳丘の中に長さ6mの横穴式石室を内蔵。石室は切石積みの精緻なもので、被葬者は終末期における多摩川流域の有力者であることは間違いないが、7世紀初頭といえば、まだ国造制が敷かれている時期で、屯倉や部民との関係を含めて、被葬者がどのような人物であったのか興味深い。

なお、世田谷区立郷土資料館には稲荷塚古墳の模型が展示してあるが、横穴式石室の側壁が墳丘の外に飛び出ている。いったいこれはどういう意味なのだろうか?

 
 
 
世田谷区立郷土資料館にて2022年3月16日に撮影

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天神塚古墳

現況ではほとんど古墳の態をなしていないが、「東京都遺跡地図」によると、横穴式石室を備えているという。墳丘の上に社殿が建てられており、この様子だと石室はすでに破壊されているか。いろいろ詳細不明。

2020年5月1日撮影
2022年3月16日撮影

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33
第六天塚古墳

墳丘の残りはそこそこ良い。

 
 

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大蔵城跡

城主には3説あり、その一つは源義賢説で、この近くにある大将塚という古墳が敷地内にある清水家は、木曽義仲の長子・清水冠者義高(基)の子孫と伝わっている。他は、中世武士石井氏説と、源義朝の家臣・鎌田正清説。城の中心部分はちょうど東名高速が走っているあたりになり、氷川神社の辺りには居館があったのではないかと推測されている(『世田谷の中世城塞』)。

恐らくこの辺りが主郭跡

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世田谷城跡

 
 
 
 
 

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慶元寺

けいげんじ。永劫山花林院と号す浄土宗の寺院で、平安末から中世初頭に江戸の地(今の江戸城周辺)を本貫とした桓武平氏一族江戸氏の菩提寺。

平安末期に「関東八箇国の大福長者」と呼ばれ、その経済力と武力が源頼朝に恐れられた江戸重長の像が建立されており、江戸氏ファンにはたまらない。


2020年5月1日撮影
2020年5月1日撮影
2020年5月1日撮影
江戸重長像(2020年5月1日撮影)

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次大夫堀公園民家園

 
 

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江ノ電601号

 
 
 

20181123


世田谷区立郷土資料館

 
 
 

19990410
20181123
20220316A

 

 

狛江市


弁財天池遺跡

小田急狛江駅の北口ロータリーには縄文時代中期半ばから後半にかけてが主体の集落跡である弁財天池遺跡が広がっている。

往時の河道は現在とかなり違っていて、この場所は旧野川の低地と旧清水川の低地に挟まれた武蔵野台地の東端部分に近い場所で、水が得やすい住みやすい場所だったようだ。

なお、この場所からは弥生時代の方形周溝墓や弁財天池1~3号の3基の円墳が見つかっている。

20220316A

 

 

40+
駄倉塚古墳

狛江古墳群 和泉支群

現在は辛うじて墳丘の残りが確認される程度だが、平成5年の調査によって、元々は推定で40mを越える大型の円墳で、築造時期は出土した円筒埴輪の編年によって5世紀第2四半期と推定された。

狛江古墳群は、5世紀中葉から造営が始まった初期群集墳で、『こまえ文化財ブックレット2 猪方小川塚古墳と狛江古墳群』(狛江市教育委員会/編・2014)によると、元々は推定で60~70基ほどの古墳から形成されており、確認されたのは40基、現在墳丘が残っているのは13基。

この狛江古墳群の中でもその嚆矢といえる古墳が駄倉塚古墳で、当地域における画期的な古墳であると評価できる。

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36
土屋塚古墳

狛江古墳群 岩戸支群

5世紀第3四半期に築造された造出付き円墳。

円丘の直径は33mだが、周囲には幅1.5mのテラスがめぐり、小規模な造出も設けられており、それを大きさに加えると36mとなる。

お隣世田谷区で5世紀前半に造られた野毛大塚古墳は、上毛野との関係が考えられており、土屋塚古墳出土の埴輪の中には上毛野の工人の手によってこの地で作られたと考えられるものがみつかっているほか、河内を起源とする装飾が施された朝顔形円筒埴輪も見つかっている。

造出付近からは、土師器の大型壺や高坏などが出土しており、こういった造出における祭祀も畿内の影響を看取できる。

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40
亀塚古墳

かめづかこふん

狛江古墳群 猪方支群

5世紀末葉に築造された帆立貝形古墳。昔から狛江を代表する古墳の一基として著名だが、現在は墳丘はほとんど残っていない。

上部の木炭槨から出土した金銅製毛彫板金具は、渡来系要素が濃厚。金銅製馬具一式は、奈良県の石光山古墳群の盟主墳とほぼ同じもの(『東京の古墳を探る』)。

なお、2016年2月に訪れた時は、住宅街の中の細い路地の先にほとんど徳富蘇峰揮毫の石碑を建てる分のスペースしかないような狭さだったが、2022年3月に訪れたら古墳公園になっていて驚いた。

20160202D
20220316A

 

 

 

 

 

 

 

 

43
兜塚古墳

かぶとづかこふん

狛江古墳群 和泉支群

6世紀前半に築造された径43mの円墳で、帆立貝式古墳の可能性もある。

周溝まで含めると径70mとなり、狛江市の古墳でもっとも「古墳らしい」堂々とした墳丘。

主体部の調査はされていない。

私は古墳群全体について知っているわけではないので、偶然かも知れないが、5世紀中葉に古墳群の形成が始まって以来6世紀前半までに、駄倉塚古墳、土屋塚古墳、亀塚古墳、兜塚古墳と、40m級のやや大型の円墳の築造が上手い具合につづいており、盟主墳として系列が追えるように思える(時期は不明だが白井塚古墳も同規模)。

この系譜は、5世紀前半の野毛大塚古墳と繋がるのか繋がらないのか。それも含めて興味深い。

なお、敷地の入口の扉が閉まっているため入れないと思うかもしれないが、普通に開けて入ることができる。

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20220316A

 

 

 

 

気持ちよさそうに墳丘で寝ている猫ちん

 

 

 

 

23.5
前原塚古墳

狛江古墳群 猪方支群

20200501

 

 

清水塚古墳群

狛江古墳群 猪方支群

1号墳から3号墳までの3基の古墳が確認されており、1号墳は墳丘が残っているようだが、民家の敷地内にあるようで未確認。

20200501

 

 

15~20
猪方小川塚古墳

狛江古墳群 猪方支群

7世紀第2四半期に築造された円墳。築造時期の根拠は、出土した鉄鏃の形態による。

住宅街の中に小さな公園のような形できれいに整備されており、泥岩製の切石積みの横穴式石室が覆屋の中に保存されていて外から観察できるようになっている。

現在見られるものは全長2.7mの玄室と全長1.8mの前室だが、本来は羨道と前庭部が備わっていたと考えられている。前室の幅は1.1mと狭く、玄室の奥壁も1.36mしかないのが特徴。天井石は見つかっていない。

石室の規模からは広域の盟主墳とは言えず、終末期における周辺の小地域を治めた人物の墓と考えられる。

群集墳としての狛江古墳群は、6世紀半ばには造営が終焉を迎えるようだが、それから少しの空白をおいて同じ場所に終末期古墳が現れているのが興味深い。

7世紀前半の多摩川流域全体を見ると、八王子市の北大谷古墳が流域全体の盟主墳として相応しいが、多摩川流域にはすでに中央政権の力が相当及んでいると考えられるので、単純に北大谷古墳の被葬者の配下と考えるわけにもいかない。



20220316A

 

 

 

 

 

 

40
白井塚古墳

狛江古墳群 和泉支群

昭和51~53年の調査により、径36mの周りに幅2mのテラス部分がめぐる円墳であることが分かった。

テラス部分を墳丘に含めるかどうかは研究者によって意見が分かれると思うが、テラス部分を入れるのなら径40mの大型円墳となる。

民家の敷地内にあり、家主に見学の許可を得るようと思ったが不在だった。

 

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狛江市立古民家園

 

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狛江市役所

狛江市には歴史系の博物館や資料館がないが、教育委員会が作った図書やリーフレットは市役所の2階で入手可能。

 

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調布市


下布田遺跡

20170304D

 

 

 

 


古天神遺跡

布田天神の故地といわれている。

説明板によると、5世紀頃の円形周溝墓が検出されているというが、低墳丘墳ではないだろうか。いずれにしても興味深い。

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44(周溝内径)
狐塚古墳(下布田6号墳)

7世紀前半に築造された円墳だが、墳丘はすでに失われており正確な大きさは不明(現地にも墳丘は無い)。ただし、周溝内径が44mあるため、同じ時期の八王子市・北大谷古墳の39mと比べてやや上回る。

多摩川流域の石室墳は、大雑把に分けると、下流が切石積みで中・上流が河原石積みである。ただし、中・上流であっても北大谷古墳・稲荷塚古墳・府中熊野神社古墳・天文台古墳といった盟主墳は切石積みである。

狐塚古墳の石室は変わっていて、中流域の古墳らしく基本的には河原石積みだが、奥壁のみ切石を積んでいる。

石室形状は、はっきり分かっていないようで、上述の盟主墳はすべて玄室の平面形が胴張になっているが、狐塚古墳は羽子板状で、在地の伝統を残していると考えられ、同時期の北大谷古墳が北武蔵の影響を受けているのとはまた違って地元の伝統を残している古墳といえる(『東京の古墳を探る』松崎元樹/著)。

墳丘規模からすると北大谷古墳より少し大きいが、横穴式石室の全長を見ると、北大谷古墳は10.5m、府中熊野神社古墳は8.8m、狐塚古墳は8.7mということで、北大谷古墳の方が優勢だ。ただし、多摩川流域では3位の長さで決して侮れない。

下布田古墳群の古墳数は説明板には16基とあるが、その後の調べで20基が確認されている。

20170304D

 

 

 

 


布田天神社

 
 

20170212T

近藤勇生家跡

 

20170212T

天然理心流道場 撥雲館

 
 

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調布飛行場門柱

 
 

20170212T


調布市郷土博物館

 

20141120D

 

 

三鷹市


天文台構内古墳

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20240406A

 

 

 

 


出山横穴墓群第8号墓

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20240406A

 

 

 

 

 

 

出山横穴墓群第9号墓

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牟礼砦跡

 

20000102
20010101


天神山城跡

 

20000422


島屋敷

 

20000422


牟礼神明社

 

 

 

20000102
20010101

掩体壕

 

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三鷹歴史文化財展示室 みたかえる

20240406A

 

 

 

 

 

 

稲城市


大丸城跡

 

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稲城郷土資料室

 

20170318D

 

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