最終更新日:2022年10月4日

 ※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
 ※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。

 

昭島市

浄土古墳

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五日市鉄道大神駅跡

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昭島市役所

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青梅市

乗願寺

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青梅郷土博物館

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吉川英治記念館

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国立市

四軒在家古墳

KC461544

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くにたち郷土文化館

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国分寺市

土師竪穴住居跡

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東山道武蔵路跡

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武蔵国分寺跡

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武蔵国分尼寺跡

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国分寺市文化財資料展示室

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武蔵国分寺跡資料館

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鎌倉街道上道跡

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伝祥応寺跡

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本村八幡神社

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真言宗武蔵国分寺

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立川市

立川市歴史民俗資料館

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多摩市

稲荷塚古墳

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小野神社

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パルテノン多摩歴史ミュージアム

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東京都埋蔵文化財センター

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福生市

羽村市

羽村市博物館

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府中市


武蔵台東遺跡

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高倉塚古墳(高倉26号墳)

高倉塚古墳群は、説明板には25基の古墳が確認されているとあるが、2019年に刊行された『新府中市史 資料編1』によると、幅400m、長さ700mの範囲に34基ありすべて円墳。それらのうち28号墳が前期末の築造で、中期の古墳が皆無(市内全体を見渡しても中期は5世紀後半に築造された白糸台1号墳の1基のみ)、残りはすべて後期以降で、市内全体的な傾向として、後期になって急激に古墳が造営されたことが分かる。

なお、多摩川左岸には荏原台古墳群から上流へ向けて、粗密はあるものの古墳が間断なく築造されているのに、高倉古墳群と白糸台古墳群の間は3㎞以上に渡って古墳がまったくない地帯が広がっており、そこには7世紀後葉に武蔵国府が置かれているため、6世紀以降、王権が意図的にその場所を確保していたという考えがある。

その地帯は住居跡は見つかっているが、国府に先立つ先行官衙的な遺構の発見があったかどうかは分からない。无邪志国造を祀る坪宮神社の存在を考えると、无邪志国造の居館があっても良さそうだが、无邪志国造の本拠は府中ではなく、埼玉古墳群の周辺であると考えている。

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高倉20号墳

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首塚(高倉27号墳)

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天王塚古墳(高倉29号墳)

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御嶽塚(御嶽塚5号墳)

西府駅前の一等地にある御嶽塚5号墳は、中・近世にも塚として使われたため、御嶽塚という通称で「古墳」は敢えて付けずに呼ばれている。

御嶽塚古墳群は、幅100m、長さ700mの範囲に20基が分布し、すべて後期から終末期前半の円墳。

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武蔵府中熊野神社古墳

国内に10基ほどしかない上円下方墳。一辺は32mで、終末期の築造。

段丘縁に展開する御嶽塚古墳群から500mほど内陸に入った場所に、ポツンと1基だけ築造されており、終末期の首長墓に多い「ひっそり型」の古墳。

横穴式石室は上総層群から切り出したシルト石の切石切組積みで、玄室・後室・前室からなる3室構造で各室の区切りには門柱石が据えられ、それに気持ちばかりの短い羨道とハの字に広がった前庭部が付く。

石室の全長は8.8mで、両袖式の玄室の平面形は胴張り、壁はドーム状に立ち上がり、天井高は3mある。床面には扁平な河原石が全体的に敷き詰められていたようで、その一部が残っていた。そして、石室の下は深さ2mにも及ぶ掘込地業が行われており、地盤をしっかり作った上に石室が造られていることが分かった。墳丘は寺院の基壇を造るときと同様な版築工法で構築されている。こういったかなり入念で頑丈な作りは終末期古墳に見られるものだが、ここまでしっかり作らなくても従来の工法で古墳は十分丈夫に造ることができる。

棺は残っていないが鉄釘が多量に見つかっていることから木棺であると考えられ、しかも追葬が行われて最低でも2つは据えられていた。

築造時期に関してはそれを決定づける遺物が見つかっていないため断定はできないが、7世紀中葉から後葉の間と考える研究者が多い。

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国史跡武蔵府中熊野神社古墳展示館

武蔵府中熊野神社に隣接する展示施設。実物大のレプリカの横穴式石室もあって入ることができる。切石切組積みの素晴らしい石室をコフンムシちゃんやコウモリさんに怯えることなく安全に見学ができる。

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武蔵国府跡 国衙跡地区

旧甲州街道に並行して見つかった東西方向の2条の大溝と大國魂神社境内で見つかった南北方向の大溝によって、武蔵国府の中の国衙域が、東西約200m×南北約300mの範囲で判明。さらにその内部では100m四方の区画が見つかり、2棟の大型建物跡を検出。位置的に見ると正殿ではないが、正殿に匹敵する大型の建物であることは間違いない。現在は大型建物跡が検出された場所が小さな史跡広場として整備されいる。

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武蔵国府跡 国司館地区(徳川家康御殿跡)

国史跡・武蔵国府跡には、国衙跡地区のほかにもう一か所国司館地区というのがあり、少し前までイトーヨーカドーの駐車場だった場所だが、そこが数年前から整備されている。VRを使った最新の野外展示を見ることができる。

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多磨寺跡

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武蔵国府八幡宮

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大國魂神社

宮之咩神社(2016年9月11日撮影)

由緒によると景行天皇41年(111)の創建。武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。

平安時代には武蔵国の総社となり、一宮から六宮までの6柱の神を祀ったため、六社明神あるいは六所宮と呼ばれた(大國魂神社という社号への変更は1871年)。

ただし、史料上の初見は『吾妻鏡』の寿永元年(1182)8月11日条で、頼朝が政子の安産祈願をした寺社の一つに挙げられていることから、平安末期には、大きな力を持った神社になっていたことは確実。

本殿中殿には、大國魂大神、御霊大神、国内諸神が祀られ、本殿東殿には、一宮・小野大神、二宮・小河大神、三宮・氷川大神が、本殿西殿には、四宮・秩父大神、五宮・金佐奈大神、六宮・杉山大神が祀られている。

現在の本殿は徳川4代将軍家綱の命により寛文7年(1667)に落成。

宮司の猿渡氏は戦国期には土豪として北条氏照に仕えて活躍、北条氏滅亡後は徳川家から500石という破格の待遇を得て、江戸期も土豪時代と変わらない影響力を持っていた。

近代の猿渡氏は歴史学への造詣が深く、境内の発掘を一部許すなどして武蔵国府跡解明に多大に寄与している。

なお、境内社には宮之咩神社があり、上野国の国府跡にある宮鍋神社や、下野国庁のど真ん中(正殿跡)に立つ宮野辺神社と並んで、国府と「みやのめ」の関係は何なのかを考えるのは面白いテーマである。

武蔵国の宮之咩神社の祭神はアメノウズメで、代々の国造が祀っていたと伝わり、例大祭でも他の境内摂社とことなり、宮之咩神社のみ特別に「宮之咩神社奉幣」という神事がある。

ただし、『府中市郷土の森博物館紀要 第15号』所収「国庁跡に建てられた社 -ミヤノメ神社小考-」(深澤靖幸/著)によると、国府が機能していた頃の国府に付随する神祇施設の後継ではなく、総社の制度や一宮の制度ができた11世紀末の頃に総社の機能の一端を担う神社として創建されたと考察している。

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馬場大門のケヤキ並木

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坪宮

つぼのみや

大國魂神社の境外摂社。大國魂神社によると、祭神は、武蔵国造(むさしのくにのみやっこ)に任じられた兄多気比命で、出雲臣天穂日命の後裔にあたる。現在でも5月5日の大國魂神社の例大祭では、御旅所への神輿渡御の際に、大國魂神社より国造代が赴き奉幣を受けて長櫃に収め、それを各社御輿に献ずる国造代奉幣式が行われている。これは大國魂神社がかつて代々の国造から祀られていたことの名残であるという。

「武蔵」という表記は、奈良時代の良字改称以前は「无邪志(むざし)」などと記されていたことが木簡からも分かるが、『先代旧事本紀』によると、无邪志国造は、成務天皇の御代に出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうかもろおしのかむさのみこと)の十世の孫・兄多毛比命(えたもひのみこと)を任じたという(大國魂神社の由緒では、兄多「気」比命、旧事本紀では、兄多「毛」比命)。

武蔵には出雲の神を祀る神社がいまだに多いが、系譜上では无邪志国造は出雲臣と同祖となる。

旧事本紀では、无邪志国造のほかに似ている名前の胸刺国造が記され、兄多毛比命の子・伊狭知直(いさちのあたい)が任じられたとあるが、无邪志国造と胸刺国造は別個の国造とする説と同じ国造のことをさしているという説があり、決着はしていない。

国造がこの地に設置されたのは6世紀前半であると考えているが、「安閑紀」で述べられている「武蔵国造の乱」のもとになる歴史事実が6世紀前半に発生し、それにより无邪志国造に任命されたのは埼玉古墳群の勢力で、初代无邪志国造・兄多毛比の墓は、二子山古墳ではないかと考えている。ただし、埼玉古墳群の勢力はその後、荒川流域だけでなく、多摩川流域にまで影響力を及ぼし、兄多毛比は王権の許可を得たうえで、子の伊狭知直を多摩川流域に送り込み、それが胸刺国造として記録されたのではないだろうか。そして、伊狭知直は自身の父である兄多毛比を祀り、それが現在の大國魂神社のベースになったのではないだろうか。

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称名寺(藤原秀郷館跡)

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高安寺

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分倍河原古戦場跡 

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三千人塚 

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延文之板碑出土之地 

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国鉄下河原線廃線跡 

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府中用水跡

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石橋供養塔

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ふるさと府中歴史館

府中市には郷土の森博物館という立派な博物館があるのに、市役所の近くにはふるさと府中歴史館という施設まである。ただし、こちらは展示施設と呼ぶにはちょっと弱い。

武蔵国府跡を始めとした大量の遺跡発掘調査報告書を閲覧することができるので机上での調査が必要な場合は訪れるといいだろう。


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府中市郷土の森博物館

数年前にリニューアルしてさらに素敵な博物館になった。府中市内の遺跡に関して詳しく説明してあり、武蔵国府跡の展示は巨大なジオラマもあってとくに素晴らしいが、旧石器時代や縄文時代の展示も豊富で、また江戸時代の甲州道中の宿の展示もあり、府中市内のみならず東京の古代史を学ぶ場合は必ず訪れるべき博物館。

ミュージアムショップもあり、書籍などが充実している。

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