最終更新日:2023年6月14日
※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
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目次
品川区
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大井林町2号墳跡推定地および木芽の坂
戦後間もないころまでは破壊の進んだ小型の前方後円墳があったが、その後いつのまにか破壊されて正確な場所さえも不明となった
木芽の坂を登った右側の立会小学校の辺りにあったと推定されている
昭和24年の調査では主体部は粘土槨とあるが、木炭槨の可能性がある。時期や大きさは不詳(『東京の古墳を考える』所収「品川の古墳」<内田勇樹/著>)

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梶原塚稲荷
塚状になっているが、梶原塚稲荷の由来によると、中世の梶原一族を祀る塚である。
古墳を再利用した中世の塚の可能性もあるが、その場合は、規模から見ても6世紀以降の群集墳の一基であると考えられる。ただし、周囲の古墳調査が進んでいないため確実なことはいえない。
近辺には大井林町2号墳があるが、それはおそらく前期の前方後円墳で、梶原塚が古墳だったとしても直接の関連性はないだろう。
あるいは、この地に梶原氏の居館があったと言われているので、土塁の削り残しを利用した塚かも知れない。
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梶原氏館跡および来福寺
来福寺は、梶原氏の創建と伝わっており、来福寺から梶原塚稲荷のあたりに中世の梶原氏の居館があったといわれている。
「役帳」によると、梶原日向守が新井宿(大田区山王・中央)に51貫分、梶原助五郎が馬込に32貫60文の役高を有しており、梶原塚稲荷の由緒から見ると、梶原氏の勢力がこの辺りに及んでいたことが想定できるが、それ以上のことは分からない。
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御殿山城跡
15世紀半ば、太田道灌は御殿山城に居していたが、夢のお告げによって江戸城を築いて移り、御殿山城には宇田川泉守長清を配置したという。
御殿山城があった場所は、品川区北品川4丁目から港区高輪4丁目にかけてといわれている(『日本城郭大系5』)。
現在は行政地名としての御殿山はなくなったが、周囲の施設名などに形跡が多く残っている。


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天妙国寺

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品川歴史館
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渋谷区
渋谷城跡および金王八幡
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渋谷氷川神社
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國學院大學博物館
港区
高縄原古戦場跡
大永4年(1524)、武蔵進出を目論む北条氏綱は、扇谷上杉氏の江戸城を落とすべく北進し、高縄原で両軍は激突した。その場所は、港区高輪3丁目辺りといわれている。勝利した氏綱は江戸城を落とし武蔵統一への大きな足が掛かりとした。
一方、南側には太田道灌が江戸城に入る前に一時的に居したといわれる御殿山城があったといわれている。

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久国神社

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今井城跡

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港区立郷土歴史館


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展示物の写真撮影NG
目黒区
港
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