最終更新日:2024年11月11日
※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。
目次
糸島市
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新町支石墓群・新町遺跡展示館
新町遺跡は、弥生時代の墓域。57基以上の墓が見つかり、支石墓が多数含まれているが、上石がなくなっているものも多かった。棺のほとんどは木棺だが、甕棺が3基含まれる。
24号墓からは磨製石鏃が刺さった状態の人骨(戦死したと考えられる)が検出され、その傍には別人(少年か)の首だけが埋められていた。24号墓は「日本最古の戦死者」と呼ばれており、少年はこの墓の主と敵対した部族の人間との考察がある。
支石墓は弥生時代初期に朝鮮半島から移入された墓制で、地中に遺体を埋葬し、その上に人の背丈以上の石を置き、その石は小さな石を脚のようにして支える。伊都国の範囲以西の北西部九州に濃厚な分布があるが、南は宮古島、東は下関まで確認できる。
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/03/GoogleMap用アイコン_弥生遺跡.jpg)
御床松原遺跡
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/20211121_IMGP5569_御床松原遺跡.jpg)
説明板なし
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/指定_国史跡.jpg)
三雲南小路遺跡
国史跡 三雲・井原遺跡 南小路地区
墳丘は残っていないが、弥生時代中期後半に築造された特定個人墓が見つかっており、伊都国の3つの王墓のうち最古の墓。
発掘調査の結果、東西32m×南北31mの方形の墳丘の周りに幅4mほどの周溝がめぐり、2つの大型甕棺が出土し、1号甕棺には35面以上、2号甕棺には22面以上の前漢鏡が副葬されていた。
これだけ大量の前漢鏡が見つかったのは、ここと奴国の王墓(須玖岡本遺跡 D 地点)のみで、奴国と伊都国が弥生時代中期後半の頃、日本列島を代表する二大強国であったことが分かる。
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井原鑓溝遺跡推定地
18世紀中葉、農作業中に偶然大きな壺、赤い顔料、銅鏡、鎧のような鉄板などが発見されたことが天明年間(1771~78)の記録に見えるが、その後遺跡の場所は不明となっている。しかし、残された絵図によって、銅鏡 21面、巴形銅器などが副葬されていたことがわかり、副葬品の内容から王墓(特定個人墓)があることは間違いなく、伊都国で3つ分かっている王墓の内の2番目となる。
おおよその場所は推定されているが、その後の調査によっても、推定地近辺からはいまだ王墓は発見されていない。ただし、近年の発掘で弥生時代後期の木棺墓が25基、甕棺墓47基、祭祀土坑81基が発見され、伊都国王に仕えた有力者の集団墓があったとことが判明している。
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/指定_国史跡.jpg)
三雲番上遺跡
国史跡 三雲・井原遺跡 番上地区
地表面で観察できるものはなく、説明板や標柱も立っていない。
伊都国内の各遺跡からは外来系土器がよく見つかるが、ここからは特に多
く見つかり、楽浪土器も見つかっていることから楽浪郡からやってきた役人(後漢王朝の役人)が居住していた可能性が高い場所。楽浪土器に関しては、伊都国歴史博物館で実見できる。
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/11/20231112_IMG_3478_三雲番上遺跡.jpg)
説明板なし
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14×10.5
平原王墓
ひらばるおうぼ
平原遺跡からは、5基の墳丘墓が発見され、1号墓は、特定個人墓で、「平原王墓」と通称される。伊都国の3つの王墓の中で最後の墓。
平原王墓の大きさは東西 14m×南北10m と、それほど大きくないが、主体部から出土した銅鏡は40 面で、径46.5㎝の国内最大の内行花文鏡が5面も含まれているという特殊な墓。ちなみに、伊勢神宮の『御鎮座伝記』では、天皇家の三種の神器の一つである八咫鏡の図象は「八頭花崎八葉形」とあり、それに該当するのは日本中探してもここの大型内行花文鏡のみ。
主体部からは、遺体の頭の両耳の位置から耳璫(じとう)が見つかっており、被葬者は祭祀的な
役割を担った女性であることが分かる。耳璫は漢の貴族の女性がつけたピアスで、国内ではここでしか見つかっていない貴重なもの(伊都国歴史博物館にて見られる)。
このような内容なので、卑弥呼の墓という人もいるが、年代的には卑弥呼よりも前の人物で、卑弥呼のお祖母ちゃんの墓かもしれない。
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/GoogleMap用アイコン_博物館.png)
志摩歴史資料館
支石墓を始めとして弥生時代や古墳時代の墓制について詳しく解説している。
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/11/20231112_IMG_3361_志摩歴史資料館.jpg)
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/11/20231112_IMG_3342_志摩歴史資料館-1024x683.jpg)
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/GoogleMap用アイコン_博物館.png)
伊都国博物館
平原王墓から出土した国宝の遺物や実物大の主体部模型が目玉だが、伊都国や糸島市の歴史を知るための豊富な展示がある。
毎年素晴らしい企画展を開催する非常に充実した博物館。
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/08/20170618_IMGP3117_伊都国歴史博物館-1024x683.jpg)
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/11/20231112_IMG_3426_伊都国歴史博物館-1024x683.jpg)
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宇美町
大野城市
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/指定_国特別史跡.jpg)
水城跡
特別史跡・水城跡は、大野城市・太宰府市・春日市にまたがる
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/IMGP5840_水城跡.jpg)
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春日市
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/指定_国史跡.jpg)
須玖岡本遺跡 岡本山地区
D地点で見つかった王墓の上石が移設展示されているほか、甕棺墓群も2つの覆屋の中に展示されている。
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/03/GoogleMap用アイコン_弥生遺跡.jpg)
須玖岡本遺跡 坂本地区
奴国の最重要産業である青銅器の製造工房が見つかった場所で、全国最大級の青銅器工房跡。現地にあるのは説明板のみ。
青銅器の鋳型は全国で 300個ほど見つかっているが、その半数は須玖遺跡群とその周辺から見つかっている。奴国が「弥生時代のテクノポリス」と呼ばれる所以で、青銅器生産は、奴国の経済的豊さの源だった。
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/指定_国史跡.jpg)
須玖岡本遺跡 岡本地区
伊都国と並ぶ強国であった奴国の王墓が見つかった場所。現状ではただの草地だが、より身分の低い人びとの墓よりも低い場所にある立地が面白い。私は、奴国最大の財源である青銅器工場の坂本地区を見守る場所に敢えて占地したのではないかと考えている。
須玖岡本遺跡では、中期になると墓が造られ始め、中期は甕棺墓が主流で、後期には甕棺墓が廃れてきて土壙墓や木棺墓が主体となる。
岡本地区では、300基以上の墓が造られたと考えられているが、他の場所と比べると副葬品を供える墓の比率が高く、高価な朱も多く使われている。そのことから、岡本地区はとくに身分の高い人びとの墓域であったと考えられる。
王墓からは径20㎝を越える草葉文鏡(そうようもんきょう)の破片が見つかり、計3面あったと考えられている。草葉文鏡は、中国では王侯貴族の墓から出土し、それを奴国王が持っていたということは、中国王朝からそれ相応の身分を認定されていたことの証となる。
そうすると、光武帝から金印を授かった人物かと思うかもしれないが、残念ながら西暦 57 年だと王墓の時代とは合わない。
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20231110A
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/GoogleMap用アイコン_博物館.png)
奴国の丘歴史資料館
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/10/20170618_IMGP3192_奴国の丘歴史資料館.jpg)
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糟屋町
志免町
須恵町
太宰府市
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/指定_国史跡.jpg)
大宰府学校院跡
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/10/20210810_IMGP5918_大宰府学校院跡-1024x683.jpg)
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/08/20210810_IMGP5919_大宰府学校院跡-1024x526.jpg)
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御笠団印出土地
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/08/20170618_IMGP3035_御笠団印出土地-1024x683.jpg)
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/GoogleMap用アイコン_神社.png)
太宰府天満宮
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/08/20181231_IMGP2680_太宰府天満宮.jpg)
20181231
20190102C
20240124
福岡市早良区
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/07/GoogleMap用アイコン_古墳時代遺跡.jpg)
西新町遺跡
朝鮮半島の土器や住居跡が見つかることで有名だが、畿内を含めて列島各地の土器も見つかることから、列島諸勢力が間借りしていた交易のために港湾施設ではないかと考えている。
現地には説明板の一つもないが、福岡市博物館にてパネル展示と遺物で解説がある。
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/20211120_IMGP5013_西新町遺跡.jpg)
20211120A
説明板なし
元寇防塁跡
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/08/20211120_IMGP5018_元寇防塁跡.jpg)
20211120A
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/GoogleMap用アイコン_博物館.png)
福岡市博物館
福岡市の歴史を総合的に解説している博物館で、有名な国宝・金印のほか、奴国の領域にある
遺跡についての展示がある。
古代史だけで全体の展示の1~2割くらいのイメージ。
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/08/20170618_IMGP3051_福岡市博物館-1024x683.jpg)
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/08/20170618_IMGP3088_福岡市博物館-1024x683.jpg)
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福岡市中央区
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/指定_国史跡.jpg)
福岡城跡
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/08/20190102_IMGP2837_福岡城跡-1024x665.jpg)
20190102
福岡市西区
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/指定_国史跡.jpg)
吉武高木遺跡
よしたけたかぎいせき
🅿あり
🚻あり
国内最古級の王墓が見つかった遺跡。甕棺墓の説明に非常に力が入っており大きな「甕棺愛」を感じることができる。
「サワラ国」と仮称される国があったと思われるが、魏志倭人伝の時代には奴国の一部になっていたと考えられている。
吉武高木遺跡からは弥生前期末から中期末にかけての甕棺墓や木棺墓、土壙墓が見つかっており、それらのなかで一辺20m の範囲で特に厚葬の箇所があり、その範囲は特定集団墓と考えられている。
特定集団墓内にある3号木棺墓からは、いわゆる三種の神器に相当する鏡、剣、玉が出土し、鏡は国内で出土する銅鏡の中でも最古の部類となる多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)も見つかっている。
3号木棺墓は副葬品の内容から王墓と考える研究者もおり、そうだとすると国内最古の王墓となる。また、大型建物跡も見つかっており、近くの吉武樋渡遺跡でも特定集団墓が見つかっている。
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20180708C
20211121A
20231112A
丸隈山古墳
まるくまやまこふん
今宿古墳群
5世紀前半に築造された前方後円墳。初期横穴式石室が見られるのも貴重だが、石棺が中央に仕切りを設けた2人用の組合式箱形石棺でこれまた珍しくて貴重な古墳。
🅿なし
🚻なし
20241021
53+
兜塚古墳
かぶとづかこふん
今宿古墳群
5世紀後半に築造された帆立貝形古墳。この時期に普通の横穴式石室があるのは流石福岡だが、帆立貝形古墳が普及した5世紀には本州ではまだ横穴式石室が造られていないため、「帆立貝形古墳の横穴式石室」に入れるという点でも貴重。
🅿なし
🚻なし
20241021
福岡市博多区
板付遺跡
昭和53年に国内最古級(弥生早期)の水田跡が確認された学史上著名な遺跡で、佐賀県唐津市の菜畑遺跡と並ぶ国内最初期の灌漑水田跡。
水路の構築を含め、そのアーキテクチャーは現在の灌漑水田とほぼ変わらない。
環濠集落が復元されており、平面形は南北方向に長い卵形で長径は110m、環濠内の建物配置は不明だが、貯蔵穴(後述)が検出されている。入口が南西側に一か所確認されており、現在の復元と同じ場所だ。
ただし、早期に水田が営まれた当初はまだ環濠集落はなく、今見られる環濠集落の北側約100m の位置に集落があり、前期初頭になって今見られるような環濠集落が営まれ始めた。
環濠の北西部には半月状に区画されたエリアがあり、そこからは貯蔵穴が多数見つかっている。そのエリアには入口は一か所しかなく、村の大事な物を保管しておく場所だったのだろう。
環濠北側の外側では、「選ばれた子供の墓」と呼ばれる甕棺墓群が見つかっている。
早くから先進文化をなした板付遺跡だったが、環濠は中期には埋没する。ただし、その後も集落は存続し、邪馬台国時代には奴国内の一農村と化して残る。
なお、環濠集落の南西側の道路を渡った向こう側に水田跡が保存されたエリアがあり、説明板が設置されている。ただし、目で見られるものはとくにない。
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/01/GoogleMap用アイコン_弥生墳丘墓.png)
田端の墳丘墓
板付遺跡の環濠の外側には、能古島(のこのしま=博多湾に浮かぶ島)産の砂岩製の大石が安置されている。
元々は田端という場所にあった円墳状の墳丘墓の上に置かれていたもので、田端の墳丘墓からは甕棺が6基が見つかり、そのうちの3基の中からは、銅剣3本と銅矛3本が
見つかっている。
このことから田端の墳丘墓は特定集団墓と考えられるが、築造時期は弥生前期末から中期初頭で、特定集団墓としては最古級のものとなる。なお、田端の墳丘墓の元々の位置は現在不明。
大石を墳丘上に安置する手法は、須玖岡本遺跡の王墓と同じ文化系統と考えられ、支石墓の影響かもしれないが、弥生前期に流行した支石墓は早良平野より西側の方が分布が濃く、奴国(福岡平野)の本流の文化ではない。
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/GoogleMap用アイコン_博物館.png)
板付遺跡弥生館
福岡市博多区板付3-21-1
092-592-4936
板付遺跡の大きなジオラマがあり、遺跡についてビジュアル的に理解し易い。夜臼式や板付式の土器も展示してある。
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/指定_国史跡.jpg)
金隈遺跡・甕棺展示館
かねのくまいせき
弥生時代前期の中頃から後期の前半まで営まれた共同墓地跡。348基の甕棺墓と119基の土壙墓、2基の石棺墓が発掘され、甕棺墓からは136体の人骨が出土。
甕棺展示館では墓域の一部の復元を見ることができる。
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/07/GoogleMap用アイコン_古墳時代遺跡.jpg)
比恵・那珂遺跡群
ひえ・なかいせきぐん
比恵遺跡群と那珂遺跡群を一括して比恵・那珂遺跡群と呼ぶ。弥生時代開始時期の前9世紀には、日本最古の環濠集落が造られた遺跡。目で見られる遺構はない。
弥生時代中期以降に奴国の中心であった須玖岡本遺跡は、弥生末には衰退するが、それに代わって比恵遺跡群では遺構が激増し、邪馬台国時代の奴国の中枢は比恵・那珂遺跡群であったと考えられている。その中には、弥生時代後期から古墳時代前期までの首長居館の区画と考えられる大規模な方形区画溝が見つかっている。もしかすると、卑弥呼を補佐した難升米の居館かもしれない。
説明板はない。
20211119A
86
那珂八幡古墳
現状は前方部が消滅している。葺石は確認されていない。
邪馬台国問題を考える上で外せない古墳。なぜかというと、九州最古級の古墳であり、弥生時代から古墳時代に移り変わる時期に築造された古墳だからだ。従来は、いわゆる「纒向型前方後円墳」と言われていたが、平成30年度の確認調査で、後円部と前方部の比率は、いわゆる「纒向型前方後円墳」の「2:1」ではなく、九州の古式古墳に多い「5:2」であることが明らかになった(そもそも、現在では「纒向型」という定義が崩壊していることは多くの研究者が理解していることだが)。
三角縁神獣鏡が出土していることから前期でもワンテンポ遅れた築造だと思われるかもしれないが、三角縁神獣鏡は、第二主体部から見つかったもので、初葬者が埋葬された第一主体部は神社の社殿直下にあるため未発掘。
20180824
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福岡市東区
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2022/02/GoogleMap用アイコン_遺跡.png)
金印公園
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/08/20201002_IMGP1060_金印公園.jpg)
20201002
20201030C
20201204C
20210327C
20211211C
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![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/07/GoogleMap用アイコン_城.png)
名島城跡
![](https://www.takaobakufu.com/wp-content/uploads/2023/11/20231111_IMG_3054_名島神社・名島城跡-1024x683.jpg)
20231111
福岡市南区