最終更新日:2022年7月29日

縄文時代中期(5500年前~4500年前)

 中期は、早いもので縄文時代になってからもう1万1000年経っています。一世代が20年だとしたら、550世代となります。こんな数字を聞いてもピンときませんね。

 縄文時代中期は前期に引き続き、東日本各地は人びとが生活しやすい気候でした。

『環境と文明の世界史』(石弘之・安田喜憲・湯浅赳男/著)より加筆転載

 中期という時代が縄文時代の中でもっとも人口が多かったことは、東日本各地で発見される住居跡の数から推測できます。下のグラフは東京都の多摩ニュータウン遺跡群の遺跡数と竪穴住居跡数を表したグラフです。

東京都埋蔵文化財調査センターにて撮影

 次のグラフは、八ヶ岳西南麓の場合です。

長野県立歴史館にて撮影

 八ヶ岳西南麓はとくに極端に中期の人口が多かった地域です。このように、人口の多さに加え、火焔土器に象徴されるような派手なデコレーションの土器が造られたこともあり、中期は非常にバブリーなイメージがあります。

遠野まちなか・ドキ・土器館にて撮影(右側のバブリーなおっさんが「縄文のビーナス」に似ている土偶を抱えていることから、ミラーボールが回るこのクラブは八ヶ岳西南麓にあったのではなかろうか)

 この時期、関東や甲信越では非常に派手な装飾の土器が造られますが、そういったものは生活が豊かでないと造ることはできないと考えられ、実際にこの頃の人びとの生活は縄文時代の中では豊かな方であったのでしょう。

 ただし、西日本では決して人口が多くはなく、例えば九州においてもあまり人間活動が活発でなかったことは、中期の土器の展示がほとんどない熊本博物館のこちらの展示でも分かります。

熊本博物館にて撮影

 

縄文時代中期の関東地方

 縄文土器の編年化(土器の型式を決めて古い順に並べて行く)は、明治時代から土器の研究をリードしてきた関東地方の土器を中心に行われてきたため、関東地方は他地域と比べて編年が精緻です。そしてその中でも中期は非常に細かく定義されており、例えば関東の研究者が使う「新地平編年」を示すと以下のようになります。

『新八王子市史 通史編1 原始・古代』(八王子市史編集委員会/編)より転載

 一つの型式の時間幅が短いものでは20年となっており驚きを禁じえませんが、これを基準にしてこれから述べて行きます。なお、注意しなければならないのは、関東甲信地方で前葉、中葉、後葉と表現した場合、上の表で分かる通り、それらは中期を綺麗に3等分した時間の長さではなく、前葉が極端に短いことです。ですから、前葉と中葉を中期前半、後葉を中期後半と呼ぶ場合もあります。

 ややこしいのですが、上の表の説明では、勝坂式を1から3までの3つの型式で分けています。ところが、勝坂式はⅠ式からⅤ式まで5つに分類する研究者もいます。中期は、前葉から中葉にかけては、前期と同じく、大雑把に言って東関東と西関東では土器の様相が異なりますが、Ⅰ式からⅤ式に分類した場合で、それに東関東の土器型式を新地平編年に対応させると以下のようになります。

1a・1b / 五領ヶ台Ⅰ式 / 八辺式
2・3a・3b・4a・4b / 五領ヶ台Ⅱ式 / 阿玉台Ⅰa式
5a・5b・5c / 勝坂Ⅰ式 / 阿玉台Ⅰa式
6a・6b / 勝坂Ⅱ式 / 阿玉台Ⅰb式
7a / 勝坂Ⅲ式 / 阿玉台Ⅱ式
7b・8a・8b / 勝坂Ⅲ式 / 阿玉台Ⅲ式
9a / 勝坂Ⅳ式 / 阿玉台Ⅲ式
9b / 勝坂Ⅴ式 / 阿玉台Ⅳ式
9c / 中峠式 / 中峠式?

 だんだん訳が分からなくなってきました。こういうのは図化しないとダメですね。後日、作ります。

 なお、阿玉台式は、考古学の世界では伝統的に「おたまだい」と呼ばれてきましたが、最近の研究者は普通に「あたまだい」と呼ぶことが多い印象を持っています。

 

勝坂式土器の世界

 上の表で言うところの約480年間使われ続けた勝坂式土器は、関東甲信を代表する土器型式の一つです。標式遺跡は神奈川県相模原市南区の勝坂遺跡。大山巌元帥の子で軍人を辞めて考古学者として名を馳せた大山柏が発見した土器が勝坂式土器と命名されましたが、その記念すべき土器は空襲で大山柏の大山史前学研究所が破壊され無くなりました。

勝坂遺跡(神奈川県相模原市南区)

 勝坂式土器は関東甲信各地の考古系の博物館や資料館などに行けばほぼ必ず展示してありますが、勝坂遺跡がある相模原市の市立博物館にも写真は撮りづらいですが、良い土器が展示してあります。

大日野原遺跡出土・人体装飾付深鉢形土器(相模原市立博物館にて撮影)

 人間のような何かが器面一杯に貼り付いている土器で、いきなり強烈な土器をお見せしましたが、強烈なのが勝坂式土器の特徴で、個人的には日本で一番面白い土器様式ではないかと思っています。

 勝坂式土器の特徴の一つは、器面を区画して文様を施すところです。上の土器も人間のようなものが貼り付きつつ、その体躯によって区画を構成して、その中に文様を施しています。文様は縄文ではなく、沈線です。研究者によっては、この区画一つ一つにストーリーが込められており、自分たちの部族の歴史を後継者に語るときに、土器を見せながら説明していったと考える者もおり、私もこの説には賛同していて、縄文時代は文字は無いのですが、勝坂式土器文化圏の人たちは、ある種の絵文字のようなものを理解していたのではないかと考えています。

 勝坂式土器では、ついに土器と土偶を融合させてしまいました。

大日野原遺跡出土・土偶装飾付深鉢形土器(相模原市立博物館にて撮影)

 縁の部分に内側を向いて土偶がいるのです。温泉に浸かって気持ち良くなっているイメージではありませんよ。土偶は中で煮られる大切な食べ物を見守ってくれていて、なんだかより美味しくしてくれたり、栄養分をアップしてくれそうな気になります。裏から見るとこんな感じ。

大日野原遺跡出土・土偶装飾付深鉢形土器(相模原市立博物館にて撮影)

 キャプションによると、勝坂式の終末期の作だそうです。

 都内では、多摩ニュータウンの遺跡から出た遺物を展示している東京都埋蔵文化財センターに普通の勝坂式土器が展示してあるので見てみましょう。

稲城市・多摩ニュータウンNo.471遺跡出土の深鉢形土器(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 上の2つの土器に比べたら普通ですね。勝坂式土器の特徴の一つは、器面を区画することであることは既述しましたが、この土器には楕円形の区画があり、勝坂式土器でもっともポピュラーな区画文様はこの楕円形です。

 群馬県は古墳王国として有名ですが、縄文遺跡もたくさんあって、勝坂式土器の優品も見つかっています。

渋川市・三原田諏訪上遺跡出土の深鉢形土器(渋川市赤城歴史資料館にて撮影)

 上の土器も区画化して文様を施していますね。群馬県渋川市周辺は焼町式土器の文化も入ってきており、勝坂式とはいえ、こんな風合いの土器も出ています。

渋川市・道訓前遺跡出土の勝坂3式の深鉢(渋川市北橘歴史資料館)

 これが勝坂式なの?と思いますが、資料館がそういうのだからそうなのです。渋川市には焼町式土器勢力もいますので影響を受けたのでしょう(焼町式土器については後述します)。

 以上、関東各地で見られる勝坂式土器を何点か見ましたが、一度に多くの優品を見たいという欲張りな方は、関東から出て山梨県や長野県へ行くとさらに良い出会いが待ち受けています。まずは何としても絶対に訪れて欲しいのは、甲府市にある山梨県立考古博物館です。本数は少ないし、片道30分くらい掛かりますが、甲府駅からは路線バスでも行けますので頑張って行ってみてください。

 同館の縄文時代の遺物のメインは、笛吹市・一の沢遺跡と北杜市・酒呑場(さけのみば)遺跡から出土した遺物たちで、重要文化財に指定されています。両遺跡とも中期の遺跡で、土器は勝坂式土器が多いです。

 楕円形区画が好きすぎて、というか何かを強調したくて下の土器みたいになることもあります。

酒呑場遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 さきほどは、器面一杯の人間のような文様の土器をお見せしましたが、元々は一本の棒のようなものを貼り付けることから始まっており、最初はこういう感じでした。

酒呑場遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 これだと単なる太い紐のようなものに見えますが、これの先端に頭ができると蛇のようになってきて、そういう文様がどんどんエスカレートしていくことになります。

 こちらの土器は勝坂式なのでしょうか?

酒呑場遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 「なのでしょうか?」って反対に質問してしまってスミマセン。勝坂式土器の特徴の二つ目として、縄文をほとんど使わないことが言えます。でもこの土器は地に縄文で文様を施していますね。この土器の正体はまた今度調べてみます。

 下の土器はまるで革製品のような質感で作られています。

笛吹市・一の沢遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 土器の中には編み籠のような植物製品をイメージして作られたものが見受けられますが、このように革製品のような風合いのものも見ることができ、縄文人はそういった実際に使っているものを土器で再現しようとしたのではないかと考えられます。

 下の土器には把手のようなものが付いていますが、強度的に把手としては使えないと思います。

笛吹市・一の沢遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 縄文土器を見るときは、現代の私たちが思いつくような合理性とか実用性の目で見てはいけません。そういうのを超越したところに彼らは存在します。

 今まで紹介した土器は勝坂式ではあるものの細かい時期までは私の力では明確にすることはできませんでした。ただ、いろいろな資料を見ていると、勝坂式土器が造られ始めて100年くらい経った勝坂Ⅲ式(藤内式)から以前にも増して芸術性の高いものや面白いものがたくさん作られるようです。下の土器も勝坂Ⅲ式土器です。

長野県富士見町札沢遺跡出土・動物装飾付釣手土器(長野県立歴史館にて撮影)

 勝坂式土器文化圏の人たちは、虫や爬虫類やイノシシなどの様々な動物を土器にあしらうのが好きで、これは他の地域にはそれほど見られない特徴です。

 反対側から見ると、この謎の生き物がもう一匹いて、他の3匹に「ちょっと待ってよー!」と言いながら必死に追い付こうとしているようにも見えます。

 この謎の生き物は何でしょうか?

 『進化する縄文土器』(長野県立博物館/編)の解説によると、生まれた直後のマムシのようだし、ツチノコのようだともしています。ツチノコは幻の生き物で、私が子供の頃もツチノコ探しが小さなブームになったことがありました。マムシの子だとすると健気に生きようとする生命の力を感じます。縄文人はもしかしたら現代の私たち以上に生き物の姿を見て感動したり不思議に思ったりすることが多かったかもしれず、その中でも勝坂の縄文人はその気持ちを土器に表現することに長けていたのかもしれません。


 中期後葉になると、西関東も加曽利式土器の文化圏に飲み込まれますが、後述する通り、加曽利E1式は、南東北の大木8式土器の南下によって形成されたもので、その文化がついに関東地方全体を席巻してしまうのです(中期後葉は後日書きます)。

 

縄文時代中期の八ヶ岳西南麓地方

 縄文時代中期には、長野県から山梨県にかけての八ヶ岳西南麓地域に「縄文王国」とも形容できる一大文化地域が形成されます。その地域は、早期にはほとんど集落らしきものがなく、前期に入ってもまだ大きな発展が無かったのですが、前期終り頃の諸磯c式期から一気に集落数が増加し、中期になると本格的な縄文文化が栄えました。ただしそれも後期には一気に衰退するので、この地域が栄えた時代はおおよそ1000年間ということになります。

 長野県には井戸尻遺跡という学史的にも非常に重要な遺跡があり、膨大な調査の蓄積があります。そのため、井戸尻編年というものが確立されており、上述した関東地方の前葉・中葉の土器編年に井戸尻編年を加えると以下の通りです(左から新地平編年、井戸尻編年、西関東、東関東)。

1a・1b / 久兵衛尾根Ⅰ式 / 五領ヶ台Ⅰ式 / 八辺式 ・・・ 30年間
2・3a・3b・4a・4b / 久兵衛尾根Ⅱ式 / 五領ヶ台Ⅱ式 / 阿玉台Ⅰa式 ・・・ 60年間
5a・5b・5c / 貉沢(むじなさわ)式 / 勝坂Ⅰ式 / 阿玉台Ⅰa式 ・・・ 60年間
6a・6b / 新道(あらみち)式 / 勝坂Ⅱ式 / 阿玉台Ⅰb式 ・・・ 40年間
7a / 藤内Ⅰ式 / 勝坂Ⅲ式 / 阿玉台Ⅱ式 ・・・ 30年間
7b・8a・8b / 藤内Ⅱ式 / 勝坂Ⅲ式 / 阿玉台Ⅲ式 ・・・ 170年間
9a / 井戸尻Ⅰ式 / 勝坂Ⅳ式 / 阿玉台Ⅲ式 ・・・ 80年間
9b / 井戸尻Ⅱ式 / 勝坂Ⅴ式 / 阿玉台Ⅳ式 ・・・ 80年間
9c / 井戸尻Ⅱ式 / 中峠式 / 中峠式? ・・・ 20年間

 本当に図化しないとヤバいです。

 長野県の博物館や資料館へ行くと、勝坂式で記している施設と井戸尻編年で記している施設がありますので、時期が分からなくなったときは上述した内容で対応してください。

 中期前半の遺物の中でもとくに有名なものとして、長野県茅野市の棚畑(たなばたけ)遺跡から出土した国宝土偶の第1号「縄文のビーナス」を挙げることができます。

 顔の作りはこの時期の土器に見られる顔面把手と同じです。全体的にキラキラしている感じがするのは、胎土に金雲母が混ざっているからですが、同じ文化圏でも関東西部から出る勝坂式土器には、金雲母がほとんど混ざっていません。

 縄文のビーナスが作られた時期に関しては、様々な研究者が持論を展開していますが、鵜飼幸雄氏は、『シリーズ「遺跡を学ぶ」071 国宝土偶「縄文ビーナス」の誕生』の中で、貉沢式期の所産としています。

 

縄文時代中期の南東北

 南東北では前期に引き続き、大木式土器が造られます。大木式土器の13型式の中で、7a式以降が中期の土器となります。

 7式期には関東地方の五領ヶ台式土器が流入し、その影響を受けた五領ヶ台式土器のような大ぶりな波状口縁を持ち、体部下半分がシェイプされた土器が造られます。

 縄文土器の代名詞のように有名な火焔土器は新潟県を中心とした信濃川流域の土器ですが、関東甲信の中期中葉の勝坂式土器もそれに負けない技巧の派手な土器です。全国を見渡すと、関東甲信越以外にはそれほど派手な土器は作られませんが、東北の土器も他の時代と比べるといくらか派手になります。

 8式期には、新潟の火焔土器の影響を受けて把手部分が多少派手になります。そして大木式の中でもこの時期の土器は大きなものが多く、恐らく国内最大ではないかと思われる、高さ93㎝の深鉢も作られています。

盛岡市大館町遺跡出土の大木8b式土器(盛岡市遺跡の学び館にて撮影)

 土器だけ撮っても大きさが今一伝わりませんが、これではいかがでしょうか。

盛岡市大館町遺跡出土の大木8b式土器と人間(盛岡市遺跡の学び館にて撮影)

 いや、やっぱり写真だと大きさが伝わらないですね。ぜひ、遺跡の学び館で現物を見て驚いてください。出土した遺跡は岩手県の遺跡なので厳密には南東北ではありませんが、大木式勢力はこの頃から北へ影響力を強めていきます。さらに反対方向の南にも勢力を伸ばし、上の土器もそうですが、下の土器も口縁部分の装飾や全体的なシェイプは関東の人にとっては良く見るデザインじゃないでしょうか。

大木囲遺跡出土の大木式8b土器(七ヶ浜町歴史資料館にて撮影)

 そう、加曽利E式に似ていますね。

加曽利貝塚出土の加曽利E1式土器(千葉市若葉区・加曽利貝塚博物館にて撮影)

 加曽利E式は、大木8式の影響のもと成立したと考えられており、このように南北に猛威を振るった大木8式土器のことを私は「縄文時代の伊達政宗」と呼んでいます。

 大木式は、9式、10式で終わります。

 

中期後葉の関東甲信地方

 縄文時代の伊達政宗の登場による影響は、関東甲信地方へも波及します。

 中期中葉には、関東西部と甲信地方は勝坂式土器を作る文化圏としてまとまっていましたが、後葉になると関東東部から加曽利E式土器が西へ向かって勢力を伸ばしていきます。西関東は一時期、勝坂式と加曽利E式が併存しますが、勝坂勢力の退勢は覆うべくもなく、やがて加曽利E勢力によって関東地方から勝坂式土器は消え去りました。

 一方、関東の仲間が加曽利E式を使い始めて独自のアイデンティティを無くしていったころ、甲信地方の勝坂勢力は、加曽利E勢力の侵攻を防ぎ、勝坂式土器をヴァージョンアップしたような曽利式土器という型式の土器にチェンジしていきます。ここにおいて関東と甲斐は文化を異にするに至ったのです。曽利式の流れから、かの有名な水煙文土器が誕生しますが、水煙文土器は、「縄文時代の武田信玄」とも言うべき土器で、新潟の火焔土器、すなわち「縄文時代の上杉謙信」と雌雄を決すべく川中島へ向かいます。

 あ、言い過ぎました。なんでも戦国武将に例えれば良いということでもありませんが、あくまでもイメージとして持っていただくと、各地方の勢力の盛衰を楽しめるのではないかと思います。ただし、縄文時代は組織だった戦いがあった証拠がありませんので、土器の流れは人の流れで、もっと言えば婚姻関係を探ることもでき、平和的な流れですよ。

 さて、話を戻しますが、信州で曽利式土器が発生しても、同じ信州でも松本盆地や伊那谷の方では、唐草文土器様式という独自の土器を作り、曽利式に同調することを拒否します。

唐草文土器を使った埋甕のイメージ(松本市立考古博物館にて撮影)

 唐草文土器をもう一つ。下の土器は、飯田市の土器です。

飯田市・増田遺跡出土の深鉢(飯田市考古博物館にて撮影)

 唐草文土器の特徴は、勝坂式土器のように区画を作らず、土器全体に渡って流れる唐草模様のような文様を施すところにあります。そして、地には縄文を使わず、沈線によってラインを描いています。

 下の土器は埋甕です。

飯田市・平畑遺跡出土の埋甕(飯田市考古博物館にて撮影)

 粘土紐によるダイナミックなデコレーションですが、勝坂式と比べると、区画に捕らわれないダイナミックな装飾です。区画内は沈線によって埋める場所もあれば、区画内が無文の場所もあってメリハリを付けています。埋甕だからかもしれませんが、かなりマジカルな装飾に見えます。

 唐草文土器は文様を沈線で施す場合もあります。

平出遺跡出土・唐草文深鉢形土器(塩尻市立平出博物館にて撮影)

 また長野北部から群馬西部にかけては、焼町(やけまち)式土器という、勝坂式土器とはまったくデザインの志向性の異なる土器を作ります。

 下の土器は東信地方の上田市内の土器です。デコレーションの感じが勝坂式土器なのですが、区画にあまりこだわっているような感じがしないため、焼町式かなとも思いました。

長野県佐久市・寄山遺跡出土の深鉢(佐久市考古遺物展示館にて撮影)

 展示のキャプションには、勝坂式土器と記してありますが、別のパネルに焼町式の影響を受けているとも記してあります。

 なお、松本盆地では、唐草文土器様式と焼町式土器が混在した状況が見られます。中期後葉の関東甲信地方は群雄割拠状態を呈してきました。

 

縄文時代中期の北東北

 北東北の前期後半は円筒下層式土器が造られましたが、中期になると円筒上層式土器が造られます。前期のページでも紹介しましたが、さんまるミュージアムのものを再掲します。

 この3つの内、真ん中と右側が円筒上層式です。