最終更新日:2022年8月6日

縄文時代とは

 明治10年に大森貝塚を発掘したモース博士は、見つかった土器のことを論文の中で「cord marked pottery」と記しています。これが縄文土器という呼び名の語源です。

東京都品川区の大森貝塚遺跡庭園で今もなお土器を見てうっとりしているモース博士

 古い書物には「縄紋」と記されているものもあり、従来は「縄文」と「縄紋」の字をきちんと使い分けていましたが、現在では「縄文」の字をあてることが一般的です。その縄文土器を使用した時代であるため、縄文時代と呼ばれるようになり定着しました。ところが、現実には縄によって文様を付けない土器もかなり多く、縄文土器だからといって、必ず縄による文様が施されているわけでもないということを最初に覚えておいてください。

 縄文時代を語るうえでは、他の遺物と比べて出土数がはるかに多い土器を中心に述べることになります。ですから、土器の面白さに目覚めてしまった人は、縄文時代の虜になってしまいます。他の遺物としては、土偶も大人気ですが、土偶を文様や製作技法という観点から見た場合は土器とは不可分の関係ですから、土器を知っていると土偶もより楽しめます。その他、縄文人は生活に必要な道具や装飾品、得体のしれない物体など、土や石を材料に様々なものを作りました。木製品などの植物製品もたくさん作っていたはずですが、そういったものは通常は土に溶けてしまうため、遺存のための条件が整った特別な場所(湿地や貝塚など)以外からはほとんど出土しません。

 こういった遺跡から出土する品々のことを遺物(いぶつ)と呼びます。「出土品」と呼ぶより遺物と呼んだ方がプロっぽいので使ってみてください。

 縄文時代の遺跡からは、竪穴住居跡や何か分からない人工的な穴などが見つかります。こういったものを遺構(いこう)と呼びます。遺構が見つからず、遺物だけが見つかることもあります。考古学初心者の方は、まずは遺跡、遺構、遺物のこの3つの言葉を自然に使えるようなりましょう。

 遺構としての代表的なもとしては、今言った住居跡があります。竪穴住居はその名の通り、地面を掘って作るため見つかりやすいですが、地表面に柱を立てて作る平地建物はほとんど見つかりません。そのため、縄文人の住処は竪穴住居と決めつけがちですが、竪穴住居は冬の寒さには強くても煙が室内に充満すると住みづらいです。夏は多湿な日本では室内にカビが発生して、カビを防いだり虫を殺したりするために住居内で火を焚くと暑くて住んでいられないはずなので、住居に関してもっと追求しないとなりません。その際には、炉(ろ)という火を焚く装置に関しても同時に考えるべきです。夕飯の支度は家の中でするものだというのは現代人の発想です。なお、日本で竈(かまど)が普及するのはずっとあとの古墳時代中期(5世紀)です。

 遺跡を掘ると、(土・どこう)と呼ばれる一見すると「ただの穴」も多く見つかります。ただし、現状はただの穴に見えるだけで、本来は墓だったかもしれません。列島各地の多くの土地は酸性土壌なので、植物と同様で骨も溶けてなくって見つからないことが多いですし、縄文時代はまだ副葬品を入れることも多くありません。土坑が墓である証拠が見つかったときは、それを土坑墓(どこうぼ)と呼び、土抗墓は縄文時代の一般的な墓の様式です。

 本稿では土器や土偶などの遺物を中心に縄文時代の歴史を追いかけて行きます。土器が登場してから縄文時代が終わるまで約13,600年の時間が流れますが、その長い年月で土器はどのように変化していったのかを見て行くと私たちの先祖への愛情や尊敬の念も高まると思います。

発掘現場で自撮りする稲用

 

縄文時代の時代区分と実年代

 縄文時代は下表のとおり、6つに区分することが一般的です。実年代に関しては、研究者によって考え方が変わり、下表のものは考え方の一つだと思ってください。時代ごとの特徴とともにそれらを示します。

時代区分実年代特徴
草創期16,500年前~11,500年前・青森で国内最古の土器が誕生
・当初は現在よりも5℃ほど低く雨も少なかった
・15,000年前以降、温暖化が始まり徐々に気温が上がる
・13,000年前くらいに世界的にはヤンガードリアスと呼ばれる寒の戻りが来るが日本への影響は少なかった可能性がある
・定住化が始まるがほとんど進まない
早期11,500年前~7,300年前・再び気温がどんどん上昇し、海面高度が上昇する
・8000年前ころに寒の戻りがあり、北海道北部に大陸系の石刃鏃文化が一時的に繁栄
前期7,300年前~5,500年前・ヒプシサーマル(気候最温暖期)を迎え、現在よりも2℃ほど高くなる
・早期にも増して海面高度が上昇して現代よりも海が広くなり、縄文海進と言った場合はこの時期の海進を指すことが多い
・多数の貝塚が現れる
・定住が普及しムラらしいムラが現れる
中期5,500年前~4,500年前・最も過ごしやすかった時代で、関東甲信越ではとくに派手な装飾の土器が造られる(関東甲信の勝坂式土器や信濃川流域の火焔土器が有名)
後期4,500年前~3,500年前・寒冷化へ向かい、北東北や北海道では大きなムラが消える(三内丸山遺跡も消滅)
・その後再び気温が上昇し、縄文後期海進が起きる
・呪術的に見える道具が多く出現し、ストーンサークルが盛行
晩期3,500年前~2,900年前(紀元前10世紀)・現在より2℃低くなる
・津軽発祥の亀ヶ岡文化が西日本にまで波及
・これまでは東西の人口比(遺跡比)が極端に東日本に高かったのが、西日本の比率が急に高まる

※私は今までは早期と前期の境界を7,000年前と説明してきましたが、後述する通り、早期と前期との境界の指標となる鬼界カルデラの噴火が7,300年前ということが判明したため修正します。
※沖縄地方に関しては、列島の他地域とは異なる文化的推移があるのですが、本稿では触れずに論を進め、稲用の沖縄地方に対する知識と経験が増えてきた段階で追記しますのでご了承ください。
※縄文時代が終わって弥生時代が始まる時期は全国画一でないことはいわずもがなことですが、紀元前10世紀の半ばに北部九州で灌漑水田が始まった時をひとまず縄文時代の終わりとしておきます。

 

縄文時代の特徴をもう少し詳しく

 縄文時代は非常に長いため、あまり簡単に説明してしまうと誤解される恐れがありますが、ひとまず縄文時代の特徴をもう少し詳しく述べてみます。

 旧石器時代と大きく違うのは上の表にも記した通り気候です。氷河期だった旧石器時代と比べて間氷期である縄文時代は暖かいです。そのため、植生が変わり、生息する動物も変わりました。大型獣が絶滅し、小さな動物を狩る必要が生じ、弓矢が発明されました。

黒曜石製の矢じり(星くずの里たかやま 黒耀石体験ミュージアムにて撮影)

 弓の本体は植物で作るため見つかることは非常に稀ですが、矢じりは石で作るため残ります。矢じりのことを鏃(ぞく)と呼び、石で作った矢じりを石鏃(せきぞく)と呼びます。旧石器時代は投槍を使用していたと考えられますが、縄文時代になると弓矢がポピュラーになります。

 動物をゲットするために旧石器時代から落し穴は作られていましたが、縄文時代には落し穴遺構が増加します。狩りにはを伴い、犬は家族の一員として大事にされていて、副葬品を伴う犬の墓も見つかっています。

縄文時代の少年と犬(さんまるミュージアムにて撮影)

 縄文犬の外見は現代の柴犬のようなイメージで捉えると良いようです。なお、猫(イエネコ)は、最古の骨は弥生時代のものです。

 縄文時代は土器を作って、食物を煮たり、何かを貯蔵したり、儀式などに使用しました。日本の土器は世界最古級です。土器などの製品にはを塗ることがあり、漆塗りも世界最古級です。塩を作るための製塩土器は、後期末に関東で造られ始め、晩期には東北地方に波及します。

 竪穴住居を造り定住しムラを形成します。ただし、土器を作り始めてからムラが現れるまではかなりのタイムラグがあります。墓はムラの中に造ることがほとんどで、まれに特別な身分だったらしい人物の墓が見つかります。国宝土偶の「仮面の女神」が見つかった土坑も特別な人物の墓だった可能性があります。

長野県茅野市・中ッ原遺跡にて撮影

 なお、弥生時代になると基本的に墓は集落の外に造るようになります。

 まだ稲作などの農耕らしき農耕はせず、狩猟採集で食料を確保していましたが、気候が温暖な前期や中期にはクリを計画的に栽培して人工的な栗林を作っていたことが分かっており、エゴマダイズなども栽培していました。

土器に付いたダイズの圧痕とレプリカ(南アルプス市ふるさと伝承館にて撮影)

 縄文海進(後述)が進んでくると、貝塚が形成されました。貝を大量に捕獲して消費しつつも、干し貝にして内陸部へ流通させていた可能性が高いです。また、石器材料の調達や交易のために、列島内を長距離移動する人びとがいて、例えば黒曜石を取るために伊豆諸島の神津島や大分県の姫島などの離島と往復した人びともいましたので、海だけでなく川を含めて、船は普及していたと考えられます。黒曜石を取るための渡海は、「世界最古の目的を持った航海」と言われます。

 青銅や鉄などの金属器は未使用です。石器が中心でしたが、動物の骨や角を使って道具を作ることもありました。

 研究者によっては、東日本に全人口の9割が住んでいたという人がいるほど、東日本の人口比率が高かったです。ただし、後期になると西日本の人口が増え、晩期には西日本もかなりの人口を抱えるようになります。

 クニの発生は確認できず、組織的な戦い(戦争)の跡も見つかっていません。完全な平等社会であったとは言い切れませんが、弥生時代と比べたら身分の差は少なかったと言えます。

 

土器とは何か

 縄文時代の主役は土器です。土器に関する詳しい説明は追々していきます。土器には用途に応じて様々な形(器種)があるわけですが、深鉢(ふかばち)と呼ばれる器種が9割を占めると言われています。深鉢の用途は、煮炊きに使う鍋であるとされます。形はどう見ても私たちが想像する鍋ではなくても、鍋とされます。実際に鍋として使った痕跡が分かることがあります。

 こんな細長い円筒土器も鍋です。

さんまるミュージアムにて撮影

 有名な火焔土器も鍋です。

馬高縄文館にて撮影

 「こんなものは鍋じゃないでしょう!」と思うのは現代人の勝手な発想で、当時の人はこれで食材を煮て食べていたのです。これが縄文人の面白いところで、私たちと縄文人とでは、考えていることがかなり違うのです。発掘現場で実際に掘ってみると、縄文人の訳の分からない発想に驚いたり、何だろう?と考え込むことがありますし、一緒に掘っていた調査員が「彼らは何を考えているのか分からない」と呟いたのを聴いたことがあります。

 展示されている深鉢を見ると、胴体がツートンカラーのようになっているものがあります。下半分が赤くなっていて(赤化と呼びます)、上半分が煤けて黒くなっているものです。中をのぞくと、中も下の方は黒くなっているのが分かることがあります。これは鍋として使用した痕跡です。稀に内側におこげが付着していることもあります。たまに博物館などでは、それを説明した展示があります。

さんまるミュージアムにて撮影

 時代が進むにつれて、深鉢以外の器種も作られるようになり、後期や晩期では、かなり種類が増えます。ただし、用途がはっきりしないものが多く、先ほどは「深鉢=鍋」と言いましたが、中には使用した痕跡のない深鉢や、異様に大きい、または小さい深鉢もあるので、「深鉢=鍋」と完全に言い切って良いのかは実は分かりません。また、土器は基本的には丁寧に作っているのですが、後期には雑な作りの土器も現れ、丁寧な作りの土器は精製土器と呼び、雑な作りの土器は粗製土器と呼びます。精製土器は特別な場合に使う物のようで、普段使いには粗製土器を使うようになったようです。

 なお、縄文時代の深鉢は、弥生時代には甕(かめ)と呼ばれるようになります。両者の形状は一緒で、煮炊きに使う土器は、縄文時代のものは「鉢」と呼び、弥生時代のものは「甕」と呼ぶのです。ただし、縄文時代の場合も、「鉢」を棺として使った場合は、「甕」と呼ばれます。考古学をやっていると、モノの呼び方に対して納得できないことに多々出くわしますが、昔の偉い先生が決めたことですから、今は大人しく従ってください。貴方が権力を得る時が来たら、そのときに改革を実行しましょう。

 ※掲載する土器などの遺物の写真は、文様や形状がはっきり分かるように明るめに補正しており、実物とは色味が少し異なることがありますがご了承ください。

 

縄文時代草創期(16500年前~11500年前)

 草創期は縄文時代の最初に位置付けられ、土器が初めて作られた時代です。この時代はまだ「○○式」と呼べるような型式(かたしき)には分類できず、以下の土器が作られます。

・無文(むもん)土器
・豆粒文(とうりゅうもん)土器
・隆起線文(りゅうきせんもん)土器
・爪形文(つめがたもん)土器
・円孔文(えんこうもん)土器
・多縄文(たじょうもん)土器

 草創期では、土器は5,000年間というとんでもなく長い時間をかけて少しずつ変化していきました。草創期の土器は列島各地から小さな破片で見つかっていますが、旧石器時代から縄文時代への変化は地域ごとに少しずつ進行し、草創期はまだ定住化も進んでいないため、土器を作っていてもライフスタイルは旧石器時代とさほど変わらなかったでしょう。

 草創期の気温については下図をご覧ください。

『環境と文明の世界史』(石弘之・安田喜憲・湯浅赳男/著)より加筆転載

 氷期が終わりを告げるべく温暖化が進行したことにより植生が変わり、針葉樹林がまばらに広がる冷涼とした原野が落葉広葉樹の森へと変わっていき、冷涼なところでしか生息できないマンモスやナウマンゾウ、オオツノジカといった大型獣が滅び、イノシシやウサギ、ムササビなどの小型獣が生きる時代へと少しずつ変化していきます。

 縄文時代の大きな発明の一つに弓矢がありますが、弓矢は小型獣を仕留めるために都合の良い道具で、最古の石鏃を見ると、14,000年前頃から使用されているようです。南回りで日本列島にやってきて棲息していたナウマンゾウは、北海道にまで生息域を拡げますが、15,000年前には絶滅したようです。既述した通り、小さな生き物を狩る時代へと変わっていきます。

 人間のライフスタイルも動植物の変化に応じて変化していきますが、草創期は旧石器時代から縄文時代への過渡期と考えていいと思います。

 

草創期の土器

 それでは、草創期の土器について詳しく見ていきます。

 

1)無文土器の時代 ~神子柴・長者久保文化~

 日本人が一番初めに作った土器は何も文様がない無文土器と呼ばれるものですが、この最初の無文土器を使っていた時代の文化を神子柴(みこしば)・長者久保文化と呼び、従来はこの文化は旧石器時代に含まれており、現在でも縄文時代に含めないとする考えがあります。その命名の元になったのは、長野県南箕輪町の神子柴遺跡と、青森県東北町の長者久保遺跡です。

長野県南箕輪村・神子柴遺跡
長者久保遺跡の出土品(青森県野辺地町立歴史民俗資料館にて撮影)

 昭和50年(1975)に青森県外ヶ浜町の大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡から神子柴・長者久保文化の石器とともに、土器片が出土したことにより、神子柴・長者久保文化が縄文時代の文化であると考えられるようになりました。土器片のうち最古のものは、放射性炭素年代測定で13,780年前と出て、暦年代較正によって16,520年前のものと判明しました(放射性炭素年代測定や暦年代較正とは何かについては後述します)。

青森県外ヶ浜町・大平山元Ⅰ遺跡出土の無文土器(さんまるミュージアムの特別展にて撮影)

 出現期土器にはサケなどの遡上魚類や海岸で捕れる魚介類を煮沸した形跡があることから、いまだ木の実の採れない環境ではそれが主要な土器の使い道であったのでしょう。

 この時代の気候は現在よりも平均気温が4~5℃低く、降水量も少なく、イメージ的には旧石器時代と変わりません。津軽海峡は存在しましたが、本州と北海道の間では人びとの往来があり、北海道からやってきた人びとが太平洋側では利根川流域(東京都)まで進出しています。彼らの行動範囲は、サケ・マスの遡上エリアと重なるため、彼らはサケ・マスの漁撈を行っていたのでしょう。

 年代測定をして製作年代が分かった土器として2番目に古いのは、東京都武蔵野市の御殿山遺跡から出土した無文土器で、16,000年前~15,600年前の年代が与えられています。2004年に出土して、2021年に調査結果が公表されたので記憶に新しい方もいるかもしれません。

 なお、15,900年前には浅間山の形成史上最大規模の噴火が起こり、板鼻黄色軽石(YP)が降り積もり、立川ローム層のⅢ層の鍵層を形成し、15,000年前には十和田火山の大噴火が起こり、これにより十和田カルデラ(現在見ることができる十和田湖)が作られました。日本人は昔から常に火山の噴火の脅威に恐れおののきながら生きています。

 

2)放射性炭素年代測定法と暦年代較正

 考古学の本を読んでいると、放射性炭素年代測定法という言葉に出くわすことがあります。他に、C14年代測定法、炭素14年代法、C14法などいくつもの呼び名があります。

 炭素14は、大昔から空気中にほぼ一定して存在しており、私たち人間を含めて動植物は呼吸や食事によってそれを体内に取り込んでいます。この炭素14は、その動植物が死ぬと体内に取り込むことがなくなり、その後は放射線を出して減っていき、5730年すると半減するという法則があります(正確には炭素14は消滅するのではなく窒素に変化しますが、放射線を放出して他の原子に変化する能力のことを放射能と呼びます)。

 この法則を利用して年代を決める方法を1947年にシカゴ大学教授のウィラード・リビー氏が発見しました。同氏は1960年にノーベル化学賞を受賞しています。そして、1970年代末に開発された加速器質量分析(AMS)法は、現在はかなり普及していて、昔の人の骨や遺物として見つかる炭化物、木造建築の資材など、様々な動植物に利用してそれらの年代を決めています。

 この方法によって年代を決めた場合は、「BP」と記載することになっており、書物に例えば「12,000BP」と記載されていた場合は、基準となる年は1950年と決まっていることから、1950年より12000年前という意味になります。

 ところが、この単純な方法はかなりの誤差が含まれていることが判明し、時代が古くなればなるほど誤差が拡大します。今述べている時代だと3000年もの誤差があるのです。そのため、現在はその誤差を計算して縮める方法が編み出され、誤差を較正して実年代を示すことを暦年代較正といいます。較正された年代のことを、暦年代と呼ぶこともあり、書物には、「calibrated(較正済み)」を意味する「cal」をつけて、「calBP」と記されることが多いです。本稿で旧石器時代や縄文時代の年代区分について記しているのは、暦年代によります。

 これでもう昔のモノの実年代は簡単に分かる、と喜びが込み上げてくるかもしれませんが、この方法は土器や石器そのものには使えません。なぜなら土や石は動植物ではないからです。ただし、土器にはまれに植物性の物質が付着していることがあり、そういう土器が見つかればラッキーで、状態が良ければC14年代測定および暦年代較正をかけることができます。

 考古学ではこういった科学的な根拠に加え、型式学(遺物を「型式」に則って古い順に並べ、これを編年とよぶ)や、層位学(原則として古いモノから順番に地層の下から積み重なる)を駆使して、実年代を決めて行きます。また、既述した通り、地中から見つかる火山灰も重要な手掛かりとなります。

 

3)豆粒文土器と隆起線文土器

 無文土器に匹敵するくらい古い土器が、長崎県佐世保市の泉福寺洞窟から出土しており、粘土を丸めて作った豆粒のようなものが表面にまばらに付いていることから、豆粒文(とうりゅうもん)土器と呼ばれています。無文ではちょっと寂しいなと思った人が装飾を閃いて作ったのでしょうか。同県同市の福井洞窟ミュージアムの展示では、16,000年前~15,000年前としています。

長崎県佐世保市・泉福寺洞窟出土の豆粒文土器のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影)
長崎県佐世保市・泉福寺洞窟

 九州北部では土器が出現した後も少しの間は細石刃文化が続くのが他の地域と違う特徴です。福井洞窟ミュージアムには最古の土器について説明されたパネル展示がありますが、そこでは大平山元Ⅰ遺跡の無文土器を16,900年前としていますので、こういう考え方もあるようで、以前、青森の現地の方から「17,000年前と考えている人もいる」と聞きました。

福井洞窟ミュージアムにて撮影

 図中には、既述した東京都武蔵野市の御殿山遺跡や、東京都あきる野市の前田耕地遺跡もプロットされていますが、前田耕地遺跡に関しては、以前AICTで訪れた時に、現地にて「この遺跡から国内最古級の土器が出ています」と説明しました。

東京都あきる野市・前田耕地遺跡

 前田耕地遺跡から出土した土器も成分分析がされて、国内最古級とお墨付きをもらっています。正確にどれが1番とか2番とか決めるのも面白いですが、そこまでこだわらなくても、最古級の土器が案外沢山あるということを知っておくのはいいことでしょう。前田耕地遺跡近くの多摩川にはサケが遡上していたことが分かっているので、土器の使用目的はゲットしたサケを煮るためだったのでしょう。

 なお、長崎県に行くと、豆粒文土器のレプリカが何か所かの施設に展示してあり惑わされますが、本物は佐世保市博物館島瀬美術センターにありますのでもし本物を見たい方は注意してください。

 無文土器に続いて造られる土器は、隆起線文(りゅうきせんもん)土器であることは、研究者の間では以前から知られていましたし、縄文時代の本を読むと、無文土器に続いて隆起線文土器が作られたと説明していることが多いです。本稿では、隆起線文土器の説明に先立って、豆粒文土器を説明しましたが、ひとまず両者は同じ仲間として考えておいていいと思います。なお、隆起線文土器のことを隆起文土器とか隆線文土器と表記する場合もありますが同じものです。

 15,000年前から列島全体が温暖化し、植生が変化して落葉広葉樹のブナ林が広がっていきます。ようやく一般的にイメージされる縄文時代の光景に変化していくわけです。しかし、一番最初の無文土器もそうですが、豆粒文土器が作られ始めたころは、まだ日本列島は温暖化が進んでおらず、温暖化によって土器が誕生したという説は、豆粒文土器にも当てはまりません。

 つづいて、隆起線文土器について述べます。

 隆起線文というのはその字面の通り、隆起した線で文様を施しているわけですが、豆粒のような「点」ではなく、粘土紐によって「線」を表現しています。一般的には下の写真のように、粘土紐を水平方向にグルリと貼り付けており、器面全体に施す場合と上部だけに施す場合があります。

 こちらは横浜で見つかった隆起線文土器です。

横浜市・花見山遺跡出土の隆起線文土器(東京国立博物館・平成館にて撮影)

 そしてこちらは、長野県で見つかった隆起線文土器。

長野県須坂市石小屋洞窟出土・隆起線文土器(新潟県立歴史博物館の特別展示にて撮影)

 青森県でも見つかっています。

青森県六ヶ所村表館(1)遺跡出土・細隆起線文土器(さんまるミュージアムの特別展にて撮影)

 近畿地方にはあまり縄文遺跡はないイメージがあるかもしれませんが、例えば草創期の主な遺跡としては以下のものがあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 地図中にある山添村の桐山和田遺跡は、草創期から早期にかけての遺跡で、草創期の隆起線文土器も出土しています。

奈良県山添村・桐山和田遺跡出土の隆起線文土器のレプリカ(橿原考古学研究所附属博物館にて撮影)

 隆起線文は時代が下るにつれて線が細くなっていき、その線の太さによって、隆起線文、細隆起線文、微隆起線文と推移します。

 近畿地方と四国地方と中国地方を併せて、縄文時代では一つの地域としてくくることが多いですが、山陰地方に関しては、島根県立古代出雲歴史博物館に草創期の土器片が一点展示されています。手元の写真は見事にピンボケで掲載できませんが、飯南町の板屋Ⅲ遺跡出土のものです。同博物館が2013年に開催した企画展『山陰の黎明』の図録には、山陰地方では、草創期の土器は発見されていないと記されているので、その後見つかった物のようです。

 高知県四万十町の十川駄場崎遺跡では、高知県最古級の土器が出土しています。高知県立歴史博物館に展示してあるのがそれで、キャプションには「隆起線文土器」とあるのですが、九州の豆粒文土器のように粘土を丸めてくっつけています。

高知県四万十町・十川駄場崎遺跡出土の隆起線文土器(高知県立歴史民俗資料館にて撮影)

 佐川町不動ヶ岩屋洞窟遺跡出土の「細隆起線文土器」は、ニョロニョロと細い隆起線文が付いています。

高知県佐川町・不動ヶ岩屋洞窟遺跡出土の細隆起線文土器(高知県立歴史民俗資料館にて撮影)

 高知県立歴史民俗資料館に展示してある草創期の土器はこの2点のみで、いずれもかなり小さい土器片ですからもっと情報量が欲しいところですが、四国地方にも草創期の土器文化があったことが分かります。なお、土器の横には同じく草創期の有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)が展示してあります。

高知県四万十市・江川崎宮地遺跡出土の有舌尖頭器(高知県立歴史民俗資料館にて撮影)

 尖頭器というのは槍の穂先のことで、この尖頭器の場合は柄の側のほうが少し飛び出ていますが、それは茎(なかご)であると考えられ、有茎(ゆうけい)尖頭器と呼ばれることもあります。この有舌尖頭器を使用した期間は縄文時代草創期中葉に限られるため、これと同じ層位から見つかった土器は草創期の土器であることが分かります。

 四国地方では愛媛県久万高原町に上黒岩遺跡という著名な遺跡があります。

上黒岩遺跡

 上黒岩岩陰遺跡と呼ばれることもある、草創期が主たる時代の岩陰遺跡です。現地に行くと分かりますが、現代人の感覚ではこのような山深い場所に良く住めたと思うかもしれませんが、縄文時代の始めの頃は、住み着くには打ってつけの場所だったのでしょう。上述した福井洞窟などの洞窟や、こちらの岩陰であれば住居を作る必要もないですし、上黒岩遺跡は南向きの岩陰で、すぐそばに川が流れていて水や魚介類を得ることも容易ですから、当時の人びとにとってもとても住みやすい場所だったのでしょう。

 上黒岩遺跡から出土した遺物は遺跡にある上黒岩遺跡考古館で見ることができます。例えば、最古級の隆起線文土器も展示してあります(上黒岩遺跡考古館の表示では「隆線文土器」としています)。

上黒岩遺跡考古館にて撮影

 本来の形のイメージが湧きづらいため、このような写真も展示してあります。

上黒岩遺跡考古館にて撮影

 以上、四国地方にも隆起線文土器の土器文化があったことが分かりました。九州に関してはすでに述べましたが、少し補足すると、九州出土の隆起線文土器に対して、隆起線文系隆帯文土器と呼ぶ研究者がいます。

 鹿児島市立ふるさと考古館で展示してある下の土器のキャプションには「隆帯文土器」とあります。確かに「隆帯」と呼んでいいような太い粘土紐が付いています。

隆帯文土器(鹿児島市立ふるさと考古歴史館にて撮影)

 下に示す福井洞窟出土の2点の土器は、展示のキャプションには「隆起線文土器」とあるものの、今まで見てきた一般的な隆起線文土器とは趣が違い、しかも製作年代もかなり古めで16,000年前~15,000年前と考えられていることから、これらは隆起線文系隆帯文土器と呼ばれるものではないかと思います。

福井洞窟出土の隆起線文土器のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 とくに下の土器は今までの土器よりも粘土紐の貼り付けがダイナミックです。

福井洞窟出土の隆起線文土器のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 これも粘土紐がかなり太く、「隆帯」と呼ぶのに相応しいです。

 さて、いままで土器ばっかり示してきましたが、それらの土器が出土したのと同じくらい古い遺物で、土製有孔円盤や石製有孔円盤と呼ばれる遺物があります。

福井洞窟出土の土製・石製有孔円盤のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 キャプションには16,000年前~14,000年前と書かれています。土製有孔円盤に関しては、関東地方で晩期のものが多く見つかっていますが、これは時期も場所も大きく違っています。関東のものも実際に何に使った道具なのか分かっておらず、こちらのものも謎です。見た感じでは糸を紡ぐための紡錘車に似ていますが、一体何なんでしょうか。

 以上見てきたように、草創期前半には、北は北東北から西は中国地方までの広い範囲で隆起線文土器が作られていたことが分かります。現状では、私は九州の豆粒文土器もその仲間であると考えているので、そう考えると、隆起線文土器は全国的に普及した土器であると言えます。人が移動しなければ土器の文化も波及しませんので、この時代の人口はまだかなり少なかったと考えられるものの、列島内を多くの人びとが移動しながら生活していたことが分かります。

 列島各地の博物館に展示してあるその地域の最古の土器は隆起線文土器(豆粒文土器)であることが多く、最古級の無文土器にお目にかかれる機会は少ないです。隆起線文土器も破片での展示がほとんどですが、博物館などに行ったときは、地域最古の土器探しをしてみてください。なお、北海道ではこの時代までの土器はまだ発見されておらず、最古級の土器は次の項で述べる爪形文土器になります。

 

4)爪形文土器

 隆起線文土器に続いて作られた爪形文(つめがたもん)土器は、人の爪や竹管状の工具などを器面に押し付けて文様を施した土器です。

群馬県みどり市西鹿田中島遺跡出土の爪形文土器(西鹿田中島遺跡ガイダンス施設にて撮影)

 なお、上の土器片が見つかった西鹿田中島(さいしかだなかじま)遺跡は、日本の旧石器時代に人が住んでいたことを証明した相澤忠洋(あいざわただひろ)が発掘し、関東地方における押型文土器(縄文早期)以前の隆線文系→爪形文系→押圧縄文系土器という順序を見つけ、1959年に論文で報告した遺跡です(私が個人的に教えを受けた方に相澤忠洋から考古学を学んだ方がいらっしゃり、その方は、「忠洋(ちゅうよう)さん」と親しく呼んでいるため、私もそう呼ばせていただいています)。

西鹿田中島遺跡の忠洋さん発掘地点

 ちなみに、忠洋さんは既述した福井洞窟の発掘にも携わっており、そのときに忠洋さんが地元の松瀬泰造氏に贈った一筆が福井洞窟ミュージアムに展示されています。

福井洞窟ミュージアムにて撮影

 忠洋さんファンの私はこれを見て涙が出そうになりました。忠洋さんファンの方はぜひ福井洞窟ミュージアムに行ってみてくださいね。

 福井洞窟ミュージアムには、福井洞窟から出土した爪形文土器も展示してあります。

長崎県佐世保市・福井洞窟出土の爪形文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 こんな小さな破片でも国指定重要文化財で、年代は15,200年前~14,700年前です。下の土器はレプリカですが、15,000年前~14,000年前のものです。

長崎県佐世保市・福井洞窟出土の爪形文土器のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 ところで、爪形文土器と同じころに新潟県の一部地域のみで盛行する円孔文(えんこうもん)土器というものがあります。十日町市の壬(じん)遺跡はまとまった円孔文土器が出土することで著名です。

新潟県十日町・壬遺跡出土の円孔文土器(新潟県立歴史博物館の特別展示にて撮影)

 細い丸棒の先端で口縁部に穿孔するだけで文様がありません。草創期においても、このようなローカル色を備えた土器は作られているのです。珍しいものなので、新潟方面の博物館などに行ったときは必ず確認してくださいね。

 

5)多縄文土器

 草創期の最終段階になって、ようやく縄文を施した土器が出現します。多縄文(たじょうもん)土器と呼ばれる土器です。

青森県八戸市・櫛引遺跡出土の多縄文土器(さんまるミュージアムの特別展にて撮影)

 縄文を施文する土器には、縄自体を転がして付ける多縄文土器と、縄を木の棒などに巻き付けてそれを転がして付ける撚糸文(よりいともん)土器があります。撚糸文土器は、次の早期に登場します。縄を転がして模様を付ける回転施文はアジアでは日本にしかないやり方で、縄文文化の特色の一つです。

 なお、上の櫛引遺跡出土の土器の場合は、厚さが4㎜ほどと薄く作られており、製作者の技術の高さを伺うことができます。博物館で土器を見るときは、厚みも観察してみると面白いですよ。ちなみに、櫛引遺跡では珍しい草創期の住居跡も見つかっていますが、2000年の段階で青森県で発見された草創期の遺構(遺物ではない)は2遺跡しかありません。草創期の人びとは、上述した洞窟遺跡や岩陰遺跡のように住みやすい場所が確保できなければ、しっかりとした住居を作って長くその場所に住むという意思はほとんど無かったと言えます。

 新潟県長岡市の室屋洞窟から出土したこの多縄文土器は、植物を編んで作った容器にインスパイアされて創ったような涼しげな風合いの素敵な土器です。

新潟県長岡市・室屋洞窟出土の多縄文土器(新潟県立歴史博物館の特別展示にて撮影)


 縄文人は土や石で作ったものだけでなく、木や植物によってもいろいろな道具を作っていたことは容易に想像できます。ただし、土器は現在まで残っているものがあるわけですが、植物性のものは地中に溶けてなくなってしまうことが多いため、現代にまであまり残りません。植物を編んで作った容器は前期以降に見つかるようになりますが、その中の白眉としては三内丸山遺跡から出土した、いわゆる「縄文ポシェット」があります。

さんまるミュージアムにて撮影

 これは中期の遺物ですが、こういったアイテムは現在は見つかっていないだけで、もしかしたら草創期から作っていたかもしれません。

 なお、既述した通り、北海道での土器の製作は北東北よりも遅れて始まり、帯広市大正3遺跡からは爪形文系土器が出土し、江別市大麻1遺跡からは多縄文系土器が出土しており、それらは草創期の後半段階の土器で、北海道の全体的な傾向としては、草創期は見つかる土器が少なく、土器を盛んに作っていた印象はありません。

 

草創期の土偶

 ここまで縄文時代草創期の約5000年間の歴史を見てきましたが、歴史と言ってもほとんど土器を見てきただけです。しかもその土器は欠片も多くて面白くないと思った方もいらっしゃるでしょう。では、縄文遺物のもう一方の雄である土偶はどうなのでしょうか。土偶はもしかしたら一般の縄文ファンには土器よりも人気が高いかもしれません。

 現在国宝に指定されている5つの土偶のうち、2つは東北の遺跡から出土したもので、重要文化財の土偶では14個のうち8個が東北の遺跡から出土しており、東北地方は土偶がたくさん出る場所というイメージがあると思います。ところが、意外なことに草創期のものは1つも見つかっておらず、早期の物を含めて古いものは長野・東海から近畿地方に多い傾向があるのです。

 国内最古級の草創期に作られた土偶としては以下の2点がよく知られています。一つ目は滋賀県東近江市の相谷熊原遺跡から出土した土偶です。

滋賀県東近江市・相谷熊原遺跡出土の土偶の複製(国立歴史民俗博物館にて撮影)

 国立歴史民俗博物館にキャプションには13,000年前とあります。同じころのもう一点の土偶はこちらです。

三重県松阪市・粥見井尻遺跡出土の土偶の複製(国立歴史民俗博物館にて撮影)

 多分、多くの方が「土偶」と聞いて想像するのは、国宝になっているような有名な土偶たちだと思いますが、それらとは随分と見た目が違いますね。手足の表現がなく、顔らしいものもありません。プリミティヴ(初源期)な土偶というものはこういうものなのです。大事なのは、女性の身体本体(トルソー)であり、これこそが土偶の使い方を解明する手掛かりになると思います。

 ただし、土偶も1万年以上作られ続け、地域によっては弥生時代になっても作りますから、「土偶の使い方はこうだ」的な断定した学説には注意しましょう。例えば、身体の悪い場所をもぎ取って、まじないをかけて捨てることによってその部分の病気を治そうとしたとか、バラバラに壊して分散して埋めることによって、各パーツから人間の食べ物が生まれてくるように祈るとか、いろいろな学説があります。こういった使い方をした時代や地域もあった可能性は十分ありますが、土偶の謎はそう簡単には解けませんよ。いろいろな研究者の学説を参考にしつつ、自分なりの考え方を楽しむのが縄文時代の楽しみ方です。

 なお、東北や関東の土偶については次の「早期」で登場します。

 ところで、『DNAで語る 日本人起源論』(篠田謙一/著・2015年)が著された時点で、草創期の人骨の分析は行われておらず、人骨を資料にした草創期の日本列島人を示すことはできません。たまに、博物館などで縄文人のイメージ図が展示されていることがありますが、草創期の人びとの顔貌(かおかたち)がそのようなものであった保証はありません。