最終更新日:2026年7月4日

目次

第1章 縄文時代とは
 1)「縄文」の謎
 2)縄文時代の6期区分と各期の特徴
 3)放射性炭素年代測定法と暦年代較正
 4)遺構にはどのようなものがあるか
 5)縄文時代の特徴をもう少し詳しく
 6)土器とは何か
第2章 縄文時代草創期
 1)草創期の概要
 2)御子柴・長者久保系石器群
 3)無文土器
 4)豆粒文土器
 5)隆起線文土器
 6)有舌尖頭器
 7)爪形文土器
 8)多縄文土器
 9)沖縄県の草創期
第3章 草創期の精神文化
 1)土偶
 2)線刻礫

 

 

第1章 縄文時代とは

 

1)「縄文」の謎

 明治10年(1877)に東京都品川区の大森貝塚を発掘したアメリカ合衆国ポートランド出身のモース博士は、明治12年に発表した論文の中で、掘り出した土器のことを「cord marked pottery」と記しています。これが縄文土器という呼び名のルーツですが、このとき同時に発表された矢田部良吉(やたべりょうきち)の和訳では「索文土器」と記されています。

東京都品川区の大森貝塚遺跡庭園で今もなお土器を見てうっとりしているモース博士

 モース博士は「cord」と書いていますが、これはザックリ言って紐のことです。その後、学者たちの間で何となく「縄文土器」とか「縄蓆文(じょうせきもん)土器」などと呼ばれるようになり、主に貝塚から見つかることから「貝塚土器」と呼ぶ人や、私たちがいま知っている縄文人は、明治の頃には日本人とは異なる先住民だと考えられており、それはアイヌのことだとする考えもあったことから、「アイヌ式土器」と呼ぶ人もいました。

 このように何となく縄文土器と呼ばれるようになったものの具体的にどのようにして文様を付けたのかは誰にも分かりませんでした。明治以来の多くの研究者たちがその謎を解こうとチャレンジしましたが誰にも分からなかったのです。こんな状態が半世紀も続きました。

 そしてある時、その謎を解いた男が現れました。当時、東北帝国大学に籍を置いて研究していた山内清男(やまのうちすがお)です。彼は研究室に常に粘土を置いて施文方法を突き止めようと努力していたのですが、偶然にも螺旋状のもの(具体的に何かは不明)を転がしたことにより、縄や編物を押し付けるのでなく、縄を転がして付けるという技法を見つけたのです。これを発見した正確な日にちは今となっては誰も知らず、昭和6年(1931)頃のことだったと言われています。

 現代の私たちはすでに縄を転がして文様を付けるという方法を知っているので何とも思わないかもしれませんが、モース博士が大森貝塚を発掘してからこの方法が解明されるまではこんなに時間が掛かったのです。なお、古い書物には「縄紋」と記されているものもありますが、現在では「縄文」の字をあてることが一般的です。ただし、「紋」と「文」にはそれぞれ本来の意味があることから文字の使い分けに拘っている研究者もいます。

 縄文土器という呼び名はポピュラーになりましたが、現実には縄によって文様を付けない縄文時代の土器もかなり多く、縄文土器と呼んでも必ずしも縄による文様が施されているわけではないことを最初に覚えておいてください。縄文時代に造られた土器は、どんな文様が付いていても、はたまた文様の無い無文土器であっても縄文土器と呼ぶのです。納得できない人もいるかもしれませんが、無理してでも納得してください。

 さて、縄文時代の始まりをいつにするのかは、研究者によって考え方に違いがあります。代表的な考え方として、土器の出現をもって縄文時代の始まりとする考え方があります。後述する御子柴(みこしば)・長者久保文化の段階です。

 ところが、これも後述しますが、列島各地の広い範囲で土器の製作が行われたのは、それよりワンテンポ遅れた隆起線文土器が作られた時期であるため、土器が全国に普及したこの時期をもって縄文時代の始まりとする考え方もあります。

 さらに言うと、もっと遅い早期に縄文時代の始まりを置き、草創期は「過渡期」とする考え方もあります(早期や草創期が何かに関しては後述します)。個人的にはこの「過渡期」の考え方が実情を示しており良いと思うのですが、本稿では分かりやすく説明したいので、土器の出現をもって縄文時代の始まりとする考え方に基づいて説明します。

 本稿では、他の遺物と比べて出土数がはるかに多い土器を中心に縄文時代の歴史を述べます。土器の面白さに目覚めてしまった人は、縄文時代の虜になってしまいます。他の遺物としては、土偶も大人気ですが、土偶を文様や製作技法という観点から見た場合は土器とは不可分の関係ですから、土器を知っていると土偶もより楽しめます。

 その他、縄文人は生活に必要な道具や装飾品、得体のしれない物体など、土や石や動物の骨・角などを材料に様々なものを作りました。木製品などの植物製品もたくさん作っていたはずですが、植物性のものや骨・角で作ったものは通常は土に溶けてしまうため、湿地や貝塚など、遺存のための条件が整った特別な場所以外からはほとんど出土しません。

 こういった遺跡から出土する品々のことを遺物(いぶつ)と呼びます。「出土品」と呼ぶより遺物と呼んだ方がプロっぽいので使ってみてください。

 縄文時代の遺跡からは、竪穴住居跡や何か分からない人工的な穴などが見つかります。こういったものを遺構(いこう)と呼びます。遺構が見つからず、遺物だけが見つかることもあります。考古学初心者の方は、まずは遺跡、遺構、遺物のこの3つの言葉を自然に使えるようになりましょう。

 

 

2)縄文時代の6期区分と各期の特徴

 遺構や遺物については後程説明するとして、まずは縄文時代の時期区分について説明します。縄文時代は下表のとおり、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分することが一般的です。

 実年代に関しては、研究者によって考え方が異なり、下表に示した実年代は考え方の一つだと思ってください。現在の科学技術では縄文時代の出土遺物を実年代で語ることが難しいことが多々あるため、実年代で示すよりも6期区分で示した方が理解しやすいですし、誤解も少ないです。

 博物館のパネル展示や遺跡に立っている説明板などには、誰にでも分かるようにとの親切心からか、例えば「今から5000年前の遺跡です」というような説明があったりしますが、それを書いた人の年代観、つまりその根拠が分からないとその数字をどう捉えてよいのか分かりません。

 次の項で述べますが、暦年代較正されたものは実年代を示しています。ただし、すべての遺物が暦年代較正されているわけではありません。そんな中で、例えば長崎県佐世保市の福井洞窟ミュージアムの展示のように暦年代で表示している施設もあります。博物館などの展示を見て、暦年代較正をされた年代が表示されていた場合は喜びましょう。

 本稿では、較正されているのが確実な資料については実年代を示しますが、まだまだ普及が遅れている地域もありますし、較正されているかいないかとは関係なく、縄文時代を6期区分で表現するのは常識であるため、6期区分の呼び名は絶対に覚えてください。そのうち必ず慣れます。

時期区分実年代(参考)特徴
草創期16,500年前~11,500年前・青森県で国内最古の土器が誕生
・当初は平均気温が現在よりも5℃ほど低く雨も少なかった
・15,000年前以降、温暖化が始まり気温が徐々に上昇する
・13,000年前くらいに世界的にはヤンガードリアスと呼ばれる寒の戻りが来るが日本への影響は少なかった可能性がある
・定住がゆっくり広まる
早期11,500年前~7,300年前・再び気温がどんどん上昇し、海面高度が上昇する
・8,000年前頃に寒の戻りがあり、北海道北部で大陸系の石刃鏃文化が一時的に繁栄
・7,300年前の鬼界カルデラ噴火により南九州は甚大な被害を被る
前期7,300年前~5,500年前・ヒプシサーマル(気候最適期)を迎え、平均気温が現在よりも2℃ほど高くなる
・早期にも増して海面高度が上昇して現代よりも海が広くなり、縄文海進と言った場合はこの時期の海進を指すことが多い
・多数の貝塚が現れる
・全国で定住が完全に普及した(ように見える)
・中頃から三内丸山遺跡が隆盛する
中期5,500年前~4,500年前・最も過ごしやすかったとされる時期
・関東甲信越では派手な装飾の土器が作られ、中葉には新潟県を中心に火焔型土器が作られる
・終り頃には気候は寒冷化へ向かい、三内丸山遺跡を含め、北東北や北海道では大きなムラが消える
後期4,500年前~3,500年前・再び気温が上昇し海進が起きる
・呪術的に見える道具が多く出現し、ストーンサークルが盛行
晩期3,500年前~2,900年前(紀元前10世紀)・平均気温が現在より2℃低くなる
・前半から中頃にかけて遮光器土偶が作られ、それに代表される北東北発祥の亀ヶ岡文化が西日本にまで波及
・これまでは東西の人口比(遺跡比)が極端に東日本に高かったのが、西日本の比率が急に高まる

※縄文時代が終わって弥生時代が始まる時期は全国画一でないことはいわずもがなことですが、紀元前10世紀の半ばに北部九州で灌漑稲作が始まった時をひとまず縄文時代の終わりとしておきます。

 上表のように縄文時代は13,000年以上続いたわけですから、「縄文時代は〇〇だった」というような説明があった場合は、それは縄文時代のいつ頃のどの地域のことなのかを気にしないといけません。13,000年以上、何も変化なしに同じような社会が続いたわけではないですし、列島全体でまったく同じ文化が栄えたわけではないことは、遺構や遺物から推定できます。

 

 

3)放射性炭素年代測定法と暦年代較正

 考古学の本を読んでいると、放射性炭素年代測定法という言葉に出くわすことがあります。他に、C14年代測定法、炭素14年代法、C14法などいくつもの呼び名があります。

 炭素14は、大昔から空気中にほぼ一定して存在しており、私たち人間を含めて動植物は呼吸や食事によってそれを体内に取り込んでいます。この炭素14は、その動植物が死ぬと体内に取り込むことがなくなり、その後は放射線を出して減っていき、5730年すると半減するという法則があります(正確には炭素14は消滅するのではなく窒素に変化しますが、放射線を放出して他の原子に変化する能力のことを放射能と呼びます)。

 この法則を利用して年代を決める方法を1940年代後半にシカゴ大学教授のウィラード・リビー氏が発明しました。同氏は1960年にノーベル化学賞を受賞しています。そして、1970年代末に開発された加速器質量分析(AMSはその後普及して、遺物としてみつかる人骨や炭化物、木造建築の資材など、様々な動植物に利用してそれらの年代を決めています。

 この方法によって年代を決めた場合は、「BP」と記載することになっており、例えば「12,000BP」と記載されていた場合は、基準となる年は1950年と決まっていることから、1950年より12,000年前という意味になります。

 ところが、この方法はかなりの誤差が含まれていることが判明し、時代が古くなればなるほど誤差が拡大します。これから述べようとしている縄文時代草創期だと約3,000年もの誤差があるのです。そのため、計算して誤差を縮める方法が編み出され、誤差を較正して実年代を示すことを暦年代較正といいます。較正された年代のことを、暦年代と呼ぶこともあり、表記するときは、「calibrated(較正済み)」を意味する「cal」をつけて、「calBP」と記されることが多いです。本稿では具体的な数値を示す際は、可能な限り実年代で示しています。

 これでもう昔のモノの実年代は簡単に分かると喜びが込み上げてくるかもしれませんが、この方法は土器や石器そのものには使えません。なぜなら土や石は動植物ではないからです。ただし、土器にはまれに植物性の物質が付着していることがあり、そういう土器が見つかればラッキーで、状態が良ければC14年代測定および暦年代較正をかけることができます。

 考古学ではこういった科学的な根拠に加え、考古学の基本となる型式学層位学を駆使して実年代を決めて行きます。形式学というのは、遺物を「型式」に則って古い順に並べることで、これを編年と呼びます。また、遺跡の中に埋もれた遺物は、原則として古いモノから順番に下から上へ積み重なりますが、これを層位といいます。ちなみに、考古学では、「層位は型式に優先する」とされます。ここでは述べませんが、この原則を利用して詐欺を実施したのが2000年に発覚した「旧石器捏造事件」です。

 博物館のキャプションなどに「早期前葉」とか、「中期末」といったような6期区分で表示されていれば、スッキリと理解できます。もし数値が表示されていた場合は、それが「BP」なのか、「calBP」なのかを見極めることが必要で、「calBP」であれば、そこに記されている数値はほぼ正しいと考えて間違いなく、「BP」であれば時代によって相当な誤差があるということを認識する必要があります。

 

 

4)遺構にはどのようなものがあるか

 縄文時代の遺構として代表的なものとしては、住居跡があります。竪穴住居はその名の通り、地面を掘って作るため見つかりやすいですが、地面を掘りこまずに地表面に柱を立てて作る平地建物の形跡はほとんど見つかりません。そのため、縄文人の住処は竪穴住居と決めつけがちですが、竪穴住居は冬の寒さには強くても煙が室内に充満すると住みづらいです。多湿な日本では室内にカビが大量発生するため、カビを防いだり虫を殺したりするために住居内で火を焚くと、夏は暑くて住んでいられないはずなので、住居に関してもっと追求しないとなりません。その際には、炉(ろ)という火を焚く装置に関しても同時に考えるべきです。住居跡の外で炉跡が見つかることもあり、反対に住居跡から炉跡が検出されないこともあります。食事の支度は家の中でするものだという常識は現代人の発想です。トイレが家の中にあることは私たちにとっては常識ですが、少し前までは違いましたね。ライフスタイルは時代とともに変わっていくのです。なお、日本で竈(かまど)が普及するのはずっとあとの古墳時代中期(5世紀)です。

 遺跡を掘ると、(どこう)と呼ばれる一見すると「ただの穴」が数多く見つかります。ただし、現状はただの穴に見えるだけで、本来は墓だったかもしれません。列島各地の多くの土地は酸性土壌なので、植物と同様で骨も溶けてなくなって見つからないことが多いですし、縄文時代はまだ副葬品を入れることが一般的ではありません。土坑が墓である証拠が見つかったときは、それを同じ「どこう」と発音しつつ、土壙という文字を当てますが、丁寧に言う場合は、土壙墓(どこうぼ)と呼びます。土壙墓は縄文時代の一般的な墓の様式で、遺構の件出量からすると前期から普及したと考えられます。

 穴は、貯蔵穴(ちょぞうけつ)の場合があります。貯蔵穴は冷蔵庫の役目をすることもあります。穴の中に普通にモノを置いて保管するという用途以外に、わざと湧水が湧く場所に穴を掘り、その中に木の実を入れた編み籠を浸して長期保管をするということも行われていました。狩猟のための罠である落し穴は旧石器時代から作られていますが、縄文時代では多数見つかっており、ゲットしたい動物によって穴の形状などが変わります。

 ところで、発掘調査で何で穴が分かるのかというと、穴が掘られてその後埋まった場所は土の色が違うことが多いのです。例えば柱の穴だった場合は、平面形状が円い形で黒くなっていたりするのです。その土の色味に気を付けながら垂直に掘り下げていくと、元々の穴の形状や深さが分かります。縄文遺跡はとにかく穴だらけです。

 地表に(れき=川原石など)が集まっているものを集石遺構と呼び、円形に集められていることが多く、火を受けて赤化した状態の石も多いことから、蒸し焼き調理をした跡と考えられます。石を使った屋外での蒸し焼き調理は、旧石器時代から続くやり方ですが、縄文遺跡を復元した公園ではなぜかあまり見ない気がします。原始人っぽくてダサいからでしょうか。集石遺構は、いわゆるストーンサークル(環状列石)とは違います。ストーンサークルは、配石遺構というジャンルになります。

 土器や土偶、動物の骨などあらゆるものが土とともに堆積したものを盛土(もりど)遺構と呼び、貝殻が主体で盛られた場合は貝塚と呼びます。簡単に言うとゴミ捨て場なのですが、どうやら縄文人は不要になった物を捨てる場合も、現代人とは違う発想を持っていたようです。貝塚は早期から現れます。

 

発掘現場で自撮りする稲用

 

 

5)縄文時代の特徴をもう少し詳しく

 縄文時代は非常に長いため、あまり簡単に説明してしまうと誤解される恐れがありますが、縄文時代の特徴をもう少し詳しく述べてみます。

 旧石器時代と大きく違うのは上の表にも記した通り気候です。氷河期だった旧石器時代と比べると間氷期である縄文時代は暖かいです。そのため、植生が変わり、生息する動物も変わりました。大型獣が絶滅し、小さな動物を狩る必要が生じ、弓矢が発明されました。

黒曜石製の矢じり(星くずの里たかやま 黒耀石体験ミュージアムにて撮影)

 矢柄や弓の本体は植物で作るため見つかることは非常に稀ですが、矢じりは石で作るため残ります。矢じりのことを鏃(ぞく)と呼び、石で作った矢じりを石鏃(せきぞく)と呼びます。

 旧石器時代は、狩猟の道具として槍(投げる槍や手に持って衝く槍)が活躍していたと考えられますが、青森県外ヶ浜町(そとがはままち)の大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡では、国内最古の土器以外にも国内最古の石鏃が見つかっています。ただし、青森県ではその後、石鏃の発見例はそれほど多くなく、列島全体で満遍なく弓矢が流行ったわけでもないようです。

 既述した通り、動物をゲットするために旧石器時代から落し穴は作られていましたが、縄文時代には落し穴状遺構が増加します。狩りにはを伴い、犬は家族の一員として大事にされていて、副葬品を伴う犬の墓も見つかっています。

縄文時代の少年と犬(さんまるミュージアムにて撮影)

 縄文犬の外見は現代の柴犬のようなイメージで捉えると良いようですが、脚はもっと太く、目は細く、毛の色はグレーであったとの研究結果もあります。

千葉県船橋市・藤原観音堂貝塚出土の犬の全身骨格を使って復元した「とびまる」(飛ノ台史跡公園博物館にて撮影)

 なお、猫(イエネコ)の骨は、みつかった最古のものは弥生時代のものです。猫は稲作の天敵であるネズミを退治してくれるので、私は大陸から灌漑稲作を導入した際に同時に連れてきたのではないかと考えています。

 縄文時代は土器を作って、食物を煮たり、何かを貯蔵したり、儀式などに使用しました。日本の土器は世界最古級で、中国にはもっと古いと言われている土器があるようですが分かりません。土器などの製品にはを塗ることがあり、漆塗りも世界最古級です。塩を作るための製塩土器は、後期末に関東で造られ始め、晩期には東北地方に波及します。製塩技術の発生がずいぶん遅いと感じるかもしれませんが、当然のこととして、人間は塩を食べなくても塩分を摂ることができれば生きて行けます。ただ、塩は調味料として最高なので、塩を入手できるようになった縄文人の料理のレパートリーはかなり広がったと想像できます。

 縄文時代は旧石器時代と違って、竪穴住居を造り定住しムラを形成します。ただし、土器を作り始めてから列島の広範囲にムラが現れるまではかなりのタイムラグがあり、定住は数千年という長い時間をかけてゆっくりと広まっていきました。墓はムラの中に造ることがほとんどで、まれに特別な身分だったらしい人物の墓が見つかります。国宝土偶の「仮面の女神」が見つかった土坑も特別な人物の墓だった可能性があります。

長野県茅野市・中ッ原遺跡にて撮影

 なお、弥生時代になると墓は基本的には集落の外に造るようになります。

 縄文時代は、まだ灌漑稲作は行っておらず、農耕に関してはそれを認める研究者もいますが、基本的には狩猟採集で食料を確保していました。ただし、気候が温暖な前期や中期には、三内丸山遺跡のようにクリを計画的に栽培して人工的な栗林を作っていた場所があったことが分かっており、エゴマダイズなどを栽培していた地域もありました。

土器に付いたダイズの圧痕とレプリカ(南アルプス市ふるさと伝承館にて撮影)

 縄文海進(後述)が進んでくると、貝塚が形成されました。場所によっては、大量に捕獲した貝はその地域内で消費しきれず、干し貝にして内陸部へ流通させていた可能性が高いです。また、石器材料の調達や交易のために、列島内を長距離移動する人びとがいて、例えば黒曜石を取るために伊豆諸島の神津島や大分県の姫島などの離島と往復した人びともいましたので、海だけでなく川を含めて、船は普及していたと考えられます。なんと、神津島への黒曜石を取るための渡海は、後期旧石器時代初頭(約38,000年前)には行われていたと考えられており、それは「世界最古の目的を持った航海」と言われています。

 青銅や鉄などの金属器は未使用です。石器が中心でしたが、動物の骨や角を使って道具を作ることもありました。

 研究者によっては、東日本に全人口の9割が住んでいたという人がいるほど、東日本の人口比率が高かったです。ただし、後期になると西日本の人口が増え、晩期には西日本もかなりの人口を抱えるようになります。

 クニの発生は確認できず、組織的な戦い(戦争)の跡も見つかっていません。完全な平等社会であったとは言い切れませんが、弥生時代と比べたら身分の差は少なかったと想定できます。

 縄文時代を語るうえでは、他にも食生活や健康状態や寿命、子供という特別な者の存在や家族関係、それに日常の楽しみや男女の営みなど、述べるべきことはまだまだ沢山ありますが、本稿は土器などの遺物を中心に述べますので、以降でもし必要になったときには説明します。

 

 

6)土器とは何か

 縄文時代の遺物の主役は土器です。土器に関する詳しい説明は追々していきます。土器には用途に応じて様々な形(器種)があるわけですが、深鉢(ふかばち)と呼ばれる器種が9割を占めると言われています。深鉢の用途は、煮炊きに使う鍋であるとされます。形はどう見ても私たちが想像する鍋ではなくても、鍋とされます。実際に鍋として使った痕跡が分かることがあります。

 こんな細長い円筒土器も鍋です。

さんまるミュージアムにて撮影

 有名な火焔型土器も鍋です。

新潟県長岡市・中道遺跡出土の火焔型土器(馬高縄文館にて撮影)

 「こんなものは鍋じゃねえだろう!」と怒り出す人がいるかもしれませんが、それは現代人の勝手な発想で、当時の人はこれで食材を煮て食べていたのです。これが縄文人の面白いところで、私たちと縄文人とでは、考えていることがかなり違うのです。発掘現場で実際に掘ってみると、縄文人の訳の分からない発想に驚いたり、何だろう?と考えることが多々ありますし、隣で掘っていたベテラン調査員が「彼らの考えていることは分からない」と呟いたのを聴いたことがあります。

 展示されている深鉢を見ると、胴体がツートンカラーのようになっているものがあります。下半分が赤くなっていて(赤化と呼びます)、上半分が煤けて黒くなっているものです。中をのぞくと、中も下の方は黒くなっているのが分かることがあります。これは鍋として使用した痕跡です。稀に内側におこげが付着していることもあります。たまに博物館などではそれを説明した展示がありますので、見つけた場合はよく観察してみましょう。

さんまるミュージアムにて撮影

 時代が進むにつれて、深鉢以外の器種も作られるようになり、後期や晩期では、かなり種類が増えます。ただし、用途がはっきりしないものが多く、先ほどは「深鉢=鍋」と言いましたが、中には使用した痕跡のない深鉢や、異様に大きい、または小さい深鉢もあるので、「深鉢=鍋」と完全に言い切って良いのかは実は分かりません。また、土器は基本的には丁寧に作っているのですが、後期には雑な作りの土器も現れ、丁寧な作りの土器は精製土器と呼び、雑な作りの土器は粗製土器と呼びます。精製土器は特別な場合に使う物のようで、普段使いには粗製土器を使うようになったようです。

 なお、縄文時代の深鉢は、弥生時代には甕(かめ)と呼ばれるようになります。両者の形状は一緒で、煮炊きに使う土器は、縄文時代のものは「鉢」と呼び、弥生時代のものは「甕」と呼ぶのです。ただし、縄文時代の場合も、深鉢を棺として使った場合は、「鉢棺」ではなく「甕棺」といいます。考古学をやっていると、モノの呼び方に対して納得できないことに多々出くわしますが、昔の偉い先生が決めたことですから、今は大人しく従ってください。貴方が権力を得る時が来たら、そのときに改革を実行しましょう。

 ※掲載する土器などの遺物の写真は、文様や形状がはっきり分かるように明るめに補正しており、実物とは色味が少し異なることがありますがご了承ください。また、なるべく美しく撮るように努めていますが、ケースに電灯などが写りこんだり、あるいはピンボケしていたりして見苦しいものもありますので、その点もご了承ください。

 

 

第2章 縄文時代草創期

 

1)草創期の概要

 草創期の期間を実年代で述べると、16,500年前から11,500年前です。もちろんこの年代は研究者によって考え方が異なります。

 草創期は土器が初めて作られた時代です。この時代の土器はまだ「○○式」と呼べるような型式(かたしき)には分類しませんが、南九州などの一部地域では型式で呼ぶことがあります。作られた土器は、文様から以下の種類に分類されますが例外もあります。

 ・初期:無文(むもん)土器
 ・前葉:豆粒文(とうりゅうもん)土器、隆起線文(りゅうきせんもん)土器やその仲間の隆帯文(りゅうたいもん)土器
 ・中葉:爪形文(つめがたもん)土器や円孔文(えんこうもん)土器
 ・後葉:多縄文(たじょうもん)土器

 5,000年間でこのような推移があったのですが、各土器の年代幅に関しては地域によってグラデーションがあり、どの土器が何年前から何年前まで、とは厳密には言えません。ただし、例えば三内丸山遺跡のさんまるミュージアムで開催された「令和7年度特別展 縄文時代のはじまり」の展示パネルに記された実年代は一つの目安になると思います。

さんまるミュージアムにて撮影

 草創期の約5,000年間、土器は少しずつ変化していきました。草創期の土器は列島各地から小さな破片で見つかっていますが、旧石器時代から縄文時代への変化は地域ごとに少しずつ進行し、草創期はまだ定住化も進んでいないため、土器を作っていてもライフスタイルは旧石器時代と大きく変わらなかった場合もあったでしょう。

 草創期の気温については下図を参考にしてください。

『環境と文明の世界史』(石弘之・安田喜憲・湯浅赳男/著)より加筆転載

 氷期が終わりを告げるべく温暖化が進行したことにより植生が変わり、針葉樹林がまばらに広がる冷涼とした原野が落葉広葉樹の森へと変わっていき、冷涼なところでしか生息できない北海道のマンモスや沖縄県を除く広範囲に住んでいたオオツノジカといった大型獣が滅び、イノシシやウサギ、ムササビなどの小型獣が生きる時代へと少しずつ変化していきます。

 朝鮮半島から対馬経由で日本列島にやってきたと考えられるナウマンゾウは北海道にまで生息域を拡げ、従来は約24,000年前に絶滅したと考えられていましたが、今では約35,000年前から33,000年前にはすでに絶滅していたことが分かっています。国内では北海道にのみ生息していたマンモスは、約10,000年前までは生き延びていたため、ナウマンゾウは知らなくてもマンモスを知っていた縄文人はいたわけです。オオツノジカもその頃に絶滅したようです。

 人間のライフスタイルも動植物の変化に応じて変化していきますが、既述した通り、草創期は旧石器時代から本格的な縄文時代への過渡期と考えていいと思います。

 

 

2)御子柴・長者久保系石器群

 草創期は初めて土器が作られた時代ですから、すぐにでも土器の話を始めたいところですが、その前に御子柴(みこしば)・長者久保系石器群と呼ばれる石器について述べます。御子柴石器群と呼ばれることもありますが、この石器群を使用していた時期の文化を神子柴・長者久保文化と呼びます。後述するように、この文化期で最古の土器が出ているのですが、土器が見つかる以前は旧石器時代に含まれていました。この文化は17,500年前から17,000年前頃に発生したと考えられており、文化発生当初は土器を作っていません。

 御子柴石器群を特徴づける石器は、大型尖頭器(せんとうき)局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)です。尖頭器とは槍の穂先のことで、ポイントとも呼びます。御子柴・長者久保文化の一つ前は細石刃(さいせきじん)文化で、槍先には細石刃を使用していました。鹿の角で槍先を作り、その両サイドに細石刃という1~2㎝の小さな石器を並べて嵌め込んだものです。この説明を聴いてイメージできない人も博物館などの展示ではよくあるので気づかないうちに見ているかもしれません。御子柴・長者久保文化の人びとはこの細石刃と決別したのです。本来、槍先は一つの石器でできているものでしたから、細石刃というギミックの効いたアイテムから基本に立ち返った形になります。

 一方の磨製石斧は、主に木を切り倒すための石斧で、全体を丁寧に磨いています。局部磨製石斧というのは、局部という言い方がちょっとアレのせいか、刃部磨製石斧と呼ぶ研究者もいますが、刃になる部分だけを磨いた石斧です。局部磨製石斧は後期旧石器時代の初め頃に登場しました。後期旧石器時代に磨製石斧を作ったのは日本人とオーストラリアの先住民だけです。日本列島の後期旧石器時代にはその後見られなくなり、終り頃になってリバイバルして、御子柴型石器群を構成する重要な石器となりました。

 余談ですが、磨製石斧が木を切る道具だとしたら、後期旧石器時代の初め頃のライフスタイルを鑑みると木を伐採する必要はなかったと考えられるため、その頃の磨製石斧は動物を解体するために使われたとの説もあります。ただ、後期旧石器時代初め頃の局部磨製石斧の使い方に関してはまだ明確な答えは出ていないようです。

 さて、御子柴・長者久保文化の命名の元になったのは、長野県南箕輪村(みなみみのわむら)の神子柴遺跡と、青森県東北町(とうほくまち)の長者久保遺跡で、両遺跡からは土器は出土していません。

 2023年11月に現地講座で訪れた御子柴遺跡は、石碑と説明板が立っているだけでとくに何かがあるわけではありません。史跡指定もされていません。しかし、いつも言っているように、何もない場所に行ってロマンを感じることが出来ないと遺跡探訪マニアとは言えません。想像力が欠如していることは人間として悲しいことでありますが、想像力は知識によって裏付けられますのでしっかり勉強しましょう。考古学や歴史学の知識が無い人の中には、なんでも宇宙人と結び付けたがる人がいます。それはそれでロマンがあって楽しいと思いますが、まずは足元をしっかり固めて着実に歩みを進めましょう。

長野県南箕輪村・神子柴遺跡

 神子柴遺跡からは87点の石器が見つかっており、そのうちの85点が7×5mという狭い範囲で見つかっています。際立って独特なのは、その狭い範囲において、未使用品の磨製石斧を含めた非常に精緻な石器が故意に並べられたような状態で出土したことです。遺跡の性格は判明しておらず、石器保管場所説や石器交易所説、それに祭祀場説など様々な説が出て、発掘から60年以上経ってもいまだ謎の遺跡のままですから、ロマンを感じるには打ってつけの場所です。

 そして、神子柴遺跡から出土した石器は国の重要文化財に指定され、「日本で最も美しい石器」と呼ぶ人もいて、伊那市創造館にコーナーを設けて展示しています。

御子柴遺跡出土の御子柴系石器群(長野県伊那市・伊那市創造館にて撮影)

 一方、青森県東北町の長者久保遺跡には、2025年5月にAICTで訪れていますが、完全なオフロードの林道を少し走らなければならず、水たまりが多かったので、この遺跡を訪れたらレンタカーが一気に泥まみれになりました(さすがに返却するとき気が引けました)。

青森県東北町・長者久保遺跡(この辺)

 遺跡は完全なる山の中で史跡指定はされていません。説明板はおろか標柱一本立っておらず、クマと遭遇するリスクが高い場所に見えたので、ロマンを感じる前に恐怖を感じました。ロマンティストもクマの恐怖には勝てないということを如実に示す場所と言えます。出土遺物は、東北町ではなく、隣の野辺地町の歴史民俗資料館に展示しています。

長者久保遺跡の出土品(青森県野辺地町立歴史民俗資料館にて撮影)

 

 

3)無文土器

 昭和50年(1975)に青森県外ヶ浜町の大平山元Ⅰ(おおだいやまもといち)遺跡から神子柴・長者久保系石器群とともに土器片が出土したことにより、神子柴・長者久保文化が縄文時代の文化であると考えられるようになりました。

青森県外ヶ浜町・大平山元Ⅰ遺跡

 大平山元Ⅰ遺跡から出土した土器片のうち最古のものは、放射性炭素年代測定で13,780年前と出て、暦年代較正によって16,520年前のものと判明しました。

 遺跡のすぐ近くには「大平山元遺跡展示施設 むーもん館」がありますが、最古の土器片は人気者なので、各地の縄文展示にひょろっと顔を出します。

青森県外ヶ浜町・大平山元Ⅰ遺跡出土の無文土器(さんまるミュージアムの特別展にて撮影)

 この時期の気候は現在よりも平均気温が4~5℃低く、降水量も少なく、イメージ的には旧石器時代と変わりません。津軽海峡は存在しましたが、本州と北海道の間では人びとの往来があり、北海道からやってきた人びとが太平洋側では利根川流域(東京都)まで進出しています。彼らの行動範囲は、サケ・マスの遡上エリアと重なるため、彼らはサケ・マスの漁撈を行っていたのでしょう。

 出現期土器にはサケなどの遡上魚類や海岸で捕れる魚介類を煮沸した形跡が見つかることがあるため、いまだ木の実の採れない環境ではそれが主要な土器の使い道であったとする考え方もあります。

 長崎県佐世保市の福井洞窟ミュージアムには最古の土器を一覧したパネルがありますが、そこでは大平山元Ⅰ遺跡の無文土器を16,900年前としていますので、こういう考え方もあるようです。

福井洞窟ミュージアムにて撮影

 年代測定をして製作年代が分かった土器として2番目に古いのは、東京都武蔵野市の御殿山遺跡から出土した無文土器で、16,000年前~15,600年前の年代が与えられています。2004年に出土して、2021年に調査結果が公表されたので記憶に新しい方もいるかもしれません(上図では16,400年前~15,700年前としています)。

 上図中には、東京都あきる野市の前田耕地遺跡もプロットされていますが、AICTでは御殿山遺跡も前田耕地遺跡も訪れています。井の頭公園周辺は都史跡・井の頭池遺跡群となっており、御殿山遺跡は井の頭池の西側に位置します。

井の頭池周辺に所在する井の頭池遺跡群

 御殿山遺跡出土の無文土器は、武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館に展示しており、こちらも現地講座の際に実見しています。

御殿山遺跡出土の無文土器(武蔵野市立武蔵野ふるさと歴史館にて撮影)

 前田耕地遺跡では、御子柴・長者久保文化期の2軒の建物跡が検出され、そのうちの1軒は平地建物で、もう1軒は浅い掘り込みを持つ竪穴住居でした。竪穴住居の内部からは炉跡と見られる焼土を検出しています。縄文時代草創期から早期の頃は、建物内で炉跡が見つかることは少なく、建物外で炉跡が見つかることがあります。前田耕地遺跡の場合は住んでいた人は火事とか怖くなかったんでしょうか。反対に屋外からは炉跡を含め遺構は見つかっていません。

東京都あきる野市・前田耕地遺跡

 公園となっている現地に示されている建物跡は、現在地より北西約130mの地点で見つかった縄文後期の柄鏡形敷石住居の移築と、直下で見つかった弥生時代終わりころの住居跡の表示で、御子柴・長者久保文化期の遺構は表示されておらず、地下に保存されているとのことです。

 遺物としては、御子柴・長者久保文化期の2軒の建物跡内とその周辺から2000点を超える尖頭器(石槍)や膨大な数の剥片などが出土し、遺跡の性格としては集落跡というよりかは石槍の製作所であったと考えられています。石槍は、国立歴史民俗博物館に実物を展示しています。

前田耕地遺跡出土の尖頭器(国立歴史民俗博物館にて撮影)

 出土した御子柴・長者久保文化期の炭化物の実年代は15,500年前とされています。少量の無文土器も出土したということですが実見したことはありません。前田耕地遺跡近くの多摩川にはサケが遡上していたことが分かっているので、土器を使っていたとしたらその目的はゲットしたサケを煮るためだったと考えられます。

 なお、15,900年前には浅間山の形成史上最大規模の噴火が起こり、板鼻黄色軽石(YP)が降り積もり、立川ローム層のⅢ層の鍵層を形成し、15,000年前には十和田火山の大噴火が起こり、これにより十和田カルデラ(現在見ることができる十和田湖)が作られました。日本人は昔から常に火山の噴火の脅威に恐れおののきながら生きています。

 

 

4)豆粒文土器

 無文土器が登場してから500~1000年くらい後の土器として、長崎県佐世保市の泉福寺洞窟からは粘土を丸めて作った豆粒のようなものを表面にまばらに貼り付けた豆粒文(とうりゅうもん)土器と呼ばれる土器が出土しています。福井洞窟ミュージアムの展示では、16,000年前~15,000年前としています。

長崎県佐世保市・泉福寺洞窟出土の豆粒文土器のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影)
長崎県佐世保市・泉福寺洞窟

 豆粒文土器やそうだと思われる土器の片は、泉福寺洞窟以外からも出土していますが、その数は極めて少ないことから、豆粒文土器はかなりローカルな土器です。豆粒文土器以前に、長崎県において東日本の御子柴・長者久保文化期に相当する無文土器が出土しているかどうかに関しては、はっきりしたことは分かりません。

 泉福寺洞窟では豆粒文土器と同じ層で無文土器とされる土器片が検出されていますが、豆粒文土器のように器面への施文が少ない土器の場合は、無文土器に見えても、たまたま文様の無い部分である可能性もあります。九州では、草創期の中でももう少し後の隆起線文土器や条痕文土器が作られた時代にも無文土器が出土しています。

 なお、長崎県に行くと、豆粒文土器のレプリカが何か所かの施設に展示してあり惑わされますが、本物は佐世保市博物館島瀬美術センターにありますのでもし本物を見たい方は注意してください。

 豆粒文土器は、隆起線文土器の仲間に分類されることもあります。隆起線文土器については次の項で説明しますが、下に示す福井洞窟出土の2つの土器は、キャプションには「隆起線文土器」とあり、豆粒文土器と同じ16,000年前から15,000年前と表示されています。まず一つ目を示します。

福井洞窟出土の隆起線文土器のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 東日本各地で見られる隆起線文土器とは趣が違います。後述する通り、東日本では粘土紐を横方向にくっつけて施文するのが基本ですが、九州の場合は、縦方向にくっつけたものも見られます。さらに上の土器の場合は豆粒文も付いており、豆粒文から隆起線文への過渡期の土器に見えます。豆粒文土器から数百年程度遅れて登場したものであると考えます。

 もう一つの土器はこちらです。

福井洞窟出土の隆起線文土器のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 こうなってくると完全に隆起線文土器と言ってよいでしょう。さらに細分化すると、九州で独特な隆帯文土器(後述)だと思います。

 長崎県佐世保市・福井洞窟

 1万数千年続いた縄文時代の尺度からすると、ほぼ同じ時代と言って良い時期に東日本では無文土器が造られ、長崎県では豆粒文土器が造られました。両者にはどのような関係があるのでしょうか。

 実はこの時期は、近畿・中国・四国ではまだ土器は作られていないのです。そのことから、両者は関係が無いと言え、それぞれ同じ頃に土器を発明したと考えることができます。この時代の朝鮮半島には土器は存在しません。

 さて、いままで土器を示してきましたが、長崎県では豆粒文土器と同じくらい古い遺物で、土製有孔円盤や石製有孔円盤と呼ばれる謎の遺物があります。

福井洞窟出土の土製・石製有孔円盤のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 キャプションには16,000年前~14,000年前と書かれています。土製有孔円盤に関しては、関東地方で晩期のものが多く見つかっていますが、これは時期も場所も大きく違っています。関東のものも実際に何に使った道具なのか分かっておらず、こちらのものも謎です。見た感じでは糸を紡ぐための紡錘車に似ていますが、一体何なんでしょうか。

 九州北部では土器が出現した後も少しの間は細石刃文化が続くのが他の地域と違う特徴です(細石刃文化に関しては、旧石器時代の項を参照してください)。

 

 

5)隆起線文土器

 無文土器や豆粒文土器に続いて造られる土器は、隆起線文(りゅうきせんもん)土器です(既述した通り、豆粒文土器を隆起線文土器の仲間と捉える研究もあります)。隆起線文土器のことを隆起文土器とか隆線文土器と表記する場合もあり、研究者によっては厳密な使い分けをしている可能性がありますが、本稿では同じものとして扱います。

 無文土器が作られ始めてから少し経った15,000年前頃から列島全体が温暖化し、植生が変化して落葉広葉樹のブナ林が広がっていきます。ようやく一般的にイメージされる縄文時代の光景に変化していくわけです。そんな時期に、今まで土器を作っていなかった地域も含め、列島各地で隆起線文土器が作られ始めます。

 隆起線文というのはその字面の通り、隆起した線で文様を施しているわけですが、豆粒のような「点」ではなく、粘土紐によって「線」を表現しています。一般的には下の写真のように、粘土紐を水平方向にグルリと貼り付けており、器面全体に施す場合と上部だけに施す場合があります。

 こちらは横浜で見つかった隆起線文土器です。

横浜市・花見山遺跡出土の隆起線文土器(東京国立博物館・平成館にて撮影)

 器面の上半分にだけ隆起線文を施しています。

 そしてこちらは、長野県で見つかった隆起線文土器。

長野県須坂市石小屋洞窟出土・隆起線文土器(新潟県立歴史博物館の特別展示にて撮影)

 こちらも上の方だけですね。

 青森県でも見つかっています。

青森県六ヶ所村表館(1)遺跡出土・細隆起線文土器(さんまるミュージアムの特別展にて撮影)

 全体に施文しているのが分かりますし、底に乳房状突起があることも分かります。隆起線文土器で全体の形状が分かっているものは大変貴重です。

 近畿地方にはあまり縄文遺跡はないイメージがあるかもしれませんが、例えば草創期の主な遺跡としては以下のものがあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 地図中の福井県・鳥浜貝塚(後述)や三重県の遺跡を近畿地方の遺跡とするには問題がありますが、菰野町と記されている場所には真中に縦線の入った石器のような絵が記されています。

 それは、矢柄研磨器と呼ばれる石器で、宮崎市・清武上猪ノ原遺跡から出土した遺物を後で図示しますが、それが出たのは三重県菰野町の西江野遺跡です。昭和44年当時、まだ矢柄研磨器は全国で12個しか見つかっていなかったのですが、地元の高校生2人がその遺跡でそれを13個も見つけてしまったのです。凄い遺跡ですが、現地には説明板も何もないようです(未探訪)。

 それと、奈良県山添村の桐山和田遺跡は、草創期から早期にかけての遺跡で、草創期の隆起線文土器も出土しています。

奈良県山添村・桐山和田遺跡出土の隆起線文土器のレプリカ(橿原考古学研究所附属博物館にて撮影)

 東日本の隆起線文土器と似たデザインです。

 隆起線文は時代が下るにつれて線が細くなっていき、その線の太さによって、隆起線文、細隆起線文、微隆起線文と推移します。

 近畿地方と四国地方と中国地方を併せて、縄文時代では一つの地域としてくくることが多いですが、山陰地方に関しては、島根県立古代出雲歴史博物館に草創期の土器片が一点展示されています。手元の写真は見事にピンボケで掲載できませんが(無念!)、飯南町の板屋Ⅲ遺跡出土のものです。同博物館が2013年に開催した企画展『山陰の黎明』の図録には、山陰地方では、草創期の土器は発見されていないと記されているので、その後見つかった物のようです。

 お隣の鳥取県の場合は、2024年11月にAICTで鳥取県立博物館を見学した際に見た「鳥取県の縄文土器」という展示パネルの「草創期」の部分には「未確認」とありました。鳥取県内には後期旧石器時代の遺跡はありますが、縄文時代の遺跡や遺物に関しては、草創期を飛び越して早期から見つかるわけです。

 四国地方を見ると、高知県四万十町の十川駄場崎遺跡では、高知県最古級の土器が出土しています。高知県立歴史博物館に展示してあるのがそれです。

高知県四万十町・十川駄場崎遺跡出土の隆起線文土器(高知県立歴史民俗資料館にて撮影)

 佐川町不動ヶ岩屋洞窟遺跡出土の「細隆起線文土器」は、ニョロニョロと細い隆起線文が付いています。

高知県佐川町・不動ヶ岩屋洞窟遺跡出土の細隆起線文土器(高知県立歴史民俗資料館にて撮影)

 高知県立歴史民俗資料館に展示してある草創期の土器はこの2点のみで、いずれもかなり小さい土器片ですからもっと情報量が欲しいところですが、四国地方にも草創期の土器文化があったことが分かります。

 他に四国地方の遺跡を見ると、愛媛県久万高原町に上黒岩遺跡という著名な遺跡があります。

上黒岩遺跡

 上黒岩岩陰とか上黒岩岩陰遺跡と呼ばれることもある草創期が主たる時代の岩陰遺跡です。現地に行くと、現代人の感覚ではこのような山深い場所に良く住めたと思うかもしれませんが、縄文時代の始めの頃は、住み着くには打ってつけの場所だったのでしょう。上述した福井洞窟などの洞窟や、こちらの岩陰であれば住居を作る必要もないですし、上黒岩遺跡は南向きの岩陰で、すぐそばに川が流れていて水や魚介類を得ることも容易ですから、当時の人びとにとってもとても住みやすい場所だったのでしょう。

 上黒岩岩陰遺跡から出土したものとしては、本稿の最後に述べる線刻礫が有名なのですが、隆起線文土器も出ています。

上黒岩岩陰出土の隆起線文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 上の土器片は、隆起線文が横方向ではなく縦方向に、しかも放射状に施文されています。

 上に掲示した2枚の写真は、福井洞窟ミュージアムで撮ったものですが、上黒岩遺跡から出土した遺物は遺跡にある上黒岩遺跡考古館で見ることができ、隆起線文土器も展示しています(上黒岩遺跡考古館では「隆線文土器」と表示)。

上黒岩遺跡考古館にて撮影

 土器片だと本来の形のイメージが湧きづらいため、このような写真も展示してあります。

上黒岩遺跡考古館にて撮影

 何度も言及している通り、東日本の隆起線文土器と大きく違うのは、縦方向の粘土紐が付いていることです。こういったものは九州の隆線文土器と似ています。縄文時代が始まった当初土器を作っていなかった中国・四国地方の隆起線文土器は、九州の土器の流れでしょう。

 豆粒文土器の項で長崎県の隆起線文土器について述べましたが、再度、最古級の隆起線文土器を示します。

福井洞窟出土の隆起線文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 下の2つの土器片は横方向に施文している土器で左上の土器片は縦方向です。

 九州出土の隆起線文土器は、東日本の物に比べると粘土紐がはるかに太いものが見られ、そういったものは隆帯文土器とか、隆起線文系隆帯文土器と呼ばれます。

 鹿児島市立ふるさと考古館で展示してある下の土器のキャプションには「隆帯文土器」とあります。確かに「隆帯」と呼んでいいような太い粘土紐が付いていますね。

隆帯文土器(鹿児島市立ふるさと考古歴史館にて撮影)

 しかも、粘土紐には貝殻や指などで模様を施しており、東日本の隆起線文土器と趣が違います。

 面白いことに鹿児島県内で出土する隆帯文土器は、本土よりも種子島の方が出土量が多く、種子島から九州本土へもたらされた土器のように見えます。特定の遺物の出土量が多い場所がその遺物の本場だと考えるのがセオリーだからです。しかし、種子島より南の島からは隆帯文土器は出土せず、種子島の隆帯文土器は九州島からもたらされたものに見え、本当のところは分かりません。

種子島・西之表市・奥ノ仁田遺跡出土・隆帯文土器(複製=鹿児島県歴史・美術センター黎明館にて撮影)

 隆起線文土器というよりかは豆粒文土器のような雰囲気を持っており、九州の隆起線文土器とはまた違った印象があります。

 隆帯文土器は種子島より南からは見つかっていないとのことですが、隆起線文土器は、徳之島の天城町にある下原洞穴遺跡から見つかっています。

 上述した福井洞窟の隆起線文土器は、キャプションによると16,000年前から15,000年前ですが、下原洞穴遺跡から出土した隆起線文土器は、13,000年前とあります。

鹿児島県天城町・下原洞穴遺跡出土の隆起線文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 全国的な流れで見ると、すでに隆起線文土器の時代ではなく、次の爪形文土器の時代となります。当たり前と言えば当たり前ですが、列島全体で歩調を合わせたように一斉に土器の型式が変化するということはなく、変化にはかなりの時間差や型式のグラデーションを伴っていたと考えた方が良いでしょう。

 話を隆起線文土器に戻すと、鹿児島県南さつま市の栫ノ原遺跡では、隆帯文土器の土器片が1,000点以上見つかっています。

栫ノ原遺跡出土品(複製=鹿児島県歴史・美術センター黎明館にて撮影)

 栫ノ原遺跡から出土したもので珍しいものとしては、丸ノミ形石斧があります。

南さつま市・栫ノ原遺跡出土の丸ノミ形石斧(上野原縄文の森展示館にて撮影)

 丸ノミ形石斧は、栫ノ原型石斧とも呼ばれています。縄文時代草創期から早期にかけて特徴的に見られる石器で、南九州以外では沖縄県や伊豆諸島、小笠原諸島といった太平洋の島々に広く分布します。小田静夫氏は、丸木舟を製作するための工具ではないかと考えています。

 栫ノ原遺跡は説明板が立っているだけですが、丘の上に所在し、周囲の景観が開けている良い場所です。AICTでは2025年3月に訪れています。

南さつま市・栫ノ原遺跡

 鹿児島県や宮崎県南部、熊本県南部の南九州地域は、全国的に見ても草創期の文化がよく分かっている地域の一つで、その南九州の中でも栫ノ原遺跡はとくに著名な遺跡です。

 隆帯文土器の全体像が分かる資料はこちらです。

種子島の中種子町・三角山遺跡出土の隆帯文土器(上野原縄文の森展示館にて撮影)

 

種子島の中種子町・三角山遺跡出土の隆帯文土器(上野原縄文の森展示館にて撮影)

 上の2つは種子島の土器ですが、九州島では宮崎市からも出土しています。

宮崎市・清武上猪ノ原遺跡出土の隆帯文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 ただしこれもキャプションを見ると13,000年前なんですね。その時期は、既述した通り全国的な流れで見るとすでに隆起線文土器の時代ではなく、次の爪形文土器の時代です。

 以上見てきたように、草創期前葉には東北から九州までの広い範囲で隆起線文土器が作られていたことが分かります。ただし、大雑把に言って、東北地方から奈良県辺りまでは東日本的様相の隆起線文土器を作り、九州や中国・四国地方は西日本的様相の隆起線文土器を作っていたように見え、両者はそれぞれ別のルーツを持っているのではないかと推定できます。なお、北海道ではこの時代までの土器はまだ発見されておらず、最古級の土器は次の項で述べる爪形文土器になります。

 列島各地の博物館に展示してあるその地域の最古の土器は隆起線文土器であることが多く、日本最古級の無文土器にお目にかかれる機会はほぼないです。隆起線文土器も破片での展示がほとんどですが、博物館などに行ったときは、地域最古の土器探しをしてみてください。

 

 

6)有舌尖頭器

 尖頭器(せんとうき)というのは既述した通り槍の穂先のことで、有舌尖頭器は柄の側のほうが少し飛び出ていますが、それは茎(なかご)であると考えられておりその名が付いています。有茎(ゆうけい)尖頭器と呼ばれることもあります。この有舌尖頭器を使用した期間は、隆起線文土器が作られた時代で、次の爪形文土器の時代には衰退します。

 旧石器時代は狩猟に槍が使われていましたが、既述した通り縄文時代になると生息する動植物が変わり弓矢が普及し始めます。それとともに槍は使用されなくなり、その最後の種類の槍が有舌尖頭器を装着した槍と言うことになります。

 有舌尖頭器は列島各地から出土しており、早期前葉の日計(ひばかり)式土器の標式遺跡である青森県八戸市の日計遺跡では採集されています。

さんまるミュージアムにて撮影

 採集というのは表採と言うこともありますが、発掘調査によって掘って見つけたものではなく、地表面に落っこちているものを拾ったということを表しています。先端が少し欠けています。日計遺跡からは草創期の遺物は他には見つかっていません。

 有舌尖頭器を装着した槍の使い方に関しては、投槍器(とうそうき)という器具を使ったと想定されていますが、国内からは投槍器は出土していません。

さんまるミュージアムにて撮影

 このイラストを見ても今一ピンと来ないので、誰かが実際にやっているところを動画にしてくれるとありがたいですね。

愛知県豊橋市・三ツ山古墳

 いきなり古墳が現れてビックリしたかもしれませんが、愛知県豊橋市にある三ツ山古墳という墳丘長38mの後期の前方後円墳の周溝跡から安山岩製の有舌尖頭器が見つかっています。

愛知県豊橋市・三ツ山古墳出土の有舌尖頭器(豊橋市美術博物館にて撮影)

 古墳の副葬品とかそういうのではなく、偶然紛れ込んでしまったものと考えられています。

 四国地方でも見つかっており、高知県四万十市・江川崎宮地遺跡から出土しいます。

高知県四万十市・江川崎宮地遺跡出土の有舌尖頭器(高知県立歴史民俗資料館にて撮影)

 また、愛媛県久万高原町の上黒岩遺跡からも出土しています。

上黒岩遺跡出土の有舌尖頭器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 

 

7)爪形文土器

 隆起線文土器に続いて作られた爪形文(つめがたもん)土器は、人の爪や竹管状の工具などを器面に押し付けて文様を施した土器です。

群馬県みどり市西鹿田中島遺跡出土の爪形文土器(西鹿田中島遺跡ガイダンス施設にて撮影)

 上の土器片が見つかった群馬県みどり市の西鹿田中島(さいしかだなかじま)遺跡は、後期旧石器時代の日本列島に人が住んでいたことを証明した相澤忠洋(あいざわただひろ)が発掘し、関東地方における押型文土器(縄文早期)以前の隆線文系→爪形文系→押圧縄文系土器という順序を見つけ、昭和34年に論文で報告した遺跡です。

西鹿田中島遺跡の忠洋さん発掘地点

 西鹿田中島遺跡では重複した竪穴住居跡が検出されており、同じ場所に拘って住み続けることが行われていた証となっています。

 ちなみに、忠洋さんは福井洞窟の発掘にも携わっており、そのときに忠洋さんが地元の松瀬泰造氏に贈った一筆が福井洞窟ミュージアムに展示されています。

福井洞窟ミュージアムにて撮影

 忠洋さんファンの私はこれを見て涙が出そうになりました。忠洋さんファンの方はぜひ福井洞窟ミュージアムに行ってみてくださいね。

群馬県みどり市・岩宿遺跡にある相澤忠洋像

 ※なお、2026年6月現在、相澤忠洋さんを主人公にした映画「赤土に眠る」の制作が進行中です!みどり市のこちらのページをご覧ください。

 福井洞窟ミュージアムには、福井洞窟から出土した爪形文土器も展示してあります。

長崎県佐世保市・福井洞窟出土の爪形文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 キャプションには、16,000年前から15,000年前とあり、隆起線文土器と同時期なのです。

 また、こちらの爪形文土器も福井洞窟から出土したものですが、年代は15,200年前~14,700年前です。

長崎県佐世保市・福井洞窟出土の爪形文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 下の土器はレプリカですが、15,000年前~14,000年前のものです。

長崎県佐世保市・福井洞窟出土の爪形文土器のレプリカ(福井洞窟ミュージアムにて撮影) 

 これらの時期は東日本ではまだ隆起線文土器の時代ですから、長崎県域では爪形文土器の発生が早いようで、豆粒文土器、隆起線文土器、爪形文土器の登場が矢継ぎ早のような印象を受けます。

 北部九州の爪形文土器では、福岡県春日市の門田遺跡から優品が出土しています。

福岡県春日市・門田遺跡出土の爪形文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 この項の最初に示したみどり市の爪形文土器は、本当に爪で文様を付けたような感じですが、これは風合いが違いますね。

 またこちらも爪形文土器で、キャプションには13,000年前とありました。

福岡県春日市・門田遺跡出土の爪形文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 文様を見やすくするために写真は明るめに補正していますが、実物はもっと黒々としていましたよ。

 これらと同じ13000年前頃、南九州では「南九州型爪形文土器」が作られました。

宮崎市・清武上猪ノ原遺跡出土の南九州型爪形文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 おっと、またもや南九州ではマイナーヴァージョン登場か!と思われたかもしれません。

 これに関しては、今はちょっと語れることが無いので調べておきます。

 縄文時代は弓矢が開発されて普及された時代ですが、13000年前頃には矢の本体部分(矢柄)を研磨したと考えられているその名もズバリの矢柄研磨器が出土します。

宮崎市・清武上猪ノ原遺跡出土の矢柄研磨器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 真ん中が凹んでいますが、そこで研磨したと考えられているのです。

 鳥取県智頭町の智頭町埋蔵文化財センターには、智頭枕田遺跡出土の「板状有溝砥石」とキャプションされた草創期の遺物を展示しています。

鳥取県智頭町・智頭枕田遺跡出土の板状有溝砥石(智頭町埋蔵文化財センターにて撮影)

 これも矢柄研磨器だと思います。

 余談ですが、沖縄本島では「南島系爪形文土器」というのがかなり後の早期の終り頃に出土しています。

沖縄県うるま市・ヤブチ洞穴出土の南島系爪形文土器(福井洞窟ミュージアムにて撮影)

 これは同じ爪形文土器ですが、草創期の爪形文土器とは関係ありません。

 既述した通り、北海道最古の土器は爪形文土器で、帯広市の大正3遺跡から出土した土器は、14,000年前に作られたものです。

帯広市・大正3遺跡出土の爪形文土器(帯広百年記念館にて撮影)

 この土器は乳頭状突起が作られていますが、尖底ではなく丸底です。帯広百年記念館・埋蔵文化財センターの展示パネルによると、帯広での土器作りは、本州の土器文化の人びとがこの地にやってきて行ったものと考えられるそうです。ただし、この時期の帯広はまだ旧石器時代と同様な文化が展開しています。なお、大正3遺跡出土の土器からはサケと思われる魚を煮炊きした証拠が見つかっており、魚を煮た証拠の残る世界最古の土器とされています。

 大正3遺跡には説明板が立っていますが、現地で見ただけでは具体的にどの辺が遺跡なのか分かりません。

北海道帯広市・大正3遺跡

 北海道は遺跡に説明板を立てる事が少ないのですが、そんななかで帯広市は結構マメに説明板を設置していて好感が持てます。帯広百年記念館やそことは別の場所にある埋蔵文化財センターの展示も良いです。

 北海道における草創期の土器に関しては、上記以外には江別市大麻1遺跡からは次項で述べる多縄文系土器が出土していますが、それらは草創期の後葉段階の土器で、北海道の全体的な傾向としては、草創期は見つかる土器が少なく、土器を盛んに作っていた印象はありません。

 ところで、爪形文土器と同じころに新潟県の一部地域のみで盛行する円孔文(えんこうもん)土器というものがあります。十日町市の壬(じん)遺跡はまとまった円孔文土器が出土することで著名です。

新潟県十日町・壬遺跡出土の円孔文土器(新潟県立歴史博物館の特別展示にて撮影)

 細い丸棒の先端で口縁部に穿孔するだけで文様がありません。草創期においても、このようなローカル色を備えた土器は作られているのです。珍しいものなので、新潟方面の博物館などに行ったときは必ず確認してくださいね。

 珍しいものと言えば、福井県若狭町の鳥浜貝塚からも出土しています。鳥浜貝塚からは隆起線文土器が出土していますが、隆起線文土器と爪形文土器の両方に掛かるくらいの時代に、上の円孔文土器と同様に口縁部分に孔をめぐらせた斜格子文土器と呼ばれる土器が出ています。

福井県若狭町・鳥浜貝塚出土斜格子文土器(複製=若狭三方縄文博物館にて撮影)

 ただし、こちらの孔は貫通しておらず、したがって円孔ではなく、円形の刺突文です。

 水月湖のデータによって、この土器の使用年代は、13,644±71年前に絞られています。

 鳥浜貝塚は日本海側における著名な貝塚の一つで、世界最古となる12,600年前のウルシ木片が見つかっています。これが判明するまでは、ウルシは大陸から持ち込んだとされていたのですが、日本列島に元々自生していたとする考えが強くなっています。鳥浜貝塚の現地はちょっと寂しく、唯一この縄文おじさんが気を吐いて遺跡を守っています。

福井県若狭町・鳥浜貝塚

 私はこの方のことを勝手に「鳥浜さん」と呼んでいます。

 

 

8)多縄文土器

 草創期の後葉段階になって、ようやく縄文を施した土器が出現します。多縄文(たじょうもん)土器と呼ばれる土器です。

青森県八戸市・櫛引遺跡出土の多縄文土器(さんまるミュージアムの特別展にて撮影)

 縄文を施文する土器には、縄自体を転がして付ける多縄文土器と、縄を木の棒などに巻き付けてそれを転がして付ける撚糸文(よりいともん)土器があります。撚糸文土器は、次の早期に登場します。縄を転がして模様を付ける回転施文はアジアでは日本にしかないやり方で、縄文文化の特色の一つです。

 なお、上の櫛引遺跡出土の土器の場合は、厚さが4㎜ほどと薄く作られており、製作者の技術の高さを伺うことができます。博物館で土器を見るときは、厚みも観察してみると面白いですよ。ちなみに、櫛引遺跡では珍しい草創期の住居跡も見つかっていますが、2000年の段階で青森県で発見された草創期の遺構(遺物ではない)は2遺跡しかありません。草創期の人びとは、上述した洞窟遺跡や岩陰遺跡のように住みやすい場所が確保できなければ、しっかりとした住居を作って長くその場所に住むという意思はほとんど無かったと言えます。

 新潟県長岡市の室屋洞窟から出土したこの多縄文土器は、植物を編んで作った容器にインスパイアされて創ったような涼しげな風合いの素敵な土器です。

新潟県長岡市・室屋洞窟出土の多縄文土器(新潟県立歴史博物館の特別展示にて撮影)


 縄文人は土や石で作ったものだけでなく、木や植物によってもいろいろな道具を作っていたことは容易に想像できます。ただし、土器は現在まで残っているものがあるわけですが、植物性のものは地中に溶けてなくなってしまうことが多いため、現代にまであまり残りません。植物を編んで作った容器は早期以降に見つかるようになりますが、その中の白眉としては三内丸山遺跡から出土した、いわゆる「縄文ポシェット」があります。

さんまるミュージアムにて撮影

 これは中期の遺物ですが、早期の項で述べる編み籠などは現在は見つかっていないだけで、草創期の後半の土器の文様を見るとその頃にはすでに作られていたと考えます。

 草創期の終わりころ、多縄文土器とは違う土器が南九州で作られます。水迫式土器がそれで、早期初頭の岩本式土器のルーツとなる土器とされています。

鹿児島県指宿市・水迫遺跡出土の水迫式Ⅰ類土器(指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれにて撮影)

 

鹿児島県指宿市・水迫遺跡出土の水迫式Ⅰ類土器(指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれにて撮影)

 

鹿児島県指宿市・水迫遺跡出土の水迫式Ⅱ類土器(指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれにて撮影)

 なお、草創期の次の早期になると条痕文土器が作られますが、北部九州では草創期の終わり頃には条痕文土器が登場しています。

大分県九重町・二日市洞穴出土の条痕文土器(福井洞窟ミュージアム)

 今までたくさん草創期の土器を見てきた挙句にこの土器を見ると、流行最先端の最新モードに見えます。

 

 

9)沖縄県の草創期

 沖縄県の時代区分を表す際には「貝塚時代」という言葉が使われることがありますが、そう呼ばれるのは、概ね縄文時代前期以降です。そのため、本稿では「貝塚時代」という定義は気にする必要はありません。ちなみに、沖縄県内でも「貝塚時代」の語は使う人と使わない人に分かれ、例えば沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)の展示では使わず、本土と同じ「縄文時代」の語を用いつつ、本土における弥生時代から平安時代は、その併行期として扱っています。

 ただし、沖縄県のその時代を「縄文時代」と呼んでよいのかは躊躇します。沖縄県の場合、宮古・八重山地方では全時期に渡ってほとんど縄文文化の影響は見られません。一方、沖縄諸島では時期によって縄文文化の影響が濃くなったり薄くなったりします。しかし、縄文文化が濃い時期であっても沖縄諸島の在地の土器は縄文を施さないですし、土偶や石棒といった縄文文化を代表するようなアイテムを使った祭祀も行われていません。そのため、「貝塚時代」という語が用意されたと思うのですが、沖縄県も本土と同様な文化であったことを強調したい考えを持っている人は、敢えて「縄文時代」の語を使うのかもしれません。私は地域の独自性を尊重する立場であり、無理して中央に合わせる必要はないと考えていますが、それはそれとして、本稿では沖縄県の縄文時代草創期として話を進めます。

 沖縄県の地理や地域区分についてはこちらの地図を参照してください(鹿児島県側の方が詳しくて済みません)。

地理院地図を元に稲用章が作成

 沖縄県では、旧石器時代の人骨が多数見つかっていることから、旧石器時代を語るとかなり熱くなります。ところが、縄文時代草創期の話題はほとんどなく、おきみゅーに「でーん」と展示してある沖縄県の歴史年表を見ても草創期は空白で、しかも括弧して「草創期」と記してあります。

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沖縄県立博物館・美術館おきみゅーにて撮影

 そんな沖縄県ですが、草創期の遺跡はちゃんとあります。例えば、本島の南城市・サキタリ洞遺跡は、「ガンガラーの谷」という観光コース内に含まれる遺跡で、観光コース自体はガイド付きの有料コースですが、サキタリ洞遺跡だけを見るのであれば、有料コース入口にあるカフェから見ることができます。

ガンガラーの谷入口にあるサキタリ洞遺跡 発掘調査区Ⅰ

 実際、ここだけひょろっと覗き見て帰る人はいないと思われますが、コースに参加しなくても、カフェを利用するついでに見学ができます。カフェのコーヒーやジュースも美味しいのでお勧めです。飲み放題ですが、ガイドツアーに参加する場合は、1時間半くらいトイレが無いので戦術的に飲みましょう。

ガンガラーの谷入口にあるサキタリ洞遺跡 発掘調査区Ⅰ

 このパネルではここで見つかった代表的な遺物を紹介しています。この年代は較正されているので実年代です。草創期の遺物は、約14,000年前の石英製の石器で、人の歯と一緒に検出されており、おきみゅーで複製品を見ることができます。

沖縄県立博物館・美術館おきみゅーにて撮影

 写真上の列の左から3つが石英製の石器で、右端が人の歯です(下列は同じくサキタリ洞遺跡から出土した後期旧石器時代後葉の貝器と人の歯)。

 『DNAで語る 日本人起源論』(篠田謙一/著・2015年)が著された時点で、草創期の人骨の分析は行われておらず、人骨を資料にした草創期の日本列島人を示すことはできません。たまに、博物館などで縄文人のイメージ図や復顔などが展示されていることがありますが、草創期の人びとの顔貌(かおかたち)がそのようなものであった保証はありません。

 なお、サキタリ洞遺跡に掲示してあるパネルには「沖縄最古の石器」とありますが、沖縄県の旧石器時代は旧石器時代なのに石器が不明瞭なのです。多くの研究者の間で石器であることの合意が得られているものの中で最古のものがこれなのでしょう。

 沖縄本島ではありませんが、沖縄に比較的近い島として、鹿児島県に属する徳之島の天城(あまぐすく)遺跡からは旧石器時代の石器と推定される石器が出土し、複製品をおきみゅーに展示しています。

 

 

第3章 草創期の精神文化

 

1)土偶

 ここまで縄文時代草創期の約5000年間の歴史を見てきましたが、歴史と言ってもほとんど土器を見てきただけです。しかもその土器は欠片ばっかりで面白くないと思った方もいらっしゃるでしょう。では、縄文遺物のもう一方の雄である土偶はどうなのでしょうか。土偶はもしかしたら一般の縄文ファンには土器よりも人気が高いかもしれません。

 現在国宝に指定されている5つの土偶のうち、2つは東北の遺跡から出土したもので、重要文化財の土偶では14個のうち8個が東北の遺跡から出土しており、東北地方は土偶がたくさん出る場所というイメージがあると思います。ところが、意外なことに草創期のものは1つも見つかっておらず、草創期の土偶は、滋賀県と三重県から見つかっています。

 草創期に作られた国内最古級の土偶の一つは、滋賀県東近江市の相谷熊原遺跡から出土した土偶です。国立歴史民俗博物館にレプリカを展示しています。

滋賀県東近江市・相谷熊原遺跡出土の土偶の複製(国立歴史民俗博物館にて撮影)

 国立歴史民俗博物館のキャプションには13,000年前とあります。東近江市埋蔵文化財センターにもレプリカの展示があります。

滋賀県東近江市・相谷熊原遺跡出土の土偶の複製(東近江市埋蔵文化財センターにて撮影)

 こちらのパネル展示でも分かる通り、大変小さくて、全長は3.1㎝しかありません。

東近江市埋蔵文化財センターにて撮影

 ですから、言い訳になりますが写真を撮るのが難しい・・・

 同じ頃のもう一点の土偶は、三重県松阪市の粥見井尻遺跡から出土しています。

三重県松阪市・粥見井尻遺跡出土の土偶の複製(国立歴史民俗博物館にて撮影)

 こちらも小さくて全長は6.8㎝です。でも相谷熊原の土偶と比べたら大きい。頭部を意図した部分と胴体を意図した部分を別々に作って後から合体させる方式になっており、発見時は別々になっていました。粥見井尻遺跡では、最古級の土偶がもう一点出土しており、それは頭部のみです。相谷熊原遺跡の土偶も首の部分に孔が空いていますから、粥見井尻遺跡の土偶と同様な方式だったのかもしれません。

 いずれ述べる機会があると思いますが、後期以降になると私がスロット式と呼んでいる頭部と胴体が着脱式の土偶が極めて少数ですが作られます。

 粥見井尻遺跡には、2026年3月にAICTで訪れています。

三重県松阪市・粥見井尻遺跡

 多分、多くの方が「土偶」と聞いて想像するのは、国宝になっているような有名な土偶たちだと思いますが、それらとは随分と見た目が違いますね。手足の表現がなく、顔らしいものもありません。プリミティヴ(初源期)な土偶というものはこういうものなのです。大事なのは、女性の身体本体(トルソー)であり、これこそが土偶の使い方を解明する手掛かりになると思います。

 ただし、土偶も1万年以上作られ続け、地域によっては弥生時代になっても作りますから、「土偶の使い方はこうだ」的な断定した学説には注意しましょう。例えば、身体の悪い場所をもぎ取って、まじないをかけて捨てることによってその部分の病気を治そうとしたとか、バラバラに壊して分散して埋めることによって、各パーツから人間の食べ物が生まれてくるように祈るというハイヌウェレ型神話に依拠した説とか、いろいろな学説があります。こういった使い方をした時代や地域もあった可能性は十分ありますが、土偶の謎はそう簡単には解けませんよ。いろいろな研究者の学説を参考にしつつ、自分なりの考え方を楽しむのが縄文時代の楽しみ方です。

 なお、東北や関東の土偶については次の「早期」で登場します。

 

 

2)線刻礫

 石に文様を刻むという文化は、草創期にはすでにありました。

 愛媛県久万高原町の上黒岩遺跡では、上述した隆起線文土器と同じ第9層から線刻礫が出土しており、その中の何点かは佐倉の国立歴史民俗博物館に展示しており、それ以外の物は現地の上黒岩遺跡考古館に展示しています。

上黒岩遺跡出土・線刻礫(国立歴史民俗博物館にて撮影)

 一応、人間の造形が刻まれていることになっています。きっとそうなのでしょう。

上黒岩遺跡出土・線刻礫(上黒岩遺跡考古館にて撮影)

 地元では「上黒岩のヴィーナス」と呼んでいます。

 また、石偶とも呼んでいますが、一般的には線刻礫と呼ばれるものです。

 草創期の線刻礫は各地で稀に見ることができ、例えば鹿児島県からも出土しています。

鹿児島市・掃除山遺跡出土の線刻礫(鹿児島市立ふるさと考古歴史館にて撮影)