最終更新日:2023年11月21日
※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。
目次
壱岐市

カラカミ遺跡・香良加美神社
弥生時代中期後半から形成が始まった拠点集落跡で製鉄の形跡も見つかっている。青銅器ではなく、鉄器だ。
「周」の文字が線刻された大陸産の瓦質土器も見つかっており、日本最古の文字資料となる。
また、日本最古のイエネコの骨が見つかった遺跡としても有名だが、確実にイエネコの骨とは言い切れないという意見もあるようだ。しかし、私は稲作の導入と同時にイエネコも大陸から入ってきたのではないかと思う。
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原の辻遺跡
はるのつじいせき。「魏志倭人伝」に記された一支国の王都と考えられている大型環濠集落を中心とした弥生時代から古墳時代にかけての遺跡。現在は原の辻一支国王都復元公園として整備されている。
弥生時代前期後葉に突如として現れ、中期末に一旦廃れたが、後期前葉から古墳時代初頭に再度栄え、その時期は邪馬台国の時代に重なるため、魏志倭人伝に記された一支国の王都と目されているわけだ。
三重以上の環濠に囲まれ、規模は南北 750m× 東西 350m。
原の辻遺跡は壱岐で最も広い(長崎県で 2 番目に広い)深江田原平野の辺縁部の一段高い場所に立地し、幡鉾(はたほこ)川によって東側の内海(うちめ)湾と接続されており、弥生時代から海へのアクセスは良好だった。
船着場の遺構も見つかっており、弥生時代の船着場が検出されたのはここと岡山県倉敷市の上東遺跡のみ。
全国を見渡しても原の辻遺跡でしか見つかっていない珍しい遺物としては、「人面石」が有名で一支国博物館に展示してある。以前は目立たない場所に展示されていたが、今は堂々と博物館の「顔」として来場者を迎えている。お土産のお菓子のデザインにも採用されているほどの人気者だ。
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原の辻ガイダンス
原の辻遺跡について詳しく紹介したガイダンス施設で、一支国博物館で売られていない資料も販売されている。
原の辻遺跡の整備について説明したビデオは必見で、それを見てから原の辻遺跡を歩くと、復元建物をより興味深く見ることができる。係りの人に頼むと再生してくれる。


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壱岐市立一支国博物館
壱岐内での代表的な遺跡である原の辻遺跡を中心として、壱岐の各遺跡から出た遺物などを展示する博物館で、設計は黒川紀章建築都市設計事務所。
壱岐でしか見つからない特徴的な遺物としては、煮炊きの際に甕を3点で支える「クド石」がある。また、壱岐では石鎌が470点以上出土し、石包丁よりも多く見つかっている。
住民のフィギュアを配した原の辻遺跡のジオラマは特に優れており、ずっと眺めていても飽きない。



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【ランチ】一支国博物館 喫茶コーナー
もしかしたらあまり知られていないかもしれないが、一支国博物館の3階には小さな食事コーナーがあってランチに最適なのだ。



壱岐風土記の丘 古墳館
壱岐風土記の丘は、2023年4月から突如として期間未定の休園になってしまい、古墳館も休館となった。
壱岐はフレンドリーな方が多く、ここで地元の方々と話すのが楽しみだった。たまたま古墳に詳しい学芸員がいて古墳について説明してもらったこともある。
壱岐は古墳の島であり、古墳は壱岐の財産だ。
古墳館は壱岐の古墳を知るには最適の施設なので休館は来島者にとっては非常に痛いし、壱岐市にとっても損失だ。風土記の丘のうち、せめて古墳館だけでも再開できないだろうか。



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大塚山古墳
5世紀後半に築造された壱岐最古の古墳。
4世紀後半に北部九州に登場した竪穴系横口式石室が、この時期には壱岐にも波及し、大塚山古墳に取り入れられた。
修復に際し、すでに失われていた天井石の代わりに新たな天井石を架構したが、側壁や奥壁はほぼ往時の状態を保っているようで、赤く見えるのはベンガラを塗った形跡である。
竪穴系横口式石室に入れる古墳はほとんどないため貴重な古墳だ。
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国指定史跡 壱岐古墳群
『壱岐市文化財調査報告書 第20集 壱岐の島の古墳群~現状調査』(壱岐市教育委員会/編・2012)によると、該書が刊行された時点で確認されている壱岐の古墳の数は280基だ。ただし、寛保2年(1742)に著された『壱岐国続風土記』には、総計338基が記載されているため、実際はそれだけの古墳がかつては存在したと考えられる(江戸中期に古墳の数を調査をしているところが凄い)。
それらの古墳の中で勝本町の双六古墳、対馬塚古墳、笹塚古墳、掛木古墳、それに芦辺町の鬼の窟古墳と兵衛古墳の6基が、「壱岐古墳群」の名称で平成21年に国史跡として指定された。
壱岐には国史跡になった古墳以外にもたくさんの見事な古墳があり、横穴式石室に入れる古墳が多いことも古墳マニアにとっては嬉しいわけだが、これらの古墳はほぼすべて、後期・終末期の古墳。
築造ラッシュが始まるタイミングとしては、筑紫君磐井が継体天皇に敗れた後なので、その段階でヤマト王権の影響力が一気に壱岐にまで及んだのだろう。事実、多くの横穴式石室に、巨石を使う畿内の影響が看守できる。
壱岐の古墳については、「壱岐風土記の丘 古墳館」で詳しく知ることができる(註:上述の通り、2023年4月から期間未定の休館中)。

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双六古墳
そうろくこふん
壱岐古墳群
双六古墳は、全長91mの前方後円墳で、長崎県内で最も大きな古墳。6世紀代の古墳だが、同じ時代の畿内や関東の古墳とはまったく違う墳丘デザインで、新羅の影響が強いように思える。
横穴式石室に入ることはできないが、入口扉からカメラを突っ込めば内部が撮影できる。
説明板なし
9期
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30
掛木古墳
かけぎこふん
壱岐古墳群
壱岐風土記の丘古墳館の隣に強力な存在感をもって現存している。
長崎県内で唯一刳抜式家形石棺を内蔵した古墳といわれており、畿内では当たり前にある同石棺が北部九州では珍しいということが面白い。
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笹塚古墳
ささづかこふん
壱岐古墳群
墳丘自体はただの森に見え登頂は困難だが、横穴式石室は現在の林道側に開口しており気軽に入ることができる。
地山を整形して造った径70mの基壇の上に径40mの円丘が乗る2段築成の古墳で、墳丘図を見ると分かるが、林道の場所は墳丘南側に掛かっており、とくにその部分の基壇は大きく損なわれている。
車ですぐ近くまで行くこともできるが、天気が良ければ百合畑古墳群の入口に車を駐めて、百合畑古墳群を見てからそのまま散策がてら歩いてくるのが良いだろう。もし中世城郭も好きなら生池城跡も一緒に見学することをお勧めする。
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鬼の窟古墳
おにのいわやこふん
壱岐古墳群
国史跡・壱岐古墳群の1基で、直径45mの大型円墳。昔の人は古墳を鬼の住処だと思ったのか、はたまた巨石を積むのは鬼でないとできないと思ったのか、このようなネーミングの古墳が各地に散見できる。
壱岐にはいわゆる「鬼ヶ島伝説」があり、壱岐にはその昔、5万匹の鬼が住んでいたところ、豊後国(大分県)から百合若大臣(ゆりわかだいじん)という若武者がやってきて、すべて退治してしまったそうだ。鬼を「疋」で数える所が人権(鬼権)を無視しているように思える。
石室の長さは16.5mで、壱岐内で最長を誇るが、全国的に見ても長大な石室の部類に入る。やはり鬼が造った古墳かも知れない。
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兵瀬古墳
ひょうぜこふん
壱岐古墳群
説明板無し
壱岐古墳群の他の古墳群と比べて少し行きづらい場所にあり、説明板も設置されていない。もしかしたらあまりウェルカムな古墳ではないのかもしれない。
古墳といえば周溝があるのが当たり前のような印象があるが、何と壱岐では兵瀬古墳でしか周溝が確認されていないというのだ。
前室右側壁に船などの線刻があるそうだが私は確認できていない。
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百合畑古墳群
ゆりはたこふんぐん。23基の古墳からなる群集墳で、築造時期の細かい特定は難しいが、概ね6世紀末から7世紀初頭にかけて築造されたと考えられている。



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カジヤバ古墳
6C後半(説)
パッと見て混乱する古墳。というのは、一つの石室に対して、2方向の出入口が開口しているからだ。道路側の開口部は往時のものではなく、道路側から向かって左側の開口部が本物。羨道部分(あるいは墓道部分)の側壁が残っている。
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藤原理忠の墓
ふじわらのまさただ。
壱岐守。寛仁3年(1019)、得体のしれない賊徒が島の人びとを襲い、家畜を食い荒らしていると言う急報を得て出撃。
理忠が率いてきた手勢は少なく、約3000人の賊徒と戦い、147人の兵と共に玉砕した。これを刀伊(とい)の入寇と呼び、刀伊の正体は女真族であったといわれている。
墓地は森の中にあり、藪漕ぎをしながら捜索してようやく見つけた。


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文永の役 新城古戦場
文永の役の際、対馬を屠った元軍は、続けざまに壱岐を呑みこむべく軍船を進めてきたが、対馬・小茂田浜の戦いで宗助国が討死した9日後(諸説ある)の10月14日には、壱岐の浦海海岸に上陸した。
壱岐でも守護代の平景隆が100余騎を率いて迎撃したが、庄ノ三郎ヶ城の前面に展開する唐人原で大敗を喫し、翌15日、景隆は守護の拠点である樋詰城にて自刃して果てた。景隆らが戦ったのが、新城古戦場である。
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新城神社・平景隆墓
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少弐資時の墓
少弐公園にある

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黒崎砲台跡
猿岩のすぐ近くには大正 11年のワシントン軍縮条約によって廃艦となった戦艦土佐の主砲(40cm砲)を据え付けた黒崎砲台跡がある。当時は「東洋一の砲台」と呼ばれたが、一度も使用されることなく、終戦により撤去された。
ちなみに、戦艦土佐の40㎝砲の射程は35㎞で、日本最大の戦艦大和の46㎝砲の射程は42㎞。
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小島神社
一支国の王都・原の辻遺跡の海の玄関である内海(うちめ)湾に浮かぶ小島に素盞嗚尊(すさのおのみこと)が祀られている。潮が引いて参道が現れたときしか参拝することができない神社。


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青嶋神社

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【ランチ】うにめし食堂はらほげ
芦辺のはらほげ地蔵の近くにあるうにめしのお店。夜はやっていないので注意しよう。
壱岐市芦辺町諸吉本村触1307
0920-45-2153


【食事】味よし
郷ノ浦で食事をするなら味よしがお勧め。壱岐牛のローストビーフや刺身など美味いものがリーズナブルな価格で食べられるぞ。
壱岐市郷ノ浦町本村触519-11
0920-47-0688


【景勝】猿岩
もしかしたら壱岐で最も有名な場所かも知れない。私は壱岐を訪れたら必ず行くようにしている。いつ行っても素晴らしい場所だ。

【景勝】鬼の足跡

【景勝】左京鼻

【景勝】岳ノ辻展望台
壱岐最高所212.8m地点を含め公園内に3か所の展望所があり、島全体を見下ろすことができる。
深江田原平野も見下ろせ、原の辻遺跡の立地が確認できる。

対馬市厳原町

矢立山1号墳
矢立山古墳群は終末期の古墳群で、この時代の畿内の古墳もこれに似た佇まいになっているが、
ここの特徴は積石塚であるところで、対馬はヤマトの影響を受けつつも半島の影響も見られる面
白い。
出土遺物は、対馬博物館に展示してある。
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矢立山?号墳
説明板には3基の古墳が描かれているが、実際には入口から向かって正面の崖面にもう一つ横穴式石室がある。後期から終末期に見ることができる山寄型の古墳のような雰囲気で、石室はかなり埋まっているが、カメラを突っ込むと中を撮れる。


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小茂田濱神社(元寇古戦場)
1271年に国号を「大元」としたフビライ王朝(以降、元と称す)は、ついに日本侵攻を開始した。
1274年10月3日、兵力3万数千が900余艘の軍船に乗り合浦を出撃。船団は6日(他説ある)の寅の刻(4時)に対馬西岸の佐須浦沖に姿を現した。
しかし、姿を現したといってもまだこの季節の4時であればその姿は海岸からはすぐには視認できなかったはずだ。
それを迎え撃ったのは対馬国守護代として対馬の統治を任されていた宗助国。68歳の老将だ。
助国は手勢80余騎を率いて、小茂田の海岸に近い「ひじきだん」に本陣を構えた。小茂田の海岸助国はやがて、姿が明らかとなった元の大軍を認めた。一瞥しただけで勝敗は分かった。助国は覚悟を決めた。
実際の戦場は、今の佐須浦ではなく、少し内陸に入った金田小学校付近と想定されるが定まっていない。
元軍の軍船からは1000人ほどの兵が上陸したという。助国らは少ない人数で多数の敵を相手に大いに気を吐いたが、辰の下刻(9時)、ついに玉砕した。衆寡敵せずという表現にも程がある兵力差である。
現在、小茂田浜には助国らを祀る小茂田浜神社が建っており、今でも祭典の時は「鳴玄の式」が行われ、元軍に対して弓矢で応酬している。なお、討死した助国の首と胴体は別々の場所に葬られた。
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万松院
江戸時代の対馬藩主宗氏の菩提寺で、歴代藩主の墓所は国指定史跡となっている。
元和元年(1615)、対馬府中藩第2代藩主・宗義成が初代藩主・義智の追善供養のため、金石城の西隣に創建した松音寺(臨済宗)が始まりで、元和8年に義智の法号に因んで万松院と改め、寛永12年(1635)には天台宗に改宗。

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上見坂公園(砲座跡)
明治政府は仮想敵国であるロシアが攻めてきた場合、上述の小茂田浜から上陸してくると想定し、明治34年から翌年にかけて上見坂堡塁を築造。
設置されたのは15センチ加農(カノン)砲が計4 門で、幸いなことに一度も使用されることなく昭和となり、そして太平洋戦争も終わり、戦後は公園として整備された。

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対馬博物館
2021年にオープンした博物館。
以下に述べる対馬の遺物の特徴を知った上で見学すると良いだろう。
対馬では、縄文時代晩期から古墳時代後期まで、見つかるほとんどの墓は箱式石棺で、弥生時代の北部九州を代表す墓である支石墓や甕棺墓が見つかっていない。
島の98%が山地であるためか、弥生時代の稲作用の農具の発見が皆無で、稲作をした形跡がない。
弥生時代の遺跡から朝鮮半島系の有柄式石剣が多く見つかる。
縄文時代の遺跡からは骨製の釣針や、黒曜石で造った銛先などの漁撈具が見つかるが、弥生時代の遺跡からは漁撈具がほとんど見つからず、これは対馬の弥生時代の大きな謎とされる。
弥生時代の遺跡からは 120本を超える銅矛が見つかっており、一地域で見つかる量としては国内最多で、国内で見つかった銅矛の4分の1を占める。
弥生時代から古墳時代にかけての遺跡は、峰町と豊玉町に集中している。


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【飲み】山ちゃん
厳原にあるメニューが豊富な居酒屋で、特に刺身と串焼きがお勧めだがどれも美味しい
対馬市厳原町大手橋1208
0920-52-0115






対馬市美津島町
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根曽1号墳
根曽古墳群は、雞知(けち)において出居塚古墳のあとに築造された古墳群で、現在見ることのできる古墳は5基あって、その中の1号墳、2号墳、4号墳が前方後円墳で、残りは円墳。
最高所には前方後円墳の 1号墳がある。後円部を海側の南に向けており、墳丘長は30m。
5C(説)
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根曽4号墳
最も低い位置にあるのが前方後円墳の4号墳で、後期の築造。葺石というよりか、ほとんど積石塚状態になっており、形が良く分からないのは盗掘時のかく乱によるものだ。
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阿麻氐留神社

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梅林寺

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対馬の石屋根

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万関瀬戸および万関橋
厳原から北上すると必ず通過するのが万関橋で、ここは普通の観光ツアーでも必ず訪れる場所だ。万関橋は万関瀬戸という運河に架かる橋だが、その万関瀬戸は、対馬の東側の海と西側の浅茅湾とを結んでいる。
日本は、明治37年(1904)2月、ロシアと戦端を開いたが、その戦争の直前に開削されたのが万関瀬戸で、明治38年 5月の日本海海戦では、本土から出撃してきた水雷艇部隊がここを通過して浅茅湾に待機し、東郷平八郎率いる連合艦隊に合流し、ロシアのバルチック艦隊と戦った。
ちなみに、水雷艇というのは比較的小型の船で、魚雷を装備しており、敵の巨艦に肉薄して攻撃する船だ。日本海海戦の時は、バルチック艦隊は早い段階で旗艦スワロフをやられて、各艦はバラバラになってしまった。その際、逃走を図るロシアの戦艦や巡洋艦をつぎつぎに海の藻屑にしていったのが水雷艇部隊だ。
日本海海戦の結果は、おそらく世界中の海戦史上、こんな圧勝はないくらいに日本海軍連合艦隊が大勝した。しかし、日本はたまにこういった「神レヴェル」の勝ちを収めることがあるため、それが逆に日本人に変な
自信を与えて、その後の失敗の原因になっているのかもしれない。
なお、現在架かっている赤い万関橋は3代目。
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小船越(西漕手)
にしのこいで
西漕手は万関橋のすぐ北側にある。万関瀬戸のやや南には大船越という地
名があり、一方こちらは小船越という地名で、この一帯は東側の海と西側の浅茅湾に挟まれた陸橋のように細くなっている部分で、地名の通り、小船越でも、小型船は陸を曳いて東西を行き来していた。
遣唐使船に関しては、丘に上げて運んだとの説明と船を乗り換えたとの説
明の両者を聴いたことがある。
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【食事】そば道場美津島
空港から近いので対馬空港に降り立ってすぐの腹ごしらえに便利


対馬市豊玉町

円通寺
対馬を治めた宗氏は、応永15年(1408)に7代貞茂が筑前から対馬に入部し、最初は三根郷佐賀に居した。その後、貞盛、茂職までの60年間、この地において対馬を治め、10代貞国は、厳原へ移動した。境内には朝鮮通信使の碑が建っている。
円通寺の裏には宗家墓地(県指定史跡)があり、「宗氏三代の墓」と呼ばれることもあるが、その墓石は無銘のため具体的に誰のものなのかは不明なようだ。

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和多都美神社
祭神は彦火々出見尊と豊玉姫命で、初代神武天皇の祖父母にあたる。延喜式内社の「和多都美神社」の論社。本殿の正面に配置された5本の鳥居のうち2本は海中にある。鳥居の先には竜宮城があるのかもしれない。

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豊玉町郷土館

写真撮影NG
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対馬市峰町

佐賀貝塚
さかかいづか
佐賀貝塚の発見のきっかけは、昭和28年、民家の床下に造られた甘藷の貯蔵穴の断面に貝殻や獣骨が挟まっているのを地元中学校の校長先生が見つけたことだった。
その後、1985年に本格調査がなされ、縄文中期から後期に至る遺跡であることが分かり、いくつかの知見がもたらされたが、大量の石器が見つかり、しかも製作途中のものも多かったことから、ここで石器を製造していたことが分かった。
縄文時代の石器は、各家庭で好きに造っていたケースもあるかもしれないが、ある地点から集中的に見つかる事例があり、石材が入手しやすい場所の近くに専門の工房を造っていたと見られるケースがある。
それと、佐賀貝塚には西九州産の黒曜石が多くもたらされていた。北部九州の鐘崎式土器も見つかる。
佐賀貝塚の遺物は、対馬博物館と峰町歴史民俗資料館に展示してある。
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三根遺跡
邪馬台国時代の対馬国の国邑(王都)候補地。
対馬は平野が極めて少ないため、平面に展開する広々とした集落を造れる場所はほぼなく、全島から古代の集落跡はほとんどみつかっていない。しかしその中で、峰町の三根は、河川の沖積によってできた小さな平野で、西側に開いた湾があり、集落跡が見つかっており、對馬国の国邑(首都)の有力地と目されている。ただし、確実に對馬国の国邑と決められるような遺構はまだ確認されていない。
魏志倭人伝によると、対馬には卑狗と卑奴母離という役人が置かれていることから、役人の居館跡もどこかにあるはず。
なお、峰町歴史民俗資料館の展示も素晴らしく、三根遺跡の遺物が多く展示してあるが、對馬国の国邑を思わせるような表現はなく控え目だ。
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海神神社
「わだつみ」と読んだり「かいじん」と呼んだりする。対馬国一宮。
観光ツアーでも訪れる神社。ただ、拝殿までの階段は 300 段近くあるので、ちょっと大変。

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峰町歴史民俗資料館
以前は写真撮影NGだったが今はOKだ。


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【食事】こかげ
峰町は食事処が少ないため貴重な存在でしかも美味しい。歴史探訪の際はここでランチを食べることを考えて行程を組もう。
月曜日が定休日だが、念のため行く前に確認しよう。
対馬市峰町三根1569
0920-83-0971


対馬上県町

越高遺跡
越高遺跡からは、縄文時代早期末頃(7500年くらい前か)の土器が出ており、旧石器時代の遺跡が見つかっていない対馬では最古級の遺跡。
現地に以前設置してあった説明板はすでに無いそうで、遺跡の一部は水没しているそうなので、以前の探訪では湾を見渡せる場所(仁田水道事務所の前)から遠望するに留めている。
越高遺跡からは韓国の土器である隆起文土器が結構出ており、対馬博物館にも多数展示してある。
隆起文土器は、本土で良く見つかる隆起線文土器とは違う。本土の隆起線文土器はもっと古い草創期の土器だ。
現状見る限りでは、対馬が完全に日本の縄文文化に覆われるのは、中期後半から後期以降のようだが、対馬の縄文時代でもとくに草創期・早期・前期・中期は不明な点があまりにも多いため、今後の発見によって歴史が塗り替わる余地があるといえる。
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志多留貝塚
志多留貝塚からは、縄文後期中頃の貝層が検出されているが、現地では説明板以外に目で見られるものはない。出土遺物は、対馬博物館に展示してある。
ところで、対馬の遺跡の説明板を読んでいると、東亜考古学会という名前が良く出てくるが、それは戦前に浜田耕作などによって結成された団体で、当時日本の植民地だった満州などの発掘調査を行っていた。戦後は、フィールドを縮小せざるを得なくなり、対馬の調査を積極的にやっていた。
歩いて行ける距離に、大将軍山古墳がある。
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大将軍山古墳
でじょうぐやまこふん。4世紀後半の古墳。
山の中腹まで数分直登する必要があり、足場は良くない。登る途中、正方形のような形状の石室のようなものが散見できるが、古代の墓なのか、近代の地下倉庫なのか分からない。
大将軍というだけあって対馬にしては大型の石棺がある。しかしその場所はまだ中腹で、尾根が上の方まで続いている。石
棺よりもさらに高い場所に大将軍という祠があることからその名前が付いた。本土の大将軍信仰と関係があるのか分からないが、『対馬国志』では、大将軍は道教の神としている。
該書によると、この石棺墓にはもともと墳丘があり、古墳時代前期の4世紀後半の築造としている。その時期は、出居塚古墳と同時期となり、下県をまとめていた首長の墓が出居塚古墳とすると、上県の首長の墓がこの大将軍古墳と考えられる。大将軍山古墳からは対馬で唯一の出土となる夔鳳鏡(きほうきょう)が出ており、首長の墓として相応しいと考えられる。
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棹崎砲台跡
棹崎公園の砲台跡(観測所跡)からは、コンディションが良ければ対岸の釜山の白いビルが建っているのが見える。
砲台は4か所あって、それぞれに15㎝カノン砲(八九式十五糎加農砲だとしたら射程距離は18㎞)を設置し、日華事変(日中戦争)が勃発した翌年の昭和13年から稼働を開始したが、大砲が火を放ったことは一度もなかった。ただし、詳しく調べていないので分からないが、米軍の空襲を受けたことはあったようだ。
なお、飛行機に対して大砲をぶっ放してもまず当たることはなさそうだが、砲弾によっては、破裂するまでのタイマーをセットできるものもあって、その場合は、敵編隊の距離を勘案して、何秒後に爆発するかセットしたのちに発射すれば、敵編隊の中で砲弾が炸裂して、周辺の飛行機を一気に落とすことができる。理論上は。
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対馬市上対馬町

朝日山古墳群(朝日山遺跡)
霹靂神社の本殿は小高い岬の上にあって、本殿の近くに立派な箱式石棺がある。
説明板には、朝日山古墳群というタイトルが付いているが、墳丘は認められないものの古墳時代中期の箱式石棺墓群だ。
石棺の内側には朱が確認できる。周辺にも板石が集中して散乱している場所があり、他にも複数の石棺があったことが伺えるが、対馬博物館の展示パネルによると3基の箱式石棺が確認できるという。
出土遺物は、上対馬町歴史民俗資料室に展示してある。
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霹靂神社
へきれきじんじゃ。拝殿の前はすぐ海になっていて、海に向かって参道が伸びているこの地域にたまに見られるタイプの神社。素敵な景観だ。
霹靂神社に奉納された懸仏(かけぼとけ)のうち完形もしくは完形に近いものは87面あり、そのうちの数面が対馬博物館と上対馬町歴史民俗資料室に展示してある。
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塔の首遺跡
塔の首遺跡は、弥生時代後期の墓域で、箱式石棺が4基見つかっている。ただし、4基のうちもっとも崖に近い1号石棺はすでに崩落してしまったのか、なくなっている。残りの3基については、露天展示となっており、きちんと表示があって、どれが何号石棺か分かるようになっている。3号石棺がもっとも残りが良く、蓋石も残存している。
立地は比田勝港を望む切り立った崖の上で、被葬者は素晴らしい景色の場所に埋葬されたのだ。港にはフェリーが停泊しているのが望める。
上対馬町歴史民俗資料室には、塔の首遺跡のジオラマや出土遺物が展示してあり、銅矛が無造作に展示されていて、レプリカかな?と思ったりするが本物のようだ。
特筆すべき遺物としては、4号石棺からは方格規矩鏡が出土している。径10.2㎝の小型鏡で、展示のキャプションには舶載鏡と思われるとある。破砕されていた。舶載鏡の方格規矩鏡は、後漢王朝から直接あるいは間接的に手に入れたものだろう。
遺跡の年代からすると、記録上では西暦57年と107年に倭は後漢王朝に遣使しており、被葬者はそのときに随伴した対馬の有力者と考えることもできるが、対馬の立地から考えると、記録にない渡航もあったと考えるのが自然で、手に入れる機会を絞ることはできない。
ただし、方格規矩鏡は誰でも手に入るものではない貴重品であることは間違いはない。
3号石棺の被葬者は若い女性だが、ガラス製小玉が 8236個も出ており、調査時点では弥生時代のガラス製小玉の一括最高数だった。その他、銅釧や土器なども出ている。









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23×15
経隈墳墓
経隈遺跡は、対馬で唯一の弥生墳丘墓で、対馬最北部の大浦湾の西側丘陵上に所在する。東西23m ×南北15m、元は2mほどの高さの楕円形の墳丘墓で、墳丘は盛土で造られている。埋葬主体は3基で、木棺の上に方形に積石しており、埋葬施設以外に、立石などの石組遺構がある。墳丘斜面には貼石が施され、出土品は鉄製武器、楽浪系鉢形土器、三韓系瓦質土器で、対馬の他の墓の副葬品の構成とはかなり違う。
造営時期は弥生時代後期前半から後半ごろにあたり、邪馬台国時代よりも古い。なお、邪馬台国の時代の對馬国では、拠点集落、首長館跡、首長墓、すべて見つかっていない。
上対馬町歴史民俗資料室では、経隈墳墓から出土した鉄剣と土器が展示してあり、その中の完形に接合された土器は、金海式とある。朝鮮半島南東の海岸地域で制作された土器で、中国の灰陶の流れを汲む陶器の仲間。この金海式土器と一緒に弥生土器も出ていることから、国際色の豊かな墳墓だが、対馬の最北端という立地を考えると国際色が豊かなのは当然といえるか。
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上対馬町歴史民俗資料室


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【食事】すし処 慎一
比田勝にある寿司屋。人柄の良い大将が造るアナゴ料理が絶品だが他の食事も美味くて料金はリーズナブル。海鮮好きなら絶対お勧め。
なお、比田勝に宿泊する時は、下記の東横インがお勧めだが、慎一であればホテルが無料で送迎してくれる。
対馬市上対馬町古里13-3
0920-86-3749






【ホテル】東横INN対馬比田勝
リゾートホテルみたいな東横インで東横インに慣れている人は行くと驚くと思う。係りの人も親切。

