最終更新日:2023年3月2日
AICTの現地講座では、平将門の乱に関する話や、豊島氏や江戸氏、そして河越氏などの秩父平氏一族の名前が出てくる。それらの人物の関係をここで系図を示しながら整理してみよう。
平将門の乱の時代
まずは、将門周辺の系図を示すと以下の通りとなる。
これらの人物の子孫たちのうち、もっとも権力を得ることになるのは、将門を倒した貞盛の子孫で、のちに清盛が生まれる。それに対して、将門の男系は断絶状態となったが、将門叔父・良文の子孫が関東地方において力を得ることになる。
※平将門の乱に関しては、こちらのページに簡潔にまとめてある。
将門の娘・春姫は、良文の子・忠頼と婚姻し、二人の間には将恒が生まれた。
将門は親戚縁者をことごとく敵に回して戦ったという印象があるが、『将門記』には良文との戦いの記述はなく、良文の子・忠頼は将門の娘と婚姻しているし、この後裔が子々孫々と将門の子孫であることを誇りにしていることからも、良文は将門と敵対していなかったと考えるのが妥当である。将門の乱が行われていた頃、良文は鎮守府将軍として陸奥に下向しており、物理的に将門と良文の本人同士が戦ったことはないはずだ。
将門の従兄弟である忠頼は、武蔵介に叙せられており、武蔵国内に一定の影響力を及ぼしていたことが分かり、その子・将恒は、後述する通り、「尊卑分脈」では、「従五位下・武蔵守」とあり、父の権力を受け継いだことが分かる。
秩父支配の始まり
将恒は、後の世に秩父平氏の祖と仰がれることから、荒川上流の秩父盆地に進出し、その地の支配者であった秩父郡司一族と婚姻して、秩父に拠点を設けたと思われるが、証拠はない。秩父郡司一族は、6世紀後半から脈々と続く知知夫国造の子孫である。
なお、長元元年(1028)に発生した「平忠常の乱」の張本人である忠常は、「尊卑分脈」では、将恒の弟となっているが、「慶元寺本江戸北見系図」によると、忠頼の兄・忠通の子とされている。
将恒以降を「尊卑分脈」によって示すと以下の通りとなる。
将恒、武基までは従五位下と記されていることから中央での位階を持っていたことが分かり、武基は、秩父別当とあり、秩父にある官営の牧場の管理者に任じられていた。父・将恒が秩父盆地にて蓄積した権力を継承した結果任じられたのであろう。
武綱以降は、中央官人の地位を失ってしまったように見える。ただし、重綱は「秩父守」とあり、「秩父という氏の武蔵守」との意味だとすると、中央との繋がりが依然としてあったということになる(下記系図では下野権守とあるが、国司を歴任するケースは普通にある)。
「尊卑分脈」には、河越氏や豊島氏など、その後の関東で大きな力を振るう一族が登場しない。そのため、『秩父平氏の盛衰』所収「武蔵国南部の秩父平氏」(今野慶信/著)記載の系図から必要個所を示すと以下の通りとなる(将恒は、恒将とされる場合があり、こちらの系図では恒将となっている)。
こちらの系図で、「尊卑分脈」で現れる人物は、青字で示した系列の人びとである。
系図には「河越」の記載はないが、重隆の系が河越氏である。
上記系図の最後の方の世代は鎌倉幕府成立の頃の人びとで、頼朝に関係した人物としては、豊島清元(清光)、葛西清重、畠山重忠、小山田有重、河越重頼、江戸重長らがとくに有名である。これらの人びとは、頼朝が政権を確立する際に無視できない大きな力を持っていた人びとである。なお、彼らは秩父平氏に括られた親戚同士ではあるが、系図の通り、血縁関係としてはかなり遠くなっている。
武蔵国内の軍勢指揮権を持つ河越氏
上記系図のうち、青色で示した家系の重綱以降、重弘、重能、重忠の系統(この系を長男流と呼ぶ)と、重隆、能隆、重頼の系統(次男流)の2つの流れに秩父家の家督が継承され、それに付随して、武蔵国留守所惣検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき=以降は惣検校職と記す)という、武蔵国内での軍事統率権も継承された。
『吾妻鑑』によると、源頼朝が挙兵た時、当時まだ平氏政権側についていた畠山重忠は、頼朝側の三浦義明を自身が動員できる手勢のみを率いて攻めたが、野戦で敗北した。
独力では三浦氏を倒すことができないことを悟った重忠は、又従兄弟にあたる河越重頼に出馬を要請したところ、重頼は、秩父一族のほか、金子氏や村山氏といった「武蔵七党」と呼ばれる武士団に動員をかけ、合力して三浦氏の衣笠城を落とすことができた。
この事実から、重頼は惣検校職の職権によって武蔵国内の武士たちに対して動員令を発して戦ったことが分かる。河越氏や畠山氏に代表される「秩父家」の家督を継ぐ者は、このような大きな権力を持っていたのだ。
頼朝は石橋山の戦いで敗北した後、房州へ渡り北進し、雪だるま式に自軍を膨張させていったが、下総と武蔵との国境を流れる隅田川で足止めされた。対岸にいる江戸重長の力を恐れたためだ。
江戸氏も秩父平氏一族で、江戸氏には河越重頼や畠山重忠も味方している。結果的には交渉によって江戸氏が妥結して、頼朝は鎌倉に入ることができた。その後、建久4年(1193)2月9日には、丹党と児玉党との戦いの静謐を畠山重忠が任じられていることから、この時点では、惣検校職は、重忠が持っていたようだ。
河越館跡
上述した河越氏が拠点とした河越館跡が国指定史跡として整備されている。
現地説明板によると、河越館の歴史は以下の通り4期に分けることができるが、現地では異なる時代のものを同時に見ることができるため、説明板をよく読んで理解する必要がある。
第Ⅰ期
平重頼(あるいはその父祖)がこの地に進出して河越氏を名乗り、館を構築する12世紀後半から、応安元年(1368)の「武蔵平一揆(むさしへいいっき)」で滅亡するまでの期間。火を受けた痕跡の残る軒丸瓦や磁器が出土しており、それらは河越氏滅亡と関連付けができる。
鎌倉時代真っただ中の13世紀の空堀跡。
とてもではないが、高い防御力は期待できないような堀だが、この時代は一応、「平和な時代」であるため、外敵がそれなりの軍勢で攻めてくることは想定していないはずだ。
現地説明板には、14世紀中頃の想定図が描かれている。
これは、平一揆が起こる前の時期のイメージであるが、いかにも「武士の館」というような佇まいである。9番の場所が館の中心地と想定され、遺構は見つかっていないが、母屋があったと考えられており、4番の霊廟らしきものがあった区画と8番の場所も館内の区画で、7番は墓域だ。
そして10番は河越氏の持仏堂から発展した常楽寺。宝亀3年(772)の時点で入間郡家の北西方向には、郡家を守護する「出雲伊波比神」があり、現在の上戸日枝神社がそれだと推定されており、12番がそれで、神社の鳥居の場所から絵の左(南方向)へ向かうのは中世の鎌倉街道。古代には伝路という今で言う県道のような官道が走っており、古代からこの周辺は重要地域だったわけだ。
その後、この地に進出した秩父平氏の河越氏が所領を後白河上皇に寄進した際に、京都の新日吉を勧請している。
第Ⅱ期
14世紀後半~15世紀後半の時期で、元々は河越氏の持仏堂であった常楽寺が河越氏滅亡のあとに寺域を館跡にまで拡げる。
第Ⅲ期
15世紀末~1505年で、戦国時代に当たる。山内上杉氏と扇谷上杉氏との争いである「長享の乱」において、山内上杉氏がいわゆる「上戸陣」を構築。「山内系かわらけ」が多く出土している。
現地で見られる土塁は、このときに築かれたものであるという。
第Ⅳ期
戦国時代がいよいよ終わりに近づいた16世紀中頃~1590年。
遺構・遺物、それに文献も乏しいが、後北条氏が進出してからは大道寺氏が陣所として整備した可能性が考えられる。ただし、大道寺氏の陣所があったという考えは、常楽寺に大道寺政繁の墓があることからの推測である。