最終更新日:2023年2月28日

 

第1回 関東地方における戦国時代の始まり

 元弘3年(1333)5月22日に新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府を滅ぼしたとき、義貞とともに鎌倉を攻めた足利氏の軍勢には足利高氏(あしかがたかうじ=のちの尊氏)の嫡子で4歳の千寿王(のちの義詮<よしあきら>)が奉戴されていた。

 義貞は間もなく鎌倉を離れ上京し、鎌倉は足利氏の勢力下に置かれるようになったが、高氏は千寿王を鎌倉に留め置き、関東統治のトップとした。

 鎌倉は建武2年(1335)7月の中先代の乱(なかせんだいのらん)で一時的に北条時行らに奪回されたが、すぐに足利氏は鎌倉を取り戻し、義詮は鎌倉公方(かまくらくぼう)として、引き続き関東地方の統治を任されることになった。

 しかし義詮は貞和5年(1349)に上洛し、やがて室町幕府第2代将軍となる。

 義詮の上洛と引き換えに、鎌倉には義詮の弟・基氏(もとうじ)がやってきて、鎌倉公方に就任したが、義詮が将軍になったこともあり、一般的には基氏をもって初代の鎌倉公方と数えている。また、室町の幕府に対して鎌倉の政治拠点を鎌倉府と呼ぶ。

 鎌倉公方はその後、氏満、満兼、持氏というように毎回子が相続をしたが、その間、各代の鎌倉公方は天下を狙う野望を持ち続け、幕府との関係は良好ではなかった。

 とくに4代目の持氏(もちうじ)は将軍就任に執念を燃やし、永享8年(1436)には、鎌倉府の管轄ではない信濃国の争乱に出兵して介入するにいたった。

 鎌倉には幕府から任命される関東管領(かんとうかんれい)がナンバーツーとして在籍し、鎌倉公方を補佐するとともに、なにかと関係の悪い将軍と鎌倉公方との間の調整を行ってきていたが、ときの関東管領上杉憲実(のりざね)は、それまでさんざん持氏を諫めていたにもかかわらずそれが聞かれることもなく、ついに持氏の信濃出兵に対しては、自らの軍事力をもって阻止した。

 憲実は、幕府と鎌倉府との間に挟まれ苦悩を続けたが、将軍義教は横暴な持氏を討伐することに決め、永享10年(1438)8月14日、憲実は鎌倉を脱出、領国の上野国へ逃れた。

 憲実の逃亡に持氏は怒り、さっそく討伐軍を発するとともに、自身も武蔵国府中の高安寺(東京都府中市)に出陣した。

 高安寺はかつては見性寺といい、足利尊氏がそれを改め龍門山高安護国禅寺を建立し、等持院と称した。等持院は尊氏の法号である。

 高安寺は鎌倉公方が合戦に出るときに度々本陣となり、『高安寺とその文化財』によると鎌倉公方5代のうちで、高安寺に鎌倉公方が出張ったのは12回にのぼる。

 さて、憲実を支援して幕府軍が下向すると、鎌倉府側の武将たちは続々と持氏の元を離れ、鎌倉の留守を預かっていた相模の有力者・三浦氏も背き、持氏は鎌倉に戻ったものの、軟禁状態にされてしまった。

 幕府は持氏を処分するように憲実に伝えたが、憲実はなんとか持氏を助命してもらえないか幕府に願い出た。しかし幕府の方針は変わらず、ついに永享11年(1439)2月10日、憲実は持氏のいる永安寺を攻め、持氏は寺に火を放って自害した。なお、持氏が起したこの争乱は、永享の乱と呼ばれている。

 持氏自害の翌年である永享12年(1440)3月、持氏の遺児春王丸と安王丸が持氏の遺臣たちとともに常陸国で挙兵した。春王丸らはついで下総国の結城氏朝に迎えられ結城城に入城、それを知った幕府は討伐軍を結城城へ向かわせた。世に言う、結城合戦である。

 討伐軍は7月末に結城城の包囲を開始し、翌嘉吉元年(1441)4月中旬、結城城は落城、春王丸と安王丸は捕えられ殺害された。

 しかしまだ持氏の子らは確認できるだけで男子だけでも6人生き残っていた。

 持氏の死後、鎌倉公方の座は空席であったが、幕府もずっとそのままにしておくことはできず、ついに持氏の遺児の一人である万寿王丸を鎌倉公方とすることに決め、文安4年(1447)8月、万寿王丸は元服して成氏(しげうじ)と名乗り、第5代鎌倉公方に就任した。

 そして成氏を補佐する関東管領には憲実の子憲忠が選ばれたが、成氏は父を憲実に殺されていることから、当然ながら憲忠のことを憎む気持ちがあったことは容易に推測できる。

 宝徳2年(1450)4月の江島合戦と呼ばれる成氏と上杉氏との局地的な戦いを経て、成氏が憲忠を殺害したのは、享徳3年(1454)12月27日のことである。

 この事件により、鎌倉公方足利氏と上杉氏との全面戦争が勃発し(享徳の乱)、関東地方は136年後に豊臣政権によって平定されるまで、長い戦国時代を経験することになる。

 

第2回 緒戦で大敗した上杉氏

 享徳3年(1454)12月27日に、第5代鎌倉公方・足利成氏によって殺害された関東管領上杉憲忠は、関東地方の上杉氏のいくつかの流れのなかの山内(やまのうち)家と呼ばれる家系で、関東地方における上杉氏の嫡流であった。

 上杉氏は元をただすと藤原北家勧修寺流の庶家である。

 『関東管領・上杉一族』によると、鎌倉時代初期の人物である藤原重房は、承久の乱(承久3年<1221>)の後、宗尊親王が鎌倉幕府の第6代将軍として下向する際に、それに供奉して鎌倉に下り、鎌倉下向と同時に丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)の所領を得たことにより苗字を上杉に改めたという。

 これが通説となっているようだが、『地域の中世1 扇谷上杉氏と太田道灌』によれば、上杉を最初に苗字としたのは重房の子頼重で、頼重は足利氏の家領奉行人頭人を務め、足利氏領丹波国八田郷(綾部市)等を所領とし、同郷内の上杉村という地名を取って苗字としたという。「上杉荘」自体、存在しないという。

       上杉                   扇谷家祖
重房 ――― 頼重 ―+― 重顕 ――― 朝定 === 顕定
           |
           |         山内家祖
           +― 憲房 ――― 憲顕
           |
           +― 清子
              尊氏母

 頼重の子である憲房は、妹が足利尊氏の母・清子であった関係もあり、尊氏に忠実に仕えた。

 憲房の子憲顕は、鎌倉の山内(鎌倉市山之内)に居館があったことから山内上杉と呼ばれるようになり、憲顕の5代あとが憲忠である。

 そして、関東地方の上杉氏を語る上で、もう一流、重要な家がある。それが扇谷(おおぎがやつ)家である。

 扇谷家が鎌倉に下向したのは山内家よりも遅く、顕定(1351~80)が鎌倉へやってきて扇谷に居館を構えたことから扇谷上杉と呼ばれるようになった。

 さて、22歳の若き当主憲忠を殺された山内上杉氏は、憲忠の父憲実がまだ存命だったものの政治権力はすでに放棄しており、また憲忠の弟たちも若かったため、上杉氏の成氏に対する報復戦は、扇谷上杉氏の隠居・持朝がリードして進めることになった。

 持朝はこのとき39歳。憲忠の妻の父であり、永享の乱や結城合戦を戦い抜いてきた戦巧者でもある。

 ところがその持朝率いる上杉軍は、翌享徳4年(1455)正月22日、相模島河原(神奈川県平塚市)の戦いで成氏の派遣した一色直清・武田信長の軍勢に敗退してしまった(なお、武田信長は甲斐国守・武田信重<信玄の5代先祖>の弟で、この後、上総武田家を興すことになる人物)。

 一方、扇谷上杉氏の当主顕房(持朝の子)は、山内上杉氏の前の家宰・長尾景仲(太田道灌の母方の祖父)とともに武州一揆や上州一揆を率い、武蔵府中(東京都府中市)に侵攻し、鎌倉公方歴代の先例どおり高安寺(東京都府中市)まで出張ってきていた成氏軍と対峙した。

 そして相模島河原と時を同じくして、21・22日に上杉軍と成氏軍は、立河原(東京都立川市)から分倍河原(府中市・国立市)にかけての多摩川の河畔で合戦となった。21日の戦いを第一次立河原合戦と呼ぶが、両日含めて、分倍河原合戦と呼こともある。

 『東国の歴史と史跡』によると、この当時の多摩川の流路は現在とは違って、おおよそJR南武線と中央自動車道との間を流れていた。日新町のNECのところがちょうど河道である。上記のいわゆる「分倍河原合戦」は当時の多摩川の右岸、現在の府中市四谷で戦われたのである。

 ちなみに、現在の四谷という地名は元々「四ツ屋」と表記し、近世初頭の多摩川の洪水によって村が流されたときに、踏みとどまった家(市川一族)が4軒あり、それで四ツ屋村と呼ばれるようになった。

 なお、『東国の歴史と史跡』では現在の多摩川の河道が中世の頃どうなっていたかは述べていないが、現在の河道も中世当時も多摩川の支流(浅川)が流れていたと思われる。関戸の渡しは中世の頃からあるからだ。

 したがって、中世の頃は、現在の多摩川の河道(浅川)と上記のNECのところの河道があり、その二つの河道の間と言うことで中河原という地名がついたのではないかと思う。

 基本的に当時の合戦は人家がない河原や原野などで行われた。分倍河原合戦が行われた府中市四谷も当時は人家がなかったと考えられる。

 さて、上記の合戦は、またもや上杉軍の敗北となり、庁鼻和(こばなわ)上杉憲信は戦死、犬懸(いぬがけ)上杉憲顕は高幡不動(東京都日野市)で自害したと伝わり、扇谷当主顕房も深手を負い、24日に入東郡夜瀬(埼玉県入間市あるいは東京都八王子市)で自害した。

 このように上杉氏は緒戦で惨敗を喫し、山内上杉氏は憲忠の弟房顕(21歳)が継ぎ、扇谷上杉氏は持朝が再び当主に返り咲くこととなった。

 なお、このときの戦いで、山内上杉氏の重臣である武蔵大石氏の当主憲儀も討ち死にしており、分家(駿河守家)の重仲も、黒田基樹氏が推測する通り、このときに受けた傷が元で死亡したと思われる。重仲はのちの長尾景春の乱の際に二宮城(東京都あきる野市)に拠った憲仲の父であり、大石氏は当時すでに東京都多摩地域で強い勢力を持っていた。

 

第3回 武蔵国に君臨した守護代大石氏

 前回、享徳4年(1455)正月22日に起きた分倍河原合戦において、大石憲儀が討死し、大石重仲もこの合戦で被った傷がもとで死亡したことを述べたが、その大石氏は東京地域にとっても非常に重要な氏族であるので、今回は大石氏について簡単に述べてみる。

 大石氏についての研究は、70年代までは八王子市下柚木の伊藤家に伝わる「大石系図」を元に進められていた。しかし、80年代からは史料性の低い系図を頼るのではなく、史料として確実な古文書を元に大石氏の姿を復元しようとする動きが興り、現時点での大石氏の研究の到達点は、『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』所収「総論 武蔵氏大石氏の系譜と動向」(黒田基樹著)に簡潔にまとめられている。本ページではとくに断りがない限り、該書の記述を元に述べる。

 『大石氏の研究』(大石氏史跡調査研究会)では、大石氏のルーツについては、木曽義仲がまだ信濃にいるころに、大室(あるいは小室)太郎泰貞の娘との間にもうけた義宗が初代だという「大石系図」の記述を元に考察しているが、大石氏が木曽義仲の後裔であることを史料的に裏付けることはできない。

 大石氏は、応安3年(1370)に現れる隼人佑能重(はやとのすけよししげ)が史料上の初見である。能重は、武蔵守護代に任じられている。

 既述したが、室町時代の関東地方のトップは足利尊氏の子基氏の系統の鎌倉公方で、ナンバーツーは上杉氏が任じられる関東管領である。そしてその下で各国の守護(しゅご)がそれぞれの国の統治を受け持っていた。

 しかし守護は鎌倉に在住し、任国には出向かなかったので、守護に代わって実際に現地で国の統治をおこなう責任者が必要となる。それが守護代(しゅごだい)であった。したがって能重は武蔵においては相当な権力者ということになる。なお、守護代は目代(もくだい)とも称される。

 能重が史料に登場した時点で、すでに事実上の武蔵国の統治者である守護代に任じられているということは、大石氏が木曽義仲の末裔であったかどうかは不明としても、能重の守護代就任は、大石氏が山内上杉氏の家臣として実績を積み重ねてきた結果であると考えられる。

 ところがその能重は、大石氏の嫡流ではなく、「石見守家」と黒田氏が呼称する大石氏の分家であった。本家は「遠江守家」と呼称される家で、史料で確認できる初代は、法名聖顕であり、能重と同世代の人物で年齢は少し上だったと推定されている。

 

【遠江守家】

某 ― 某 ― 憲儀 ―+― 房重か
聖顕  道守      |
            +― 定重 ―+― 顕重か === 憲重 === 氏照
                      道俊      綱周     北条氏康子
                      心(真)月斎

【石見守家】

能重 ― 某 ― 憲重 ― 石見守 ― 石見守 ― 石見守
     道伯

 

 大石氏はさらに駿河守家の憲重と同世代の重仲から始まる「駿河守家」も確認されており、重仲と憲重は兄弟であった可能性がある。

 

【駿河守家】

         重仲 ― 憲仲 ― 高仲 ― 高仲

 

 さて、享徳4年の分倍河原合戦では、大石一族は既述した通り本家当主の憲儀と駿河守家当主重仲の二人を失うという大変な打撃を被った。

 この頃の大石氏は武蔵守護代の地位についておらず、一時期ほどの権勢は失っていたが、相変わらず山内上杉家の重臣であることには変わりない。

 石見守家の道伯は、二宮道伯と称されているので、あきる野市の二宮城に居していたことが分かり、道伯の子の憲重も引き続き二宮城を拠点に活動していたと考えられるが、その後石見守家は拠点を下総国葛西(東京都江戸川区)に移し、代わって二宮城を拠点にしたのは駿河守家であった。

 本家筋にあたる遠江守家は、討死した憲儀の跡を継いだ庶子の定重が柏の城(埼玉県志木市)を拠点として活動していたと考えられ、定重が大石氏として久しぶりに武蔵守護代に任じられるのは、長享元年(1487)のことである。

 

第4回 太田道灌の江戸入城

 享徳4年(1455)正月の分倍河原合戦で勝利した鎌倉公方足利成氏は、敵を追撃しつつ北上し、3月3日には下総国古河(茨城県古河市)に入った。古河を中心とした下河辺荘は鎌倉府の御料所だった。この後、鎌倉へ戻れなくなった成氏は古河城を本拠地とすることになるので、成氏以降は古河公方(こがくぼう)と呼ばれることになる。

 一方、敗北した山内上杉氏の家宰長尾景仲らは、下野国天命(栃木県佐野市)・只木山(同足利市)に籠城したが、成氏と上杉氏との合戦を知った幕府は、3月末に後花園天皇から成氏追討の錦旗を下賜され、在京中だった亡き憲忠の弟・房顕に山内上杉家を継がせるとともに関東管領に任じ、関東へ向けて出陣させた。ここに成氏は朝敵となったのである。

 また幕府は、越後守護の上杉房定を上野(群馬県)に向けて出陣させ、扇谷上杉持朝を支援する目的で、駿河守護の今川範忠も出陣させ、持朝・範忠勢は、6月中旬鎌倉に入り、鎌倉から成氏勢力を一掃した。

 これにより、利根川(現在の古利根川)を挟んで、東側に古河公方の勢力圏が、西側に上杉氏の勢力圏が形成され、関東平野を東西に二分しての戦いに発展した。

 しかし、成氏はすぐさま利根川を越えて侵攻し、12月に庁鼻和上杉性順(憲信)と長尾景仲が籠る崎西城(埼玉県加須市)を落とし、上杉勢に脅威を与えた。

 また上杉勢は、下総方面でも利根川の東側を流れる太日川(現在の江戸川)の東岸の市川城(千葉県市川市)を古河勢に奪われ、武蔵国南部を版図とする扇谷上杉氏持朝は、急ぎ防衛ラインを構築しなければならなくなった。

 そのため扇谷上杉家宰太田道真道灌父子を始めとして、宿老の上田・三戸(みと)・萩野谷氏らは「数年秘曲を尽くして」、河越城(埼玉県川越市)と江戸城(東京都千代田区)を築城した。両城は、長禄元年(1457)には完成しており、河越城には当主持朝と道真が、江戸城には道灌が入部した。道灌は長禄元年の時点で26歳である。

 江戸城は平安時代の終わりごろに、秩父平氏の一族が居館を定めた場所で、頼朝挙兵時に当初頼朝と敵対した当主・江戸重長は、『義経記』に「(関東)八箇国の大福長者」と記されたほどの富豪であった。

 「大福長者」という表現は武士というより、商業で成功した者を表現しているので、利根川や入間川(現在の隅田川)などの大河川が集中する江戸湾を控え、関東はもとより日本各地から物資が集まる江戸は、非常に経済的に旨味のある土地であり、そこを舞台に江戸氏は経済的成功を収めていたことが分かる。

 また、東京というとあまりご存じでない方は平坦な地形を想像するかもしれないが、現在都心となっている地域は、江戸時代以降の江戸湾の埋め立て地以外は非常に起伏に富んだ地形をしており、江戸城(現在の皇居)周辺も深い谷や高い丘が複雑に入り組んでいる。したがって、江戸城はそういった地形に守られた、非常に要害堅固な城なのである。

 道灌は江戸城に入る前は、品川館(東京都品川区)にいた。品川にも湊があり、品川湊の支配者で、非常に商業的に成功した鈴木道胤(すずきどういん)と道灌は親交があった。したがって、道灌は道胤からビジネススキルを学び、それを江戸湊で実践したものと考えられる。もちろん道胤もコンサルタントとして道灌の江戸支配には関わっていただろう。

 道灌が入部してから江戸湊はさらに発展し、道灌の経済力もかなり向上し、それが主家である扇谷上杉氏に脅威として映ることになり、後年の扇谷上杉定正による道灌暗殺の原因の一つになったものと私は考えている。

 

参考資料

・『関東公方足利氏四代』 田辺久子/著
・『高安寺とその文化財』 井原茂幸/著
・『関東管領・上杉一族』 七宮涬三/著
・『地域の中世1 扇谷上杉氏と太田道灌』 黒田基樹/著
・『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』 黒田基樹/著
・『立川市史 上巻』 立川市史編纂委員会/編
・『府中市史 上巻』 府中市/編
・『東国の歴史と史跡』 菊池山哉/著
・『図説 太田道灌』 黒田基樹/著
・『日本城郭大系 5 埼玉・東京』 児玉幸多・坪井清足/監修