最終更新日:2023年9月11日
一般的には、戦国時代は応仁元年(1467)に京で発生した応仁の乱をもってその始まりとすると説明されることが多いが、関東地方においては、享徳3年(1454)12月27日(ユリウス暦では1455年1月15日)に勃発した享徳の乱(きょうとくのらん)をその始まりとする。
しかし、関東地方では鎌倉幕府滅亡時の混乱以降、断続的に戦いが起きているため、本稿は「戦国史」というタイトルながら、鎌倉幕府滅亡から戦国時代までの関東地方における争乱の歴史について説明する。なお、叙述の都合上関東地方以外の話も含まれる。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代にかけてはとくに複雑な時代だが、以下に示したポイントを押さえておくと理解し易い。
● 鎌倉時代末期、後醍醐(ごだいご)天皇が鎌倉幕府打倒を目指し蠢動を繰り返す。
● 1331年8月、後醍醐天皇が挙兵し幕府との戦いが発生する(元弘の乱)。後醍醐天皇は逮捕されて隠岐に流されたが、1333年閏2月、隠岐を脱出し、再び挙兵。
● 1333年5月、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府が滅亡。幕府と戦った武士たちは後醍醐天皇の元に結集し、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まった。これで丸く収まったかに見えたが、後醍醐天皇の元で働く足利尊氏(あしかがたかうじ)は処遇に不満を募らせる。後醍醐天皇の命で、尊氏の弟直義(ただよし)が鎌倉に入り、関東地方の責任者となる。
● 1335年7月、鎌倉幕府第14代執権北条高時の遺児時行によって鎌倉が奪われる(中先代の乱)。京にいた尊氏は関東へ下向し鎌倉を取り戻す。後醍醐天皇への不満を募らせていた尊氏は、戦いの後、天皇の許可を得ずに戦った武士たちに恩賞を与えたりして独立へ向かう。11月には尊氏の不遜な行動に対して後醍醐天皇はついに兵を派遣し、両者の戦闘が勃発する。戦いは次第に尊氏優位に進むようになる。
● 1336年11月、尊氏は光明天皇を践祚させ、劣勢に立っていた後醍醐天皇は尊氏と和平を結び退位。ここで後醍醐天皇が大人しくなれば世の中は平和になったのだが、内心納得していない後醍醐天皇はすぐに吉野に拠点を設け自身の朝廷の存続を表明。これ以降、二朝並立、つまり南北朝時代に入る。
● また、この月には「建武式目」が制定され、それによって室町幕府が成立したと考える研究者が多い。尊氏が征夷大将軍になったのは1338年8月。
● 1339年8月、後醍醐天皇が崩御したが、南北朝の争いは収束しない。
● 1346年頃から直義と足利家執事・高師直(こうもろなお)との確執が深まり、やがて抗争に発展。兄から見限られた直義は劣勢に立たされ、1350年12月に南朝側に降伏して尊氏・師直に対抗(観応の擾乱<かんのうのじょうらん>)。
● 翌1351年2月、兄弟は師直・師泰兄弟の罷免・出家を条件として和睦。結局、師直が政争で負けたことになり、師直は直後に殺害される。これで兄弟がちゃんと仲直りできれば丸く収まったわけだが、昔のように仲良くはなれず、再び両派は戦端を開いた。
● 11月には今度は尊氏が南朝に降り、翌1352年正月には再び兄弟は和議を結んだが、その直後、直義が突然の不審死。
● 1358年、尊氏が病没。
目次
第1部 南北朝時代の争乱
第1回 史上最も破天荒な天皇・後醍醐天皇
第2回 京都六波羅探題の滅亡
第3回 新田義貞の挙兵と鎌倉幕府の滅亡
第4回 鎌倉府のルーツと中先代の乱
第5回 尊氏の独立と顕家の第一次西上
第6回 南北朝時代の始まり
第7回 顕家の第二次西上
第8回 義貞の討死と後醍醐天皇の崩御
第9回 関東から撤退した親房
第10回 観応の擾乱の始まりと鎌倉府の成立
第11回 直義の京脱出
第12回 直義の死
第13回 武蔵野合戦
第14回 入間川御陣
第15回 尊氏の死
第16回 武蔵平一揆
第2部 室町時代の争乱
第17回 小山氏の乱
第18回 奥羽の鎌倉府への移管
第19回 上杉禅秀の乱
第20回 永享の乱
第21回 結城合戦
第3部 戦国時代の争乱
第22回 関東地方における戦国時代の始まりと緒戦で大敗した上杉氏
第23回 武蔵国に君臨した守護代大石氏
第24回 足利成氏の古河入部と太田道灌の江戸入城
第25回 道灌最大のライバル・長尾景春
第26回 道灌に大きな代償を払わせた千葉氏
第1回 史上最も破天荒な天皇・後醍醐天皇
鎌倉時代末期の元亨元年(1321)12月9日、賢帝として名高い後宇多法皇は院政を停止して、子で34歳の後醍醐(ごだいご)天皇に政務を執らせることにした。念願かなった野心家の後醍醐はすぐに記録所を設置した。記録所は、所領問題など各種の事案を天皇みずからが決裁する機関である。
後醍醐は非常にバイタリティがあり、細かいことまで自分でやらないと気が済まない性格のため、ほとんど寝ずに活動したようだ。正妃である西園寺禧子(さいおんじさちこ)とは当時としては極めて珍しい恋愛結婚で、二人は非常にラブラブだったが、その一方で後醍醐には側室も多く、子供の数は少なくとも36人だったという。
ここまでの簡単な紹介をしただけでも後醍醐の強烈な個性が垣間見られると思うが、その後醍醐は自分を頂点とする秩序の構築を願っていた。しかし、それを遮るものがあった。幕府である。幕府の存在によって、後醍醐は自分の後継者を決めることも不可能とされていた。したがって後醍醐は、親政を始めると密かに側近の日野資朝や日野俊基らとともに倒幕の準備を進めていった。
ところが、後醍醐らの企ては、仲間の土岐頼員がうっかり妻に計画を漏らしてしまったことによって幕府の知るところとなり、元亨4年(1324)9月19日、幕府の京都における出先機関である六波羅(ろくはら)が出動、京都市街において戦いになり、土岐頼兼や土岐氏一族の多治見国長らが討たれ、日野資朝と俊基は逮捕された(「正中の変」)。幕府は後醍醐を咎めることはしなかったが、資朝と俊基は鎌倉に下された。そして、翌正中2年(1325)閏正月には、資朝は佐渡へ流罪になることが決まり、俊基は赦免され京に帰れることになった。
この件により幕府の朝廷に対する監視の目は厳しくなったが、それでも依然として倒幕計画は進められ、後醍醐は嘉暦2年(1327)12月6日には、子の尊雲法親王(そんうんほうしんのう=のちの護良<もりよし>親王)を天台座主(てんだいざす=比叡山延暦寺の貫主<住職>)に補し、尊雲法親王はその後一度は罷めさせられたものの、元徳元年(1329)12月14日には再び天台座主に補され、これにより後醍醐は、比叡山延暦寺を握り、天台宗の勢力を手中に収めた。
また、元徳2年(1330)3月8日には、春日大社や東大寺・興福寺へ行幸し、26日には日吉社へ、翌27日には比叡山に行幸し、12月14日には今度は尊雲法親王の弟の尊澄法親王(そんちょうほうしんのう=のちの宗良親王)を天台座主に補し、寺社勢力の糾合を目論んだ。
しかし今度は、元徳3年(1331)4月29日に後醍醐重臣の吉田定房の密告により後醍醐らの謀議は幕府の知るところとなり、5月、俊基や僧文観・円観が逮捕され、ついで鎌倉に送られた。そのころ後醍醐は精神的な不良を訴えている。倒幕の謀議が発覚したことによる発症であろう。なお、吉田定房は、後醍醐の乳父(めのと=後醍醐の乳母の夫)で、後醍醐からの信任が厚く、密告したのにもかかわらず不思議なことに後に後醍醐が天皇に復帰した後も重用されている。
そして、ついに8月24日、後醍醐は神器を携え宮中を出て、奈良に潜伏し、ついで27日に笠置山(かさぎやま=京都府笠置町)で挙兵する。その間の25日には、大納言藤原宣房以下の倒幕関係者が六波羅によって逮捕されている。なお、吉田定房の密告に始まり、鎌倉幕府が滅亡するまでの一連の事件のことを「元弘の乱」と呼ぶ。
六波羅は27日に比叡山を攻撃し、尊雲法親王や尊澄法親王らは東坂本で六波羅軍と戦った。その一方で六波羅は、ことの次第を鎌倉に伝え、幕府は9月2日、「承久の乱」の先例によって、西上の令を下し、9月上旬には軍勢が進発した。その中には、一軍を率いる足利高氏(あしかがたかうじ=のちの尊氏)の姿もあった。
高氏は、源頼朝と同じく八幡太郎義家を祖とする河内源氏である。また、高氏も後述する新田義貞も共に義家の子義国の子孫である。高氏の家系は、義康と義朝が相婿(あいむこ=両者ともに熱田大宮司藤原季範の娘あるいは養女を妻とした)であり、義兼は頼朝から信頼され、それ以来、鎌倉御家人として重要な地位を保ってきた。

さて、9月20日には、幕府の命によって後伏見上皇の詔でその第三皇子の量仁(かずひと)親王が践祚(せんそ=天皇になること)した。光厳(こうごん)天皇である。こうして後醍醐は天皇の座から引きずり落とされたのだ。笠置山は28日に陥落し、後醍醐は赤坂城(大阪府千早赤阪村)の楠木正成(くすのきまさしげ)を頼って逃亡したが翌日に捕らえられた。
一方、楠木正成は10月15日に幕府軍により赤坂城の攻撃を開始され、21日には落城、行方をくらませた。
後醍醐は六波羅に拘禁されたが、翌元弘2年(1332)正月17日には脱走を企て失敗する。そして3月7日には隠岐に流されるため京都を出発した。一行には藤原行房や六条(千種)忠顕らが従い、後醍醐らは4月1日に隠岐に到着した。その一方で、4月10日には、佐渡に流されていた日野資朝や、拘禁されていた日野俊基らは斬首と決まり、文観は遠島、円観も遠流と決まった。なお、元徳3年(1331)8月9日に後醍醐は元号を元弘に改元したが、9月20日に践祚した光厳は元徳を使い、翌元徳4年の4月28日に正慶と改元した。この時点では厳密にはまだ南北朝時代は始まっていないのだが、結果的に見ると、光厳が践祚した時点で既に南北朝時代が始まったともいえる。
後醍醐が隠岐に流された後も各地の不穏な動きは治まらず、正慶元年(元弘2年・1332)6月6日には、父に似てアグレッシブな性格の尊雲法親王が令旨(りょうじ)を熊野社(和歌山県新宮市・田辺市・勝浦町)に発したが、熊野社はそれを六波羅に通報した。また、尊雲が京都に出没するとの噂が流れ、人心は動揺した。尊雲は8月27日にも高野山金剛峯寺(和歌山県高野町)に兵を出させようとしたが拒否される。このように尊雲の工作はうまくいかなかったが、尊雲は11月に還俗して名を護良(もりよし)と称し、吉野(奈良県吉野町)で兵を挙げた。このとき25歳。
一方、楠木正成も河内国千早城(大阪府千早赤阪村)で兵を挙げ護良親王に応じた。翌正慶2年(元弘3年・1333)年正月には播磨に本拠のある六波羅の赤松則村(円心)が兵を挙げ護良らに味方した。則村はこのとき57歳で、当時としては老武者であったが、まだ天下に名を轟かせようとする野心を持っており、ゲリラ戦法を得意としていた。
それに対して幕府は大軍を差し向け、閏2月1日吉野は陥落し、護良は高野山に走った。しかし、正成が拠る千早城は粘り強く抵抗し、なかなか落ちない。それらの状況を隠岐で聴いていた後醍醐は、ついに閏2月24日、隠岐を脱出、伯耆国(鳥取県)の名和長高(このあと後醍醐の命によって長年と改名する)に奉じられて船上山(鳥取県琴浦町)から各地に兵を募った。
第2回 京都六波羅探題の滅亡
後醍醐に呼応した赤松則村は、3月10日に瀬河(大阪府箕面市)で六波羅軍と戦って敗れたが、翌日には再度戦いこれを破り、京都を目指した。一方、千早城では楠木正成が幕府軍の攻撃を防いでいたが、幕府軍に加わって戦っていた新田義貞は病と称して千早城攻めの戦線から離脱している。後醍醐天皇の綸旨(りんじ)、あるいは護良親王の令旨(りょうじ)を得たための戦線離脱ともいわれる。
義貞は既述した通り、尊氏や頼朝と同じく、八幡太郎義家の子孫であるが、初代の義重が頼朝に協力的でなかったため、それ以降、幕府内では重用されてこなかった。足利氏が代々従五位下以上の位に叙せられていたのに対し、義貞の家系は祖である義重が従五位下に叙せられた以降は代々無位無官であった。幕府によって冷遇されてきたのだ。しかし義貞は後述する通り、こののち幕府に止めをさすことになる。
赤松軍は12日には京都まであとわずかの山崎まで進出し、危険を感じた光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇は、御所を出て六波羅北方に避難した(六波羅は北方と南方に分かれている)。
後醍醐挙兵と畿内での戦闘の知らせを受けた幕府は、足利高氏と名越高家を援軍に差し向けた。高家は、承久3年(1221)の「承久の乱」で北陸道の大将軍を務めた式部丞朝時の後胤である。高氏らは4月下旬京都に入り、伯耆攻めのための軍議の結果、高氏が山陰道から、高家は山陽道から攻めることになり、27日京都を出陣した。ところが出陣早々、高家は久我縄手(こがなわて=京都市伏見区から山崎方面への街道)の戦いで赤松則村が派遣した赤松一族で弓の名手の佐用範家によって討たれてしまった。
そしてここで幕府にとって更なる重大事が発生した。高氏が後醍醐側に寝返ったのだ。
名越高家軍が善戦虚しく潰えたという報告と、足利高氏が裏切ったという知らせは、幕府を震撼させた。その知らせを聞いた京都の幕府側勢力は恐慌を呈し、逃亡するものが多く、上洛して戦っていた南奥の白河結城親光らは後醍醐側に寝返った。
高氏は東上してきた千種忠顕・赤松則村らと合流し、5月7日、六波羅を攻めた。幕府軍は六波羅を支えることができず、六波羅探題北方の北条仲時や南方の同時益は、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を連れ出し京から逃れた。しかし一行は野伏に襲われ、時益は討ち死にし、残る仲時ら幕府側武将たちも、5月9日、近江国伊吹山の麓、番場の蓮華寺(滋賀県米原市)で切腹して果てた。その数は432人だったという。
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蓮華寺境内には数多くの五輪塔が祀られているが、現在は、仲時の墓のみ街道を挟んだ反対側の山に祀られている。
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仲時らが切腹した際、蓮華寺の住職は、亡くなった武士たちの名前を過去帳に記入し、そこには180名ほどの名前があるという。
蓮華寺を参拝した際、その過去帳の写しを拝見させていただいたが、筆頭に「越後守仲時 廿ハ歳」とあった。10代の武士も結構いるし、60歳の武士もおり、関東の苗字が多い印象だった。過去帳には男子の名前ばかりだが、彼らの家族も一緒に自決したそうである。
素人考え的に、400人もいればもう一戦できるのではないかと思っていたのだが、蓮華寺に来るまでに相当疲労困憊していたであろうし、妻子を伴っていたとすれば、敵から辱めを受ける前に死ぬ道を選んだのだと理解できる。
第3回 新田義貞の挙兵と鎌倉幕府の滅亡
京都の六波羅探題が滅亡した頃、関東でも大きな動きがあった。5月8日の早朝、上野国新田庄(群馬県太田市)の生品明神で、さきに戦線離脱していた新田義貞(にったよしさだ)が倒幕のために挙兵した。

33歳の惣領義貞に付き従うメンバーは、弟の脇屋義助(29歳)を筆頭に、大館宗氏とその子幸氏・氏明・氏兼、堀口貞満とその弟行義、そして岩松経家、里見義胤、江田行義、桃井尚義など150騎。
出陣した義貞勢は、一旦西へ行き、そこで上野・越後・信濃・甲斐からの参加者を加え、7000騎もの大群に膨れ上がり、鎌倉街道(現代人が「上の道」と呼んでいる道)を駆け上った。
また、足利千寿王(尊氏嫡男で後の2代将軍義詮<よしあきら>)を擁する足利氏の一団が挙兵し、武蔵国内で義貞軍と合流した(合流は12日という)。
一方の幕府は9日に軍評定を開き、10日には桜田貞国を大将として、長崎高重・同孫四郎左衛門・加治二郎左衛門入道を副将に沿え迎撃に向かわせた。また、これとは別に、金沢貞将を大将とした一軍を下総の下河辺荘へ向かわせているが、これは義貞勢を側面攻撃することが目的だったと考えられる(しかし、貞将は鶴見川付近で千葉貞胤や小山秀朝と戦って敗れ、鎌倉に引き返したのち幕府滅亡に際し壮絶な戦死を遂げた)。
入間川を挟んで対陣した両軍であったが、11日の朝、義貞勢が入間川を渡河し、両軍は小手指原(こてさしがはら=埼玉県所沢市)で戦った。激戦の結果、両者痛み分けで、義貞勢は入間川まで、鎌倉勢は久米川まで退いた。
翌12日には義貞勢が積極果敢に久米川まで押し寄せ、鎌倉勢は押されて多摩川左岸の分倍河原(ぶばいがわら=東京都府中市)まで退いた。そこで鎌倉勢は新手の北条泰家軍を繰り出し、15日の戦いでは義貞勢は劣勢に立ち、一旦堀兼(埼玉県狭山市)まで退却した。

この時点では義貞勢は危うい局面に追い込まれていたが、その日の晩、相模の三浦大多和義勝が松田・河村・土肥・本間・渋谷氏らを率いて義貞の援軍に馳せ参じた。大きな力を得た義貞は、翌6日未明に号令し、多摩川沿岸で戦い、義貞勢の勝利となった。
多摩川右岸の関戸(東京都多摩市)では、幕府軍大将の北条泰家が危うく殺されかけたが、踏みとどまって敵勢を引き受けた安保道堪や横溝八郎らの討死と引き換えに逃走することができた。

そして18日には、義貞勢は鎌倉近傍に攻め寄せた。
21日、義貞軍は、稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市街に乱入。そして22日には、東勝寺で北条高時以下の一族だけでも283人が自害し、鎌倉全体で自害した数は6千人を超えたといわれている。鎌倉幕府の滅亡である。
近江国太平護国寺(滋賀県米原市)に幽閉されていた光厳天皇は、5月25日、伯耆の後醍醐からの詔書で退位し、それとともに正慶という元号も廃され、すべては後醍醐が光厳に譲位した1年9ヶ月前に引き戻された。
後醍醐は6月4日京都に舞い戻ったが、復位したわけではなく、単に帰京しただけだということを強調した。そしてここに、46歳の後醍醐の、世に言う建武の新政が始まったのである。
ちなみに、元弘3年(1333)時点の主要人物の年齢を以下に列挙してみる。
・北条高時 30歳
・光厳天皇 21歳
・護良親王 26歳
・足利尊氏 29歳
・足利直義 28歳
・新田義貞 33歳
・結城宗広 58歳
・北畠親房 41歳
・北畠顕家 16歳
・楠木正成 40歳?
楠木正成とともに「三木一草」と呼ばれ活躍することになる千種忠顕・名和長年・結城親光(宗広の次男)は生年不詳。
第4回 鎌倉府のルーツと中先代の乱
「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」という大変な意気込みで始められた後醍醐天皇の新政府であったが、後醍醐の意欲に反して政府要人たちは一枚岩とはならなかった。武家の棟梁たらんとする足利高氏と、それを鎌倉幕府の再来になると危険視した護良親王が対立したのだ。後醍醐は早速、京都帰還の翌日の6月5日に高氏を鎮守府将軍に任じ、同月13日には護良親王を征夷大将軍に任じた。征夷大将軍の座を欲する高氏にとっては納得できない人事だった。
鎌倉を落とした後そこに滞在していた新田義貞は、5月中に高氏が派遣した細川和氏・頼春・師氏三兄弟と対立し、合戦寸前にまでなったが、義貞は「野心は無い」との起請文を出し、その後上洛した。後には高氏の子千寿王が残された。千寿王はまだ4歳だったので、『東国の南北朝動乱』では、実質的には足利氏一族の斯波家長が鎌倉を掌握したとしているが、家長もこのときまだ13歳であるので、細川三兄弟などの援けがあったものと考えられる。
高氏は武蔵守に任じられ、名も後醍醐天皇の諱尊治(たかはる)から一字を賜り尊氏と改名し、11月8日には尊氏の弟直義(ただよし)が相模守に任じられ、12月14日、直義は上野国守護成良親王(なりよししんのう=8歳)を奉じて鎌倉に向けて出発し、関東10ヶ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・甲斐・伊豆)を管轄とする鎌倉将軍府を開設した。鎌倉府のルーツである。
なお、後醍醐とラブラブだった皇后西園寺禧子は、この年の10月12日に崩じており、その後は才色兼備で煌びやかな禧子とは違って、地味で我慢強い阿野廉子(あのれんし)が後醍醐を陰で支える存在となる。廉子は、鎌倉へ派遣された成良親王やのちに後村上天皇となる義良(のりよし)親王らの母であり、史上最後の斎宮となった祥子内親王の母でもある。なお、禧子には男子はいなかった。
その2年後の建武2年(1335)7月の初め、旧幕府の第14代執権北条高時の遺児時行(7歳か)が、かつての御内人(みうちびと=側近)諏訪頼重らに擁立され信濃で挙兵、快進撃を続けて鎌倉に迫った。それに対して直義は渋川義季と岩松経家を大将として出撃させ、両軍は女影ヶ原(おなかげがはら=埼玉県日高市)で激突した。
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結果は時行軍の勝ちで、22歳の義季は自刃し、生品明神の挙兵以来活躍してきた経家は兄弟2人とともに討ち死にした。時行軍は、つづけて小手指ヶ原(こてさしがはら=埼玉県所沢市)で今川範満軍を撃破し、直義はついに自身軍勢を率いて迎撃に向かい、井手の沢(東京都町田市)で戦ったが敗北して鎌倉に引き返した。

もはや鎌倉を守ることはできないと考えた直義は、過去に尊氏廃滅を企図して、鎌倉に幽閉されていた護良親王をどさくさに紛れて殺害し、成良親王を京に送り還したあと、自らも西に向かって逃走した。時行軍は7月後半、威風堂々と鎌倉に入った。
尊氏は征夷大将軍になることを望んでいたが、過去には護良親王が補され、今度は8月1日付けで成良親王が任じられた。カチンときた尊氏は勅許を待たず8月2日京都を立ち、9日には追認という形で征東将軍に補され、三河の矢作で直義軍と合流し、19日には鎌倉を奪還した。時行の鎌倉占領は20日間ほどで終焉し、この一連の事件を「中先代の乱」という。
尊氏は30日には時行征伐の勲功を賞され、従二位に上がっているので、この時点ではまだ後醍醐は尊氏のことを忠実な臣下と見ていた。
ところが、鎌倉に入った尊氏は征夷将軍を自称し、陸奥には北畠顕家(きたばたけあきいえ)が陸奥守として赴任しているのにもかかわらず、8月、足利氏の一族である斯波高経の長子家長を奥州管領に任じた。家長はこのときまだ15歳だ。
第5回 尊氏の独立と顕家の第一次西上
尊氏は、中先代の乱で勲功の有った武士に対して9月27日に一斉に褒賞し、武家の棟梁として独自の政治機構を整え始めていた。征夷将軍の自称はもってのほかだし、斯波家長を奥州管領に任じたり、この度の褒賞などは、本来であれば尊氏の身分ではやってはいけないことだ。後醍醐から明らかな反抗と見られても仕方が無いが、尊氏はまだ建武政権の一員としての意識は有ったようだ。そういう矛盾したところが尊氏の性格の特徴である。
もしかすると、敢えて征夷「大」将軍と自称していないのは、後醍醐に対して自分の気持ちを理解して欲しかったことの現れなのかもしれない。後醍醐が、「分かった分かった、しょうがないな」と、改めて征夷大将軍に任じてくれるのを願っていたのではないだろうか。尊氏は後醍醐と敵対した後も「尊」の字は使い続けるし、最後まで後醍醐のことが好きだったのではないかと思ってしまう。
しかしもしそうだったとしても、それは尊氏の片思いだった。尊氏の奇怪な行動に対し、後醍醐は中院具光を鎌倉に送り尊氏の上洛を促したが、尊氏はその求めに応じず、若宮小路の旧幕府の跡地に御所を造ってそこに移った。そして11月2日には、新田義貞を討つと称して、直義が兵を集め、尊氏は義貞討伐を請う書状を後醍醐に送り、18日にはそれが後醍醐のもとに到着している。
尊氏は、この期に及んでもいまだ建武政権の一員という自覚を持っており、新田義貞よりも自分を重用するべきだという主張をしたのだろう。後日、楠木正成が後醍醐に対して、義貞を誅殺して尊氏を用いよと献策していることから、建武政権の中では尊氏や正成と同様な考えを持っている人物が他にもいたかもしれない。
しかし既に後醍醐は尊氏を見限っており、12日には、尊氏が任じられていた鎮守府将軍に北畠顕家が代って任じられている(従二位の顕家は、五位相当の鎮守府将軍就任に不服で、『職原鈔』によると建武3年の勅で、三位以上の者が就任した場合は「大」の字をつけて鎮守府大将軍とすることになった)。
そしてその後、後醍醐は顕家に陸奥からの出撃を命じるとともに、尊義親王を上将に、新田義貞を大将軍として尊氏討伐のため東下させた。尊氏を挟み撃ちにする作戦だ。
それに対して尊氏は、高師直の弟師泰を東下軍の迎撃に向かわせたが、矢作川(愛知県)以西の足利氏の領外へ出ることは禁じた。いまだに後醍醐に遠慮しているように見える。
義貞と師泰は矢作川で合戦となり、義貞が勝利した。師泰は東へと退却した。

26日には尊氏は職を止められ、完全に建武政権のメンバーではなくなった。
この頃尊氏は引きこもり状態だった。尊氏は躁鬱傾向があり、このときは鬱の方に傾いていて動けなかったのだ。自分の思いが後醍醐に届かなかったためだろうか。尊氏はちょっと乙女チックなのだ。
そのため、師泰敗走の報を受けても尊氏は出撃せず、具合の悪い兄に代わって直義が出撃したが、直義は12月5日、駿河国手越河原(静岡県静岡市駿河区手越原)の戦いで敗れ、箱根山に逃げ込んだ。直義は、政治家としての能力は非常に高いのだが、戦いはあまり得意ではない。
可愛い弟が窮しているとの報告を受けた尊氏は、急に躁転したのかついに意を決し、小山一族を率いて12月8日に鎌倉を出陣し、義貞勢に襲い掛かった。乙女モードから猛将モードに切り替わったのだ。
尊氏が本気を出すと無茶苦茶強い。その尊氏勢の勢いに押された義貞勢は箱根竹の下(静岡県小山町竹之下)の合戦で打ち負け、算を乱して退却した。
尊氏勢は義貞勢を追撃し、佐野山(三島市)、伊豆国府(同)、三ヶ日と続けて勝ち、義貞勢は天竜川を越えて退こうとした。しかし、川が深く流れも速く渡渉が困難だったため急きょ橋を作った。義貞は部下たちが一人残らず渡り終えたことを確認して最後に渡る。義貞が渡り終えた後、配下の部将が橋を破壊することを献策したところ、義貞は腹を立て、「急に襲われて慌てふためいていると言われるのは末代に至るまで口惜しい」と言い、橋は壊さずに義貞勢は退いていった。
やがて戦いは勢田の攻防戦へ移る。足利勢は戦いが苦手な直義を大将として、副将に高師泰。対する後醍醐勢は千種忠顕・結城親光・名和長年。彼ら3名は楠木正成と並んで「三木一草」と呼ばれた。結城の「き」、名和長年は伯耆守であったので、伯耆の「き」、楠木の「き」、それに千種の「くさ」で、「さんぼくいっそう」である。後醍醐にとっては義貞とともに頼れる武将たちだ。
勢田の攻防は翌建武3年(1336)正月3日から矢合わせが始まったが、結果は足利勢の勝利だった。直義だってやればできるのだ。足利勢はその勢いを駆って突き進み、慌てふためいた後醍醐は神器とともに比叡山に逃れ、11日には尊氏が京都に入った。このとき、結城親光は偽って降り、大友貞載を討とうとしたが、逆に斬り殺された。
さて、後醍醐から出撃命令を下されていた陸奥の顕家は、ちょうど上述した義貞と尊氏との戦いが繰り広げられていた建武2年(1335)12月22日、陸奥国府から出陣した。これを顕家の第一次西上と呼ぶ。

顕家軍には、父の親房も同道し、陸奥白河の結城宗広らの諸将が従った。途中、上野では新田義貞の次男義興が戦列に加わったというが、義興はこのときまだ7歳である。
顕家率いる奥州勢は猛烈な強さを発揮した。軍隊というものは略奪・暴行・放火を行いながら進むのが普通だが、奥州勢はそれがことのほか酷く、「奥州勢の通ったあとには草木も生えない」と言われた。しかし、そんなことをしつつも奥州勢はかなりの速度で進み、翌建武3年(1336)正月13日には近江に到着した。尊氏が京都に入った2日後だ。尊氏としたらようやく京都を奪ったが、休む間もなくとんでもない強敵の襲来を受けることになった。
顕家勢と尊氏勢は京都内外で戦闘を続け、30日の糺河原の合戦で尊氏は劣勢が明らかとなり、丹波篠村(京都府亀岡市篠町篠)へ退去した。
陸奥から嵐のようにやってきて尊氏を京都から追い出した鎮守府大将軍北畠顕家は、このときまだ19歳である。
なお、この顕家の第一次西上に際しては、足利方の陸奥管領斯波家長がそれを殲滅すべく機動した。ところが、あまりにも顕家の行軍速度が速かったためか、家長は顕家勢を捕捉できず、一戦に及ぶこともできなかった。16歳の家長はこのときの屈辱を顕家の第二次西上の際に晴らそうと奮戦するが、それについては後述する。
第6回 南北朝時代の始まり
丹波からさらに西に向かった尊氏は、2月に醍醐寺三宝院賢俊の仲介により、念願の光厳上皇の院宣を得て朝敵を免れた。そして九州に向かい、3月2日、多々良の浜(福岡県福岡市東区)の干潟で九州最大の建武政権勢力である菊池武俊を打ち破り、大宰府を占拠した。

その頃奥州では、斯波家長が相馬光胤を家長の従弟兼頼に属させ、東海道方面を討たせている。その動きに対応させるように、後醍醐は3月10日、義良親王を元服させ陸奥太守に任じ、鎮守府大将軍北畠顕家ともに、再度陸奥に下向させ、3月20日には、結城親朝を下野守護に任じるなど東国支配の再構築を行っていった。今回の顕家の奥州再下向に際して、父の親房は伊勢に留まった。
3月25日には、北条氏の残党と斯波家長が戦っている。家長は建武政権だけでなく、旧政権とも戦わなくてはならず、寧日の暇がなかった。
九州で力を蓄えていた尊氏は、九州の諸将を従え4月3日に大宰府をあとにして上洛の途につき、5月5日には、備後の鞆(とも=広島県福山市鞆町)に着いた。
尊氏が東へ進んでいた4月16日には、斯波家長に属する相馬胤康らが奥州に再下向途中の北畠顕家勢を相模国片瀬河(神奈川県藤沢市)で捕捉して戦った。しかし、胤康は討ち死にした。相馬一族もすべてが家長に味方したわけではなく、胤平は建武政権側に付き、胤平は26日に左衛門尉に推挙されている。
先だって出羽守に任命されて出羽に下っていた葉室光顕は、5月21日に現地で殺害されてしまった。陸奥の記録は多く残っているのだが、この時代の出羽の記録は極端に少ない。後醍醐は出羽方面にも何らかの手を打ったと思われるが、その方面の状況は知られていない(葉室光顕の死去は前年の末という説もある)。
各地で戦いながら陸奥国府を目指していた顕家の軍勢は、24日には相馬氏の小高城(福島県南相馬市)を攻略した。このとき、相馬光胤・六郎長胤・七郎胤治・四郎成胤が討ち死にしている。本当に顕家勢は強い。
顕家が東に去るのと同期するかのように、西からは尊氏の軍勢が京都を目指し進撃を続け、ついに5月25日に湊川(兵庫県神戸市)で決戦が行われた。水陸両側から攻撃した尊氏勢に対し、建武政権側は新田義貞と楠木正成が応じた。しかし、尊氏勢の猛攻に対し、義貞は支えることができず敗走、後醍醐挙兵時から奮戦を続けてきた正成はこのとき自害して果てた。正成は決戦に先立って、後醍醐に対し義貞を誅殺して尊氏を取り立てることを献策していたが、後醍醐はそれを拒否していた。
自軍の敗走に驚いた後醍醐は、27日に比叡山へ逃れた。6月5日の戦いでは、後醍醐の隠岐配流にも供をした千種忠顕が討ち死にし、15日には、尊氏が光厳上皇と豊仁親王を奉じて入京し、東寺に陣を構えた。
そして30日には、かつて隠岐から脱出してきた後醍醐を奉じて以来、ずっと戦い続けた名和長年が討ち死にし、これで「三木一草」の4人全員が鬼籍に入ってしまった。
それから10月まで後醍醐と尊氏は激戦を繰り広げることになり、義貞は大勢を挽回しようと必死に戦ったが、後醍醐側にとって形勢は思わしくなかった。
8月15日、光厳上皇の院宣により豊仁親王(後伏見天皇の第二皇子)が光明天皇として践祚して、延元の元号も建武に戻した。10月9日に後醍醐は、新田義貞に東宮恒良親王と尊良親王を奉じさせて越前下向を命じ、その上で翌日、尊氏と和平を結んだ。

11月2日、後醍醐から光明に神器が授受され、後醍醐には譲位した天皇を意味する太上天皇の尊号がおくられた。しかし、義貞らを北陸の派遣していることからも分かる通り、後醍醐には戦いをやめるつもりは毛頭なかった。その場をしのぐための策略である。
後醍醐は、顕家の弟の顕信に伊勢で兵を集めさせた上で、12月21日、楠木一族を従え吉野に移り、延元の元号を復して朝廷存続を表明した。世に言うところの南朝・吉野朝廷の始まり、南北朝時代の幕開けである。実は、鎌倉幕府が滅びてからこの時点までは南北朝時代ではなく、ようやくここから南北朝時代が始まるのだ。
第7回 顕家の第二次西上
陸奥に再下向し多賀城に入った顕家は附近の北朝勢力を掃討したが、12月11日には北関東の南朝側の拠点で、楠木一族が拠っていた瓜連城(茨城県那珂市瓜連)が佐竹氏に攻められ落城した。これにより常陸・下野方面の南朝側勢力は分散してしまった。
翌延元2年/建武4年(1337)正月8日には顕家は、多賀国府の維持が困難であることを悟り、多賀城を捨て、伊達郡の霊山(福島県伊達市・相馬市)に本拠を移した。霊山は守るには良い場所で、宇多川を下れば太平洋の松川浦に出ることができるが、行政府としては適当な場所では無かった。
昨年10月に恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下向し、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)に籠っていた新田義貞は、3月6日に金ヶ崎城を落とされた。義貞は脱出したが、義貞の嫡子義顕と尊良親王は自害、恒良親王は捕縛されてしまった。

恒良親王のその後は不明である。恒良親王は、北陸に下向する前、後醍醐から皇位を譲られている。しかし、後醍醐は崩御する前日に義良親王にも皇位を譲っている(後村上天皇)。こういう普通ではあり得ない行為は後醍醐の独特な考えによるものであろうが、恒良親王は自身が天皇であるという自覚があったようで、北陸王朝なるものが存在した可能性もある。
さて、それはそれとして、後醍醐にとって「三木一草」なき今、北陸の義貞が頼りにならないとしたら、残りの勢力でもっとも頼りになるのは陸奥の北畠顕家である。5月14日には、結城宗広のもとに顕家上洛後の陸奥の留守を命じる書状が送られているので、この頃すでに、顕家の第二次西上の計画は上がっていた。しかし、霊山は中賀野義長に狙われ、18日には椎葉郡(標葉郡)中前寺で、21日には行方郡安子橋で合戦が起きた。
顕家は四面楚歌の状況の中、それを振り払うかのように、8月11日、義良親王を奉じて、第二次西上を開始した。今回の顕家の進軍は、前回とは打って変わって捗らず、ようやく12月13日に上野の利根川河畔にまでたどり着き、そこで合戦し、16日には武蔵安保原で戦った。
南朝の顕家に対して、尊氏は斯波家長を奥州の要に用いてきたが、その家長は鎌倉で顕家を迎撃した。昨年は顕家を討とうとしてもかすりもしなかったため、今回はその雪辱を果たすべく奮戦した。20歳の顕家と17歳の家長の若き大将同士の戦いだ。
しかし家長は討ち負け、25日に鎌倉杉本観音堂で自害した。
家長とともに鎌倉を守っていた尊氏嫡男義詮(よしあきら=後の2代将軍)は三浦半島に逃亡した。顕家は家長に勝利したものの出陣してから鎌倉を落とすまで4ヶ月以上掛かっている。
翌延元3年/建武5(1338)正月2日、顕家軍は鎌倉を発ちさらに西に向かった。2月、尊氏は戦死した家長にかわって、石塔義房を奥州総大将に任じた。石塔義房も足利氏一族である。
西上した顕家軍は、正月28日の美濃国青野原の合戦のあと、不思議なことに京には向かわず伊勢方面へ向かった。伊勢には父の親房がいる。青野原の合戦のあと新田義貞と連携して京に向かっていれば、あるいはまた京を奪還することもできたかもしれないが、顕家と義貞が連携したという記録は残っていない。
顕家軍は2月28日には奈良の合戦で敗れ、顕家は河内へ、義良親王は父のいる吉野へ走った。顕家は、3月8日には天王寺で、15日には渡辺で、16日には再び天王寺で戦い、そしてついに、5月22日、和泉国の堺浦(阿倍野)で高師直と戦い討ち死にした。
顕家と後醍醐は親子ではないが、顕家の第二次西上の際の悲壮感からは景行天皇に酷使された日本武尊を想い起こさせられる。

第8回 義貞の討死と後醍醐天皇の崩御
顕家戦死から3ヶ月も経たない閏7月2日、越前国藤島の灯明寺(福井県福井市)において、新田義貞が斯波高経との戦いで討ち死にしてしまった。38歳だった。義貞の軍勢は弟の脇屋義助が引き継いだ。顕家・義貞と相次いで柱石を失った南朝は、急遽次の戦略を立てなければならなくなった。

8月11日には、尊氏は積年の夢であった征夷大将軍に任じられた。官位も上がり、今や正二位である。弟の直義も従四位上に叙され左兵衛督(さひょうえのかみ)に補された。
後醍醐は秋ごろ、結城宗広の献策により伊勢の大湊から多くの船団を陸奥に向かわせた。その顔ぶれは、義良親王(後の後村上天皇)、宗良親王(後に信濃の南朝勢力の中心となる)、陸奥介鎮守府将軍北畠顕信(顕家の弟)、北畠親房(顕家の父)、結城宗広、伊達行朝らだ。
ところが、遠州灘で暴風雨に遭い、義良親王や顕信、結城宗広らは伊勢に吹き戻されてしまった。大勢の軍勢を失った船団だったが、親房と伊達行朝は常陸国東条浦に流れ着く。親房は神宮寺城(茨城県稲敷市)、ついで河波崎城(同)、そして小田治久の小田城(茨城県つくば市)に入り活動を開始した。当時の常陸の三大豪族のうち、小田氏は南朝方、佐竹氏と大掾氏は北朝方であった。なお、これまで活躍してきた結城宗広はこのあと歴史上に現れない。
親房は、北関東・南東北の諸氏に頻繁に書状を送り、何とか南朝勢を立て直そうと必死に働いた。その中でも白河結城氏を特に頼りにしており、結城親朝と交信した書簡が数多く残っている。親朝は南朝で抜群の功績のあった宗広の子で、「三木一草」の親光の兄である。
親房一族の春日顕国は、翌延元4/暦応2年(1339)2月27日には、下野に下っており、矢木岡城を落とし、その月の内には益子城も落とし、その影響で箕輪城が自落し、4月12日には常陸に転じ、中郡城の攻撃を企てている。
混沌とした情勢のなか、8月16日、波乱の人生を歩んだ後醍醐天皇が崩御した。享年52歳。後醍醐は亡くなる前日、皇位を義良親王(後村上天皇)に継がせていた。顕家らとともに奥州で苦労し、戦陣も経験した親王が践祚したのだ。南朝の新たな天皇は、まだ12歳の少年であった。
第9回 関東から撤退した親房
鎌倉から北上し常陸に入った高師冬軍は、興国2年(1341)正月には、瓜連城(うりづらじょう=茨城県那珂市瓜連)のあたりで蠢動している。それに対して小田城の北畠親房は2月18日に結城親朝に対して師直を攻撃するように要請したが、後日、師直は東下しないことが分かったため、4月5日にその旨を親朝に伝えた。

その後、5月からは両軍とも動きが活発となり、親房は一時師冬に勝ったが、情勢は厳しかった。何度も親朝に救援を頼んだが、親朝は動かない。奥州にいる親房の子顕信も親朝を頼りにしていて、親朝の援助で陸奥国府を奪回しようと考えたが、親朝の軍勢が来なかったので、なかなか国府の奪回はならなかった。
劣勢に立たされた親房は連日のように親朝に対して救援を依頼する血を吐くような書状を頻発したが、相変わらず親朝の援軍は来ない。現実問題として、この頃の白河結城氏には昔日の力はなくなっていて、親朝からするとこちらの都合を全く考えずに一方的に手紙を送って来る親房は迷惑な存在だったのかもしれない。最後の方はおそらく、書状が届くたびに「こわっ」と思っていたことだろう。
そして、ついに親房にとって思わぬ不幸が起きてしまった。11月10日に親房が在城する小田城の小田治久が高師冬に降ってしまったのだ。親房は小田城を追われ、小山一族の関宗祐の関城(茨城県筑西市)に逃れた。配下の春日顕国は、近くの大宝城(茨城県筑西市・下妻市)に逃れた。
関城と大宝城は、12月8日に師冬に攻められたが、なんとかそれをしのぐことができた。
そして親房にとって最悪なことに、翌興国4年/康永2年(1343)8月19日、くどいほどの援軍要請にもかかわらず、それに見向きもしなかった結城親朝がついに尊氏側について挙兵した。北関東・南奥羽の多くの国人もそれにならった。関・大宝両城は、11月11・12日に落城、関宗祐・宗政父子は討ち死にしたが、親房はからくも脱出、吉野に撤退せざるを得なくなった。
第10回 観応の擾乱の始まりと鎌倉府の成立
北畠親房を追い落とし、春日顕国を屠った北朝勢は、その後も東国への梃子入れを忘れずに、康永3年/興国5年(1344)5月19日には高重茂が、7月4日には上杉憲顕が鎌倉に到着した。
さて、全国的には優勢になったと思われた北朝側だったが、その中にも内紛の火種が存在した。足利家執事の高師直・師泰兄弟と同じく執事の上杉重能との確執である。重能は、高兄弟の好ましくない所業について尊氏に讒言をしたが、そのことで直義に疎んじられ、貞和2年/興国7年(1346)4月23日に、政務に関与することを停止させられた。
その頃京都では、高師直の所業が悪化の一途をたどり、ついに直義もそれを不快に思うようになった。そこにさきに罷免させられていた上杉重能が付け入る隙があり、重能は畠山直宗と共に、直義の信仰厚かった禅僧の妙吉や、尊氏の子で直義の猶子となっていた直冬を介して師直の所業について直義に讒言した。それにより師直は、貞和5年/正平4年(1349)閏6月15日、直義によって執事の任を解かれ、所領も没収させられた。
ところが、「窮鼠猫を噛む」の例え通り、師直は弟師泰に命じ仲間をかき集め、8月13日、直義を攻め、直義は尊氏邸へ逃げ込んだ。師直は尊氏邸を囲み、己を直義に讒した上杉重能と畠山直宗の引渡しを求める。尊氏は両名を師直に引渡し、両名は越前に流され、ほどなく殺害された。
このあと、直義と師直は、天龍寺の疎石の仲介で仲直りし、二人とも政務に復帰したが、それは表向きのことで、実際は確執を保ったままであり、9月には直義は左兵衛督を罷めさせられている。
また尊氏は、鎌倉に居た嫡子の義詮を上洛させるかわりとして、末息の基氏(もとうじ=母は義詮と同じ赤橋登子)を9月9日に鎌倉に向けて出発させ、鎌倉府の主とさせた。義詮は将軍になったため、一般的には基氏をもって鎌倉府の初代と数え、室町の幕府に対して鎌倉の政治拠点を鎌倉府と呼ぶ。
なお、鎌倉公方はその後、氏満、満兼、持氏というように毎回子が相続をしたが、2代目の氏満以降は、天下を狙う野望を持ち続け、幕府との関係は良好ではなかった。
さて、直義は尊氏の庶子直冬を猶子にしていたが、直冬は九州に逃れたのち勢力を強めていた。そのため尊氏はまず9月10日に兵を遣わせて直冬を討ち、つづいて出家をして上洛するように求めたが直冬は応じなかった。
12月8日には、直義は出家を遂げた。師直の脅迫に従って尊氏が直義を出家させたように見えるが、この頃から尊氏は政権を共同運営してきた直義から力を奪い、嫡男義詮への政権移譲を円滑に進めることを考えていたので、師直と直義との確執を利用して、直義を失脚させたと考えることもできる。
翌観応元年/正平5年(1350)正月3日、師直はさきに常陸で北畠親房と戦った後上京していた猶子師冬を再度関東に下し、鎌倉府の執事にさせようとした。しかし、鎌倉府には直義派の上杉憲顕(叔母が尊氏・直義の母)が既に執事として存在して勢力を維持しており、師冬は思ったような活動ができなかった。
第11回 直義の京脱出
既に出家していた直義であったが、その裏では活発に動いており、師直撃滅を目論んでいた。石見方面では、観応元年/正平5年(1350)7月17日と29日に、直義与党の桃井直常の一族桃井左京亮が師直党を攻撃するために兵を集めている。
10月28日には、尊氏は直冬追討のため、義詮に留守を託し、師直以下の兵を率いて京を立った。ところが、その2日前の26日、直義は密かに京を脱出していた。出陣前にそれを知っていた尊氏であったが、直義に追手を差し向けなかった。
直義が京を脱出すると、直義に深く心を寄せていた桃井直常父子も京を去り任国の越中で兵を挙げ能登を攻略し、直義を応援した。その一方で、11月12日には、さきに師直によって殺害された上杉重能の猶子能憲も常陸信太庄で兵を挙げ直義に応じ、そのほか、石塔頼房や細川顕氏も直義に応じた。直義は11月21日、畠山国清が落とした河内石川城に入った。12月1日には、鎌倉で基氏を助けて高師冬と暗闘を繰り広げていた山内上杉憲顕も鎌倉を去って上野に入った。
直義は南朝に降ることを決め、12月13日にそれが正式に承認された。
上杉憲顕が去った後の鎌倉では、依然として直義派の力が強く、高師冬は12月25日、憲顕を討とうとし、鎌倉の主基氏を連れて毛利庄湯山に至った。しかしここで直義に心を寄せる石塔義房は、師冬派の三戸七郎、彦部次郎らを殺害し、基氏を奪い師冬を攻撃する。師冬はたまらず甲斐逸見城に逃れた。
さきに上野に去っていた上杉憲顕は、基氏とともに鎌倉に戻り、憲顕の子能憲は、翌観応2年(1351)年正月4日、軍勢を率いて鎌倉を発し、甲斐の須沢にて師冬を討ち取った。これにより、関東は直義の勢力下に収まった。
第12回 直義の死
近畿でも尊氏勢は直義勢に圧倒され、京を守っていた義詮は正月15日に京を脱出し、それと合流した尊氏は播磨に逃走した。
2月には、尊氏は直義に和議を求め、直義は師直・師泰兄弟の罷免・出家を条件としてそれに応じた。そして、さしもの権勢を誇った師直も、上洛の途中の2月26日、師直によって父である上杉重能を殺害された猶子能憲に襲われ、一族とともに殺害されてしまった。
これで平和が戻ったかに見えたが、政権復帰を果たした直義に対して尊氏は危険視をやめず、それを察した直義は再度政権からの引退を表明するが、尊氏の願いで尊氏嫡子義詮を補佐する立場にまわることになり、尊氏もようやく安心する。
ところが5月4日の晩、直義と親しい桃井直常が謎の壮士に襲われるという事件が起き、それから尊氏と直義は再びお互いを疑うようになる。そして7月19日、またもや直義は引退を表明するが、ここでも尊氏に引き止められる。しかし、ここまでねじれ切った尊氏と直義の関係はもう元に戻ることは無かった。
身の危険を感じた直義は、7月30日京を脱出し、北陸経由で鎌倉に到着した。鎌倉においては、上杉憲顕や畠山国清らが直義を補佐し、上野においては、桃井直常が尊氏派の紀清党らと戦った。
一方その頃、尊氏は南朝との講和を進めていた。そして10月下旬からは、尊氏・義詮は南朝と講和を結ぶ交渉が始まり、11月初旬には、尊氏の全面降伏というかたちで朝廷は南朝側に統一された。これを世に「正平一統」と呼ぶ。それが済むと尊氏は早速、直義討伐に出陣した。尊氏は関東の佐竹・小山・宇都宮らに激を飛ばし、それらの力を持って12月11日に由比、ついで駿河の薩埵山(さったやま)で戦い、直義軍を撃破した。直義は伊豆に逃亡した。
かくして翌文和元年/正平7(1352)正月5日、尊氏と直義は伊豆国府で和議を結んだが、2月26日、直義は鎌倉の延福寺で突如死亡した。奇しくも直義と反目していた高師直の死からピッタリ1年目であった。尊氏による毒殺説がささやかれているが、もし師直の命日に合わせて毒殺したとなると、尊氏は究極的に不気味な人間と言えよう。
尊氏と義直は1つ違いの兄弟で、上杉清子から生まれた同母兄弟である。元々は大変仲が良く、戦に強く大雑把な性格の尊氏と、政治が上手く細やかな性格の直義は、二人で一つといってよいほどの絶妙なコンビであった。それが、最終的にこうなってしまったのは、お互い権力者になったことによって取り巻き達が謀略を巡らせるようになったからであろうが、「両雄並び立たず」というのは避けがたい事実であると思う。
こうならないためには、ある時期に直義がきっぱりと政界から引退すればよかったのだが、尊氏からすると直義がいないと不安なのである。でも、一緒にいると嫉妬をするときもあるし、自分の権力の邪魔であると感じることもあるのだ。尊氏が直義を殺した最大の理由は、大好きな存在だったからだと私は思う。好きすぎて、もう殺すほかなかったのである。
第13回 武蔵野合戦
直義が変死した直後の文和元年/正平7年(1352)閏2月15日、新田義貞の子義興と義宗、それに脇屋義治(義興らの従兄弟)らは、足利家中の混乱に付け入り上野国にて挙兵し、鎌倉奪還を目指した。この軍勢には何と、「中先代の乱」の北条時行も参加している。時行はもう29歳になっていた。
それに対して、尊氏は鎌倉を出陣し、武蔵国狩野川に布陣した。
南朝勢は閏2月18日に鎌倉を占領したが、閏2月20日には、金井原(東京都小金井市)から人見原(東京都府中市)にかけて両勢は合戦となった(人見ヶ原の合戦)。その結果、尊氏は武蔵国石浜(東京都荒川区か)に撤退。

義宗は笛吹峠(埼玉県鳩山町と嵐山町の境)に陣を敷き、信濃から遠征してきた宗良親王の軍勢や直義派の上杉憲顕と合流した。
両軍は、閏2月28日以降、高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(埼玉県狭山市)・小手指ヶ原(埼玉県所沢市)で戦い、この一連の戦いを武蔵野合戦と呼ぶ。尊氏の元では武蔵の畠山国清と河越直重、下野の宇都宮氏綱が活躍し、結果的には北朝側の勝利となった。
義宗は越後へ逃走、宗良親王は本拠地である信濃へ撤退したが、義興・義治・時行は三浦高通の援けによって一時的に鎌倉を占領したあと3月2日に鎌倉を出て、相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に籠城した。
尊氏は3月12日には鎌倉を取り返し、翌年7月まで鎌倉に滞在し、上述した畠山・河越・宇都宮の3名を中軸とした鎌倉の支配体制を確立した。それを薩埵山体制と呼ぶ。武蔵野合戦は、南朝側にとってかなり大掛かりな反抗戦であったが、敗れてしまったことによりこれ以降、武蔵・相模地域で南朝が威勢を取り戻すことはなかった。
なお、戦いで負けて逃走を図った北条時行は、やがて身柄を確保され、文和2年/正平8年(1353)5月20日に鎌倉龍ノ口(神奈川県藤沢市龍口)にて処刑された。
第14回 入間川御陣
初代鎌倉公方基氏は、文和2年/正平8年(1353)から9年間、鎌倉から離れて政務を執った。場所は、埼玉県狭山市の入間川近くといわれ、それを入間川御陣(いるまがわごじん)と呼ぶ。そのため、基氏は、入間川殿とも呼ばれた。
薩埵山体制のもと、基氏は北関東の安定化を目指し、そのために入間川御陣に出張ったわけだ。その場所は、鎌倉よりも畠山・河越・宇都宮らの本拠地に近い。
第15回 尊氏の死
文和4年/正平10年(1355)正月22日、足利直冬・山名時氏・石塔頼房桃井らの南朝勢が中国勢を率いて入京を果たし、桃井直常・斯波氏頼が如意嶽に陣した。南朝勢の入京は3度目になる。尊氏は後光厳天皇を奉じて近江に逃れていたが、摂津に逃れていた義詮と京を挟撃し、3月13日には京を奪還した。
その後、尊氏は京の復興と幕府の回復に力を使っていたと思われるが、延文3年/正平13(1358)4月30日、五十四歳で死去してしまった。12月8日には、義詮が将軍宣下を受けて、室町幕府第2代征夷大将軍となる。
尊氏死去の報を受けて、新田義貞の二男義興も行動を起こしたが、10月10日、多摩川の矢口の渡し(東京都大田区か)を渡る船の上で謀計にかかって切腹してしまった。
第16回 武蔵平一揆
正平22年/貞治6年(1367)4月26日、初代鎌倉公方基氏は28歳で没し、2代目の鎌倉公方には嫡男氏満が就任した。このとき氏満はまだ9歳であった。同じ年の12月7日は、基氏の兄で2代将軍の義詮も38歳で薨じてしまった。跡を継いだ3代将軍義満は10歳である。
鎌倉と京都でほとんど同時に権力の交代が行われたのがきっかけとなり、応安元年(1368)2月25日に関東の重鎮上杉憲顕が上洛した隙に河越直重を中心とする武蔵平一揆(むさしへいいっき)が蜂起した。直重とともに一揆を形成する武士たちは、一族の高坂信重や同じ秩父平氏の豊島氏・江戸氏・高山氏・古屋谷氏。そして武蔵七党村山党の仙波氏・山口高清・金子家祐などである。
こういう争乱が発生すると必ず南朝勢力が乗っかって来るが、越後では新田義宗や脇屋義治が挙兵し、また下野では宇都宮氏綱が挙兵した。ただし、相模平一揆の中村氏などは上杉方についた。
鎌倉にいた上杉朝房は10歳の氏満を擁して河越に出陣。武田氏や葛山氏らもそれに味方した。
6月17日の河越の合戦で反乱軍は瓦解し、鎌倉勢は余勢をかって上野において南朝勢と激突。下野の小山義政(のちに「小山氏の乱」を起こす)らが鎌倉勢に付き、新田勢は壊滅した。ここで長らく抵抗してきた義宗は討ち取られ(38歳か)、脇屋義治は出羽国に逃れたという。
その後の掃討戦のさ中、9月19日には上杉憲顕が足利の陣中にて病没してしまったが(63歳)、これ以降、関東における上杉氏の権力は確固たるまま続いた。
第17回 小山氏の乱
藤原秀郷流で下野守護の小山義政は、北隣で勢力を張る下野守の宇都宮基綱と険悪な仲であったが、両者の確執を解消させようとした氏満の命を無視し、康暦2年(1380)、義政はついに基綱(31歳)を攻め殺してしまった。これ以降の一連の騒乱を小山氏の乱と呼ぶ。
そのため、氏満は6月1日付で関東八ヵ国に御教書(みぎょうしょ=権力者の意をその家人が記して差し出す手紙)を発し、義政討伐を命じた。義政は、子の若犬丸に家督を継がせて、表面上は降伏する素振りを見せながらも、なおも抵抗を続けたが、永徳2年(1382)4月13日に自害した。若犬丸は姿をくらました。

至徳3年(1386)5月、若犬丸が姿を現し、ついで小山城(祇園城)に籠城した。若犬丸は、ここまでの間、陸奥国の田村氏を頼っていたというのが通説だが、それを史料で確認することはできない。佐藤博信氏は小山氏の旧臣たちに匿われていたのではないかと推測している。
若犬丸に対して、それを倒すべく下野守護代の木戸元連が守護勢を率いて出陣し、6月5日に羽田(栃木県佐野市)、同月16日には古枝山(同県栃木市岩舟町)まで進出したが、若犬丸勢は同月18日、守護勢に対して先制攻撃をしかけ撃破した。
守護勢敗れ去るの報を聴いた氏満は、7月2日、自ら軍勢を率いて出陣。これには若犬丸たちは抗しきれず、同月12日に小山城から小田氏の居る常陸小田城に逃れた。氏満は、小山城を陥落せしめた後もしばらくの間、古河に在陣し、状況を見極めた後、11月に鎌倉に帰還した。
常陸小田氏を巻き込んだ若犬丸は、ついで男体城(茨城県笠間市の難台山城とされる)に籠った。これ以降、男体城をめぐって攻防戦が繰り広げられたが、攻め手の大将・犬懸上杉朝宗は、翌至徳4年(1387)5月18日に総攻撃を仕掛け、ついに攻め落とした。
ところが打ち取った中に若犬丸はおらず、若犬丸はまたしても姿をくらました。
男体城落城から9年経った応永3年(1396)2月21日、田村氏に匿われていた若犬丸は再び姿を現し、小山城に入部した。ただし、『続中世東国の支配構造』所収「東国における室町前期の内乱について」(佐藤博信/著)では、若犬丸が遠隔地にいたことは確かであるが、田村氏に匿われていた証拠はなく、また、この時点で小山城(祇園城あるいは鷲城)で挙兵することは、鎌倉公方勢力による小山城周辺の支配が固まっている以上は無理ではないかとしている。
このように不明瞭な点はあるものの、鎌倉公方氏満は、確かに若犬丸再起の知らせを聞いて、2月28日に鎌倉を出陣している。そして古河まで進出し、5月27日には古河を出陣し、田村氏討伐へ向かったが、どうやら、この時点での氏満の主敵はすでに若犬丸ではなく、田村氏であったようだ。このように、すでに力を失い、忘れかけられた存在のようになっていた若犬丸は、応永4年(1397)正月15日、会津にて自害した。
若犬丸には、7歳の宮犬丸と3歳の久犬丸という二人の男子がいたが、会津の蘆名氏によって捕らえられた彼らは鎌倉へ向けて護送され、生きたまま武蔵六浦沖に投げ込まれ殺害された。これにより、小山氏の嫡流は滅亡した。なお、若犬丸という名前は幼名であるが、諱は分からない。
ところで、東京都八王子市の裏高尾という場所には、峰尾姓の住民が多いが、地元の伝承によると、小山氏の乱によって四散した小山氏の人たちが逃れてきて、「小」と「山」を反対にし、かつ「山」を同じような意味の「峰」に変え、「小」を「尾」にしたと言われている。
第18回 奥羽の鎌倉府への移管
前回述べた小山氏の乱は、最初に義政が反してから若犬丸の自害による解決まで17年もかかったが、長引いた大きな原因は、陸奥の田村氏の援助があったことである。鎌倉府は関東八ヵ国(相模・武蔵・常陸・下野・上野・下総・上総・安房)を管轄にしており、陸奥は幕府の直轄領であった。そのため、今回のように関東武士と陸奥の武士が手を組んだ場合は、鎌倉府のみで対処することができなくなる。おそらく、このことがあって、幕府は奥羽を鎌倉府に任せた方がよいと考えたようで、陸奥国と出羽国は、明徳2年(1392)2月に鎌倉府の管轄に移管された。
そしてその後、鎌倉公方第3代に満兼が就任した後の応永6年(1399)、鎌倉府の奥州での出先機関として篠川御所と稲村御所が設置された。篠川御所には、鎌倉公方満兼の弟・満直が入部し、稲村御所には同じく満貞が入部した。


第19回 上杉禅秀の乱
応永16年(1409)、3代鎌倉公方足利満兼が没し、その子・持氏が鎌倉公方に就任した。持氏は鎌倉公方歴代の中でもとくに個性が強く、攻撃的で野心溢れた人間だ。その持氏を支える関東管領は、応永18年(1411)に山内憲定が失脚し、犬懸上杉家の氏憲が就任した。氏憲の父は、小山氏の乱の際に活躍した朝宗で、朝宗の代に犬懸上杉氏は躍進した。この当時、山内上杉家と犬懸上杉家は、両者ともに関東管領を出す家柄であり競合する間柄であった。なお、氏憲は出家後の禅秀の方が通りが良いので、以後は禅秀と記す。
禅秀の生年は不明だが、応永18年時点で成人した子も多いことから40歳にはなっていただろうか。応永18年時点で14歳であった持氏をサポートするには充分な経験と実力を持っていたが、どうやら持氏とは相性が悪かったようで、持氏は氏憲と対立していた山内憲定の子・憲基を重用した。うるさいおっさんより、意気投合した家来の方が持氏にとっては大切だった。憲基は持氏の6歳上だから、一緒にいて楽しい兄貴分だったのだろう。
その頼れる兄貴の憲基から吹き込まれた可能性が十分考えられるが、持氏の禅秀に対する気持ちはどんどん硬化し、応永22年(1415)には、禅秀の家臣の所領を没収するというある種の嫌がらせ行為に出た。それに対して、禅秀は持氏に抗議する意味で5月2日に関東管領を辞任。この展開は持氏にとっては好都合だったようで、持氏は憲基に早速関東管領を継がせた。持氏・憲基コンビのほくそ笑む顔が想像できる。
爪弾きにされたおっさんの禅秀は黙っていることができない人間だった。持氏の叔父・満隆は、当時鎌倉における自身の権力の凋落に焦っており、持氏のことを快く思っておらず禅秀と利害が一致。また、禅秀が養嗣子としていた持氏の弟・持仲らにも声を掛け、彼らと共謀して持氏襲撃計画を練った。
翌応永23年10月2日の戌の刻(20時前後)頃、禅秀らは鎌倉において挙兵。これを上杉禅秀の乱という。残念ながら持氏と憲基の首を挙げることはできなかったが、彼らは鎌倉から逃走した。禅秀らに味方する武士たちは大勢いた。
さすがの持氏・憲基コンビも禅秀がここまでするとは思っていなかったかもしれないが、持氏は駿河守護・今川範政の元に逃れ、憲基は上杉氏の勢力基盤のある越後に命からがら逃げ去った。
ではここで、禅秀に与した顔ぶれについて見てみたいが、まず、禅秀の妻は、甲斐国守護・武田信春の娘である。その関係で、妻の兄弟の武田信満は禅秀に付いた。
禅秀は一説には子が42人いたというが、娘の嫁ぎ先である岩松満純、那須資之、千葉兼胤らも禅秀に付いた。それ以外にも長尾氏春・大掾満幹・山入与義・小田持家・結城満朝・蘆名盛政といった関東の錚々たる武士たちが禅秀に味方したのだ。これだけの支持を得たということは、単に親戚だからというわけではなく、禅秀が関東の武士たちから頼りにされる存在であったことが分かり、その反対に、持氏の人気が無かったことも理由であろう。
しかし、禅秀の威勢は長くは続かなかった。
持氏が転がり込んできた駿河の今川範政は、急を京都へ告げたが、幕府がこの事件の発生を知ったのが10月13日。当初は持氏・憲基が殺害されたという誤報が伝わり、ちょうど将軍義持は因幡堂参詣のために不在であったため、幕府の要人たちはすぐに対応が取れなかった。
その後、幕府は情報収集を進めたことにより状況が分かってきた。持氏が今川範政を経由して幕府に助けを求めたため、義持は持氏を救援することに決めた。それにより、駿河守護今川範政・越後守護上杉房方(憲基の伯父)・信濃守護小笠原政康・常陸の佐竹義人(憲基の弟で佐竹氏を継いだ)・下野の宇都宮持綱(名前は持氏からの偏諱)といった各地の有力者たちが禅秀らを討滅すべく出陣した。
これを知った禅秀らは果敢にも駿河へ逆寄せしたが、今川勢に敗れ、当初は禅秀派だった秩父平氏の江戸氏・豊島氏らが禅秀に背き、武蔵からは禅秀派が一掃された。それ以外の禅秀与党も幕府を敵に回したと知った途端、どんどん幕府側に寝返って行った。
翌応永24年(1417)元日、世谷原の戦いでは禅秀軍は江戸・豊島の軍勢を撃破したが、そうしている隙に今川勢が相模に侵攻し鎌倉に肉薄し、負けを悟った禅秀や満隆・持仲らは、1月10日に鎌倉雪ノ下で切腹して果てた。意外とあっさりとした幕引きだった。禅秀の妻の兄弟である武田信満は、甲斐に追い詰められて自害、娘婿の岩松満純も捕縛され斬首された。
この事件によって、犬懸上杉氏は大きく力を減じ、以降、関東管領職は山内上杉氏が専任することになる。
第20回 永享の乱
鎌倉公方4代目の持氏(もちうじ)は将軍就任に執念を燃やし、永享8年(1436)には、鎌倉府の管轄ではない信濃国の争乱に出兵して介入するにいたった。
鎌倉には幕府から任命される関東管領(かんとうかんれい)がナンバーツーとして在籍し、鎌倉公方を補佐するとともに、なにかと関係の悪い将軍と鎌倉公方との間の調整を行ってきていたが、ときの関東管領上杉憲実(のりざね)は、それまでさんざん持氏を諫めていたにもかかわらずそれが聞かれることもなく、ついに持氏の信濃出兵に対しては、自らの軍事力をもって阻止した。
憲実は、幕府と鎌倉府との間に挟まれ苦悩を続けたが、6代将軍義教は横暴な持氏を討伐することに決め、永享10年(1438)8月14日、憲実は鎌倉を脱出、領国の上野国へ逃れた。
憲実の逃亡に持氏は怒り、さっそく討伐軍を発するとともに、自身も武蔵国府中の高安寺(東京都府中市)に出陣した。

高安寺はかつては見性寺といい、足利尊氏がそれを改め龍門山高安護国禅寺を建立し、等持院と称した。等持院は尊氏の法号である。
高安寺は鎌倉公方が合戦に出るときに度々本陣となり、『高安寺とその文化財』によると鎌倉公方5代のうちで、高安寺に鎌倉公方が出張ったのは12回にのぼる。
さて、憲実を支援して幕府軍が下向すると、鎌倉府側の武将たちは続々と持氏の元を離れ、鎌倉の留守を預かっていた相模の有力者・三浦氏も背き、持氏は鎌倉に戻ったものの、軟禁状態にされてしまった。
幕府は持氏を処分するように憲実に伝えたが、憲実はなんとか持氏を助命してもらえないか幕府に願い出た。しかし幕府の方針は変わらず、ついに永享11年(1439)2月10日、憲実は持氏のいる永安寺を攻め、持氏(42歳)は寺に火を放って自害し、17歳の嫡男義氏も同月28日に報国寺で自害した。なお、持氏が起したこの争乱は、永享の乱と呼ばれている。
第21回 結城合戦
持氏自害の翌年の永享12年(1440)3月3日(4日説もある)、持氏の遺児春王丸と安王丸が持氏の遺臣たちとともに常陸国の木所城(茨城県桜川市)で挙兵し、安王丸が総大将に奉じられた。二人の兄弟順については春王丸を兄とするのが通説であるが、実際には判明しておらず、また、異母兄弟説もあり、母親の血筋の関係で弟の安王丸が兄を差し置いて大将に祭り上げられたという説もあり判然としない。
挙兵した安王丸らは、同月4日には木所城にほど近い鴨大神御子神主玉神社(桜川市)で戦勝祈願を行った。奉納した人物の名は「御代衆景助」で、景助という名前の武士が代理を務めたことが分かるが、「助」を通字に持つ簗田氏の人物であると考えられている。簗田氏は、のちに古河公方の有力家臣となる一族だ。
木所城に10日間滞在した安王丸らは、周囲にその存在を知らしめながら、13日には小栗城(茨城県筑西市)へ移動した。この時点では、小栗城主は没落しており、小栗城は空き家状態だったようだ。18日には伊佐(下館市の伊佐城か)へ、そして21日には、結城氏朝に迎えられ結城城(茨城県結城市)に入った。安王丸(以下、安王と記す)は、結城城から各地へ檄を飛ばした。世に言う、結城合戦の始まりである。

また、これと時を同じくして、野田持忠が大将となり、矢部大炊助らを率い、古河城を修理して立て籠もった。
安王らの挙兵を知った6代将軍義教は、関東管領の上杉清方に対して急ぎ追討するように命じた。清方は武蔵国司の上杉性順(鼻和<こばなわ>上杉憲信)を発向させようとしたが、性順が兵力が少なくて難しいと言って来たため、長尾景仲を加勢として向かわせることにした。
3月15日、上杉性順と長尾景仲は鎌倉を出陣し、性順は苦林(埼玉県毛呂山町)に陣を張り、景仲は入間川(埼玉県狭山市)に陣を構えて態勢を整えた。
4月17日、安王勢の岩松持国、桃井憲義、結城氏朝らが小山城に攻撃を仕掛け、翌18日には、総大将・安王は中久喜城へ入城して後詰した。ただし、この後は結城城へ籠城することになった。
『鎌倉大草紙』によると、結城城に籠城したメンバーは以下の通り。
・結城中務大輔(氏朝)
・同右馬頭(氏朝嫡男・持朝)
・同駿河守
・同七郎
・同次郎
・今川式部丞(『日本の歴史10 下剋上の時代』<永原慶二/著>にて、氏広と記されている人物か)
・木戸左近将監(持季か=木戸氏は野田氏と同族)
・宇都宮伊賀守
・小山大膳大夫(広朝=結城氏朝の兄弟)
・子息九郎
・桃井刑部大輔
・同修理亮
・同和泉守
・同左京亮
・里見修理亮
・一色伊予六郎
・小山大膳大夫の舎弟生源寺
・寺岡左近将監
・内田信濃守
・小笠原但馬守
これを見ると、東国の有力者は安王側と幕府側に二つに分かれたケースが多かったことが分かる。例えば、上記の同族としては、駿河の今川範忠、下野の小山持政、同じく下野の宇都宮等綱、信濃の小笠原政康が幕府側に付いている。籠城した武将で名前に「持」が付く人は、持氏から偏諱(一字拝領)を受けていることから、持氏の生前に目を掛けられていた人物が多かったことが想像できる。
安王軍は、結城氏朝、岩松持国、桃井憲義の3名を大将として軍事編成を行ったが、例えば桃井憲義のみ安王の「御書」の副状を認めたことが確認でき、3名の間には機能的な分担があったと考えられる。なお、岩松持国は、叔父満純が上杉禅宗の乱で殺された後に岩松家を継いだ人物だが、岩松家存続のために持氏に忠誠を誓っていた。
討伐軍は7月末に結城城の包囲を開始した。結城合戦の戦場は、長堀原合戦(永享12年7月10日)や、西蓮寺合戦(嘉吉元年<1441>3月6日)も知られており、周辺各地で戦いが行われた模様だ。
ところが、結城氏朝以下の奮戦もむなしく、結城城は嘉吉元年4月16日に落城してしまった。優勢な幕府軍に対して8か月以上も籠城戦を行ったことになる。
春王(12歳か)と安王(11歳か)は捕えられ、京都に向けて護送中に美濃国垂井宿の金蓮寺にて処刑された。
岐阜県垂井町のタルイピアセンター・歴史民俗資料館には、これに関する説明が展示してある。

なお、6代将軍義教が赤松邸での宴席で暗殺されたのは、この年の6月24日であり(嘉吉の変)、その席上では、結城合戦が無事に終わったことが話題になっていたようだ。
第22回 関東地方における戦国時代の始まりと緒戦で大敗した上杉氏
前回述べたように、持氏の遺児である春王・安王は亡き者にされたが、まだ持氏の子らは確認できるだけで男子だけでも6人生き残っていた。
持氏の死後、鎌倉公方の座は空席であったが、幕府もずっとそのままにしておくことはできず、ついに持氏の遺児の一人である四男・万寿王丸を鎌倉公方とすることに決め、文安4年(1447)8月、万寿王丸は第5代鎌倉公方に就任し、2年後に元服して成氏(しげうじ)と名乗った(黒田基樹氏によると、成氏は元服時19歳)。
そして成氏を補佐する関東管領には憲実の子憲忠が選ばれたが、成氏は父を憲実に殺されていることから、当然ながら憲忠のことを憎む気持ちがあったことは容易に推測できる。この幕府による人事は非常に理解しがたいが、ともかくそうなった。
当たり前だが、成氏と憲忠の仲は当初から険悪で、宝徳2年(1450)4月には、江島合戦と呼ばれる成氏と上杉氏との局地的な戦いが行われた。そして、成氏が憲忠を殺害したのは、享徳3年(1454)12月27日のことである。
この事件により、鎌倉公方足利氏と上杉氏との全面戦争が勃発し(享徳の乱)、関東地方は136年後に豊臣政権によって平定されるまで、長い戦国時代を経験することになる。
享徳3年(1454)12月27日に、第5代鎌倉公方・足利成氏によって殺害された関東管領上杉憲忠は、関東地方の上杉氏のいくつかの流れのなかの山内(やまのうち)家と呼ばれる家系で、関東地方における上杉氏の嫡流であった。
上杉氏は元をただすと藤原北家勧修寺流の庶家である。
『関東管領・上杉一族』によると、鎌倉時代初期の人物である藤原重房は、承久の乱(承久3年<1221>)の後、宗尊親王が鎌倉幕府の第6代将軍として下向する際に、それに供奉して鎌倉に下り、鎌倉下向と同時に丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)の所領を得たことにより苗字を上杉に改めたという。
これが通説となっているようだが、『地域の中世1 扇谷上杉氏と太田道灌』によれば、上杉を最初に苗字としたのは重房の子頼重で、頼重は足利氏の家領奉行人頭人を務め、足利氏領丹波国八田郷(綾部市)等を所領とし、同郷内の上杉村という地名を取って苗字としたという。「上杉荘」自体、存在しないという。
上杉 扇谷家祖
重房 ――― 頼重 ―+― 重顕 ――― 朝定 === 顕定
|
| 山内家祖
+― 憲房 ――― 憲顕
|
+― 清子
足利尊氏母
頼重の子である憲房は、妹が足利尊氏の母・清子であった関係もあり、尊氏に忠実に仕えた。
憲房の子憲顕は、鎌倉の山内(鎌倉市山之内)に居館があったことから山内上杉と呼ばれるようになり、憲顕の5代あとが憲忠である。
そして、関東地方の上杉氏を語る上で、もう一流、重要な家がある。それが扇谷(おおぎがやつ)家である。
扇谷家が鎌倉に下向したのは山内家よりも遅く、顕定(1351~80)が鎌倉へやってきて扇谷に居館を構えたことから扇谷上杉と呼ばれるようになった。
さて、22歳の若き当主憲忠を殺された山内上杉氏は、憲忠の父憲実がまだ存命だったものの政治権力はすでに放棄しており、また憲忠の弟たちも若かったため、上杉氏の成氏に対する報復戦は、扇谷上杉氏の隠居・持朝がリードして進めることになった。
持朝はこのとき39歳。憲忠の妻の父であり、永享の乱や結城合戦を戦い抜いてきた戦巧者でもある。
ところがその持朝率いる上杉軍は、翌享徳4年(1455)正月22日、相模島河原(神奈川県平塚市)の戦いで成氏の派遣した一色直清・武田信長の軍勢に敗退してしまった(なお、武田信長は甲斐国守・武田信重<信玄の5代先祖>の弟で、この後、上総武田家を興すことになる人物)。
一方、扇谷上杉氏の当主顕房(持朝の子)は、山内上杉氏の前の家宰・長尾景仲(太田道灌の母方の祖父)とともに武州一揆や上州一揆を率い、武蔵府中(東京都府中市)に侵攻し、鎌倉公方歴代の先例どおり高安寺(東京都府中市)まで出張ってきていた成氏軍と対峙した。
そして相模島河原と時を同じくして、21・22日に上杉軍と成氏軍は、立河原(東京都立川市)から分倍河原(府中市・国立市)にかけての多摩川の河畔で合戦となった。21日の戦いを第一次立河原合戦と呼ぶが、両日含めて、分倍河原合戦と呼こともある。
『東国の歴史と史跡』によると、この当時の多摩川の流路は現在とは違って、おおよそJR南武線と中央自動車道との間を流れていた。日新町のNECのところがちょうど河道である。上記のいわゆる「分倍河原合戦」は当時の多摩川の右岸、現在の府中市四谷で戦われたのである。
ちなみに、現在の四谷という地名は元々「四ツ屋」と表記し、近世初頭の多摩川の洪水によって村が流されたときに、踏みとどまった家(市川一族)が4軒あり、それで四ツ屋村と呼ばれるようになった。
なお、『東国の歴史と史跡』では現在の多摩川の河道が中世の頃どうなっていたかは述べていないが、現在の河道も中世当時も多摩川の支流(浅川)が流れていたと思われる。関戸の渡しは中世の頃からあるからだ。
したがって、中世の頃は、現在の多摩川の河道(浅川)と上記のNECのところの河道があり、その二つの河道の間と言うことで中河原という地名がついたのではないかと思う。
基本的に当時の合戦は人家がない河原や原野などで行われた。分倍河原合戦が行われた府中市四谷も当時は人家がなかったと考えられる。
さて、上記の合戦は、またもや上杉軍の敗北となり、庁鼻和(こばなわ)上杉憲信は戦死、犬懸(いぬがけ)上杉憲顕(禅秀の子)は高幡不動(東京都日野市)で自害したと伝わり、扇谷当主顕房も深手を負い、24日に入東郡夜瀬(埼玉県入間市あるいは東京都八王子市)で自害した。

このように上杉氏は緒戦で惨敗を喫し、山内上杉氏は憲忠の弟房顕(21歳)が継ぎ、扇谷上杉氏は持朝が再び当主に返り咲くこととなった。
なお、このときの戦いで、山内上杉氏の重臣である武蔵大石氏の当主憲儀も討ち死にしており、分家(駿河守家)の重仲も、黒田基樹氏が推測する通り、このときに受けた傷が元で死亡したと思われる。重仲はのちの長尾景春の乱の際に二宮城(東京都あきる野市)に拠った憲仲の父であり、大石氏は当時すでに東京都多摩地域で強い勢力を持っていた。
第23回 武蔵国に君臨した守護代大石氏
山内上杉家中の傑物・大石能重
前回、享徳4年(1455)正月22日に起きた分倍河原合戦において、大石憲儀が討死し、大石重仲もこの合戦で被った傷がもとで死亡したことを述べたが、その大石氏は東京地域にとっても非常に重要な氏族であるので、今回は大石氏について簡単に述べてみる。
大石氏についての研究は、70年代までは八王子市下柚木の伊藤家に伝わる「大石系図」を元に進められていた。しかし、80年代からは史料性の低い系図を頼るのではなく、史料として確実な古文書を元に大石氏の姿を復元しようとする動きが興り、現時点での大石氏の研究の到達点は、『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』所収「総論 武蔵氏大石氏の系譜と動向」(黒田基樹著)に簡潔にまとめられている。本項の記述は、『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』に収められた各論文に大きく拠っている。
『大石氏の研究』(大石氏史跡調査研究会)では、大石氏のルーツについては、木曽義仲がまだ信濃にいるころに、大室(あるいは小室)太郎泰貞の娘との間にもうけた義宗が初代だという「大石系図」の記述を元に考察しているが、大石氏が木曽義仲の後裔であることを史料的に裏付けることはできない。
大石氏は、応安3年(1370)に現れる隼人佑能重(はやとのすけよししげ)が史料上の初見である。能重はその時、武蔵国守護代であった。
室町幕府の地方統治の仕組みは、律令時代に定められた国を単位として、各国に守護(しゅご)という責任者を任じた。ただし、守護は在京して現地には赴かず、関東の守護の場合は鎌倉に在住しているため、守護代(しゅごだい)を現地に派遣して、実質的には守護代が現地の最高権力者となる。つまり、大石能重は、武蔵国の最高権力者である。なお、守護代は目代(もくだい)とも称される。
重ねて述べると、室町時代の関東地方のトップは足利尊氏の子基氏の系統の鎌倉公方で、ナンバーツーは上杉氏が任じられる関東管領である。そしてその下に各国の守護がいて、それぞれの国の統治を受け持っていた。
能重が史料に登場した時点で、すでに事実上の武蔵国の統治者である守護代に任じられているということは、大石氏が木曽義仲の末裔であったかどうかは不明としても、能重の守護代就任は、大石氏が山内上杉氏の家臣として実績を積み重ねてきた結果であると考えられる。能重は、武蔵国守護代を務めると同時に、上野国と伊豆国の守護代も務めており、大変な傑物であったと想像できる。
大石氏の系譜
ところがその能重は、大石氏の嫡流ではなく、「石見守家」と黒田氏が呼称する大石氏の分家であった。本家は「遠江守家」と呼称される家で、史料で確認できる初代は、法名聖顕であり、能重と同世代の人物で年齢は少し上だったと推定されている。
【遠江守家】
某 ― 某 ― 憲儀 ―+― 房重か
聖顕 道守 |
+― 定重 ―+― 顕重か === 憲重 === 氏照
道俊 綱周 北条氏康子
心(真)月斎 駿河守家から
【石見守家】
能重 ― 某 ― 憲重 ― 石見守 ― 石見守 ― 石見守
二宮
道伯
大石氏はさらに駿河守家の憲重と同世代の重仲から始まる「駿河守家」も確認されており、重仲と憲重は兄弟であった可能性がある。
【駿河守家】
重仲 ― 憲仲 ― 高仲 ― 高仲
二宮道伯と二宮城
古代末から武蔵国二宮の地(東京都あきる野市)は二宮氏の支配下にあったが、室町時代に入ると大石氏がこの地を支配することになる。石見守家の当主の二宮道伯はその名の通り二宮を称していることから、二宮城に居して二宮を支配していたと考えられる。では、二宮城とはどこにあったのであろうか。
二宮神社の南東約1キロのところにある法林寺には、『秋川市史』が著された昭和58年の時点で土塁が残っており、中世の館跡のような景観を呈していたことから、小川氏あるいは二宮氏の居館であった可能性がある。そして二宮神社も、中世の城館跡であったという説があり、大正15年に「二宮神社並びに二宮城跡」として都の旧跡に指定されている。

『秋川市史』によると、昭和47年の発掘調査によって二宮城が城跡であることは否定されるに及んだが、その後の昭和58年に、法林寺の東約200メートルの河岸段丘上にある「御屋敷」と呼ばれる場所を調査し、そこでは土塁や空堀跡が確認され、14世紀の居館跡とされた。

また、『多摩のあゆみ 第十号』所収「秋川市の城址」に、二宮神社の北の平沢に小字「城の腰」という地名があったと記されている。具体的に平沢のなかのどこかは分からないが、平沢は二宮神社から見るとちょうど「腰」に当たるので、二宮神社境内が二宮城であれば地名として適当である。二宮神社の東側の多摩川河畔に屋城という地名があり、現在でも屋城小学校や屋城保育園、屋城旭通りなどがある。
北・東・南をそれぞれ、平井川・多摩川・秋川で守られた段丘上の二宮神社の地は、城地として見ても好適地であるが、考古学的に分かったのは14世紀の居館跡で、道伯が活動した年代とは合致しない。そのため、二宮城の具体的な様相についてはいまだ謎である。
道伯は、正長2年(1429)に死去し、二宮の地は「石見守家」の分かれと考えられる「駿河守家」に継承された。「駿河守家」の憲仲は、文明8年(1476)に勃発した「長尾景春の乱」で景春方として二宮城に在城する。ところがどうやら、憲仲は二宮城を追われたようで、その後は戸倉城(あきる野市戸倉)主であった小宮氏が東進し、二宮の地に入ってくる。小宮氏が二宮城を使ったかどうかは不明だ。
16世紀に入るころからは、また大石氏がこの地に復活してくる。『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』では、天文13年(1544)の小宮康明以降、小宮氏は多西郡での活躍が見られなくなり、岩付太田氏の家中に見えるようになるということだが、『五日市町史』で述べられている通り、その後も小宮氏の活躍はあきる野市域で見られる。小宮氏は大石氏の下で、相変わらず隠然たる力を保持してあきる野市域を支配していたと考えられる。滝山城には、小宮曲輪と呼ばれている曲輪があるため、氏照時代になっても小宮氏は在地の有力者として君臨していたのであろう。
その後、後述する通り、大石氏は氏照が継ぎ、二宮は北条の支配下に入ることになる。
道伯の子の憲重も引き続き二宮城を拠点に活動していたと考えられるが、その後石見守家は拠点を下総国葛西(東京都江戸川区)に移し、代わって二宮城を拠点にしたのは駿河守家であった。
柏の城から浄福寺城へ
既述した通り、享徳4年(1455)の分倍河原合戦では、大石一族は既述した通り本家当主の憲儀と駿河守家当主重仲の二人を失うという大変な打撃を被った。この時代の大石氏は武蔵国守護代の地位についておらず、一時期ほどの権勢は失っていたが、相変わらず山内上杉家の重臣であることには変わりなかった。
遠江守家は、討死した憲儀の跡を継いだ庶子の定重が柏の城(埼玉県志木市)を拠点として活動していたと考えられ、定重が大石氏として久しぶりに武蔵国守護代に任じられるのは、長享元年(1487)のことである。

定重の跡は子の道俊が継いだ。道俊は法号であり、実名は確実なことはいえないが、顕重の可能性がある。通説では、道俊の実名は定久で、その娘比佐の元へ北条氏照が婿入りして大石氏を継いだとされているが、定久という名前を史料で確認することはできず、氏照の養子入りに関しては後述する。また、比佐という名前についても史料でそれを証明することはできない。伝承のレベルで確実性に欠ける。
道俊には実子が無く、駿河守家から憲重を養子に迎えた。駿河守家からの養子とする根拠は、「北条氏照継承前の大石氏」(長塚孝/著)で述べられている通り、憲重の通称が駿河守家が名乗る源三であるからだ。
憲重は、北条氏綱の偏諱を受けて、綱周と改名したが、その時期は、『新八王子市史 通史編2』では、大永6年(1526)以降と見られるとしている。時期の根拠については述べられていないが、大永4年に氏綱は江戸城を落とし、それによって多摩地域の武士たちは氏綱に靡いたと想定できることによるのだろう。三田綱定、小宮綱明、平山綱景への偏諱も同じ頃としている。
ただし、この時期の大石氏の主家である山内上杉氏は、大永5年(1525)3月25日の当主憲房死去によって不安定な状態になっていたが、いまだ力を持っていた。山内上杉憲政が、河越合戦(いわゆる「河越野戦」)で北条氏康に大敗して大きく力が削がれるのは、天文15年(1546)4月である。そう考えると、大石氏や三田氏などが偏諱を受けたのは、のちに三田綱定が北条家と戦ったことからも分かるように、北条氏に対して低姿勢で臨んだ程度で、決して配下に加わろうとするものではなかった。北条家に少しでも弱みが見えたら襲い掛かかるつもりだったのだ。その証拠に、河越合戦の際には、大石氏や三田氏は上杉陣営に属している。なお、綱周は一般的には「つなちか」と読むとされているが、元の名が憲重であるので、「つなのり」の可能性はないだろうか。
道俊の年月日が分かる史料上での終見は、天文21(1552)年8月19日である。恐らくその後まもなくして、養子の綱周が継いだのだろう。弘治元年(1555)夏には、綱周は小田原城に出仕しており、その頃から氏照の養子入りに関して話が進んでいたのであろう。道俊・綱周の代には、大石氏は八王子市の浄福寺城を拠点としていたと考えられている。

北条氏照の大石家継嗣
弘治2年(1556)5月、相模国座間郡の鈴鹿明神の社殿再興の棟札に、北条藤菊丸(ふじきくまる=氏照)が大旦那として記されている。座間郡は大石氏の所領であるため、このときには藤菊丸の大石氏継承は決まっていたと考えられる。
そして、永禄2年(1559)11月10日、あきる野市の三島神社禰宜職を六郎太郎に安堵した文書が、氏照の多摩地域における政治活動の初見史料である。そこには「如意成就」の朱印が押されている。氏照の生年は判明していないが、天文10年説を採った場合、このとき19歳である。
氏照が大石氏を継いだ際に入部したのは、八王子市の浄福寺城説と同市滝山城説がある。ただし、滝山城説だとしても、氏照が新規に築いて入城したのではなく、すでに城はあったとみられる。道俊・綱周は浄福寺城を本城としつつ、滝山城や高月城を支城として築いたと考える。そしてその大石氏時代の滝山城は、今見られるような広大な城ではなく、主郭近辺だけのコンパクトな城であったことが、縄張を見ることにより推定できる。
滝山城の築城時期は分かっていない。八王子市では2021年に「滝山城築城500年」として大きくPRしていたが、1521年築城説を史料で証明することはできない。正確には、滝山城は、いつ誰によって築城された城なのか不明なのである。
駿河守家の憲重が大石氏本家を継いだ時点で、本家と駿河守家は統合が取れた可能性があり、その場合は、その後の行動は同歩調を取った可能性もあるが断定はできない。
氏照が大石氏を継承して間もない永禄3年(1560)秋、長尾景虎(上杉謙信)が、小田原城を目指して進軍を開始した(いわゆる謙信の「越山」)。関東平野に入って以降の詳しい行程は不明だが、八王子市域を通過していることは確実で、市内で戦闘があったことは発給された感状からも分かる。ところが、昔から謎とされているのは、このとき、滝山城や浄福寺城がどんな文書や古記録にも登場しないことだ。
通常、武蔵国内を通過する際は、この当時の幹線ルートである「河越道」を通るはずで、その場合は、滝山城の東側にある多摩川の「平の渡し」を渡河するはずだ。それなのに戦闘が起きていないとしたら不審だ。景虎は滝山城を無視して素通りしたということだろうか。普通、そんなことをしたら、景虎勢が通過後、氏照は背後から景虎勢に攻撃を浴びせるはずだし、景虎とすればそうされないためにも滝山城を落城させるか痛撃を与えてから通過するはずである。
『上杉謙信』(花ヶ前盛明/著)によると、このときの先陣はのちに各地を流浪することになる太田資正で、その他武蔵の国人が続き、越後から景虎に従ってきた武将たちは、直江実綱、柿崎景家、斎藤朝信、本庄慶秀、中条藤資、甘粕長重、本庄繁長、鮎川清長、安田長秀、新発田長敦、桃井義季、黒川清実、宇佐美定満、大川忠秀といった錚々たるメンバーで、北条側が戦慄したことが想像できる。
長尾景虎は、翌永禄4年3月13日、小田原城の攻撃をはじめ、しばらく包囲したのちに撤退し、閏3月16日には鶴岡八幡宮で上杉憲政から上杉家の名跡と関東管領を引き継ぐセレモニーを行ってさっさと越後に帰り、6月28日は春日山城に戻っている。このとき景虎は、憲政からの偏諱で政虎と改名し、上杉政虎と称するようになるが、この年の12月には、将軍・足利義輝からの偏諱で輝虎と改名している。

なお、このとき、滝山城や浄福寺城がどんな文書や古記録にも登場しないことは既述したが、『新編武蔵風土記稿』の浄福寺の項には、大永4年(1524)12月14日の夜、上杉憲政が襲ってきて城郭を放火し、大石父子は北条氏康を頼ったとの記述がある。憲政や氏康の名前があるということは、大永4年ではありえず、これは永禄4年の誤りで、景虎の小田原城攻めの際に浄福寺城が攻められたのではないかと考える研究者がいる。ただそうなると、12月に攻められたというのは時期が合わなくなるが、単なる伝承であると切り捨てるのは勿体ない気がする。
永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めの際、信玄は拝島に本陣を置き、勝頼が滝山城を攻撃している。これは確実である。
仮説としては、景虎侵攻時、氏照はまだ浄福寺城におり、滝山城は存在していたとしても景虎からすると無視しても良いほどの小規模な城郭で、兵も大して配備されていなかったのではないか。
氏照は、景虎侵攻に際し、景虎方に寝返った青梅の三田氏に対してすぐさま報復を行い、永禄4年9月には三田氏を滅ぼしている。

従来、三田氏は永禄6年(1563)に滅亡したと言われていたが、史料を確認すると永禄4年が正しい(『新八王子市史 通史編2 中世』)。三田氏を滅ぼして支配領域を拡大したことは、氏照にとっては画期的なことであり、先の景虎侵攻の教訓と三田氏滅亡が契機となって滝山城を大幅拡張しそこに本拠を移したのではないか。
氏照が滝山城を居城にしていたことが史料上で確認できるのは、永禄10年(1567)である。
第24回 足利成氏の古河入部と太田道灌の江戸入城
享徳4年(1455)正月の分倍河原合戦で勝利した鎌倉公方足利成氏は、敵を追撃しつつ北上し、3月3日には下総国古河(茨城県古河市)に入った。古河を中心とした下河辺荘は鎌倉府の御料所だった。この後、鎌倉へ戻れなくなった成氏は古河城を本拠地とすることになるので、成氏以降は古河公方(こがくぼう)と呼ばれることになる。

もともと古河は、既述した東京都府中市の高安寺と同様、関東に変事が起きた際に鎌倉公方が出張る場所であり、その場所を「古河御陣」と呼んでいた。地政学的に見ても戦略上の要地である。このように古河は鎌倉府にとって北関東に対する前線基地の役目を負っていたのだが、14世紀末の小山氏の乱(下野守護・小山義政およびその子若犬丸の鎌倉府への反乱)を機に、鎌倉公方は古河の直接支配に乗り出していく。
その際に活躍したのが、簗田氏や野田氏といった家臣たちで、とくに簗田氏はその後、古河公方足利家内において最高の権力を得るに至る。簗田家中興の祖といわれる満助の「満」は、鎌倉公方3代目の兼満からの偏諱であり、満助の嫡子・持助の「持」は、鎌倉公方4代目持氏からの偏諱である。それだけでなく、満助の娘は持氏に嫁ぎ、それによって誕生したのが成氏であるから、簗田氏は成氏にとっては外戚にあたる。こういった忠実な家臣たちによって、成氏が古河に入部する以前から古河の基盤は整えられていた。
さらに、小山氏の乱によって嫡系が滅んだ小山氏は、鎌倉府に忠誠を誓う下野守護・結城基光の次男泰朝が再興した。祇園城の小山氏と結城城の下総結城氏の存在が、成氏にとっては非常に頼りになったのである。
ただし、簗田氏は既述した結城合戦では安王丸に味方したため、合戦後少しの間、歴史の表舞台から消えた時期があった。
さて、敗北した山内上杉氏の家宰長尾景仲らは、下野国天命(栃木県佐野市)・只木山(同足利市)に籠城したが、成氏と上杉氏との合戦を知った幕府は、3月末に後花園天皇から成氏追討の錦旗を下賜され、在京中だった亡き憲忠の弟・房顕に山内上杉家を継がせるとともに関東管領に任じ、関東へ向けて出陣させた。ここに成氏は朝敵となったのである。
また幕府は、越後守護の上杉房定を上野(群馬県)に向けて出陣させ、扇谷上杉持朝を支援する目的で、駿河守護の今川範忠も出陣させ、持朝・範忠勢は、6月中旬鎌倉に入り、鎌倉から成氏勢力を一掃した。
これにより、利根川(現在の古利根川)を挟んで、東側に古河公方の勢力圏が、西側に上杉氏の勢力圏が形成され、関東平野を東西に二分しての戦いに発展した。なお、この頃の勢力図については、木更津市郷土博物館の展示パネルに分かりやすい図がある。

しかし、成氏はすぐさま利根川を越えて侵攻し、12月に庁鼻和上杉性順(憲信)と長尾景仲が籠る崎西城(埼玉県加須市)を落とし、上杉勢に脅威を与えた。
また上杉勢は、下総方面でも利根川の東側を流れる太日川(現在の江戸川)の東岸の市川城(千葉県市川市)を古河勢に奪われ、武蔵国南部を版図とする扇谷上杉氏持朝は、急ぎ防衛ラインを構築しなければならなくなった。
そのため扇谷上杉家宰の太田道真・道灌父子を始めとして、宿老の上田・三戸(みと)・萩野谷氏らは「数年秘曲を尽くして」、河越城(埼玉県川越市)と江戸城(東京都千代田区)を築城した。両城は、長禄元年(1457)には完成しており、河越城には当主持朝と道真が、江戸城には道灌が入部した。道灌は長禄元年の時点で26歳である。
江戸城は平安時代の終わりごろに、秩父平氏の一族が居館を定めた場所で、頼朝挙兵時に当初頼朝と敵対した当主・江戸重長は、『義経記』に「(関東)八箇国の大福長者」と記されたほどの富豪であった。
「大福長者」という表現は武士というより、商業で成功した者を表現しているので、利根川や入間川(現在の隅田川)などの大河川が集中する江戸湾を控え、関東はもとより日本各地から物資が集まる江戸は、非常に経済的に旨味のある土地であり、そこを舞台に江戸氏は経済的成功を収めていたことが分かる。
また、東京というとあまりご存じでない方は平坦な地形を想像するかもしれないが、東京の山手と呼ばれる地域は、非常に起伏に富んだ地形をしており、江戸城(現在の皇居)周辺も深い谷や高い丘が複雑に入り組んでいる。したがって、江戸城はそういった地形に守られた、非常に要害堅固な城なのである。
道灌は江戸城に入る前は、品川館(東京都品川区)にいた。品川にも湊があり、品川湊の支配者で、非常に商業的に成功した鈴木道胤(すずきどういん)と道灌は親交があった。したがって、道灌は道胤からビジネススキルを学び、それを江戸湊で実践したものと考えられる。もちろん道胤もコンサルタントとして道灌の江戸支配には関わっていただろう。
道灌が入部してから江戸湊はさらに発展し、道灌の経済力もかなり向上し、それが主家である扇谷上杉氏に脅威として映ることになり、後年の扇谷上杉定正による道灌暗殺の原因の一つになったものと私は考えている。
第25回 道灌最大のライバル・長尾景春
26歳で江戸城主となった太田道灌は、文明18年(1486)に55歳で謀反の疑いありとして主に暗殺されるまで、扇谷上杉氏の家宰として関東各地に転戦して八面六臂の活躍を見せる。太田道灌が活躍した時代は、大雑把に言うと、西関東の関東管領・山内上杉氏と東関東の古河公方との戦いの時代で、関東の戦国時代の第一段階にあたる。
道灌が仕えた扇谷上杉氏の力は、関東管領・山内上杉氏と比べたら格段に劣る。だが、そんな家に仕えた道灌が関東管領勢力の中で目立った活躍ができたのは、道灌自身の人物が優れていたことは言うに及ばないが、江戸城を本拠地としたことによる経済的豊かさも要因である。
もとより多忙な道灌だったが、それが極端になるのは45歳からで、人生最期の10年間は戦いに明け暮れる生活だった。
その多忙生活の発端となったのが長尾景春(ながおかげはる)という人物の挙兵である。
長尾景春は、白井長尾氏の人物。山内上杉氏の家宰は、景春の祖父・景仲、父・景信が務めており、景信の死後は景春が任じられると、景春自身はそう思っていた。ところが、山内上杉家当主・上杉顕定(あきさだ)は、総社長尾氏当主・長尾忠景(景春の叔父)に家宰の地位を与えてしまった。
これには当然景春自身も大いに不満だったが、家宰という地位は本人だけでなく、その家臣たちも権益を得ることができる。景春の家臣たちからすると、自分たちの親分でない者が家宰になると、その者の子分たちが自分たちの権益を侵しにかかってくるに違いないと勘繰る。景春は自身の不満もあったが、家臣たちからの強い押し上げによって、力による解決を選択した。
景春は文明8年(1476)には、滞陣していた五十子陣(いかっこのじん/いらこのじん)から退去して、鉢形城(埼玉県寄居町)を取り立てて籠った。

このとき景春は34歳、道灌は45歳だった。このときの景春と道灌の立場は、例えていえば、景春は関東最大手企業の元専務(故人)の息子で、道灌はそのグループ企業の専務と言えるだろう。両者は遠戚でもある。道灌の有能さは景春も認知していたはずだ。鉢形城に籠る前、最初は手紙で、つぎは実際に道灌の元を訪れ、五十子陣襲撃計画を伝えて、道灌には五十子へ行かないように要請している。普通に考えたら、直談判でこういう相談をすることは命の危険を伴うため、両者はかなり親しい間柄であったものと考えられる。
景春の叛意は明確になったわけだが、上杉顕定らには危機意識が感じられない。それに反して、事態を憂慮した道灌は、景春と上杉顕定の調停に乗り出した。ところがそれは不首尾に終わった。道灌は、顕定からすると家臣のさらにその家臣にあたるため、道灌が直に顕定と口をきくことは難しく、道灌は父の道真を経由して顕定に進言しようとしたが、道真がそれを拒否した。道灌は自分の能力に自信があり、身分をわきまえずに動き回る傾向があるため、父からすると余計なことをさせて太田家の立場を悪くさせたくなかったのかもしれない。
そうこうしている内に、道灌は3月から10月まで駿河に出張った。景春にとっては、道灌が関東不在の方がいろいろと計画を進めるのに都合が良い。駿河から江戸城に戻った道灌は、そのまま江戸城で情勢を見守った。
すると、翌文明9年(1477)1月18日、景春はついに五十子陣にいる主家の上杉顕定を攻撃した(五十子の戦い)。挙兵した景春の勢力は大きく、武蔵では豊島郡の有力者・豊島泰経・泰明兄弟などが与した。
ここに至っても道灌はまだ調停を試みている。しかし、結局上手くいかず、道灌は武蔵在国の唯一の上杉派有力者として景春鎮圧に乗り出すことになった。
3月18日には、道灌は手勢を分けて相模に向かわせ、溝呂木城と小磯城を落とさせ、ついで小沢城を攻めさせた。4月10日には、河越城に派遣していた弟の資忠(すけただ)らが合戦に勝利し、これを受けた道灌は江戸城を出陣し、13日には豊島氏の練馬城を攻撃した。攻撃を終えた道灌勢が陣を退くと、城からは豊島勢が追い打ちをかけてきたが、道灌は武蔵国江古田原で迎え撃って撃破し、そのままの勢いで、豊島氏の本拠である石神井城を攻撃した。

それに対して豊島氏は、4月18日に降伏を申し出たが、降伏の条件である城の破却を実施しないため、28日についに力で石神井城を落城せしめた。10日間も破却しないでいると、本当は降伏の意思がなく時間稼ぎの策略と思われても仕方がないのだ。しかし、豊島氏はこれで滅んだわけではない。
5月14日には、ついに道灌と景春が武蔵国用土原にて直接合戦に及び、景春は敗れた。
景春挙兵の時点では、そもそも関東管領と古河公方が敵対していた関係上、関東管領に叛した景春は当然ながら古河公方との提携を目論み、実際、足利成氏は、7月には景春援護の軍勢を古河から上野国方面に繰り出した。
しかし、関東管領側は奇策を考えた。翌文明10年(1478)1月1日に古河公方に和睦を申し入れたのだ。成氏はそれを受け入れ、景春は一気に劣勢に立たされる。
昨年4月に石神井城を落とされて没落した豊島氏であったが、その後再起し、平塚城(東京都北区)を取り立てて籠った。

しかしこれもすぐに道灌に落とされ、豊島氏は武蔵南端における景春勢の拠点となっていた小机城に逃れるが、道灌は4月10日に小机城を落とし、これによって豊島氏は歴史の表舞台から消え去った。

小机城を落とされたのは景春にとっては痛手で、景春はなおも抵抗を続けるが、ついに文明12年(1480)6月24日に秩父の日野城が落城し、没落することになる。
第26回 道灌に大きな代償を払わせた千葉氏
道灌の人生で最大のライバルと言えば長尾景春だが、千葉氏も道灌の人生に大きな影響を及ぼした。千葉氏というと千葉県を思い出すと思うが、千葉氏の影響力は令制下総国の各地に及んでいた。古代には千葉国造の存在が知られているが、中世の千葉一族は、桓武平氏・平良文の後裔である。平良文は、将門の叔父にあたり、親戚中を敵に回した感のある将門にとって数少ない理解者であったことが状況証拠から想定できる(「平将門の乱」に関しては、こちらにまとめてある)。
良文の子・忠頼は、将門の娘を妻としており、その女性が生んだ子の子孫が千葉氏であることから、千葉一族は将門の子孫であることを誇りにした一族だ。
では、以下に戦国時代の千葉氏の略系図を記す。
14 15 16 17
満胤 ―+― 兼胤 ―+― 胤直 ―+― 胤将
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| | | 18
| | +― 胤宣
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| +― 胤賢 ―+― 実胤
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| +― 自胤
| 19
| 馬加 20
+― 康胤 ―+― 胤持
|
| 21
+― 輔胤 ――― 孝胤
成氏が鎌倉公方に任命されて以降、千葉氏は成氏に仕えていたが、享徳の乱では、当主胤宣(たねのぶ)は関東管領側に付いた。そのため、胤宣は、成氏派である重臣の原胤房や大叔父・馬加(まくわり)康胤によって攻撃され、胤宣や若い彼をサポートしていたその父・胤直、そして胤直の弟・胤賢(たねかた)らは死亡し、千葉宗家の嫡系は滅亡してしまった。この騒乱のあと千葉家を継いだのは、馬加康胤である。この康胤の系統を下総千葉氏と呼ぶ。
一方、胤賢の子である実胤(さねたね)と自胤(よりたね)は辛うじて難を逃れて武蔵へ落ち延び、太田道灌によって庇護され、兄の実胤は石浜城(東京都荒川区)に、弟の自胤は赤塚城(東京都板橋区)に入部した。この系統が武蔵千葉氏と呼ばれる系統である。

ただし、いくばくもなく兄の実胤が退いたため、弟の自胤が石浜城に移った。

石浜城は隅田川の右岸に所在し、隅田川の対岸は下総国であるからまさに国境の最前線に自胤は居したことになる。
道灌は自身の与党である自胤を千葉氏の当主に据えるべく、文明10年(1468)4月に小机城が落ちたあと、下総方面への進出を企図した。12月には、自胤を伴って国府台(千葉県市川市)に在陣し、東進の構えを見せる。後年、有名な「国府台合戦」の舞台となる千葉県市川市にある国府台城は、このとき初めて築城された可能性がある。

道灌の下総進出に対して、下総千葉孝胤(のりたね)は、本拠の千葉平山城(千葉市緑区)を出陣し(千葉県流山市の長崎城から出陣したという説もある)、両軍は12月10日に境根原(千葉県柏市)で激突した。
打ち負けた孝胤は、臼井城(千葉県佐倉市)に退却して籠城。それに対して道灌勢は、翌文明11年1月18日から攻撃を仕掛けたが、孝胤は粘り強く抵抗する。道灌は、現場を弟の資忠や千葉自胤に任せて、上杉顕定に出陣を要請するべく出向いたが、承諾を得られず臼井城攻撃に戻り、城攻めはそのまま弟たちに任せておいて、自身は下総・上総各地の孝胤与党の攻略にかかった。
夏の間、上総方面にまで出張って城を落としまくって臼井城攻囲に戻ってきた道灌だったが、城攻めがかなり長引いてしまったため、体制を立て直すために7月15日から退陣を始めた。ところが、それを見た孝胤勢が突出してきたため、その隙を衝いて反対に城を攻略した。この辺の臨機応変の作戦の巧妙さは素晴らしいが、残念なことにこのとき道灌の右腕とも言って良い弟の資忠(図書)が戦死してしまったのである。

また、道灌には資雄(すけかつ)という男子がいたが、彼も戦死した模様だ。千葉攻めは道灌にとってかなり大きな代償を払うことになってしまった。そして、せっかく攻略した臼井城であったが、自胤はそこには入部せず、代官を置いて自身は石浜城に戻ってしまった。
一方、負けた孝胤は行方をくらましたが、この系統は滅亡することなく存続する。
なお、最終的には、道灌が暗殺されたことにより、武蔵千葉氏が本宗家の当主に戻ることはなかった。
その後の流れ
今は詳述している余裕がないため、その後の時代の流れを簡単に列挙する。
道灌は、文明18年(1486)に暗殺されるが、その後、山内上杉氏と扇谷上杉氏との戦争が始まる。これを長享の乱(ちょうきょうのらん)と呼ぶ。
その戦いに駿河今川家の顧問であった伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が絡んできて、伊勢氏と戦うために、両上杉氏は再び結束するが、宗瑞の子の北条氏綱は、今川家から独立を果たし、小田原城を拠点として関東制覇の野望を持って武蔵へ侵攻。大永4年(1524)には、扇谷上杉氏の手から江戸城を奪取する。

扇谷上杉氏は、天文15年(1546)、当主・朝定が氏綱の子・氏康との河越城での合戦で討ち死にし滅亡した。また、山内上杉氏が保っていた関東管領職は、越後の長尾景虎が永禄4年(1561)に上杉氏の名跡とともに上杉憲政から継ぎ、景虎は上杉政虎と改名(のちの上杉謙信)。
後北条氏の勢力拡大に伴って、権威を有する古河公方家は、その政治的利用価値の高さから後北条氏に取り込まれていった。氏綱、氏康、氏政とつづいた後北条氏は、伊勢宗瑞から数えて5代目の氏直のときの天正18年(1590)に豊臣政権の侵攻の前に敗れ去り、関東地方における戦国時代はここに終わりを告げる。
参考資料
・『新田義貞』 峰岸純夫/著
・『足利尊氏と直義』 峰岸純夫/著
・『日本の歴史9 南北朝の動乱』 佐藤進一/著
・『関東公方足利氏四代』 田辺久子/著
・『高安寺とその文化財』 井原茂幸/著
・『関東管領・上杉一族』 七宮涬三/著
・『地域の中世1 扇谷上杉氏と太田道灌』 黒田基樹/著
・『論集 戦国大名と国衆1 武蔵大石氏』 黒田基樹/著
・『立川市史 上巻』 立川市史編纂委員会/編
・『府中市史 上巻』 府中市/編
・『東国の歴史と史跡』 菊池山哉/著
・『図説 太田道灌』 黒田基樹/著
・『日本城郭大系5 埼玉・東京』 児玉幸多・坪井清足/監修
・『続中世東国の支配構造』 佐藤博信/著
・『古河公方足利氏の研究』 佐藤博信/著
・『新八王子市史 通史編2 中世』 八王子市市史編集委員会/編