最終更新日:2022年11月18日

1.上毛野の古墳時代のはじまり

 上毛野と呼ばれる地域の範囲は、現在の群馬県域と一緒と考えて大過はありませんが、上毛野は河川流域によって大きく2つの地域に分けることができます。すなわち、東側の渡良瀬川流域と西側の利根川流域です。両流域の間にも古墳はありますが、分布は薄くなっています。

 上毛野の初期古墳に関しては、実年代を決めるのが難しいものが多いのですが、3 世紀後半には、利根川の当時の本流である広瀬川流域に前橋八幡山古墳が築かれ、利根川の支流・井野川流域には元島名将軍塚古墳が築かれたと考えます。この2基が利根川流域の古墳時代開始の画期をなす古墳です。

 一方の渡良瀬川流域では、当時の渡良瀬川の本流である矢場川流域に藤本観音山古墳(現在の住所だと栃木県足利市)、そして少し離れた場所には寺山古墳が築かれ、この2基が当地域の初期古墳の代表格です。

 上毛野の古墳の場合は、出土遺物と併せて、火山の噴火による火山灰や軽石の降下の痕跡を見て古墳の築造時期を決めることがありますが、築造の実年代を決めるのが難しい理由の一つとして、初期古墳の場合に重要となってくる、As-C(浅間軽石C)の降下の時期が確定できないことが挙げられます。見つかった軽石そのものの分析では年代は特定できないようです。

 では、どのように年代を決めているのかというと、五領式土器がキーになります。

 As-C は、五領式土器が供献されている古墳を覆っています。考古学的には、五領式土器は今までは4世紀初頭の土器と考えらえていたため、As-C が見つかった古墳は、必然的に4世紀初頭より後の築造と判断されていました。

 そのため、上毛野の初期古墳の代表格と言える前橋八幡山古墳の築造年代は早くても4世紀前半とされてきました。ところが、その後の考古学の進歩によって、五領式土器の製作年代が2世紀まで遡る可能性が出てきたため、As-C 降下もそれに従い遡るように考えられるようになってきて、現在では上毛野の初期古墳の築造時期については、今までの説を見直す必要が出てきています。

 

96
元島名将軍塚古墳

 高崎市に所在。AICTでは、2021年11月27日に探訪。

左側が前方部で右側が後方部

 主軸を榛名山に合わせた墳丘長96mの前方後方墳です。本格的な発掘調査は昭和55年に行われ、粘土槨の主体部からは人骨や関東では珍しい石釧(いしくしろ)などが見つかっており、墳丘や周堀からは 、濃尾にルーツを持つS字口縁台付甕(S字甕)や底部穿孔壺型土器などが見つかっています。見つかった土器は、近くの高崎市歴史民俗資料館に展示されています。

 出土したS字甕は、廻間Ⅲ式中葉のものです。それを元に、4世紀初頭の築造と考える研究者が多いようですが、私は下表の年代観で考えているので、そうすると、3世紀の第4四半期が妥当かと考えられ、箸墓古墳より少し遅い時期の築造と考えます。

『関東における古墳出現期の変革』(比田井克仁/著)より加筆転載

 元島名将軍塚の近辺にはこの後継となるような古墳は見当たらず、隠滅した下郷天神塚古墳は、元島名将軍塚より100年くらいあとの築造と考えられます。

 

130
前橋八幡山古墳
/朝倉広瀬古墳群

 前橋市に所在。AICTでは、2022年5月21日に探訪。

 

 墳丘長130mを誇り、前方後方墳としては超大型の部類に入り、その規模は全国で3番目(登れる前方後方墳としては2番目)、東日本では最大の前方後方墳です。本古墳の属する朝倉広瀬古墳群は、元々は200基以上の古墳がありましたが、現在残っているのは10基です。

 築造時期は、As-C降下後で、As-C降下の実年代は、冒頭で述べたように以前は4世紀前葉と言われていたため、八幡山古墳の築造年代も早くてもその頃とされてきましたが、五領式土器の製作年代が2世紀まで遡る可能性が出てきたため、As-C降下の時期を元に古墳の築造年代を決めるときは慎重に判断したほうが方がよいと考えます。利根川流域でも前橋八幡山古墳の築造につづいて前方後円墳の築造が始まることから、関東各地の例から類推しても、3世紀後半の築造と考えてよいと思います。

 出土遺物が良く分からないため断言できませんが、通常関東の前方後方墳は、濃尾勢力かその子孫の築造によるため、元島名将軍塚古墳の築造時期と併せて考えると、利根川流域で古墳時代前期前半の覇権を確立したのは濃尾勢力かその子孫であった可能性が高いです。

 

60
寺山古墳

 太田市に所在。AICTでは、2022年11月19日に探訪予定。

 

 高速道路から側面が良く見えるため、クラツー時代もバスが走っているときにこの古墳が見えると、必ず「あそこにこの地域最古の古墳が見えます!」と伝えていたのですが、多くのお客様はスヤスヤと眠っていらっしゃいました。もったいないなあと思いましたが、興味のない方にとっては何の価値もない土盛りに過ぎないのでしょう。

 墳丘長 60m の前方後方墳で、前方部幅23m、後方部幅33m。昭和46年に測量調査が行われているため、この数値はおそらくその時の計測の結果だと考えられます。

 発掘調査が行われていないため主体部は不明です。墳丘からは埴輪は表採されず、土師器が見つかっています。周堀は認められず、地表面からは段築らしき形跡も認められません。河原石や角礫で葺石が施されていました。

 築造時代を特定するための要素が少ないため断定はできませんが、前方後円墳の太田八幡山古墳が4世紀前半の築造と考えられていることから、それよりも前の築造でしょう。

 

117.8
藤本観音山古墳

 栃木県足利市に所在。AICTでは、2022年11月19日に探訪予定。

かつての愛車「雷電號」が写っていますがわざとではありません

 墳丘長117.8mの前方後方墳で、前方後方墳としては全国で5位、東日本では2位の規模を誇ります。昭和59年から8か年に渡って調査が行われました。

 現住所は栃木県足利市ですが、古墳がある場所は昭和35年に群馬県から栃木県に編入され、古代には上毛野の範囲に含まれます。渡良瀬川流域に最初に出現した大型古墳で、上毛野においては利根川流域の前橋八幡山古墳と双璧をなす初期古墳です。墳丘がかなり損壊しているのが残念。

 以上、ここまでに述べた4基の前方後方墳が、上毛野の古墳時代の幕開けを飾る初期古墳たちです。そして、その被葬者たち、つまりこの地の「王」たちは、濃尾からやってきた人びとかその子孫です。

 

80
太田八幡山古墳

 太田市に所在。AICTでは、未探訪。

 

 渡良瀬川流域で最初に築造された前方後円墳で、墳丘長は80m、4世紀前半の築造と考えられ、いわゆる「首長墓系列」として見た場合は、寺山古墳の次に位置します。

 地山削り出しの墳丘で、周堀跡も見えないことから、前方部の墳端がどこなのか分かりづらいですが、説明板の図を見ると前方部が短い柄鏡形に見え、古風な雰囲気です。葺石を備え、円筒埴輪や鉄鏃が見つかっています。

 

129
前橋天神山古墳
/朝倉広瀬古墳群

 前橋市に所在。AICTでは、2022年5月21日に探訪。

2015年に撮影した写真で、現在は東屋は撤去されています

 墳丘長129mの前方後円墳で、前橋八幡山古墳の一世代後の築造と考えられます。

 以前は八幡山よりも前の築造と紹介されたことが多かったのですが、一般的には、同じ地域で前
方後方墳と前方後円墳が見つかる場合は、前方後方墳の方が古いため、今では天神山古墳の方が
後出と考える研究者が多いです(ちなみに極めて例外として、京都府向日市の前方後方墳・元稲荷古墳<94m>は、すぐ近くにある前方後円墳・五塚原古墳<同じく94m>より後に築造されています)。

 現在残る墳丘は、後円部中心を方墳のように成形された部分のみです。この古墳は昭和43年の発掘調査のあと、宅地開発のために完全に破壊される運命にあったのですが、夏休みを利用して発掘に参加していた地元高校生が、その後の工事を監視していたところ、後円部の破壊が行われているときに赤い粘土の塊を認めました。彼は発掘調査時に見つからなかった主体部がついに見つかったと直感し、すぐさま、夏休みに調査を主導していた恩師に通報しました。それにより、幸いなことに工事はストップし、わずかながら墳丘が残ったのです。

 主体部は畿内の有力者と同様な長さ8mの長大な粘土槨で、2枚の三角縁神獣鏡(三角縁四神四獣鏡と三角縁五神四獣鏡)を含む5枚の銅鏡や、銅鏃、鉄製の武器類・農工具類が副葬されており、また大量の朱もまかれており、4世紀初頭の時点で利根川流域勢力(この古墳の被葬者)がヤマト王権の重要なパートナーになっていたことが分かります。

 出土した三角縁四神四獣鏡の同范鏡は、伝宮崎県高鍋町・持田48号墳と鳥取県倉吉市付近出土品があり、三角縁五神四獣鏡の同范鏡は、奈良県桜井市・茶臼山古墳、同天理市・黒塚古墳のものがあります。

 

124
朝子塚古墳

 太田市に所在。AICTでは、未探訪。

 

 

2.古墳最大化の時代

 前方後方墳の築造に続いて、4 世紀代には上毛野の王たちはヤマト王権との関係緊密化に伴い、大型の前方後円墳を築造し始めます。その規模は、いわゆる「外様」としては全国最大で、いかに上毛野の王たちがヤマト王権にとって大事なパートナーであったかが分かります。

 

171.5
浅間山古墳
/倉賀野古墳群

 高崎市に所在。AICTでは、2021年11月27日に探訪。

 

 4世紀後半から末頃の築造。墳丘長171.5m。後円部径105.2m、後円部高14.1m、前方部前端幅74.8m、前方部高5.5m。2段築成、二重周堀を備えます。

 この古墳が築造された時期においては、東日本最大の前方後円墳となります。時期が近い大型の前方後円墳を東日本で探すと、山梨県甲府市の甲斐銚子塚古墳(169m)と、宮城県名取市の雷神山古墳(168m)が挙げられ、これらの被葬者がヤマト王権からとくに信頼された人びとであったと考えられます。

 平成7年と9年に、中堤と外堀の発掘調査をしていますが、墳丘の発掘調査はされておらず、主体部は不明です。周堀からは土師器が出土し、外堀外縁部からは剣形石製模造品が出土しており、中堤の両側に河原石による葺石が施されていました。墳丘では円筒埴輪が採集されています。

 現在は地主さんの意向だと思いますが、墳丘は立入禁止となっています。国指定史跡であっても必ずしも国がそれを買い上げているわけではありませんので注意が必要です。

 

123
大鶴巻古墳
/倉賀野古墳群

 高崎市に所在。AICTでは、2021年11月27日に探訪。

 

 4世紀後半から末頃の築造。墳丘長 123m。後円部径 72m、前方部前端幅 54m、前方部高6.5m、後円部高 10.5m。主体部は未調査です。

 墳丘表面から円筒埴輪や器材形埴輪が採集されており、葺石が葺かれていたと想定できます。

 墳丘の一部は畑となっていますが、全体的に美しい古墳です。

 

53
大山古墳
/倉賀野古墳群

 高崎市に所在。AICTでは、2021年11月27日に探訪。

大山古墳といっても仁徳天皇陵ではありません

 前期に築造された径53mの大型円墳。詳細不明の古墳ですが、谷を挟んだすぐ北側には墳丘長 171.5m を誇る 4 世紀後半時点では東日本最大の前方後円墳である浅間山古墳があり、それとの関連が注目されます。また同じ谷沿いには大型円墳の庚申塚古墳が築造され、前期の大型円墳が2基もあるところにも注意。藪が酷く、おそらく冬に行っても墳丘には入れないでしょう。

 

46
庚申塚古墳
/倉賀野古墳群

 高崎市に所在。AICTでは、2021年11月27日に探訪。

 前期に築造された径46mの大型円墳とされていますが、詳細は分かりません。現状はシートが被され、その上にソーラーパネルが設置され、気の毒な感じがして声をかけてあげる言葉も思いつきません。

 

168
円福寺茶臼山古墳

 太田市に所在。AICTでは未探訪。

 

 

77
普賢寺裏古墳
/綿貫古墳群

 高崎市に所在。AICTでは、2021年11月27日に探訪。

夏は墳丘には立ち入れないほど藪化している

 綿貫古墳群の4基の大型前方後円墳の中で最初に築造された古墳で、墳丘長は77m。綿貫古墳群の大型前方後円墳は、若狭徹氏の編年によると、5世紀前半の普賢寺裏古墳を皮切りに、岩鼻二子山古墳、不動山古墳、綿貫観音山古墳と続きます。

 夏は藪が酷く、冬に訪れても墳丘は歩きづらいです。

 

151
白石稲荷山古墳
/白石古墳群

 藤岡市に所在。AICTでは、2022年6月4日、9月4日、10月12日に探訪。

 5世紀初頭に築造された前方後円墳。以前は 175mの墳丘長を誇るとされていましたが、最近の調査で155m ということが分かりました。ただし、2022年10月12日に訪れた際には、発掘調査が行われていて、前方部端や前方部側面に細長いトレンチを入れていたため、もしかすると修正があるかもしれません。

 昭和8年に後円部墳頂の発掘調査が行われ、墳頂から約 1m 下に東西二つの主体部が見つかり、東槨に関しては詳細が不明ですが、西槨からは石枕や大量の滑石製模造品が出土しています。

 出土品はほぼすべて上野の東京国立博物館にかっさらわれてしまいましたが、近くの藤岡歴史館では、トーハクから借りてきた本墳出土の家形埴輪が展示してあります。ただし写真撮影はNGです。別に怒っているわけではありません。

 

 

210
太田天神山古墳

 太田市に所在。AICTでは、2022年11月19日に探訪予定。

 

 5 世紀前半に築造された墳丘長210mを誇る東日本最大の前方後円墳です。

 ちなみに、ここでいう東日本というのは、福井県・滋賀県・三重県のラインより東側のことを指しますが、その3県にはもっと大きい古墳があるのではないかと思う方のために、以下に当該県の最大の古墳を示します。

 ・福井県最大の古墳は、147mの六呂瀬山1 号墳(坂井市) ※福井以東の日本海側最大
 ・滋賀県最大の古墳は、162mの瓢箪山(ひょうたんやま)古墳(近江八幡市)
 ・三重県最大の古墳は、188mの御墓山(みはかやま)古墳(上野市)

 後円部の径は120mで高さは16.8m、前方部の幅は126mで高さは 12m。二重の周堀が確認されており、周堀を含めた全長は364mに及びます。内堀は水堀だった可能性があります。

 3段築成で、葺石と埴輪が見つかっており、葺石は今でも墳丘表面に散見できます。左右のくびれ部分に造出があった可能性があります。主体部は未調査ですが、竪穴系であることは間違いないでしょう。

 長持形石棺(在地の緑色凝灰質砂岩製)の一部が見つかっていますが、長持形石棺は大王や有力貴族のみが使用できる最高級の棺で、関東では確実なものとしては、他には群馬県伊勢崎市の御富士山古墳でしか見つかっていません(御富士山では今でも実物を後円部墳頂で見ることができます)。

 少し前までは石棺の一部が露出していたということですが、現在は埋められて見ることはできません。

 通常、畿内の長持型石棺は、兵庫県の竜山石を使用しますが、太田天神山古墳とお富士山古墳の場合は、在地の石材を使用しています。ただし、設計技法は畿内のものと一緒なので、畿内から専門の石工が下向してきて造ったことが確実で、畿内から石工が派遣されて長持形石棺を作ったのは地方では上毛野だけです。なお、長持形石棺は全国で40例ほど見つかっています。

 200mを越える前方後円墳は、他には奈良・大阪・京都・岡山にしかなく、しかも5世紀前半という時期に限れば、全国で5本の指に入る規模です。その当時、この古墳に葬られた人物は相当な力を持っていたことが分かりますが、被葬者は一体何者なのでしょうか。

 太田天神山古墳の巨大さから関東地方を統べていた「東国の王」の墓であると考える人もいますが、東国という広い範囲ではなく、毛野地域(群馬県と栃木県西部)を治めていた王の墓と考えることは可能です。ただし、旧来からの在地の人物ではなく、長持形石棺の使用一つを取って見ても、日本書紀に彦挟嶋や御諸別の東国下向伝承がありますし、ヤマトから下向してきた王族であると考えます。

 もちろん、具体的に彦挟嶋や御諸別という名を挙げると、もし彼らが実在の人物だったとしても時代が合わないため、彼らが被葬者というわけではなく、そのモデルとなった人物、あるいは彼らの子孫と考える方が適切かもしれません。

 また、「倭の五王」の「済」は、451年に宋の文帝から、もとの安東将軍倭国王(のちに安東大将軍倭国王)に加え「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され、その後、倭の 23人の人物が将軍号や郡太守号を与えられました。

 倭王済がどの天皇に該当するかは置いておいても、もしかすると太田天神山古墳の被葬者も中国宋王朝から将軍の位を拝領した人物かもしれません。

 

35?
天神山古墳 A 陪塚

 太田市に所在。AICTでは、2022年11月19日に探訪予定。

 太田天神山古墳の陪塚と考えられている円墳で、平成元年度の測量調査では、径約 29m、高
さ 3m 弱でしたが、発掘調査の結果見つかった周堀の内径は約 35m ありましたので、築造当時
は今見られるよりも少し大きかったようです。

 周堀は全周しておらず、太田天神山方向に約 13.5m の長さで陸橋(削り残し)が確認されて
います。

 周堀内から溶結凝灰岩(金山石)が出土していることから、葺石が葺かれていた可能性があり、
円筒埴輪や形象埴輪、土師器が見つかっています。円筒埴輪は黒斑を有し、透孔の形状には方形
のほか、円形や半円形のものが確認されています(川西編年Ⅲ期)。円筒埴輪は天神山古墳や目
塚 1 号墳出土の円筒埴輪と酷似しているものもあり、物によっては同一人物の制作の可能性も
あります。

 

21
目塚1号墳跡

 太田市に所在。AICTでは、2022年11月19日に探訪予定。

 現在セブンイレブンが建っている場所にあった古墳です。墳丘は存在していなかったものの埴
輪片が見つかることから店舗兼住宅を建設する際に発掘調査をしたところ、周堀の跡が見つかり、
それによると径 21m ほどの円墳だったようです。

 上述した通り、出土した埴輪の一部は天神山古墳やA陪塚から出土したものと酷似している
ことから、この3基の古墳は同じ時期に造られた可能性が高いです。

 

106
女体山古墳

 太田市に所在。AICTでは、2022年11月19日に探訪予定。

 

 太田天神山古墳と同じ頃に近接して築造された墳丘長 106m の帆立貝形古墳。帆立貝形とし
ては、宮崎県西都市の西都原古墳群にある男挟穂塚古墳(176m)、奈良県河合町の馬見古墳群
にある乙女山古墳(130m)についで、全国で3番目の大きさを誇ります。

 円丘部径は 84m で高さは 7m、方丘部分の幅は18m、長さは16m。周堀も確認されており、葺石および埴輪も確認されています。方丘部はかなり低いので実際に見てみても分かりづらいかもしれませんが、それが帆立貝形古墳の特徴です。

 太田天神山古墳と同じ方向を向いて築造されており、築造時期もほぼ同時期であることから両古墳の被葬者は密接な関係にあったことが想像されますが、それ以上のことは分かりません。

 墳丘の実測調査は行われていますが、発掘調査は行われておらず、主体部内部の様子は不明です。

 ところで、帆立貝形、あるいは帆立貝式というネーミングは群馬県が発祥です。

 昭和4年、群馬県箕郷町(現・高崎市)で上芝古墳が見つかり、それを調査した福島武雄は、その年に著した調査概報において、「帆立貝式」という用語を使用し、年度は不明ですが、戦前には柴田常恵が女体山古墳のことを、「帆立貝型」や「帆立貝式」と呼んでいます。報告者が平面形が帆立貝に似ていると思ったことからそう名付けられましたが、帆立貝に見えないと思う方も多いようです。考古学の世界では適切でないネーミングが跋扈していますが、あまり気にしないようにしましょう。

 帆立貝形古墳は、概ね5世紀に築造された古墳で、3世紀の纒向型前方後円墳や、6世紀の帆
立貝っぽい感じの古墳とは区別して考えます。

 仁徳天皇陵の陪冢に多く見られ、畿内では主役を張れない古墳ですが、地方ではその地域最大の古墳が帆立貝形ということがあり、副葬品には武器が多いことが特徴です。

 

125
お富士山古墳

 伊勢崎市に所在。AICTでは、2022年11月20日に探訪予定。

 
関東・東北で唯一の本物の長持形石棺

 

3.並び立つ王たちの時代

 太田天神山古墳で最大化した上毛野の古墳は、5世紀後半以降は、100m級が最大となり、それが6世紀末(あるいは7世紀初頭)まで続きます。100m 級というのは、太田天神山古墳よりは小さいですが、大型墳の部類に入り、全国的に見ても大型墳が古墳時代後期まで築造される稀有な地域となります。

 5世紀第Ⅱ四半期から末までの上毛野西部に君臨した王たちは、みな刳抜式舟形石棺を採用しており、20 例以上が認められます。5 世紀第Ⅱ四半期に築造された太田天神山古墳とお富士山古墳には、長持形石棺が納められていましたが、王のシンボル(外からは見えないですが)は、長持形石棺から舟形石棺に移行したわけです。

 太田天神山古墳が築造されたのと同じころの、5 世紀第Ⅱ四半期には、岩鼻二子山古墳と不動山古墳に舟形石棺の導入が見られ、岩鼻二子山の 1 号石棺は砂岩製、不動山の石棺は凝灰岩製です。

 5世紀第Ⅲ四半期にはそれが隆盛し、上毛野西部では、王たちの間では舟形石棺を使用するという共通の文化圏が確立し、墳丘の大きさと舟形石棺の大きさには決まりのようなものが存在したことが分かります。そしてその文化圏の頂点には、縄掛突起が長辺、短辺ともに 2 基備えられた舟形石棺を持つ井出二子山古墳が君臨し、それを最高レベルとして秩序が形成されたと考えられます。

 前方後円墳では保渡田古墳群の3基のほか、上並榎稲荷山古墳、小鶴巻古墳、平塚古墳、安永寺裏東塚古墳、帆立貝式あるいは円墳としては、若宮八幡北古墳、姥山古墳、鬼塚古墳、貉塚古墳の例が見られます。

 

120?
岩鼻二子山古墳跡
/綿貫古墳群


94
不動山古墳
/綿貫古墳群

108.5
井出二子山古墳

 高崎市所在。AICTでは、2021年11月28日に探訪。

96
保渡田八幡塚古墳

 高崎市所在。AICTでは、2021年11月28日に探訪。

 

105
保渡田薬師塚古墳

 高崎市所在。AICTでは、2021年11月28日に探訪。

 


三ツ寺Ⅰ遺跡

 高崎市所在。AICTでは、2021年11月28日に探訪。

20
下芝谷ツ古墳

 高崎市所在。AICTでは、2021年11月28日に探訪。

 

35.5
剣崎長瀞西古墳

 高崎市所在。AICTでは、2022年5月22日に探訪。

 

87.5
小鶴巻古墳

 高崎市所在。AICTでは、2021年11月27日に探訪。

 

105
平塚古墳

 高崎市所在。AICTでは、2022年5月22日に探訪。

 

4.継体王朝と上毛野

 オホド(継体天皇)の即位は古代史における大きな画期の一つです。オホドはよく言われているように、父方は近江、母方は越前の有力者の系統の人物だと考えられますが、大王に推戴されたということは、それによって彼を支持したヤマトや地方の多くの有力者に大きな利益をもたらすことが期待された人物だったはずです。そうでなければ推戴などされないでしょう。オホドとは自身の支持勢力に対してどのような利益をもたらすことのできる人物だったのでしょうか。

 私は各地の有力者がオホドに大きな魅力を感じた理由の一つとして、朝鮮半島各国(とくに百済)の有力者との人脈であったのではないかと考えます。とくに東国の有力者たちは、自力で半島へ渡って経済活動をすることは西国の有力者に比べて難しかったため、東国の有力者たちには自分たちが半島での利益を得るためにオホドに人脈に期待したに違いません。七輿山古墳の被葬者はその中でも最有力者と考えられます。なお、このオホドの朝鮮半島に対する積極的な姿勢が、即位後に筑紫君磐井と対立する原因になったと考えられます。

 日本書紀では、継体天皇を継いだ安閑天皇のときに屯倉(三宅・官家)設置記事が異様なほど多く現れます。いわゆる「武蔵国造の乱」も屯倉設置記事の一つです。

 屯倉というのは、すなわち王権の直轄地ですから、継体・安閑朝では、国造制を整備するとともに、屯倉の設置を積極的に推し進め、ヤマト王権のより強い地方支配を推進していったのです。

 後期初頭の古墳の被葬者たちの中には、このような継体・安閑の政策に協力した地方の有力者が多かったと考えられます。

 また、6世紀には王権の東北進出の企てが本格化します。それに協力した東国の有力者たちも大型前方後円墳の築造を許されたのでした。そして、こういった政策の裏には、欽明朝以降には蘇我氏の影が見え隠れしており、やがて蘇我氏自身が歴史の主役となっていきます。

 

150
七輿山古墳

 藤岡市に所在。AICTでは、2022年6月4日、9月4日、10月12日に探訪。

 

100以上?
漆山古墳
/佐野古墳群

 

80
簗瀬二子塚古墳

 安中市に所在。AICTでは、2021年11月28日に探訪。

 

66.5
八幡二子塚古墳
/八幡古墳群

 高崎市に所在。AICTでは、2022年5月22日に探訪。

 

104
前橋二子山古墳
/朝倉広瀬古墳群

 

50
不二山古墳
/朝倉広瀬古墳群

105
八幡観音塚古墳
/八幡古墳群

 高崎市に所在。AICTでは、2022年5月22日に探訪。

97
綿貫観音山古墳
/綿貫古墳群


前二子古墳
/大室古墳群

 前橋市に所在。AICTでは、2022年11月20日に探訪予定。

 


中二子古墳
/大室古墳群

 前橋市に所在。AICTでは、2022年11月20日に探訪予定。

 


後二子古墳
/大室古墳群

 前橋市に所在。AICTでは、2022年11月20日に探訪予定。

 

5. 律令国家への助走

 


遠見山古墳
/総社古墳群

AICTでは、2021年3月20日と11月26日に探訪


王山古墳
/総社古墳群

AICTでは、2021年3月20日と11月26日に探訪



王河原山古墳跡
/総社古墳群

AICTでは、2021年3月20日と11月26日に探訪


総社二子山古墳
/総社古墳群

AICTでは、2021年3月20日と11月26日に探訪


愛宕山古墳
/総社古墳群

AICTでは、2021年3月20日と11月26日に探訪


宝塔山古墳
/総社古墳群

AICTでは、2021年3月20日と11月26日に探訪


蛇穴山古墳
/総社古墳群

AICTでは、2021年3月20日と11月26日に探訪