最終更新日:2023年3月2日

 本ページでは、続日本紀の内容を箇条書きで示します。

 

目次

第1章 三十八年戦争の勃発

朝賀の儀と蝦夷

天皇の病気などの障りがない限り、毎年元旦には天皇が大極殿に出御し、朝賀の儀が執り行われる

⇒雨が降った場合は翌日に延期となる

朝賀の儀の際には、文武百官とともに蝦夷(えみし)が拝賀し、続紀には蝦夷の拝賀が明記されていない年も多いが、明記されていなくても蝦夷は参列していたはずで、今回述べる時代に関しては以下の記載がある

宝亀3年(772)正月1日、陸奥・出羽国の蝦夷が朝賀に参列した

宝亀4年(773)正月1日も同様

宝亀5年(774)は、元旦の拝賀の記述はないが、16日には出羽の蝦夷と俘囚(ふしゅう)が朝堂で饗応された

⇒単なる記載漏れか分からないが、陸奥の蝦夷と俘囚は饗応されていない

ところが、同月20日には突如として朝廷は蝦夷と俘囚が参内することを中止させた

 

蝦夷・俘囚とは

「蝦夷」というのは、720年に完成した「日本書紀」以降の史料に見られる表記で、古事記の最古の写本には「蝦夷」という表記は一つも出てこず、現存する5つの風土記にも「蝦夷」は現れない

つまり、日本書紀を編纂するときに考えられた表記方法で、国家の支配範囲より外側(北側)に居る住民のことを指した

続日本紀にも、「蝦夷」という表記が現れるが、養老年間(717~723)に日本書紀の講書が行われ、そのときは「蝦夷」を「エビス」と発音しており、奈良時代には「エミシ」という発音は古語となっていた

ただし、奈良時代にも人物名の「毛人」や「蝦夷」に限っては、「エミシ」と発音した

⇒古来、「エミシ」という発音には差別的な意味はなく、むしろ「勇ましい者」といったニュアンスが含まれている

「俘囚」というのは、簡単に言うと朝廷に服属した蝦夷

 

光仁の蝦夷征討決断

宝亀5年(774)正月20日の蝦夷と俘囚の参内中止以降、つぎに蝦夷に関係する記事は、7月23日の光仁の勅で、それによると、かねてより将軍たちが蝦夷征討を進言しており、光仁はそれを思いとどまっていたが、ついに討つことを決めたとある

この時点での将軍は以下の通り

正四位下・陸奥国按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守将軍 ・・・ 大伴駿河麻呂

⇒天平宝字元年(757)の橘奈良麻呂の乱で処罰された経験を持つ

⇒宝亀3年(772)9月29日、従四位下だった駿河麻呂は陸奥按察使に任じられたが、このとき駿河麻呂は老衰を理由に辞退しており、光仁は駿河麻呂を正四位下に昇叙し、無理に任じた

⇒宝亀4(773)年7月に鎮守府将軍兼陸奥守(「公卿補任」による)

従五位上・河内守・鎮守副将軍 ・・・ 紀広純(きのひろずみ)

⇒宝亀2年(771)閏3月に左少弁となるまでの十数年間は九州などの地方官を歴任

 

蝦夷による先制攻撃

既述した宝亀5年(774)7月23日の光仁天皇による勅から2日後の25日、陸奥国から「海道の蝦夷が桃生城(宮城県石巻市)を襲撃して、西郭を破った」との報告が入った

⇒光仁から戦争開始の許可を待っていた陸奥国軍に対し、機先を制して蝦夷が攻撃を仕掛けてきことになる

⇒桃生城は落城を免れたが、再建記事は表れない

⇒この襲撃事件を契機として、後の世に「三十八年戦争」と呼ばれる戦乱が続くことになる

少し前の宝亀3年(772)に戻るが、その頃、各地で不都合な事をした者が陸奥国に逃げ込んでそのまま陸奥国の戸籍に編入されてしまうということが起きていたらしく、その年の10月11日、下野国が朝廷に取り締まり強化を言上している

⇒状況からすると数年前から出羽方面ではなく、陸奥方面の蝦夷とトラブルがあったようで、既述した駿河麻呂も広純も陸奥方面の役人

 

桃生城を攻撃した蝦夷は誰か

4年前の宝亀元年(770)8月10日、朝廷に帰服していた宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)が賊地(本拠地)へ逃げ帰り、「同族を率いて必ず城柵を侵略しよう」と宣言しているため、桃生城を攻撃したのはウクハウと考える
実際にウクハウは帰郷後に戦争の準備に取り掛かったと考えるが、後述する通り、志波の蝦夷も同調していることから、ウクハウの帰郷と戦争準備は奥羽各地の蝦夷たちに影響をおよぼしたに違いない
ウクハウの狙いは、多賀城以北から朝廷勢力を一掃することだったのではないか
海道の蝦夷が戦闘準備をしていたことを陸奥国府は察知していて、その動きを潰すべく盛んに光仁に戦争開始の許可を求めていたと考える
このあとの宝亀6年(775)3月23日条には、宝亀5年の夏から秋にかけて蝦夷が騒動を起こしていたとあり、その結果、宝亀6年の陸奥の課役・田租を免除しているが、ウクハウが桃生城を攻撃する2~3か月前頃には、陸奥には不穏な空気が流れていたと想像できる

 

鎮守将軍駿河麻呂、遠山村へ侵攻

蝦夷による桃生城襲撃のあと戦火は拡大し、8月2日に光仁は坂東八国に救援部隊の出撃を命じた
8月24日には、鎮守将軍大伴駿河麻呂から朝廷に、「今は草が茂っており蝦夷に有利」だということで、出撃を見合わせたいと報告があり、それに対し光仁は、「以前は合戦をするといい、今度はしたくないと言ってきて計画に首尾一貫性を欠いている」と勅し、深く咎めた
駿河麻呂らは光仁から叱咤されたことにより奮い立たようで、10月4日の条によると、遠山村(宮城県登米市だろう)に侵攻し、蝦夷を降伏させたことにより光仁から慰労されている
⇒現在の登米市周辺は宮城県域のなかで当時まだ律令国家の版図に入っていなかった地域である
⇒元々の地名は「とおま」か「とよま」で、それに漢字をあてて続紀では「遠山」と表記されたが、のちに「登米」に表記が変わり、今では登米(とめ)市となっている
11月10日、陸奥国(多賀城)に大宰府と同様、漏尅(水時計)を設置

 

出羽国府の南遷と蝦夷征討の叙位

宝亀6年(775)5月27日、陸奥国に襖(おう=鎧の下に着る綿入れ)を作らせた
10月13日には出羽国から、「蝦夷との戦いは継続されており、3年の間、鎮兵996人を請求し、国府を遷したい」との言上があり、光仁は相模・武蔵・上野・下野から兵を送った
⇒宝亀5年の晩秋にウクハウの叛乱は収まったようだが、戦乱は奥羽全土に飛び火している
⇒このあとの宝亀11年(780)8月23日の光仁の言によると、出羽国司は「秋田城は保ち難く、河辺城は治めやすい」と言ったようなので、河辺城へ移ったと考えられるがその場所は分かっていない
11月15日、光仁は陸奥へ使者を発し、駿河麻呂を激賞し、駿河麻呂以下1790余人に位階を授けた(主なものは以下の通り)
正四位下・大伴駿河麻呂を正四位上・勲三等に
従五位上・紀広純を正五位下・勲五等に
百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)を勲六等に
⇒このとき36歳の俊哲は、このあと蝦夷征討で活躍する

 

陸奥・山道の攻防

宝亀7年(776)2月6日、陸奥国から、「来る4月上旬に兵士2万人を発動させて、山海二道の賊を討つべき」との言上があり、光仁は出羽国の兵4000人を動員させ、雄勝の道から陸奥の西辺の蝦夷を討った
⇒出羽国軍が雄勝の道から攻めたとすると、現在の奥州市(胆沢)か北上市周辺(和賀)の山道の蝦夷を討つためであるが、和賀の蝦夷は以前から朝廷に従順な傾向がみられるため、胆沢方面の蝦夷を叩く作戦行動だったと考えられる
ところが、出羽国志波村の蝦夷が反撃し、5月2日には、下総・下野・常陸などの国の騎兵を発動
⇒志波村は現在の岩手県盛岡市・紫波町近辺だと考えられ、その周辺はのちに陸奥国になるが、この時点では出羽国の管轄だったようだ
5月12日、近江介・従五位上・佐伯久良麻呂を陸奥鎮守府の権副将軍(ごんのふくしょうぐん)を兼任させた
⇒「権」が付く役職は仮の役職
7月21日、従五位下・上毛野馬長(うまおさ)を出羽守に任じた

 

俘囚の移配

9月13日、陸奥国の俘囚395人を大宰府管内(九州)の諸国に分配し、11月29日にも出羽国の俘囚358人を大宰府管内や讃岐に分配し、そのうち78人は貴族などに与えられ賤民(奴隷)とした
⇒続紀には俘囚が賤民にされた記事があるため、近世以降の被差別民の先祖を俘囚と考える人がいるが、直接的な関係はないと考える
俘囚の移配の例は非常に多く、列島各地に強制移住させられたが、移住先での生活(文化)に慣れるのが大変なため、俘囚には俘囚料という今でいう生活保護費のようなものが支給され、それが後々国の財政を圧迫するようになる

 

胆沢への侵攻

出羽国管轄の志波の鎮定もまだ為されていない時期の11月26日、陸奥国の軍3000人を発動して、胆沢(岩手県奥州市)の蝦夷を討伐させた
⇒2月6日に出羽国軍が胆沢の西側から蝦夷を衝いたが、陸奥国軍は多賀城を進発して山道を北上して胆沢に侵攻した
⇒ただし、宝亀7年11月26日を新暦に変換すると777年1月10日となり、果たして真冬に戦争ができるだろうかという疑問も残る
⇒胆沢といえば、8世紀末にはアテルイやモレなどが治めていたが、この頃の指導者は彼らの父親だろうか
翌宝亀8年(777)3月、この月は陸奥の蝦夷で投降する者が相次いだ
⇒朝廷側は一定の成果を収めたことになるが、アテルイやモレが大墓公(たものきみ)や磐具公(いわぐのきみ)といった姓を授かっていることからすると、この時点でいったん胆沢は平定されたのではないだろうか
⇒次回述べるが、このあと「呰麻呂(あざまろ)の乱」を契機として、胆沢の蝦夷は朝廷に離反したと考えられ、最終的に平定されるのはこのときから25年後

 

出羽国での一進一退の攻防

陸奥方面の争乱は一段落付いたようだが、出羽方面ではいまだ攻防が続いていたようで、5月25日、相模・武蔵・下総・下野・越後から甲200領を出羽国の砦や兵営に送らせた
12月14日、陸奥国鎮守将軍・紀広純(きのひろずみ)が、「出羽軍が志波村の蝦夷と戦い敗れて退却した」と言上したので、佐伯久良麻呂を鎮守権副将軍に任じて出羽国を鎮圧させた
12月26日、出羽の蝦夷が叛逆し、官軍に不利で武器の損失があった
⇒昨年の4月以来の志波での戦いは泥沼化しているようだ

 

論功行賞

宝亀9年(778)6月25日、蝦夷討伐に軍功のあった、以下の者ほか2267人に位を賜った
按察使・正五位下・紀広純に従四位下
鎮守副将軍・従五位上・佐伯久良麻呂に正五位下
外正六位上・吉弥候伊佐西古(きみこのいさせこ)に外従五位下
伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)に外従五位下
⇒伊佐西古と呰麻呂はもと蝦夷だが、朝廷側に付いて戦い賞された
勲六等・百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)に勲五等
⇒祖父の敬福は、陸奥守だった天平21年(749)に小田郡で出た黄金を聖武天皇に納め、橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱でも活躍した武勇の士であり、俊哲はこのあと、坂上田村麻呂とともに当時最強の将軍の一人として活躍する
⇒なお、この一連の蝦夷との戦いの当初に活躍した大伴駿河麻呂は、2年前の宝亀7年7月7日に亡くなっている
12月26日、陸奥・出羽国の蝦夷20人を、唐客(中国からの使節)が来たときの儀丈兵にするために召した

 

第2章 遣唐使の派遣

川部酒麻呂の叙位

宝亀6年(775)4月10日、川部酒麻呂に外従五位下を授けたがその理由は以下の通り
聖武天皇のときの天平勝宝4年(752)の遣唐使派遣の際、酒麻呂は第4船の舵取りに任じられたが、帰途、船尾から出火があり、延焼の恐怖に船員はみな右往左往するばかりだった
そのようななか、酒麻呂は火に囲まれた船尾で自らの手が焼けただれることに耐えて舵を握り、船首を風上に向けて延焼を防ぎ消火に成功、結果、第4船は無事に帰国することができた
このときの遣唐使はとくにドラマチックで、遣唐大使は藤原清河、副使は吉備真備と大伴古麻呂で、帰国時、第1船はベトナムに漂着して、清河や阿倍仲麻呂は長安に戻り、他の3船の乗員は何とか帰国、第2船には鑑真が乗っており来日を果たしたが、鑑真は唐の当局が来日を禁止したため、本来は第1船に乗る予定だったのを第2船の古麻呂が密かに自身の船に鑑真を乗せていたため来日できた

 

遣唐使の派遣

宝亀6年(775)6月19日、遣唐使を任命
遣唐大使 ・・・ 正四位下・佐伯今毛人
⇒このとき57歳で、土木建築のエキスパートとして吉備真備が築城した怡土城の維持やのちには長岡京の建設にも携わる
遣唐副使 ・・・ 正五位上・大伴益立
⇒のちに蝦夷征討で活躍するが冤罪を被った(次回述べる)
同 ・・・ 従五位下・藤原鷹取
⇒北家・魚名の子だが生年不詳
翌宝亀7年閏8月6日、すでに出発していた遣唐使船は順風に恵まれず肥前国松浦郡で待機していたが、渡海の時期を逸したとして、博多の大津に引き返し、天皇は来年の出発まで現地で待機するように勅した

 

渡海を拒む今毛人

ところが、11月15日には、遣唐大使の佐伯今毛人が大宰府から戻って節刀を返上してしまった
一方、副使の大伴益立や海上三狩らは大宰府にとどまって入唐の時期を待ったため、世間の人びとはこの態度をよしとした
しかし突如として、12月14日に益立は遣唐副使を解任され、左中弁・中衛中将・鋳銭(ちゅうせん)長官・従五位上・小野石根(おののいわね)と備中守・従五位下・大神末足(おおみわのすえたり)が副使に任じられた
⇒帰京した今毛人による讒言か
翌宝亀8年(777)4月17日、今毛人は改めて光仁のもとを辞して出発したが、羅城門まで来ると病と称して踏みとどまってしまった
今毛人は輿に乗せられ摂津職まで連れてこられたが病が癒えず、副使の小野石根が大使代行で出発
⇒結局、今毛人は渡海せず、渡海した石根は、無事に役割を果たしたが、日本への帰途、暴風による高波により乗船が沈没し溺死
⇒今毛人はこのあとも活躍するため、遣唐使をサボタージュしたとしか思えない

 

蔵下麻呂と真備の死

宝亀6年(775)7月1日、参議・大宰帥・従三位・勲二等の藤原蔵下麻呂が薨去(42歳)
⇒式家の若手の出世頭で、何度も述べた通り武勇に優れた貴族だったため、42歳で没するというのは不自然な気もする
8月19日、太政官は京官の俸禄増加をしたいと奏上したが、その理由は、去る7月27日に光仁が、京官と地方官では地方官の方が収入が多く不平等で、官吏が地方官を望むため是正を命じていたため、その言葉にありがたく随うとのことだった
⇒このあとの平安時代には国司の収入が巨額に上ることが知られているが、すでにこの頃からそういう状況になっていたことを示している
9月13日、鎮守副将軍・紀広純が陸奥介(陸奥国の次官)を兼任し、27日には駿河麻呂が参議に任じられた
10月2日、前右大臣・正二位・勲二等の吉備真備が薨去(83歳)
⇒薨伝はえらく長く、唐国で名をあげた者は、真備と阿倍仲麻呂だけであるとか、藤原仲麻呂の乱の際の軍略や部隊の指揮ぶりが優れており、短期間に乱を平らげたなど、非常に褒め称えられている

 

第3章 奈良時代の軍事制度

律令国家の軍隊

国土防衛の点からは、日本は大陸と海で隔てられているという地政学的好条件に恵まれ、近代になるまで外国が列島に攻めてくる可能性はほとんどなかった
ただし、朝政半島をさらに有力な国家が治めた時のみその危険性が現れた
⇒例えば、663年の白村江の戦で負けたあと、唐と新羅が同盟していた時点では日本は有史以来の危機に見舞われたし、鎌倉時代後期に高麗がモンゴル帝国に支配されたときには、実際に元軍(主戦力は高麗軍)に攻められた
したがって、古代においては極端に言うと日本に軍隊は必要なかったが、その日本古代国家が律令で軍隊に関する法律を定め、実際に軍隊を持ったのは、国土防衛のためでなく、積極的に外国を威嚇したり、場合によっては攻めるための用意にほかならない
奈良時代の場合、仮想敵は新羅であり、藤原仲麻呂は新羅討伐の計画を立て、そのプロジェクトは軍隊出撃の直前まで進行していた
⇒仲麻呂の乱で仲麻呂が滅亡したことにより軍隊を発動する前に頓挫

 

律令官制

律令官制には中央官制と地方官制がある
中央官制の主な役所には、ぞくに「二官八省一台五衛府(にかんはっしょういちだいごえふ)」と呼ばれるものがある
二官 ・・・ 太政官・神祇官
八省 ・・・ 中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省
⇒これらのうち軍事に関連する役所は兵部省
一台 ・・・ 弾正台
五衛府 ・・・ 衛門府・左衛士府・右衛士府・左兵衛府・右兵衛府
⇒これらが主として宮廷の軍事力
律令制はマイナーチェンジを繰り返し、その都度、後付けの令外官(りょうげのかん)がプラスされていった
⇒有名な征夷大将軍も令外官の一つ
地方官制では、列島各地に60余の国があり、国には1つ以上の軍団が置かれており、これが当時の「日本軍」の主戦力

 

兵部省と五衛府の役割

兵部省のもとには、毎年全国の国司からその国内の兵数や武器、牛馬や船舶などの帳簿が送られてきて、全国の軍事データを集中管理していた
⇒新羅が仮想敵国なので船舶の数の把握も重要
太政官によって戦争が決定されたときは、兵部省は手元のデータをもとに、必要な兵力を始めとして様々な計算を机上で行い、戦争計画を立てる
五衛府は天皇や宮殿を警固するための兵力であるため、外国と戦うための兵力ではないが、貴族層がそれを掌握しているため、藤原仲麻呂の乱のときのように内乱になった場合は、それぞれのボスの命令によって動くことになる
⇒内乱の際は、五衛府やそれに類する令外官をいかに掌握しているかが勝つための重要ポイントになる

 

軍団

奈良時代の日本の軍隊は軍団兵士制と呼ばれ、令によって規定されている
律令制で「兵士」と呼んだ場合は軍団の成員のことを示す
軍団兵士制は徴兵制で、1戸につき1名徴兵されたが、奈良時代の人口は600万人ほどで20万戸ほどあったと推計されているため、奈良時代の日本軍は理論上では20万人の兵力を持っていた
⇒令和元年の防衛白書によると、自衛隊の正規兵は陸海空合わせて22万6000名であるから、総人口から兵士の数を割り出すと、律令国家が(あくまでも数の上では)いかに強力な軍隊を持っていたのかが分かる
軍団は1国につき最低1個だが、陸奥は際立って多い
⇒なぜか出羽は1個だった模様
一個軍団の兵員数は多くても1000名ほどだが、蝦夷の地に隣接している陸奥や出羽ではもっと多く、陸奥の場合は称徳天皇の神護景雲2年(768)には、6個軍団で合計1万名の兵力を誇った
この大兵力をもとに新羅討伐計画が進んでいたことになり、蝦夷征討にも発動された

 

軍団の組織と鎮守将軍

軍団は軍毅(ぐんき)が率い、複数の場合は大毅(だいき)と小毅(しょうき)に別れ、その下には主帳(さかん)が置かれた
軍団兵士制は、弥生時代のムラの首長による戦闘組織が高度に制度化されたもので、軍団を率いる軍毅は弥生時代や古墳時代と同じく、地元の有力者(郡司層)であった
⇒軍毅は、世が世であれば大型前方後円墳に葬られるような人
軍毅は自らの影響地域内に住む人びとを率いるため、兵士たちとは古墳時代と同様な人格的結合(信頼関係)が重要であったと考えられる
国司は軍団兵員を率いて戦地に赴くが、戦地では軍団は将軍の指揮下に入り、陸奥に鎮守将軍(あるいは鎮守府将軍)がそれを担う
鎮守将軍は将軍府を開き専属のスタッフを抱え、平時も軍政を担い、当初は多賀城に在したが、9世紀初に胆沢城が築城されると胆沢城に遷る
中央から征夷のための将軍が任じられて下向してきた時は、鎮守将軍はその指揮下に入る
⇒鎮守府将軍は平安時代を通じて武官の名誉職として残り、平将門の親戚たちや、奥州平泉の藤原秀衡なども任じられている

 

軍団の訓練方法

兵士たちは軍団の練兵場で年間60日(10日×6回)の集団訓練を施されるが、個人的な武術はもとより精神論や陣法(集団戦術)を叩きこまれる
軍団の兵種は基本は歩兵だが騎兵もある
歩兵による戦法は集団戦で、部隊の全員が密集し、鼓吹(こすい)の音によって機械的に移動して敵部隊を面的圧力で押しつぶす戦法を取るが、これらは中央で作成したマニュアルに沿って調練される
⇒子供の頃の運動会の練習で同様な経験をしている方もいる?
⇒この戦い方は朝鮮半島で新羅の正規軍と戦うことを想定しており、蝦夷との戦いでは通用しなかったことが、このあとのアテルイとの戦いで明らかになる
騎兵は実戦では遊撃隊のような役割を担い、「人馬一体」でなければならず、騎兵と馬とは普段から固い絆で結ばれている必要があるため、騎兵には馬を養うことができるある程度富裕な人が任じられたといわれている
訓練の成果は年に1度国司の前で披露して、国司の審査を受ける

 

今回のまとめ&次回予告

今回はついに朝廷と蝦夷との長い戦いである「三十八年戦争」が勃発したが、その緒戦について述べた
奈良時代の日本は、軍団制というシステムによって軍事力を保持していた
仮想敵国としては新羅を想定していたが、実際には新羅との戦いは一度も行わらず、軍団は蝦夷征討に発動されることが多かった
また、光仁天皇の時代に行われた遣唐使派遣について述べた
次回では続日本紀最後の天皇である桓武天皇が即位するが、桓武天皇は3回に分けて述べる予定
今回は話さなかったが、次回はまた「怨霊」にまつわる話が登場する