最終更新日:2023年3月18日

 

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オオヤマト古墳群 (3月18日追記)

大和古墳群 (3月18日追記)

   

 

オオヤマト古墳群

 奈良県の天理市から桜井市にかけては、ヤマト王権発祥の地であり、列島最大規模の大型古墳密集地域であります。あまりにも古墳がたくさんあるため、研究者は便宜上それらを地域ごとに分けて名前を付けています。下図をご覧ください。

『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)より転載

 呼び方は研究者によって少しの違いがあるのですが、上図の分け方(呼び方)がポピュラーで私もこれを採用しています。一番北は大和古墳群で、「おおやまと」と読みます。あとで詳しく述べますが、墳丘長230mの西殿塚古墳が最大の古墳です。

 その南は柳本古墳群で、墳丘長300mの渋谷向山古墳(景行天皇陵)や墳丘長242mの行燈山古墳(崇神天皇陵)以下、多く大型古墳が存在します。ここまでは天理市。

 さらにその南は、墳丘長280mの箸墓古墳を擁する桜井市の纒向古墳群です。奈良盆地最古級の古墳はここにあり、おそらくヤマト王権発足時の本拠地はこの範囲内でしょう。

 またさらに南の同じく桜井市内にポツンと超大型古墳が2基あります。墳丘長207mの桜井(外山<とび>)茶臼山古墳と墳丘長250mのメスリ山古墳です。この2基の周辺にも小さな古墳があるのですが、この2基は古墳群としては呼ばず、「磐余(いわれ)の古墳」などと呼ばれています。

 そして、これらを総称する場合は「オオヤマト古墳群」というようにカタカナで表記します。

 このオオヤマト古墳群の範囲内には、初期ヤマト王権の大王墓と目されている古墳が6基あり、白石太一郎氏は、以下の順で築造されたと考えており、この築造順を採用する研究者は多いです。

 ① 箸墓古墳 280m 宮内庁は倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)の陵とし、卑弥呼の墓と考える研究者もいる
 ② 西殿塚古墳 230m 宮内庁は継体天皇皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)の陵としているが、時代が合わない
 ③ 桜井茶臼山古墳 207m
 ④ メスリ山古墳 250m
 ⑤ 行燈山古墳 242m 宮内庁は崇神天皇の陵としている
 ⑥ 渋谷向山古墳 300m 宮内庁は景行天皇の陵としている

 ただし、どの古墳も被葬者の確定までは至っていません。現状ではあくまでも推定の域です。

 これらの6基の発掘調査が行われると初期ヤマト王権についてかなりの部分が分かるのですが、①・②・⑤・⑥は宮内庁管理の古墳なので原則的に発掘調査はできません(部分的な発掘は行われています)。③と④に関しては本格的な発掘調査が行われていて、重要な資料が揃っています。

 

 

大和古墳群

 前期ヤマト王権を解明するには、大和古墳群を調べることも重要です。そのため、橿原考古学研究所や天理市によって大和古墳群の発掘調査が進められてきて、少しずつ内容が明らかになっています。まずは全体図を見てください。

『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)より加筆転載

 上の図は、『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)の図に支群名と古墳名および墳丘長を追記したものです。立地の上から、丘陵上の古墳を中山支群(薄く色を塗っている部分)、丘陵緩斜面から扇状地の古墳を萱生(かよう)支群と分けていますが、中山支群には古墳群最大の西殿塚古墳もあり、高所に位置することからこの地のリーダーの墓域であると推定され、萱生支群の方は大型の前方後方墳と前方後円墳が混在し、出自の異なるリーダーたちで、かつ中山支群よりも下位のリーダーたちの墓が混在していると見られます。

 ちなみに、研究者の中には前方後方墳は前方後円墳よりも下位の層の人びとの墓と考える者がいますが、日本全国の主要な前方後方墳を現地で見ている私の感想としては、そう単純に言い切れるものではなく、事情はもっと複雑であると考えます。

 確かに副葬品を見ると前方後円墳よりも前方後方墳の方が貧弱な傾向にあり、墳丘長でも敵わないため、王権内での序列の差はあると思いますが、前方後円墳の被葬者と前方後方墳の被葬者は、そもそも出自が違うと考えています。要するに弥生時代から続く文化の違いが墓の形状に現れており、王権が被葬者の生前の地位の高さによって前方後円墳か前方後方墳かを決めるということはないと考えます。

 大和古墳群の前方後方墳の数は、小さいものや湮滅したものを含めると図中に6基あります。前期ヤマト王権の謎を解くには、前方後方墳の解明が不可欠ですが、大和古墳群にはこのように興味深い資料が揃っているわけです。前方後方墳の問題についてはまた項を改めて述べます。

 なお、前期古墳ばかりはひしめく中に、大型古墳としては唯一の後期古墳が西山塚古墳です。宮内庁は、継体天皇の皇后である手白香皇女の陵を西殿塚古墳に治定しているのですが、研究者の間では真陵は西山塚古墳ではないかと言われています。

 それでは、これらの古墳の中で大きさから判断して重要と思われる古墳について、『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)に基づいて築造順を述べます(実年代は私の考えで研究者によって違いがあり、かつ私自身も今後の研究の発展により変える可能性があります)。

 ① 庄内式後半から末にかけて(250年前後)

 中山大塚古墳(後円・130m)やノムギ古墳(後方・63m)、ヒエ塚古墳(後円・130m)が築造されました。これらの古墳は、箸墓古墳と同時期かあるいは少し古い古墳と考えられます。中山大塚古墳とノムギ古墳に関しては発掘調査が行われ、いろいろなことが分かっており、ノムギ古墳は、纒向古墳群のメクリ1号墳と並んで奈良盆地最古級の前方後方墳です。

 ② 布留式初頭(270年頃~)

 西殿塚古墳(後円・230m)と馬口山古墳(後円・110m)が築造されます。箸墓古墳と同時期の古墳です。既述した通り、白石太一郎氏は、箸墓古墳につづいて西殿塚古墳が築造されたと考えていますが、天理市ではほぼ同時期という認識です。西殿塚古墳は大和古墳群最大の古墳ですが、宮内庁管理のため触れないのが痛いです。

 ③ 布留式の古相段階(290年頃~

 東殿塚古墳(後円・175m)、波多子塚古墳(後方・140m)が相次いで築造され、おおよそ同じ時期には、柳本古墳群の黒塚古墳が築造されています。

 ④ 布留式の中相段階(310年頃~

 燈篭山古墳(後円・110m)と下池山古墳(後方・125m)が築造されます。下池山古墳は、橿原考古学研究所によって発掘調査が行われています。

 支群ごとに築造順を記すと、中山支群の大型前方後円墳は、中山大塚古墳(130m)、西殿塚古墳(230m)、東殿塚古墳(175m)、燈篭山古墳(110m)となり、萱生支群の大型前方後方墳は、ノムギ古墳(63m)、ヒエ塚古墳(130m・これのみ前方後円墳)、波多子塚古墳(140m)、下池山古墳(125m)の順になります。大型前方後方墳のフサギ塚古墳(110m)についてはひとまず保留します。

 

130
中山大塚古墳

 墳丘長130mの前方後円墳です。『大和古墳群Ⅰ ノムギ古墳』(天理市教育委員会/編)では、箸墓古墳よりも古い時期の築造としていますが、白石太一郎氏は、箸墓と同時期と考えています。

 

 昭和60年から橿原考古学研究所による発掘調査が行われ、一般向けの書籍としては、『下池山古墳・中山大塚古墳 調査概報 付.箸墓古墳調査概報』(橿原考古学研究所/編・1997)が出版されています。以降、該書を典拠として説明します。

 墳丘の軸線はおおむね南北方向で、後円部を北に向けます。後円部は中世の頃に山城として使用され、また前方部端は大和神社の御旅所が設営されたため、ともに改変されています。

 後円部の北側には「張り出し部」があり、また前方部西側のくびれ近くに、のちの古墳に造られる造出のようなものがありますが、三角形をしていて、こちらも造出とは言わず「張り出し部」と呼ばれます。

 墳丘は葺石で覆われていました。基底部から60度という急角度で1.5mほど積み上げ、そこから上は30~40度で葺いています。古墳はそもそも完成後はむやみに登るものではありませんが、この角度では登れないですね。また、葺石には裏込めがあることが多いですが、特筆すべきこととして、中山大塚古墳の場合は、かなり奥の方まで念入りに裏込めがされていて、厚い場所では90㎝に達します。発掘調査をした人は、まるで積石塚のようだったと感想を述べています。

 中山大塚古墳の墳丘図と発掘時の写真は、橿原考古学研究所附属博物館にて展示してあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 埋葬主体は後円部中央で竪穴式石室が1基検出されています。墓壙は墳丘の長軸に沿って、南北約17m×東西約12m。石室自体の底の長さは7.5mで、高さは2mあり、側壁は板石を積み上げていますが、最初の50mは垂直に積み上げ、それ以上は持ち送りをして、天井部分ではかなり両壁は接近し、天井石は小型のものを10枚程度で覆っていました。発掘時に現位置にあった天井石は2枚だけです。石室内の写真も橿原考古学研究所附属博物館にて展示してあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 上の写真の右側が中山大塚古墳の石室の写真ですが、こいう壁の作り方を持ち送り式と言います(左側の桜井茶臼山古墳の場合はほぼ垂直に壁を作っています)。

 面白いのは、石室内をベンガラで塗っていないことです。私たちのイメージでは石室内は真っ赤っかであると想像しがちですが、中山大塚古墳ではそうではないのです(上の桜井茶臼山古墳の写真はモノクロのようですが、実際は石室内はベンガラで赤く塗られていました)。

 棺は見つかっていません。木棺が腐って無くなったものと思われます。

 石室は天井石の上にさらに大量の石材で被膜したうえで土が被されており、その被膜石材の上からは、宮山型特殊器台の破片が出土しました。石室を完全に構築したあと、土を被せる前に儀式を行った名残でしょうから、この土器片が古墳築造の年代決定のカギを握ります。さらに、墳頂からは都月型埴輪、壺形埴輪、円筒埴輪といった時代的に幅のある土器が見つかっていますが、これらは古墳完成後に備えられたもので、時間差で数次にわたる祭祀が行われた可能性があります。

 特殊器台や特殊壺は、吉備にルーツがある土器で、古墳に円筒埴輪が並べられる時代よりも前に並べられていたもので、弥生墳丘墓として有名な楯築墳丘墓に並べられていたもの以降、以下のような変遷をたどっています。

岡山県総社市埋文学習の館にて撮影(クリックで拡大します)

 宮山型の特殊器台は実際にはこのようなものです。

宮山墳墓群出土の宮山型特殊器台のレプリカ(総社市埋文学習の館にて撮影)

 ちなみに、興味深い事象として、宮山型特殊器台は、吉備では総社市の宮山遺跡でしか見つかっておらず、なぜか奈良の古墳で複数見つかっているのです。

 中山大塚古墳の現地の説明板も併せてお読みください。

現地説明板を撮影

 説明板に「前方後円墳の築かれ始めたころの古墳」と記されている通り、初源期の前方後円墳として位置づけられ、既述した通り、天理市では箸墓古墳よりも古いと考えており、纒向古墳群のホケノ山古墳と同じ頃と考えています。

 一般的に、前方後円墳の第1号を箸墓古墳として、箸墓古墳が築造されたときから古墳時代が始まると考える人が多く、そうなると、それより前の中山大塚古墳やホケノ山古墳は弥生墳丘墓と考える研究者がいてもおかしくありません。

 私も箸墓古墳を紹介する際に、「前方後円墳の第1号」と呼びますが、実際に見られる中山大塚古墳やホケノ山古墳は「古墳」と言っても間違いはない構築物ですので、古墳時代の始まりの定義や、古墳という物の定義についてはもう一度深く考えてみる必要があるでしょう。

 ただし、講座で一般の方に説明するときはそういった学界のルールとかに準じると面倒くさい話になるため、ホケノ山古墳などの纒向古墳群の墓たちも普通に「古墳」として紹介しています。細かい定義とかは、その道の世界の方々が議論していればよく、純粋に古墳を楽しむことが目的の人たちにはあまり関係がない話と考えます。

 

63
ノムギ古墳

 東西方向に主軸を持ち後方部を東側に向けています。現状の墳丘を見る限りでは段築は認められず、墳丘には埴輪の樹立も確認できません。ただし、後方部南側斜面と周堀内からは石材が見つかっていることから、葺石は施されていたようです。主体部は発見に至っていないため不明。

 奈良盆地では纒向古墳群のメクリ1号墳を並ぶ最古級の前方後方墳です。

 
 

 

 

125
下池山古墳

 下池山古墳は、墳丘長125m(説明板による)の前方後方墳で、前方部の長さと後方部の長さがほぼ一緒です。前方部、後方部ともに2段築成。現在は墳丘の周りに溜池がありますが、往時も周堀がめぐっていました。ただし、現在の溜池の形状とは違います。

 墳丘上には埴輪の樹立は認められず、少量の二重口縁壺が出土しています。

 中山大塚古墳と同じく、『下池山古墳・中山大塚古墳 調査概報 付.箸墓古墳調査概報』(橿原考古学研究所/編・1997)にてその内容を知ることができます。

 

 後方部に造られた竪穴式石室は、全長6.8mで、石室内にあったコウヤマキ製の割竹形木棺は4.7mに渡って遺存していました。元々は6mはあったと考えられており、橿原考古学研究所附属博物館に展示してあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 木棺は通常土中で溶けて無くなってしまうのでこれだけ残りが良いものは貴重です。

 面白いのはこの主体部とは別に、その北西側に小さな石室が造られており、その中には径37.6㎝というかなり大きな仿製内行花文鏡が収められていたことです。かなりの特別感のある収め方ですが、三角縁神獣鏡ではなく、内行花文鏡です。

 現地の説明板もご覧ください。

 

 下池山古墳は、大和古墳群で造られた前方後方墳の中で、もっとも最後に築造された古墳で、このわずか後には、日本最大の前方後方墳である西山古墳が築造され、ヤマトでの前方後方墳の築造が終焉を迎えます。

 

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