おおつるまきこふん 123m 4期 4世紀後半

 

浅間山古墳と同時期に築造された墳丘長123mの大型前方後円墳

墳丘も綺麗だが周堀が優れて綺麗

主体部は不明

車で行く場合は墳丘傍に車を停めるのは厳しい

 

 

現地説明板

2020年8月22日撮影

 

探訪レポート

 ※本項の写真はとくに断りがない限り、AICTで2021年11月27日に訪れた時に撮影

 漆山古墳からテクテクと歩いてくると、やがて残念な現状の庚申塚古墳がその異様な姿を現します。

 前期に築造された径46mの円墳ということですが、墳頂にはソーラーパーネルが設置されていて、全体にシートが被されています。墳丘は辛うじて残っているように見えますが、詳しいことをご存じの方がいらっしゃったらご教示ください。

 東側の浸食谷の崖からは、浅間山古墳の側面をよく見ることができます。

 小山のようになっているのが後円部で、かなりポッコリ感があり、後円部と前方部の比高差が大きいことが分かると思います。浅間山古墳は4世紀後半の古墳ですが、この比高差だけを見ると4世紀前半の古墳にも見えます。

 大型円墳・大山古墳は、藪が酷いため、外から眺めるだけで墳丘内には入れません。

2020年8月22日撮影

 大山古墳は前期の円墳で径は53mもあり、さきほどの庚申塚古墳とともにこの地には前期の大型円墳が2基もあったことになります。前方後円墳も大きいですし、列島各地でたまに見られる前期の大型前方後円墳と大型円墳との組み合わせ類型の一つであると思いますが、その組み合わせの意味についてはまだ考察を進めていないためはっきりしたことは話せません。

 大山古墳を観察して、浸食谷の方へ歩いて行くと、大鶴巻古墳がチラッと見えます。

 建物などが建っていない往時は遠くからもよく見えたのでしょうね。

 浸食谷を越えていくと、大鶴巻古墳の前方部側の素敵なポイントにたどり着きますよ。

 大鶴巻古墳は墳丘長123mの大型前方後円墳で、現況では畑が少しあってモノが置いてあったりしますが、ここから見ると後円部が3段、前方部が2段に見えます。

 でも説明板には、「三段築成の可能性があります」とあることからパッと見はそう見えても、現状では「可能性」ということなのでしょう。

 周堀の跡もよく分かります。

 周堀は一重で、馬蹄形です。

 では、墳丘に登ってみます。

 素敵な古墳ですね。

 墳丘には石が散乱していますよ。

 前方部墳頂から後円部を見ると、意外と高低差があります。

 前方部高が6.5mなのに対し、後円部高が10.5mですから、前方部の高さは後円部の高さに比して約3分の2という、この時期の古墳に良く見られる比率になっています。

 前方部墳頂から見下ろすくびれ部分。

 写真向かって左手(西側)の道路に説明板が立っています。

 後円部に登ります。比高差があるので少し大変。

 後円部墳頂にはさらに多くの石が散乱しています。

 これらは川原石ですから、往時は墳丘に葺石が施されていたのでしょう。

 後円部墳頂から前方部を見下ろします。

 今日は秋晴れのお陰で赤城が良く見える。

 後円部の周堀の形も良く残っています。

 赤城から少し左側にパンすると、木の枝がちょっと邪魔ですが、榛名も見えます。

 大鶴巻古墳が築造されたのは4世紀後半とされていますが、同じ時期にはすぐ近くに当時としては東日本最大の浅間山古墳(171.5m)が築造されます。大鶴巻古墳は浅間山古墳と兄弟のような感じですが、当然ながらそれぞれの被葬者が誰だったかは分かりません。

 埋葬主体は調査されていないため、大鶴巻古墳について詳しいことは分かりません。

 また、すぐ隣には大鶴巻古墳と周堀がぶつかっているような小鶴巻古墳(墳丘長87.5m)がありますが、小鶴巻古墳は中期後半の古墳で少し時代が下ります。2階建ての建物の向こう側の森が小鶴巻古墳です。

 では、墳丘から降ります。

 後円部麓から前方部を見ても、周堀の跡が綺麗に残っていて良いですね。

 『群馬の古墳物語 下巻』で右島和夫さんは、浅間山古墳や太田市の別所茶臼山古墳とともに、群馬県内で最初に整った周濠を備えた古墳としています。右島さんが該書で指摘している通り、4世紀後半には大王の墓域と目されている佐紀古墳群に広大な周堀を備えた古墳が現れます。

 佐紀古墳群は大きく西群と東群に分けられますが、図面を見てすぐに気づく通り、築造時期の古い西群の佐紀陵山古墳や佐紀石塚山古墳などは周堀が狭いです。それに対して築造時期が新しいウワナベ古墳やコナベ古墳などは、広く見事な周堀を備えています。この影響だというわけです。

奈良県奈良市・ウワナベ古墳(2022年3月10日撮影・同日と13日にAICTにて探訪)

 その畿内の影響を上毛野も受けたというわけです。これは全国的なムーヴメントとして考えられますが、上毛野の有力者は、古墳時代全時代に渡ってヤマトとは概ね良好な関係にあったと考えられ、ヤマトの影響をすぐに受ける地域でした。

 なお、若狭徹さんは浅間山古墳と大鶴巻古墳は、佐紀古墳群の墳丘デザインを踏襲しているとしています。これに関しては私は今のところはまだその通りと言い切れないため、自分なりにもっと調べてから結論付けようと考えています。

 後円部先端の周堀跡。

 次は隣にある小鶴巻古墳を見てみようと思います。

 

周辺のスポット

  小鶴巻古墳

 

参考資料

現地説明板
『群馬県史 資料編3 原始・古代3』(群馬県史編さん委員会/編・1981)P.234~ 「付図5」として墳丘図を掲載
『群馬の古墳物語 下巻』(右島和夫/著・2018) P.36~

 

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