最終更新日:2023年8月26日

  

目次

房総の古墳分布

古墳時代の始まり (2022年3月の現地講座で訪れました)

古墳時代は本当はいつからか

菊間古墳群|市原市 (2023年2月4日の現地講座で訪れました)

姉崎古墳群|市原市 (2022年3月の現地講座で訪れました)

祇園・長須賀古墳群|木更津市 (2023年2月5日の現地講座で訪れました)

内裏塚古墳群|富津市 (2023年2月5日の現地講座で訪れました)

龍角寺古墳群|栄町 (2023年8月27日の現地講座で訪れます)

律令時代の市原郡 (2023年2月4日の現地講座で訪れました)

 

 

房総の古墳分布

 房総の主な古墳の配置と河川および国造との対応は下図をご覧ください(それほど厳密ではないのでイメージとして捉えてください)。

『房総の古墳を歩く 改定版』の図を加筆転載

 2022年3月の現地講座では、上海上(かみつうなかみ)国造のエリアである姉崎古墳群を歩きました。そして、2023年2月の現地講座では、菊間古墳群(菊間<くくま>国造)、祇園・長須賀古墳群(馬来田<まくた>国造)、内裏塚古墳群(須恵<すえ>国造)を歩きました。

 なお、上総にて国造と古墳分布が一致するエリアを見ると、他に武社(むさ)国造があります。下総にも近い場所ですが、ここにある中台古墳群(ユダヤ人埴輪で有名)はまだ本稿では文章化していません。他の伊甚(いじみ)、長狭(ながさ)、阿波(あわ)は古墳との対応が今一な場所です。

 そして、印波(いんば)、下海上(しもつうなかみ)、千葉(ちば)は下総国の範囲内に入ります。

 ただし、これらの国造がすべて『先代旧事本紀』の「国造本紀」に現れるわけではなく、長狭国造は古事記に現れ、千葉国造は平安時代の史料に現れ、それらは6世紀後半の国造設置時には存在しなかったと考えています。

 

 

古墳時代の始まり

 房総だけでなく、関東地方での古墳の出現を語る上では必ず引き合いに出されるのが、市原市にある神門(ごうど)古墳群です。

千葉県市原市・神門5号墳

 AICTでは、2022年3月に2度同じ内容で開催した上総の古代史現地講座で訪れています。2日間合わせて11名様のご参加を頂きました。

 現地に行くと5号墳の墳丘は残っていますが、それに並ぶように築造された4号墳と3号墳は、現在では湮滅しています。それらの築造順は、古墳好きな方なら平面図を見てすぐに分かる通り、5号墳、4号墳、3号墳の順です。

神門5号墳の現地説明板を撮影

 では、それらの築造時期は具体的にいつでしょうか。『千葉県文化財センター 研究紀要 21』を元に述べてみます。

 同書P.105の神門5号墳の説明によると、神門4号墳出土の土器は、庄内式直前段階とします。庄内式というのは畿内で使用されている型式名で、大雑把に言って、庄内式は弥生時代末期(3世紀前半)の土器型式で、古墳時代の最初は布留式土器を使います。

 庄内式の直前段階は、弥生Ⅴ期で、それを使用しているという4号墳の築造は2世紀末となります。そして、それよりも古い神門5号墳の築造時期は2世紀後半ということになります。

 ところが同書のP.321では、「神門5号墳出土の装飾壺には、庄内式初期の技法と在地的な後期弥生土器の融合が認められ、神門4号墳の有飾の有段(二重)口縁壺にも、庄内式の櫛描波状文の系譜を無視できない」と述べられており、矛盾しています。

 千葉県では草刈編年というものが用いられ、P.105の説明では、神門5号墳は草刈Ⅰ期前半、P.111の説明では、神門4号墳は草刈Ⅰ期後半とあり、それとP.321の記述を勘案して実年代を決めれば、5号墳は3世紀初頭、4号墳は3世紀前半とするのが妥当と考えます。

 5号墳の現地説明板でも、「3世紀前半と考えられる」としており、これが一般的な考え方でしょう。

 ところで、その説明板の「3世紀前半と考えられる」というのは、意外と攻めた表現なのです。というのは、3世紀前半は一般的にはまだ古墳時代ではないからです。3世紀前半のものを古墳と呼ぶのは千葉県では常識でも、もしかしたら他県の人が聴いたら攻撃してくるかもしれません。

 

42.6
神門5号墳

 5号墳の主体部は、底板のない組合式の箱形木棺で、粘土でくるむなどはしていません。つまり槨はありません。副葬品は、管玉や勾玉などではなく、ガラス玉が中心で、古い様相を呈しています。鉄製の短剣が見られるのは弥生時代的様相で、多孔類銅鉄鏃という県内では珍しい祭祀的な矢じりも見つかっています。

 なお、同書では、多孔類銅鉄鏃と記してありますが、一般的には多孔銅鏃あるいは有孔銅鏃と呼ばれるもののことだと思われ、鏃なのに表面に穴が開いているというもので、東海地方を中心に2世紀から3世紀にかけて分布します。S字甕とともに東海勢力が拡散した形跡を調べるのに重要な遺物です。ただし、出土した土器類は、東海系、畿内系、北陸系と様々です。

愛知県瑞穂区・瑞穂遺跡出土の有孔銅鏃(名古屋市博物館にて撮影)

 

48.8
神門4号墳

 同書P.111では、4号墳は、墳丘長46mの突出部付円墳とします。遺物としては、縦割りに破砕されたガラス玉が400個も見つかっていますが、あの小さなガラス玉を縦に割ったというのはあまりイメージできません。定角式鉄鏃という県内で類例のないものも見つかっています。出土した土器類は、5号墳と同様、東海系、畿内系、北陸系と様々です。主体部は、木棺直葬です。

神門4号墳はこの辺にあったはず

 定角式鉄鏃は、4号墳の築造より少し後の古墳時代前期には、有稜系の定角式鉄鏃が地域首長の連携を示すものとして、全国の有力古墳に副葬され、とくに瀬戸内地域から畿内地域にかけて分布が集中しています(『国立歴史民俗博物館研究報告 第173集』所収「線刻鉄鏃の系譜」鈴木一有/著)。

 

47.5+
神門3号墳

 3号墳は、墳丘図を見てみると分かる通り、5号墳や4号墳と比べてかなり前方後円墳らしくなってきています。同書P.115では、草刈Ⅰ期併行としていますが、無飾の有段口縁壺は、庄内式後半に良く見られるもので、手焙形土器は、布留0式に類例があるため、庄内式の終わりから布留式の始まりころの築造、つまりは3世紀半ばくらいで、箸墓古墳と同じ頃の築造と言えます。主体部は組合せ式木棺の直葬で、西日本のこの時代の古墳と同様に朱が検出されています。5号墳、4号墳からは、畿内系、東海系の土器とともに北陸系の土器が見つかりましたが、3号墳からは北陸系の土器は見つからず、この地域から北陸勢力の影響は消えます。

神門3号墳はこの辺にあったはず

 

38.4
諏訪台9号墳

 2022年3月の現地講座では、他にも神門古墳群に匹敵する古墳に訪れています。諏訪台古墳群です。小湊鉄道の上総村上駅から少し歩いて行って到達した台地の上にある諏訪神社の周辺の古墳です。

 台地上にはかつては多くの古墳があったのですが、諏訪台古墳群と天神台遺跡の範囲内では、諏訪神社社殿周辺にて9号墳、10号墳、11号墳の3基の古墳が現状保存されており、墳丘長38.4mの前方後方墳の9号墳が草刈Ⅰ期の古墳です。

千葉県市原市・諏訪台9号墳

 他にも、千葉県内にはこの時代の古墳がまだまだあります。

 

 

古墳時代は本当はいつからか

 神門古墳群の3基の古墳は、本当に古墳なのでしょうか。それとも弥生墳丘墓なのでしょうか。現地の説明板には「神門5号墳」と記されています。「墳」ということは古墳を意味しており、弥生墳丘墓だったら5号「墓」というはずです。でも、5号墳が築かれた3世紀初頭や、4号墳が築かれた3世紀前半は、既述した通りまだ弥生時代ですので、そうなると弥生墳丘墓で良さそうです。

 箸墓古墳より前の弥生時代末期の古墳に対しては、いわゆる「纒向型前方後円墳」という呼び方があり、80年代終わりに寺沢薫さんが提唱しました。纒向型前方後円墳は、前期古墳と同様に前方部が低く、平面的な特徴としては、墳丘全長、後円部、前方部のそれぞれの長さを比率で表すと、3:2:1になるとされます。いわゆる「帆立貝式(形)古墳」と似た平面形ですが、この時代の古墳は帆立貝式とは呼ばず、帆立貝式は主として中期(5世紀)の古墳です。

纒向型前方後円墳として有名な奈良県桜井市・纒向石塚古墳(築造時期はいまだ確定されていません)

 ただ、この説が出されてからもう三十数年経っているため仕方がないことですが、私はそれはあまり意味のある定義だとは思っていません。列島各地の出現期の古墳を見ると、そんな単純なものではないということが分かるからです。ただし、平面形を見ると、4号墳は、纒向型前方後円墳論者も納得して出現期の古墳と言いそうです。しかし、5号墳になるとそれよりも古いことが分かります。前方部がかなり小規模ですね。こういう形状を千葉県の研究者は「突出部付円墳」と呼ぶこともあり、それで言ったら4号墳に至ってもまだ突出部付円墳と呼ばれます。

 では、いったいどこまでが弥生墳丘墓で、どこからか古墳か。

 これを考え出すと頭がおかしくなりそうで、自然に変な笑いが込み上げてきます。

 旧石器、縄文、弥生、古墳という時代区分で言った場合は、箸墓古墳の造営を以って古墳時代の始まりと考えて良いと思います。つまりは、3世紀前半は弥生時代で、3世紀後半は古墳時代です。多くの研究者は前方後円墳の築造が始まったときを古墳時代の始まりと考えており、箸墓古墳が前方後円墳の第一号とする考えの場合は、古墳時代は箸墓以降です。

 ただ、多くの人たちが思うのは、箸墓よりも前にも前方後円墳はあるじゃないか、という素朴な疑問です。既述したようにそれに対する答えの一つが、いわゆる「纒向型前方後円墳」なのですが、それも今では勢いを失っています。いわゆる「纒向型前方後円墳」では答えになっていないからです。

 私は自己矛盾を承知で、3世紀前半に築造された墓も古墳と呼ぶことがあります。一つの墳丘が、ある特定の人物のために営まれたことが想定できる場合は古墳と呼びます。結果的に追葬があってもです。

 北部九州の場合は、弥生時代中期以降、集団墓から特定集団墓、特定個人墓と変化していきますが、特定個人墓段階でも、墳丘が存在しなければ古墳とは呼びません。吉備の楯築墳丘墓や、出雲の西谷墳墓群はどうでしょうか。それらは、弥生時代の墳丘墓と一般的に言われますが、立派な墳丘を持ち、墳丘内に多数の埋葬があるものの、中心部分にはその墓の主が眠っています。そう考えると、古墳でもいいんじゃないでしょうか。

島根県出雲市・西谷2号墓

 しかし、研究者の中には、定型化された前方後円墳の第一号とされる箸墓古墳以降を古墳と呼ぶという昔ながらの定義に拘る方がいます。ところが、定型化というものも怪しいもので、箸墓古墳は一面から見れば定型化されていますが、別の一面から見ると、定型化と言ってよいのか疑問です。前方部がバチ形に開くという表現がよく見られますが、果たして本当にそれが一つのフォーマットなのでしょうか。

奈良県桜井市・箸墓古墳

 私の考えをまとめると、古墳時代といった場合は、3世紀後半以降ですが、古墳は2世紀にも造られているという考えになります。

 列島各地の墓を見ると、2世紀の吉備と出雲は突出しています。3世紀前半になっても、各地には墳丘をもった墓がポツポツと造られ始めますが、造られない地域の方が多いです。反対に、古墳時代である3世紀後半になっても墳丘をもった墓が造られない地域があるため、本当は地域ごとに古墳時代の始まりは異なると考えて良いのですが、そこまで細かく考えることはなく、一面から見ると定型化され、規模からしても画期的な古墳であることが間違いない箸墓古墳の登場をもって古墳時代の開始として良いと思います。

 今のところは、このように考えることによって、何とか発狂せずに済んでいます。

 房総では、墳丘長73mの前方後円墳である長南町の能満寺古墳が定型化された前方後円墳の第1号とされることがありますが、私は未探訪です。結構到達難易度が高い場所にあり、チャンスがあれば行きたい。

 能満寺古墳の築造時期は草刈Ⅱ期前半で、実年代は3世紀後半です。前方部はバチ形に開くと言われていますが、同じ時期の畿内の前方後円墳とはだいぶ様相が異なります。私は「前方後円墳体制」なるものは古墳時代前期前半には存在しなかったと考えていますが、もしそういうものがあったとしても、この古墳はその体制には与していないと考えられます。主体部は粘土槨で、径8~9㎝の重圏紋倭鏡が出土していますが詳細不明です。

 以降では、古墳時代中期以降の上総を代表する4つの古墳群について順番に述べます。

 中期以降について述べると言っても、前期の後半にはそのルーツが芽生えている古墳群もありますので、その場合はその古墳に言及します。

  

 

菊間古墳群|市原市

 市原市内にはたくさんの古墳がありますが、当初は各地域に大量に造られていたのが、草刈Ⅲ期と言われる4世紀後半の頃からは、比較的大型の古墳に関しては2つの地域に集約されるようになります。その一つが、村田川左岸の菊間古墳群で、後述する新皇塚古墳が比較的大型の古墳としては端緒となって古墳の築造が開始されました。この地域は、のちの菊間国造のエリアに重なります。もう一つが、姉崎古墳群です。姉崎古墳群は、養老川流域にあり、のちの上海上国造のエリアに重なります。

 菊間古墳群を確認すると、新皇塚古墳が前方後方墳である可能性が高く、他に前方後円墳の東関山古墳と姫宮古墳、前方後円墳と想定される北野天神山古墳、それに円墳が13基、方墳が33基、合計50基の古墳が確認されています(「市原市埋蔵文化財調査センターHP」より)。

 配置図は姫宮古墳の説明板に記載されています。

姫宮古墳の現地説明板を撮影

 ②の権現山古墳は、北野天神山古墳の別名です。

 

60
新皇塚古墳

 新皇と言えば平将門のことですね。つまりは、新皇塚古墳は、将門の墓との伝承が地元ではあったのです。もちろん時代が全く違うので、真実ではありません。墳丘にはかつて、将門の墓といわれる宝篋印塔が建っていて、今は上総国分寺にあります。

上総国分寺にある市指定文化財・将門塔

 ということは、将門は死後に新皇塚古墳を再利用して葬られたのか、と僅かな希望を見出すかもしれませんが、この宝篋印塔の型式は南北朝時代のものですので、残念ながら将門の墓ではありません。

 将門ファンの私としては、上総にも将門伝承があることに非常に興味を覚えるのですが、それはそれとして、新皇塚古墳の墳丘はほとんど残骸のような状態で残っているにすぎません。ただし、元々は60mほどの前方後方墳であったと想定されています。

 村田川から見上げた台地の上が古墳があった場所です。

市原市・新皇塚古墳

 新皇塚古墳の築造時期は、4世紀の後半で、この時期になると、古墳の様相はかなり畿内に似てきます。墳丘は前方部を南に向けており、後方部中心にある主体部は1つの粘土槨に2つの割竹形木棺を内蔵しており、東西方向で収められています。周溝は東側の一部分で見つかっています。

  


北野天神山古墳

 菊間古墳群の中期古墳としては、北野天神山古墳(権現山古墳)が知られていますが、現状は41mの円墳であるものの、元々は前方後円墳だったと想定されています。ただし、発掘調査がされていないため、元々の大きさを含め詳細は不明です。

市原市・北野天神山古墳

 

90
東関山古墳

 後期になると、東関山古墳が築造されます。

市原市・東関山古墳

 標柱には墳丘長61mの中期の前方後円墳とありますが、市原市埋文センターのHPでは、後期としています。さらに、墳丘の発掘調査は行われていませんが、周辺の調査によって90mほどの大型墳であることが分かっており、周溝を含めた全長は120m以上と推定されています。上述の姫宮古墳の説明板で描かれているサイズよりも実際は大きいわけですね。

 墳丘長が61mですと、それほど特筆される古墳ではありませんが、90mとなると話が変わり、大型前方後円墳の部類に入りますので、一気にスターダムにのし上がってきます。

 

51
姫宮古墳

 もう一つの前方後円墳は、姫宮古墳です。

市原市・姫宮古墳

 

44
菊間天神山古墳

 円墳の中で現在墳丘が見られるものとしては、後期の菊間天神山古墳があります。

市原市・菊間天神山古墳

 以前は前方後円墳ではないかと考えられたこともありましたが、現在は径44mの円墳で落ち着いているようです。ただし、円墳であっても44mというのは比較的大型の部類に入ります。

 これらの後期に造られた3基の古墳のいずれかに、菊間国造が葬られた可能性があります。

 

 

姉崎古墳群|市原市

 JR姉ヶ崎駅の東側から南側の丘陵にかけて展開する古墳群です。主な古墳には以下のものがあります。

姉崎二子塚古墳の説明板を撮影

 2022年の現地講座では、①、②、姉﨑神社、⑤、⑥、⑧を見てバスに乗って駅まで戻りました(土曜日組のみバスの時刻の関係で⑨を見ています)。

 この地図を見て気づく人もいるかもしれませんが、⑩の海保大塚古墳が六角墳として描かれているんですよね。六角墳であれば極めて珍しいです。でも、市原市によると、元々は円墳で、後世に六角形に改変されてしまい、江戸期には出羽信仰の聖地とされたそうです。この辺では出羽信仰はかなり流行しました。ただし、大きさが60mくらいあるようなので、元々も大型の円墳であった可能性もあり、六角墳でなくても要注目の古墳です。

 古墳の編年に関しては、市原歴史博物館の展示パネルが最新の情報でしょう。

市原歴史博物館にて撮影

 この編年を見ると今までの常識を覆すような興味深い事実が書かれています。それは終末期に前方後方墳が築造されていることです。六孫王原古墳は以前からそう指摘されており、私は前期の古墳を終末期に再利用したのではないかと思っていたのですが、他にも同様な古墳があったということは、この地域は終末期に前方後方墳を築造した独特な地域となります。これは看過できない事態ですぞ。

 

110
今富塚山古墳

 上述した能満寺古墳と同じ草刈Ⅱ期には、能満寺古墳に少し遅れて今富塚山古墳が築造されました。

市原市・今富塚山古墳

 墳丘長110mの前方後円墳で、地山削り出しで墳丘を造り、周溝は一部でしか検出されていません。ただし、墳丘の改変が著しいため、本来の正確な姿は不明です。主体部は、木炭槨あるいは、木炭床です。

 今富塚山古墳は、姉崎古墳群に含まれて説明されることが多いですが、上の地図にも現れていない通り、姉崎古墳群の古墳が集中するエリアからは東に3㎞くらい離れています。

 こちらは市原歴史博物館の展示パネルです。

市原歴史博物館にて撮影

 

 

130
姉崎天神山古墳

 AICTで2022年3月に訪れた姉崎天神山古墳は、草刈Ⅲ期です。墳丘長は130mで、千葉県で2番目に大きな古墳と紹介されることがありますが、木更津市の高柳銚子塚古墳が最低でも142mあるようなので、そうなると千葉県で3番目になります。

市原市・姉崎天神山古墳(草ぼうぼうの時)
市原市・姉崎天神山古墳(AICTで2022年3月25日に探訪した時)

 築造年代に関して興味深いこととして、上掲した編年図を見ると、破線で今富塚山古墳よりも古い可能性が示唆されていることです。

 

93
釈迦山古墳

 姉﨑神社のすぐ近くの森の中にひっそりと存在する墳丘長93mの大型前方後円墳で、姉崎天神山古墳の次に築造されたと考えられています。築造時期を推定するものとしては、短茎広身式鉄鏃が1点みつかっていますが、これだけだと弱いです。集成編年では「4期?」としており、前期末から中期初頭の築造であれば、姉崎天神山古墳と姉崎二子山古墳の間に位置できますが、両古墳の間が空いているから無理矢理そこに入れ込もうとする恣意的な考えが差し挟まるのは危険だと思います。

市原市・釈迦山古墳

 主体部は粘土槨です。

 現況は自然な山になっていて、古墳だと言われないと分からないかもしれません。説明板はありません。

 

106
姉崎二子塚古墳

 円筒埴輪はⅣ式で、集成編年は6期ですので、5世紀中葉の築造となる墳丘長106mの前方後円墳です。

市原市・姉崎二子塚古墳(もう少し後に来れば桜が見られた春version)

 後述する祇園・長須賀古墳群の高柳銚子塚古墳も円筒Ⅳ式で6期とされていますが、出土遺物を見ると、高柳銚子塚古墳の方が少し古いです。また、内裏塚古墳も同様に円筒Ⅳ式で6期とされており、姉崎二子塚古墳とほぼ同時期に築造された古墳です。

 姉崎二子塚古墳の墳丘は、多少雑草が多い時もありますが、比較的綺麗に整備されており登りやすいです。

市原市・姉崎二子塚古墳(青々とした墳丘が素敵な夏version)

 沖積地の周囲に高いものが無い場所に築造されているため、現代でも見晴らしが良いです。往時は海も良く見えたと思います。後円部と前方部にそれぞれ埋葬主体があります。「偶然発見された」とされる石枕は、國學院大學博物館にあるそうなのですが、私は見学に行ったにも関わらず記憶がないんですよね。見落としたのか、そのときたまたま無かったのか・・・。ぜひ見てみたい遺物です。というか、偶然発見されたというのは・・・

市原歴史博物館に展示してある石枕のレプリカ(どうしてもガラスの反射で余計なものが写ってしまう)

 また、現地説明板には出土品として、「金銅製衝角付兜」とありますが、衝角付ではなく、眉庇付ではないでしょうか。諸本にはそう記されていますが、最新の研究で衝角付だったことが分かったのでしょうか(古墳時代の場合、頭にかぶる兜の場合は、「冑」の文字を使うのがルールです)。。

 2022年にオープンした市原市博物館の展示パネルには、「衝角付小札鋲留冑」とあります。

 もし、金銅製眉庇付冑であるのなら、大山古墳(仁徳天皇陵)の前方部から出たものの復元品が堺市博物館に展示してあります。

大山古墳出土甲冑の復元(大阪府堺市博物館にて撮影)

 ようするに金メッキされた冑ですが、ただしどうやら最近の研究ではこういう冑ではなかったようですね。

 姉崎古墳群は、すでに無くなってしまった古墳もあるため、断定はできないのですが、姉崎古墳群では、この古墳の築造のあと、古墳時代後期まで100年くらい大型の古墳の築造がされず、ここで一旦この勢力は断絶してしまった可能性があります。日本書紀と対応させると、雄略天皇の時期には、この地域には大きな勢力がおらず、欽明朝でまた新たな勢力が芽生えたように見え、それは外来の勢力の可能性があります。

 これと似たような動きとしては、関東ナンバーワンの前方後円墳地帯ともいえる、内裏塚古墳群でも言えて、あちらでは5世紀末の弁天山古墳の築造のあと、半世紀ほど間が空いて、6世紀半ばに九条塚古墳が造られます(後述します)。

 

27
稲荷台1号墳

 稲荷台1号墳は、姉崎古墳群ではなく、稲荷台古墳群に属しますが、中小規模の古墳によって構成された稲荷台古墳群の上位権力者は姉崎古墳群だと考えられるため、ここで説明します。

 千葉県市原市の稲荷台古墳群にある径27mの円墳である1号墳からは、王賜銘鉄剣という有名な遺物が出ています。古墳の築造時期は、TK208型式期の須恵器が見つかっているため、5世紀中葉から後葉の早い段階と考えられています(市原市埋蔵文化財センターの見解)。国宝・金錯銘鉄剣で有名な埼玉古墳群の稲荷山古墳よりも1~2世代前です。

 主体部は墳丘中央部と北寄りの2か所が見つかっていますが、両方とも木棺直葬で、中央部の主体部から出た王賜銘鉄剣の長さは約73cmほどで、刃には銀象眼により下記の銘文が施されています。

 (表)王賜□□敬[安]
 (裏)此廷[刀]□□□

 □の部分は判読不能で、[]は推定です。

 この銘文からは、この剣は王が誰かに下賜したものということが分かりますが、下賜された人物はこの古墳の被葬者であると考えるのが一般的で、下賜した王が誰かということが問題となっています。畿内の大王と考えるか、あるいは朝鮮半島のどこかの国の王か。少数派の考えとして、この時代はまだ地方にも王が存在したと考え、この地域を治めた王のことであるという考えもありますが、個人的にはオーソドックスにヤマトの大王ではないかと考えています。

 築造時期は5世紀中葉から後葉の早い段階とする市原市埋蔵文化財センターの見解を信じるとなると、実年代は433年~475年くらいのイメージです。結構幅が広いですね。雄略天皇も十分射程に入るようになります。

 稲荷台1号墳の被葬者はどう考えても地域を代表するような権力者ではなく、中小豪族のリーダー的な存在です。そのため、地域首長が王からもらったものを、再配分されたと考えることもできますが、この被葬者が直接王から下賜されたと考えた場合は、また面白い歴史像が描けます。

 つまり、その時代にはヤマトの王が地方の中小豪族に対して、直接的な関係を結ぶことが可能になっていて、地方の大型前方後円墳に埋葬されるような首長を介せずに命令したりすることが可能になっていたと考えることができるのです。ヤマト王権の直轄領ができ始めていたと考えることもできます。

 王賜銘鉄剣は、国宝・金錯銘鉄剣とともに日本書紀だけでは解明できない古墳時代の制度史を解明する手掛かりとなります。

 そんな重要な稲荷台1号墳は、墳丘自体は削平されましたが、特別に公園が造られ、そこに3分の1サイズで復元された墳丘が置かれています。

市原市・稲荷台1号墳のリサイズ復元

 ここは2022年3月の現地講座の際には一番最後の探訪箇所で、このあとバス停まで少し歩き、バスに乗って駅へ向かいました。

 

45.4
六孫王原古墳

 7世紀中葉頃に築造された前方後方墳。

市原市・六孫王原古墳

 一般的には前方後方墳の築造は前期に終わるのですが、出雲では後期に大型の前方後方墳である山代二子塚古墳が築造されますし、伊勢でも坂本1号墳が築造されています。

三重県明和町・坂本1号墳

 現在は後期・終末期の前方後方墳について調査を進めているところです。

  

 

祇園・長須賀古墳群|木更津市

 2023年2月5日(日)の現地講座では、木更津市の祇園・長須賀古墳群を訪れました。こちらは小櫃川流域となり、のちの馬来田(まくた)国造のエリアに重なります。

 

142
高柳銚子塚古墳

 5世紀前半の築造とされる大型前方後円墳です。円筒埴輪は、Ⅳ式が出土し、集成編年は6期です。

 『日本考古学 第2号』所収「高柳銚子塚古墳をめぐる諸問題」(白井久美子/著)によれば、墳丘長は従来言われている110mでは収まらず、少なくとも142mになると言います。千葉県最大は、内裏塚古墳の144mですから、高柳銚子塚古墳は、千葉県最大級の古墳と言って良いでしょう。

 主体部に安置された石棺は、白石太一郎氏が「長持形石棺と共通する要素をもつ組み合わせ式石棺」と表現しており、長持形石棺と言い切ることはできないものの、かなり格の高いものであったことが分かります。私は関東・東北では、長持形石棺は群馬県太田市の太田天神山古墳と同県伊勢崎市のお富士山古墳の2つだけという認識を持っています。

 高柳銚子塚古墳からは石製模造品が出土しており、例えば下の写真の石製模造品は茨城県大洗町にある墳丘長103.5mの大型前方後円墳・日下ヶ塚古墳から出土したものです。

大磯町・日下ヶ塚古墳出土の石製模造品(ひたちなか市埋蔵文化財調査センターにて撮影)

 私は個人的にこの手のものが大好きですが、このようなものは関東地方では珍しいです。普通は前期の古墳から出るものなので、こういうものが出土しながらも、中期の古墳で見られる長持形石棺のような石棺が使われており、この古墳はいったいいつの古墳なんだろうと、ちょっと奇妙に思いました。

 ただし、この疑問に対しては、白井久美子氏は、前掲書で「高柳銚子塚の精巧な大型滑石製模造品は、特別の祭器として配布された最終段階のものと思われる」として、落としどころを得ています。

 

100
金鈴塚古墳

 金鈴塚古墳は未盗掘古墳で、日本で唯一の発見例である純金の鈴が出土した古墳として有名です。元々は地元で二子塚と呼ばれていたのですが、金の鈴が見つかったことから金鈴塚古墳と呼ばれるようになりました。木更津駅東口のロータリーにはモニュメントが設置されています。

金鈴モニュメント

 昭和8年の墳丘南側の道路工事の際に偶然石室の開口部が見つかり、昭和25年から発掘調査が始まりましたが、5つの金鈴はこのとき発見されたものです。

木更津市郷土博物館にて撮影

 金鈴塚古墳は、二重周溝を備え、それを含めた全長は140mに及びます。ただし、墳丘は後円部のごく一部しか残っていません。

 ほぼ南に開口している横穴式石室は、凝灰岩によって側壁が積まれており、全長は10.3m。無袖型の石室内には、緑泥片岩製の組合式箱形石棺が安置されています。石室の床面には、切石を敷いています。

木更津市・金鈴塚古墳

 発掘調査時には石室内に足の踏み場もないくらいに多種多彩な遺物が残っていたのですが、遺物の中でとくに有名なのは、古墳の名前のもとになっている金鈴で、他の出土品とともに重要文化財に指定されており、木更津市郷土博物館にて鑑賞できます。それ以外では、例えば飾り大刀は、環頭大刀、圭頭大刀、頭椎大刀、鶏冠頭大刀というように、いろいろな種類の豪華な飾り大刀が19振も副葬されていました。物凄いラインナップで国内最多の量です。

 金鈴ももちろん素晴らしいものですが、武器好きとしてはこの飾り大刀の豪華さは堪らない。木更津市郷土博物館に展示してあるのは出土品の一部です。

木更津市郷土博物館にて撮影

 なお、築造時期に関しては一般的に後期とされますが、白石太一郎氏は『東国の古墳と古代史』所収「上総・金鈴塚古墳が語るもの」の中で、飾り大刀や須恵器の編年を元に、7世紀の初めから7世紀の前半にかけて3人の人が葬られたとしています。

 

120?
稲荷森古墳

 「とうかもりこふん」よ読みます。元々は100m以上あったと推定される前方後円墳で前方部の一部が遺存しています。白石太一郎氏は『東国の古墳と古代史』所収「上総・金鈴塚古墳が語るもの」の中で、120mほどあったのではないかとしています。

木更津市・稲荷森古墳

 

44
松面古墳

 二重周溝を持ち、周溝を含めた長さは85mほどになり、この時代の方墳としては大型の部類に入ります。ただし、墳丘はもうありません。横穴式石室の側壁は、金鈴塚古墳と同様に、凝灰岩を切って積み上げています。

 松面古墳から出土したものとして特筆すべきものは、2014年に出土した修羅の破片です。修羅は重量物を運ぶ際に使用された「そり」の一種で、大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳(八島塚古墳と中山塚古墳の間の周溝)から見つかったものに続いて、全国で2例目となる貴重なものです。

大阪府立近つ飛鳥博物館に展示してある三ツ塚古墳出土の修羅

 木更津駅周辺には破壊されてしまった古墳がいくつもあるようなので、断定はできませんが、副葬品の内容からして金鈴塚古墳、あるいは規模からして松面古墳は、馬来田国造の墓の可能性があります。

 ところで、AICTでは2021年5月に成田の古墳を歩きましたが、そのときに船形麻賀多神社を参拝しました。印波国造の伊都許利命の墓と伝わる公津原39号墳も見ました。

千葉県成田市・公津原39号墳

 麻賀多神社は印旛沼周辺に信仰圏を持つ土着の神を祀っているのですが、台方にある麻賀多神社の境内社には、馬来田郎女神社があります。

馬来田郎女神社

 詳しいことは分かりませんが、印波国造と馬来田国造が婚姻関係を結んでいたことを表しているのではないかと想像しています。

 そもそも麻賀多神社の「まかた」と馬来田国造の「まくた」の音が似ているのが気になります。これを元にいろいろなストーリーが考えられますね。

 

 

内裏塚古墳群|富津市

 富津市の内裏塚古墳群は、小糸川流域で、のちの須恵国造のエリアに重なります。2011年現在、前方後円墳が11基、方墳が7基、円墳が30基の合計48基が確認されており、墳丘が残る古墳は25基です。前方後円墳に関しては、一部残存を含めすべて残っており、その中の5基が100mを越える大型のものです。

古墳の里ふれあい館の前にある説明板(拡大します)

 これらの古墳は中期から終末期にかけての築造で、このエリアには前期の古墳は造られていません。ただし、小糸川を少し遡った君津市域には、前期の古墳が見られ、例えば道祖神裏古墳は60mの前方後方墳です。

 

60
道祖神裏古墳

君津市・道祖神裏古墳

 道祖神裏古墳などを築造した勢力が、小糸川を下流に向けて進出してきたと見ることもできますが、そう単純な話ではないかもしれません。

 内裏塚古墳群の一つに、青堀駅の隣の上野(うわの)塚古墳という44.5mの前方後円墳がありますが、墳丘の下から古墳時代前期の住居跡が検出されており、S字甕などが出ています。つまり、内裏塚古墳が築造される前は、その場所に東海人の集落があったわけです。

 

144
内裏塚古墳

 千葉県最大のみならず、埼玉・東京・神奈川を含めた南関東で最大の墳丘長144mを誇る前方後円墳です。大きすぎて全体の写真が撮れないのが残念です。

夏に行くと草ぼうぼう

 海沿いの古墳は砂丘の上に造られていることが多いですが、内裏塚古墳の墳丘は3分の2の高さまでは自然の砂丘で、それにさらに土盛りして構築しています。後円部中心にて2基の竪穴式石室が見つかっており、石碑の台座に使われている石は、天井石であると考えられています。石室の石材には、いわゆる房州石が使われています。

この石碑の台座が石室の石だそうなのでよく観察してみましょう

 内裏塚古墳の埴輪は、木更津市の畑沢埴輪窯跡で焼かれたことが判明していますが、千葉県内では今のところ埴輪窯跡は2か所しか見つかっておらず、もう一か所は、成田市の公津原埴輪生産遺跡で、こちらは2021年5月の現地講座で訪れています。といっても、完全に市街地となっていますし、造成のために地形は大幅に改変されており、何も残っていませんでしたね。

 この時代まで円筒埴輪は野焼きで造られていました。焼き方だけを見たら縄文時代からあまり変わっていなかったかもしれません。ただ、大型古墳には数千本とか場合によっては万の桁に達する大量の円筒埴輪などの埴輪が必要になってくるため、それを短期間で効率的に焼くには登り窯の方が適しています(仁徳天皇陵に並べられた埴輪の数は15,000本から30,000本までの諸説があります)。

 内裏塚古墳級の大きさになると、畿内と同様に登り窯があった方が良いと判断されたのでしょうが、そうなると、在地の技術力では難しく、中央からの技術の移転があったはずで、内裏塚古墳は総合的に見てそれまでの古墳とは違う画期的な古墳でした。

 

87.5
弁天山古墳

 単純に構築順を見ると、内裏塚古墳の次に築造された前方後円墳ですが、少し場所が離れており、内裏塚古墳の南4㎞くらいの地点にポツンと1基だけ存在しています。その立地から、内裏塚古墳群の古墳とはしませんが、内裏塚古墳群と同一勢力の墓と考える研究者が多く、その場合は内裏塚古墳の次代の首長の墓とされます。

富津市・弁天山古墳

 現在見られる姿は、昭和の終わり頃の修築です。昭和2年の土取りの際に、竪穴式石室が露出しましたが、3枚ある天井石の1枚に縄掛突起があります。これは大変珍しく、東日本では唯一の例で、畿内では奈良市・佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵・207m)、御所市・室宮山古墳(238m)、葛城市・新庄屋敷山古墳(135m以上)といった錚々たる古墳で見つかる格式の高いものです。覆屋の外から見学できるようになっており、これは超必見ですよ。

縄掛突起がある珍しい天井石

 もう1枚の天井石は海岸から取ってきた自然石で造られており、3枚並んだ様子は普通ではお目にかかれない顔ぶれになります。

弁天山古墳の竪穴式石室の天井石

 これらは、古墳完成時には土の中に隠れてしまうのでどうでもいいのかもしれませんが、この権威を示しているような感じがしつつもチグハグな感じがするところが面白くて、この古墳を設計した人や、あるいはその設計を許可した被葬者はどんな人だったのかなと想像してしまいます。

 古墳は海岸からかなり近い場所に造られており、現代でもなお墳丘からは海が間近に見えます。

海が見える

 東京湾観音の背中も見えますよ。

東京湾観音

  

103
九条塚古墳

 6世紀中頃に築造された墳丘長103mの前方後円墳です。内裏塚古墳群では、内裏塚古墳の築造から100年ほどの間を開けて築造されました。墳丘の特徴としては、段築が確認されておらず、高さに関しては、後円部が7m、前方部が7.9mで後期古墳らしく前方部の方が高くなっています。

 ただし、内裏塚古墳の後円部の高さは13mですので、墳丘規模の差を考えても、5世紀のように高さを強調しなくなっている様子が伺えます。そのかわり、周溝は二重になっており、周溝を含めた全長は150mありますので、広い兆域が特徴と言えます。

内裏塚古墳と同じような絵面です

 明治43年に横穴式石室が発掘され、平成21年に再び発掘しましたが、石室はほとんど原形をとどめていない状況でした。

 

106
稲荷山古墳

 6世紀後半に築造された前方後円墳で、墳丘長は106mあり、二重周溝を備えており、周溝を含めた全長は202mとなり、墳丘規模が同じくらいの九条塚古墳と比べてもかなり奮発した様子が伺えます。周溝を含めた大きさは6世紀の古墳としては東日本最大です。ただし、現在は内堀は明瞭ですが、外堀は埋まっています。

内裏塚古墳群の中では一番見た目が良いかも

 墳丘内にはかつて民家があって(この古墳の元々の地主でしょうか)、その形跡がまだ残っています。円筒埴輪は赤く塗ったものと白く塗ったものが見つかっており興味深いです。

 

122
三条塚古墳

 三条塚古墳も二重周溝を持ちますが、周溝を含めた全長は193mで、稲荷山古墳に一歩及びません。ただし、墳丘自体の規模は122mもあり、後期末の古墳としては驚異的な大きさです。事実、6世紀後半に限れば、330mの五条野丸山古墳、140mの平田梅山古墳に続いて全国で3位です。しかも、五条野丸山古墳は陵墓参考地、平田梅山古墳は宮内庁が欽明天皇陵に治定している古墳ですから、三条塚古墳をもっと評価すべきかと思います。

内裏塚古墳群は史的にも凄い古墳が集まっていますが、現況は荒れるがままで残念です

 三条塚古墳より前の稲荷山古墳では埴輪が出土していますが、三条塚古墳では一つも見つかっておらず、墳丘に埴輪を並べなくなった時代の古墳です。築造時期は6世紀末とされることが多いですが、白石太一郎氏は、6世紀末から7世紀初めの築造と考えており、木更津の金鈴塚古墳とともに上総で最後の前方後円墳と考えています(『東国の古墳と古代史』所収「上総・金鈴塚古墳が語るもの」)。

 後円部の中腹に房州石が見られますが、横穴式石室の天井石の一つです。平成元年にこの手前側を発掘したところ、石室の側壁が残っていることが確認され、副葬品のほかに3体分の人骨も見つかりました。石室内部の発掘調査はまだ行われていません。

房州石

 しかし、5世紀半ばの内裏塚古墳から始まって、断絶時期はあったものの、6世紀末まで大型前方後円墳を造り続けた被葬者たちの権力は凄まじいです。同様な古墳群を関東で探すと、埼玉古墳群が思い浮かびますが、単に墳丘規模だけを見るとこちらの方が上ですし、古墳王国の上野にもここに敵う古墳群はありません。しかも、房総は内裏塚古墳群だけにとどまらず、その北にある祇園・長須賀古墳群もかなりの勢力です。上総は侮れません。

 

 

龍角寺古墳群|栄町

 龍角寺(りゅうかくじ)古墳群は、栄町龍角寺から成田市大竹にかけての下総台地上に造営された、古墳時代後期から終末期にかけての古墳群で、『シリーズ「遺跡を学ぶ」109 最後の前方後円墳 龍角寺浅間山古墳』(白井久美子/著)によると、114 基の古墳が確認されているということですが、もう数基多いようです。いずれにしても、関東では最大クラスの古墳群で、2009 年には、「龍角寺古墳群・岩屋古墳」として岩屋古墳と他の92基の古墳が国史跡に指定されました。

 龍角寺古墳群は、上述書によると発掘調査によって全容が明らかになった古墳は、101号墳(後述)と112号墳(道路工事のため湮滅)の2基しかなく、場所によっては中世や近世の塚も混ざっているため、まだまだ分からない点が多い古墳群です。ただし、後述するように浅間山古墳は主体部を調査していますので、この古墳群の特徴の一端を窺い知ることができます。

 

群集墳とは何か

 龍角寺古墳群は、後期・終末期群集墳と呼ばれる古墳群です。古墳が群をなしていると古墳群と呼ばれますが、似たような言葉の群集墳というのは一体何なのでしょうか。

 例えば百舌鳥古市古墳群とか埼玉古墳群は群集墳とは呼びません。群集墳の一般的な定義としては、私は以下のように考えています。

 一つ目として、数メートルから大きくても30メートルに満たないような小規模な古墳が密集して築かれていることです。それらと同じ領域内には、隔絶した大きさの古墳がある場合とない場合がありますが、ある場合は、小規模な古墳たちと同時期の築造であることが条件です。

 二つ目として、それらの古墳が造られた期間が、数十年間から百数十年に収まることです。

 三つ目として、築造時期は早くても5世紀で、主として後期から終末期に築造されたものです。

 横穴墓も群集墳の仲間であり、文化庁が把握している全国約16万基の古墳のほとんどは群集墳です。大きな前方後円墳などよりはよっぽどポピュラーな存在なのです。

 群集墳が全国的に盛行する後期・終末期は、古墳というものの意味がそれまでと違ってきたことが分かります。王様の墓が一つの地域に100基とか200基とかあったら気持ち悪いでしょう。

 さて、龍角寺古墳群は関東地方を代表する群集墳ですが、その特徴として、他者から隔絶した古墳が領域内にあることです。群内には、一辺が78mもの方墳である岩屋古墳があります。岩屋古墳は、方墳としては、奈良の桝山古墳についで全国で2番目の規模で、後期・終末期に限って言うと全国最大級の方墳です。また、もう一基、墳丘長78mの前方後円墳である浅間山古墳も築造されています。

 さらに、西日本の群集墳と異なる大きな特徴は、前方後円墳が多数含まれていることです。一般的には、前方後円墳はその地域を代表するような有力者がヤマト王権の許可を得て築造するものと理解されていますが、龍角寺古墳群に存在する多数の小型前方後円墳を見ると、そういった従来の考え方が通用しないのではないかと考えられるのです。ただし、それが何だったのかは分かりません。

墳丘長22mの前方後円墳である龍角寺84号墳

 調査例が少ないため断定はできませんが、この地には古墳時代前期と中期の古墳は造営されておらず、現状最も古い古墳は101号墳で、その時期は6世紀第2四半期とされています。101号墳は復元埴輪が並べられて綺麗に整備されています。

 現在の印旛沼周辺に古墳が造られ始めた6世紀の頃は、成田市の公津原古墳群の方が優勢であり、龍角寺古墳群では小さな前方後円墳や円墳が築造されていました。ところが、終末期になると以下に詳述する本古墳群の2大スターである浅間山古墳と岩屋古墳が相次いで築造されます。

 つまり、龍角寺古墳群と公津原古墳群の二大勢力が並び立ち、龍角寺古墳群の方が優勢になるわけですが、この地域で確認できる国造は印波国造のみです。後述する公津原39号墳は、初代印波国造の墓であると伝承されていますが、国造時代には龍角寺古墳群と公津原古墳群は王権によって統合されて、龍角寺古墳群側にも国造の墓(浅間山古墳や岩屋古墳)が築造されたと考えられます。

 その後、国造が解体されて律令時代に入ると、この地は印旛郡と埴生郡(はぶ/はにゅう)に別れます。印波国造の勢力が大きかったため律令国家は内部の分断を狙って二つの郡に分けたのかもしれませんし、後述する神社の信仰圏から推測するに、もともと龍角寺古墳群が築造された地域と公津原古墳群が築造された印波国造・伊都許利命(いつこりのみこと)の墓がある地域は別の信仰圏であり、それに則って郡を分けたのかもしれません。

 なお、白井久美子氏は、龍角寺古墳群の近隣に展開する上福田古墳群と大竹古墳群を合わせて、合計 152基の古墳を一体の古墳群として認識しています。

 


龍角寺101号墳

 6世紀第2四半期に築造されました。当初は二重の周堀を持つ径25mの円墳でしたが、のちに周堀の一部を埋め立て、そこに埋葬施設を作ってしまったために造出付きの円墳のような何というか変な形の古墳になってしまった面白い履歴を持つ古墳です。

こちらから見るとまるで舞台を観覧しているように見える龍角寺101号墳

 既述した通り、現状では龍角寺古墳群のなかで最も古い古墳とされます。埴輪が多く見つかっており、現在は埴輪列を含めて復元整備されています。龍角寺古墳群の中では、埴輪とともにヴィジュアルを楽しめる唯一の古墳です。

 

78
浅間山古墳

 浅間山(せんげんやま)古墳は、龍角寺古墳群で前方後円墳としては最後に築造された墳丘長78mの前方後円墳です。前方部・後円部共に2段築成で埴輪と葺石は確認されていません。周堀は、墳丘と相似形です。

 龍角寺古墳群では最後にしてようやくこの規模の前方後円墳を造るに至りましたが、その時期は7世紀に入っており、世の中的にはすでに前方後円墳の築造は時代遅れであり、もしかすると全国で最後に築造された大型前方後円墳かもしれません。

龍角寺111号墳
龍角寺111号墳・説明板

 横穴式石室は、筑波石の板石で構築された前室・後室からなる複室構造で、それに羨道部分が付き、全体の形状は長方形です。実物大模型が房総風土記の丘資料館に展示してあります。石室というよりこの時代に通有の石槨のようなイメージのものです。

房総風土記の丘資料館にて撮影

 玄門はやや左側に寄っています。

 このような石室が後円部墳丘の南側に開口して構築されたのですが、天井石の高さは旧地表面より下になります。天井石の外側は白色粘土で覆われていました。

 石室の材料となった筑波石は60㎞もの距離を運ばれてきたということですが、白井久美子氏によると、石室の特徴は筑波石の産地に近い茨城県かすみがうら市の宍風返稲荷山古墳など、常陸の古墳に似ているのがあるということです。

茨城県かすみがうら市・宍風返稲荷山古墳(築造時期・規模とも浅間山古墳と同じ)

 浅間山古墳の石室の特徴の一つしては、壁面内部を白く塗っていることで、古墳時代というと赤い石室が思い浮かびますが、終末期に至って白い石室が現れるのです。これは群馬県の総社古墳群でもそうです。赤から白への変化はかなりドラスティックですから一体何が起きたのか興味深いです。

 注目すべきことの一つとしては、前室に漆塗の木棺が安置してあった形跡があったことです。漆塗木棺は終末期の古墳で見られる棺で、非常にグレードが高いものです。関東地方ではここと埼玉県行田市の八幡山古墳(関東の石舞台)からしか検出されていません。

埼玉県行田市・八幡山古墳の石室内部

 地元の勢力が独自に漆塗木棺を製造したとは考えにくく、これは浅間山古墳の被葬者が王権と非常に密接な関係にあったことの表れと考えられますが、石室は巨石によって造っておらず、構造自体は畿内の影響が薄いことがこれまた面白いです。ただし、房総は例えば上毛野と違ってそもそも巨石の入手が困難な場所であるので、そういう在地の事情を加味して考察する必要があるでしょう。

 後室には箱式石棺が安置されていました。

房総風土記の丘資料館にて撮影

 白井久美子氏は、3名の埋葬を想定しています。墳丘と石室の築造は6世紀末から7世紀初頭で、初葬は7世紀第1四半期、2人目を追葬した時期は、7世紀第2四半期を中心に行われ、その時期に3人目の追葬が行われた可能性があるとします。また、3人目は7世紀中葉の可能性もあり、その時期には前庭部での墓前供養が行われたと考えています。

 

78
岩屋古墳

 龍角寺105号墳。浅間山古墳に続いて7世紀中頃に築造された一辺78m、高さ13.2m、3段築成の方墳で、つい最近までは、方墳としては奈良県橿原市の桝山古墳(96×90m)についで全国で2位で、後期および終末期の方墳としては、国内最大でした。

 しかし、2014年に古墳である可能性が指摘された奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳が、2019年の発表によると、北辺の長さが70m、南辺の長さが80m以上の方墳であることが分かりましたので、単純に一辺の長さを見ただけでは抜かれてしまいました。そのため、現在は後・終末期方墳としては国内最大「級」という表現にしておきます。

岩屋古墳
岩屋古墳・説明板

 なお、二重の周堀までを含めた兆域は、東西108m、南北96mとなります。

 岩屋古墳は1段目頂部テラスに南側に開口する横穴式石室が2つ設けられており、2つとも「ハの字」に開く前庭部を持っています。石室同士は9m離れており、両室ともに短い羨道の付く単室構造となっています。

 石材は貝化石を多く含む砂岩で、よく見ると10万年前に堆積した貝の化石が含まれています。石室規模は、東石室が全長6.5m、西石室が4.8mです。

 


龍角寺

 龍角寺古墳群を考える上で、切り離せないのが関東最古級の寺院である龍角寺です。

龍角寺

 龍角寺は、天竺山寂光院と号する天台宗の寺院です。寺伝では和銅2年(709)に天から龍女が降りてきて一夜にして伽藍を建て並べ、龍閣寺と呼ばれたとありますが、調査の結果から、さらに古い7世紀後半に創建された寺院だということがわかりました。本尊の薬師如来像は白鳳仏で、国の重要文化財に指定されています。関東の白鳳仏としては、東京都調布市の深大寺の釈迦如来像と両巨頭で、深大寺の釈迦如来像は数年前に国宝に指定されたため、龍角寺の地元の人は「それならうちも!」と息巻いています。

 伽藍配置は、法起寺式伽藍配置で、中門をくぐると、左手に金堂、右手に三重塔が建ち、その奥に講堂が建っていました。

龍角寺・説明板

 創建時の軒丸瓦は、周縁に三重園文のある単弁八葉蓮華文で、奈良県桜井市の山田寺と同系統の瓦です。風土記の丘資料館には、山田寺の仏頭のレプリカが展示してあります。

房総風土記の丘資料館にて撮影
奈良県桜井市・山田寺跡

 龍角寺には聖武天皇の御代、日照りに苦しんでいる人びとのために、大龍の許可を得ずに雨を降らせた結果その怒りをかって死んだ小龍の伝説が残っており、小龍の頭のミイラといわれるものが祀られています(本尊・ミイラともに通常は拝観できません)。

 なお、龍角寺古墳群から龍角寺へは「白鳳道(はくほうどう)」と呼ばれている古道の形跡が残っています。

白鳳道

 この道のルーツは龍角寺が造られた7世紀後半にまで遡るといわれています。

 

印旛沼周辺の古代信仰圏

 印旛沼は中世まで「香取海」と呼ばれた広大な内海の一部でしたが、その周囲には面白いことに4つの神社の信仰圏がお互い混ざらずに明確なテリトリーを形成しています。

 印旛沼の概ね東側には、埴生(はぶ)神社が3社。東から南側には麻賀多(まかた)神社が18社。北西側沿岸には宗像(むなかた)神社が13社。その北側には鳥見(とみ)神社が18社確認されます。

 麻賀多神社は、成田市台方に本社があり、同市船形には奥宮があります。

台方の麻賀多神社

 本ページ内の木更津市の松面古墳の項でも述べましたが、台方の麻賀多神社の境内には、馬来田郎女神社があります。

馬来田郎女神社

 もしかすると、印波国造と馬来田国造が婚姻関係を結んでいたことを表しているのではないかと想像しており、麻賀多神社の「まかた」と馬来田国造の「まくた」の音が似ているのが気になります。

船形の麻賀多神社

 奥宮には印波国造・伊都許利命(いつこりのみこと)の墓と言われている公津原39号墳があり、麻賀多神社の信仰圏は、印波国造の領域であったことが想定でき、この神社の創建は6世紀後半まで遡る可能性があります。

公津原39号墳

 私は、現在の人びとがイメージする「ハコモノ」を伴った神社の創建は、よく言われている通り仏教伝来のあとで、国造の時代に大フィーバーしたと考えているのですが、そう考えると国内最古級の神社であると言えます。

 つづいて、埴生神社の祭神は埴山姫命です。古墳好きならすぐに埴輪を連想すると思いますが、御神体は土師器なのです。土師氏との関連が想起させられますが、今のところこれ以上は分かりません。

 龍角寺古墳群は、この埴生神社の信仰圏になりますが、興味深いこととして、千葉県内で2か所しか見つかっていない埴輪窯跡の一つが、印波国造の領域にあります(公津原埴輪生産遺跡)。

公津原埴輪生産遺跡はだいたいこの辺

 成田ニュータウンの中にあった公津原埴輪生産遺跡は完全に隠滅しており、現地には説明板一つもありませんが、この地は麻賀多神社の信仰圏ではあるものの、埴生神社との関係もありそうで興味深いです。

 つぎに、宗像神社は有名な福岡の宗像大社の分かれです。これに関しては、意外と新しい神社ではないかと考えたこともあるのですが、他の信仰圏と混ざっていないという現実を考えると、それらと同時期の6世紀代には宗像の海人勢力がこの地に進出したと考えて良いと思います。

福岡県宗像市・宗像大社辺津宮

 この信仰圏にも龍角寺古墳群と同様に小規模な前方後円墳が多数築造されています。

 最後の鳥見神社も面白くて、奈良県桜井市の等彌(とみ)神社からの別れだというのです。祭神は、ニギハヤヒですから、物部氏の勢力範囲であったと考えられます。

奈良県桜井市・等彌神社

 ただし、当該地域の古墳に関しては私はまだ調査ができておらず、関連する古墳に関しては今のところ何も言えません。

 なお、房総にある物部氏の足跡を一つ述べると、鳥見神社の信仰圏とは大きく外れますが、下総の海側の匝瑳(そうさ)郡の起こりを挙げられます。

 『続日本後紀』承和2年(835)3月16日条によると、かつて物部小事大連(もものべのおごとおおむらじ)は、坂東を征し、その功勳により匝瑳郡が建郡され、物部匝瑳氏(匝瑳連)の祖とされています。

 物部小事大連の子孫にあたる物部匝瑳足継(たりつぐ)は、弘仁2年(811)の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)による爾薩体(にさったい)および弊伊(へい)の蝦夷征討に鎮守副将軍として従軍し、翌年、鎮守将軍に昇叙されており、この一族はその後も熊猪・末守などが鎮守将軍に叙されています。

 

 

律令時代の市原郡

 話の流れ的には、つづいて終末期の古墳の話が出てくるはずですが、ちょっと飛ばして奈良時代以降について述べます。

 


飯香岡神社

 上総国の総社に関しては、それを主張する神社が2つあります。その一つがJR八幡宿駅の西口近くにある飯香岡(いいがおか)八幡宮です。

市原市・飯香岡八幡宮

 土曜日の現地講座はここからスタートします。

 総社だけあって、一宮、二宮、三宮が遷宮した時の記念碑が建っています。

市原市・飯香岡八幡宮

 ちなみに、一宮は長生郡一宮町の玉前(たまさき)神社で、二宮は茂原市の橘神社、そして三宮は長生郡睦沢町の三之宮神社で、3社とも外房側にありますね。

 上総には四宮はありませんよ。

 拝殿は、元禄4年(1691)の建立です。

市原市・飯香岡八幡宮

 扁額には、「国府総社」と記されています。

市原市・飯香岡八幡宮

 各地の国府には、平安時代後期からだと思われますが、国府八幡という神社も創建され、飯香岡八幡宮は、国府八幡としての機能も持っていました。武蔵国は、総社(大國魂神社)と国府八幡は別々にありますね。

 国指定重要文化財の本殿は拝殿よりもさらに古く、室町中期の建立で、8代将軍足利義政が寄進したという伝えがあります。 

市原市・飯香岡八幡宮

 覆屋の中に存在するので拝することはできませんが、室町というと結構最近なのに、なぜ「伝え」であってはっきりしないのでしょうか。

 境内には、頼朝が手植えしたと伝わる「さかさ銀杏」があります。

市原市・飯香岡八幡宮

 大正初期の絵が掲げてあります。

市原市・飯香岡八幡宮

 飯香岡という地名の通り境内の場所はわずかながらの岡(砂堆列)の上で、すぐ西側は「八幡浦」と呼ばれた海が広がっており、今は建物が邪魔していますし、そもそも埋め立てが進行しているので海は見えませんが、大正時代はこの絵のような景観だったわけです。

 市原市埋蔵文化財調査センターのホームページに詳しく書いてありますが、この近辺の町場が形成されたのは14世紀で、飯香岡八幡宮はその中心となったそうです。

 ⇒市原市埋蔵文化財調査センターHP内「市原八幡宮と中世八幡の都市形成(1)」はこちら

 飯香岡八幡宮が乗る砂堆列は古代にはすでに安定していたそうなので、神社の縁起で言われている通りこの場所に古くから神社があったと考えてもいいかもしれません。

 境内には、富士塚もあります。

飯香岡八幡宮境内の富士塚

 木更津市郷土博物館の学芸員の方との雑談で教えていただいたのですが、こちらの地域は富士山や出羽三山の信仰が篤いそうです。それを詳しく研究していた出羽三山の先達も勤めていた方がいらっしゃったそうですが、亡くなったあと著述物や研究資料が散逸してしまったそうで非常に残念がっていました。

 


戸隠神社

 上総国総社と言われているもう一つの神社は、神門古墳群の近くにある戸隠神社です。

市原市・戸隠神社

 戸隠神社の方は住所が総社なので、地名という強い味方を付けているんですが、総社については詳しく考察していないため、今のところ深い話はできません。

 こちらは訪れる予定はありません。

 


光善寺薬師堂

 菊間古墳群から神門古墳群があるあたりまでの台地は市原台地と呼ばれます。台地上は谷の開析が激しいためいくつもの細かい台地に分けられるのですが、今回は市原という地名の場所から南に向けて歩きます。そこには、江戸時代にはすでに南北方向の大多喜街道が走っていて、その名の通り大多喜まで道が続いています。

 大多喜街道沿いには興味深いスポットがいくつかあるのですが、光善寺薬師堂は、蘇我稲目の末裔である上総介光重の子・曽我上総太郎光善の開基とされています。

市原市・光善寺薬師堂

 曽我上総太郎光善という人物に関しては不詳で、その父の上総介光重に関しても同様です。上総介というと、頼朝を助けた上総介広常が有名で、その一族の可能性もありますが、そうであれば桓武平氏のため蘇我氏を先祖にはしませんね。今は、蘇我稲目の末裔と称する豪族が中世前半に存在したということだけをお伝えしておきます。

 薬師堂なのに神社のように鈴が垂れているんですよね。

 神仏混交は面白いです。

 現在は薬師堂しかありませんが、元々は光善寺廃寺と呼ばれている古代寺院が7世紀末以降にあったと考えられています。

 応永24年(1417)銘を持つ千葉県最古の石灯篭もあるので、石灯篭マニアには堪らないでしょう。

市原市指定文化財・光善寺石灯篭

 ちなみに社殿の背後は土塁で囲まれているのですが、戦国時代の市原城の遺構だと考えられています。城域は、宅地化によって遺構がほとんど破壊されてしまったことによりはっきり分からないそうですが、阿須波神社の方まで広がっていたようです。

 『日本城郭大系』によると、天文23年(1554)秋、北条氏康がこの地へ侵攻して久留里城の里見義弘を攻撃し、相前後して市原城も攻撃しました。『関八州古戦録』によると、当地の武将の忍民部少輔は里見勢として久留里城の籠城戦で戦い、後の永禄7年(1564)の第二次国府台合戦にも里見勢として参加しています。

 


阿須波神社

 光善寺薬師堂と大多喜街道を挟んだ反対側の西側台地縁の部分には、阿須波神社があります。

市原市・阿須波神社

 神社にある石碑の説明によると、万葉集に「庭中の 阿須波の神に 小柴刺し 吾は斎はむ 帰り来までに」という歌(巻20-4350)があり、上総国の若麻続部諸人が防人として九州へ向けて出立するときの歌なのですが、ここに出てくる「阿須波の神」がこの阿須波神社ではないかと考えられています。

 「あすは」という地名の語源も気になるところで、「あすは」といえば、継体天皇像がある足羽山(あすわやま)が想起されます。

福井市・足羽山山頂古墳にいらっしゃる継体天皇

 4頭身の継体天皇に「上総なんて知らねえよ」と言われそうですが。

 近くからは東京湾方面の低地を見下ろすことができます。

市原台地から東京湾方面を望む

 眼下には水田が広がっていますが、古代条里制の名残(市原条里遺跡)で、阿須波神社を降りた地点から海の方へ向けて古代の道路遺構が検出されており、道幅は6mでした。

 


市原八幡神社

 名前からは大きな神社と想像されるかもしれませんが、小ぢんまりとした神社です。

市原八幡神社

 上総国総社である飯香岡八幡宮では、中秋の名月に近い日曜日に行われる例大祭にて、柳楯神事が執り行われており、分かっているだけで600年ほどの歴史があります。

 その日の前日、25本の柳の枝を5本の青竹にくくりつけ楯の形にした「柳楯」と称する神の依り代を上総国府から出発させるのですが、現在では国府の場所も分からなくなっているので、光善寺の公民館を出発します。その神様が最初に寄るのがここ市原八幡神社なのです。

 神様はつづいて前述した阿須波神社に寄り、阿須波神社からは市原台地を降り、これも前述した古代の道を通り五所町民館で一泊し、翌日、飯香岡八幡に到着して例大祭が始まります。

 五所という地名は「御所」と通じるため、中世の頃に高貴な人が住んでいた可能性がありますが、五所には五所四反田(ごしょしたんだ)遺跡があります。市原市埋蔵文化財調査センターのHP内の「五所四反田遺跡の木製品(1)」によると、低地にある五所四反田遺跡からは1000点を超す木製品が出土して、とくに5世紀(古墳時代中期)の「柄孔諸手鍬」という特異な形の鍬が出土したそうですが、それが用途不明の謎の農具だそうなのです。

 今は小さな市原八幡神社ですが、飯香岡八幡宮の本宮と伝わっています。

 柳楯神事のルーツに関しては分かっていないそうです。云い伝えの通りに600年前から始まったとしても、その頃はすでに国府は機能していなかったはずですが、中世の領主が自らの権威付けのために古代の祭りを再興させたと考えることもできますし、この地に入部して来て新たに治めるに当たって、古代の国司と自らを系譜的に接続させるべく新たに創始した可能性を考えることもできます。

 なお、市原八幡神社がある辺りは、人市場という怖い名前の小字となっています。この北側には戦国期の市原城がありましたし、戦国時代に頻繁に立っていた人身売買市と関係があるのではないでしょうか。そして、既述した古甲という小字は、市原八幡神社と街道を挟んだ東側にあります。

 


上総国府跡

 ところで、令制上総国の国分寺跡と国分尼寺跡の場所ははっきりしています。とくに国分尼寺跡は廻廊などが復元されており、隣接して上総国分尼寺跡展示館もあって非常に充実した歴史スポットになっており、クラツーやAICTでもご案内しました。

市原市・上総国分尼寺跡

 では、国府はどうかというと、はっきりしないのです。今のところ、国府跡を証拠づける遺構や遺物は見つかっておらず、地名や地形あるいは周辺の神社の存在や伝承、他の国府跡からの類推などからいくつか候補地が挙げられているにすぎません。

 そのうちの一つが光善寺薬師堂や阿須波神社がある市原という地名の地域です。既述した通り、古甲(ふるこう)という地名があり、「甲」は「国府(こう)」に通じますし、古甲の辺りから阿須波神社を見るとちょうど西北(戌亥)の鬼門の位置に当たるのが気になるところです。

 国府の候補地には、この後訪れる郡本という地名のあたりもそうです。

 郡本交差点は、こんな場所です。

郡本交差点

 何もありませんね。

 私などは国府や郡衙なども好きなので、付近の地形や道路のめぐらせ方などを丹念に見ながら歩き回るのが楽しいのですが、おそらく参加者の方々は付いて来れないと思うので、ここをただ歩いて通過するだけの予定です。

 


郡本八幡神社

 郡本交差点の近くには、郡本八幡神社があります。シルバーメタリックのカッコいい鳥居が未来を感じさせます。

郡本八幡神社

 境内には古墳のようなものがありますが、出羽三山の供養塚です。以前訪れた時に地元の方に尋ねたところ、市原中学校のグラウンドの土を盛って造った物だそうで、その方の記憶では70年くらい前かなあ、ということでした。正確な年代はきちんと調べないとなりませんが、昭和前半でしょうかね。

 飯香岡八幡宮でも出羽三山を祀っているのですが、この地は出羽三山に対する信仰が篤いのです。

 さて、ここは市原郡衙の推定地ですが、地表面でそれとわかるものはありません。だいたいこの辺りにあったと推定されているわけです。1999年までに4次の調査が行われており、郡衙跡と決定づけられる遺構や遺物は出ていないようですが、墨書土器などの出土から郡衙跡である可能性は高いです。

 なお、上総国には当初(7世紀末)、市原・海上(うなかみ)・畔蒜・望陀・周淮・埴生・長柄・山辺・武射・天羽・夷灊・平群・安房・朝夷・長狭の15の郡がありました。ここから南西方向に4㎞ほど行くと海上郡衙の推定地があります。

 養老2年(718)には、平群・安房・朝夷・長狭の4郡を割いて安房国を分立させましたが、天平13年(742)に一旦安房国は消滅(上総国に併合)され、再び天平宝字元年(757)に安房国が造られました。

  

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