最終更新日:2022年11月8日

 古代日向(ひむか/ひゅうが)の国は、おおむね現在の宮崎県に鹿児島県の大隅地方を加えた範囲です。令制の大隅国は、『続日本紀』によると、和銅6年(713)4月3日に日向国から肝杯(きもつき)、囎唹(そお)、大隅、姶羅(あいら)の4郡を割いて建国されたため、本稿で述べる「日向」は、令制大隅国を含めた範囲とします。

 日向の古墳の中では何よりも国指定特別史跡の西都原(さいとばる)古墳群が有名です。私自身が生まれて初めて古墳めぐりらしい古墳めぐりをしたのも西都原古墳群ですし、旅行会社の歴史ツアーでも4度案内したことがありますが、その際にお客様と話すと、西都原古墳群に行きたくてツアーに参加したという声を多く聴きました。

 でも、日向は西都原古墳群だけでなく、とにかく古墳が多い国です。下に日向の主な古墳の編年を示し、日向の古墳の特徴を5つあげます。

『生目古墳群とみやざきの古墳群』(宮崎市教育委員会文化財課/編)より転載

【特徴① 編年の完成度合いが低い】

 白抜きマークは年代推測の根拠が弱い古墳ですが、全体的に白抜きが目立ちます。宮崎県域の古墳は、他地域と比べると発掘調査が進んでおらず、正体の分からない古墳が多いのです。そのため、墳丘の形状から時期を推測することもあって、不安定な編年になっています。

【特徴② 丸い世界】

 前方後方墳は1基も存在せず、また方墳も少ないですし、それ以前の弥生時代でも方形周溝墓よりも円形周溝墓が多いのも特徴で、日向は「丸い世界」を現出しています。

【特徴③ 九州内で比較すると大型古墳が多い】

 九州の古墳の大きさランキングを示すと以下の通りです。

 1位 女挟穂塚古墳(宮崎県西都市) 176.3m(『日本の遺跡1 西都原古墳群 改訂版』<北郷泰道/著>)
 2位 男挟穂塚古墳(宮崎県西都市) 176m(同上)
 3位 唐仁大塚古墳(鹿児島県東串良町) 154m(『古墳に眠る肝属の王』<肝属町歴史民俗資料館/編>)
 4位 生目3号墳(宮崎県宮崎市) 143m(現地説明板)
 5位 横瀬古墳(鹿児島県大崎町) 140m(同上)
 6位 岩戸山古墳(福岡県八女市) 135m(同上)
 7位 生目1号墳(宮崎県宮崎市) 130m(同上)
 8位 大野窟古墳(熊本県氷川町) 123m(氷川町HP)
 9位タイ 計塚古墳(宮崎県高鍋町) 120m(現地説明板)
 9位タイ 石人山古墳(福岡県広川町) 120m(同上)
 9位タイ 松坂古墳(熊本県和水町) 120m(前方後円墳データベース)

 このように日向の古墳はトップ5を独占しており、ベスト11のうち、7基を占めます。

【特徴④ 古墳時代の始まりが遅い】

 最古級の古墳を見ると3世紀末頃に編年されているため、日向は他の地域と比べて古墳の築造の開始が遅かった印象を抱きます。ただし、この編年は私の感覚では「控え目」に書かれていて、日向の古墳築造の始まりはもう少し早くてもいいのではないかと思います。その予察が当たっているかどうかは後で考察します。

【特徴⑤ 中期半ば以降に大型古墳が少ない】

 中期初頭の大型古墳である女挟穂塚古墳と男挟穂塚古墳の築造をピークとして、それ以降は大型古墳の築造が非常に低調であるのも特徴の一つです。

 では、つづいて九州全体の前方後円墳の分布図も見ておきましょう。

『日本の遺跡1 西都原古墳群 改訂版』(北郷泰道/著)より加筆・転載

 上の編年図で一番右の「五ヶ瀬(ごかせ)川流域」が、地図上の南方古墳群などがある場所で、「小丸(おまる)川流域」には、持田古墳群などがあり、「一ツ瀬川流域」には、西都原古墳群や新田原(にゅうたばる)古墳群などがあります。さらに、「大淀川流域」には、生目(いきめ)古墳群などがあり、その上流が「都城(みやこのじょう)盆地域」です。そして、それら河川流域に加えて、「志布志湾沿岸域・肝付平野域」が、唐仁古墳群や塚崎古墳群がある地域となります。

 とくに宮崎県域の古墳を語る際には、今挙げた五ヶ瀬川、小丸川、一ツ瀬川、大淀川の名前は頻繁に登場するので覚えておいてください。

 

生目古墳群

 宮崎市の生目古墳群は、大淀川右岸にある古墳群で、前方後円墳8基と円墳42基が確認されており、そのうち、生目古墳群史跡公園の中には、前方後円墳8基と円墳21基が存在します。

『生目古墳群とみやざきの古墳群』(宮崎市教育委員会文化財課/編)より転載

 地図の下にある「生目の杜遊古館」は、宮崎市埋蔵文化財センターの施設で、生目古墳群をはじめとして宮崎市内の遺跡から出た遺物などが展示されていて、とても見ごたえのある施設なので生目古墳群を訪れる際には必ず立ち寄りましょう。なお、遊古館と古墳公園は高低差があるため、もし先に遊古館を見学したとしたら、古墳公園まで車で登った方が楽です。

生目の杜遊古館(宮崎市埋蔵文化財センター)

 さて、上図の中で最古級の前方後円墳は、9号墳あるいは21号墳とされます。図を見ると円墳に見えますが、それぞれ元々は前方後円墳です。

 

36
生目21号墳

 21号墳は発掘調査前は20mほどの円墳と考えられていたのですが、調査によって36mの前方後円墳であることが分かりました。生目古墳群の前方後円墳の中では最小です。なお、主体部の調査はされていません。

 段築はなく、葺石も施されておらず、円筒埴輪も見つかっていませんが、墳丘上に二重口縁壺や壺形埴輪が並べられており、それらの編年により築造時期は4世紀前半と考えられています。周囲には周溝がありましたが、前方部前面は浅くなっており、出現期の古墳によく見られるタイプの周溝です。

 周溝内には、13基の地下式横穴墓がありました。地下式横穴墓については後述しますが、南日向独特な墓制です。

 

60
生目9号墳

 現状では径38mの円墳とされていますが、北西側にわずかに残る33号墳の墳丘は9号墳の前方部である可能性が高く、60mほどの前方後方墳であったと考えられるようになりました。現状見てみても墳丘頂部はかなり削られているのが分かりますが、火山灰の堆積から11世紀から13世紀の間頃に削られたことが分かっており、おそらくそのときに主体部はなくなってしまったのでしょう。

古墳とは思えないくらいに平ら

 古墳に伴う遺物が確認できないため、築造時期を断定することはできません。現状では、形状からの推定で、21号墳と同時期と考えられています。

 

143
生目3号墳

 21号墳や9号墳が築造された後に現れたのが3号墳です。『生目古墳群とみやざきの古墳』によると、墳丘長は137mですが、現地説明板には143mとあります。いずれにせよ、前期古墳としては九州最大となり、もし143mであれば、古墳時代全時代を通じて宮崎県で3番目になります。ちなみに、北部九州で最大の古墳は、福岡県八女市にある筑紫君磐井が造らせた岩戸山古墳(135m)ですから、それよりも大きいです。

 

 築造時期は、前期の後半にあたり、9号墳が60mだったのを考えると大きな飛躍となりますが、この時期は、日本列島各地で大型の前方後円墳が築造される時期です。

 例えば、東日本では、山梨県甲府市の甲斐銚子塚古墳(169m)や茨城県の芦間山古墳(141m)、やや時期が下るものの群馬県高崎市の浅間山古墳(171m)、宮城県名取市の雷神山古墳(168m)が著名で、西日本では、大王墓を除いても、別格としては、大阪府岸和田市の摩湯山古墳(200m)や兵庫県神戸市の五色塚古墳(194m)があり、生目3号墳と同規模の古墳としては、岡山市北区の神宮寺山古墳(150m)や同市中区の湊茶臼山古墳(150m)、京都府与謝野町の蛭子山1号墳(145m)があります。

 とくに西日本では、畿内の摩湯山古墳やほぼ畿内に近い場所の五色塚古墳は別格としても、生目3号墳はそれ以外の列島各地の大型遠方後円墳と十分に肩を並べており、4世紀後半の日向がヤマト王権にとって非常に重要な勢力にのし上がっていたことが分かります。

 

 3号墳の墳丘はとくに後円部側には樹木が繁茂していますが、前方部側から登ることができます。おそらく多くの見学者は公園に登った場所のロータリーにある説明板を見てから北へ向かって歩いて行くと思いますが、その場合はスムーズに3号墳の前方部に到達することでしょう。

 

101
生目22号墳

 4世紀末頃に築造された前方後円墳で、後円部は3段、前方部は2段、葺石が施され、壺形埴輪が並べられていました。円筒埴輪ではないというところを除けば、外観はヤマトの古墳に酷似していたことでしょう。主体部は発掘はされていませんが、レーダー探査の結果によって木棺直葬あるいは木棺+粘土槨であると想定されています。

モシャ子ちゃん状態

 前方部の東側には造出とは言えないまでも、4m×2.7mの張出があり、土師器が出土することから祭祀が行われていたようです。コンディションが良ければ後円部に登ることができますが、前方部の方を探索するのは難しいです。

サッパリしているときもある

 日向の前期古墳は、いわゆる「柄鏡形」と呼ばれる、前方部の幅が狭いタイプの古墳が多いですが、22号墳は古墳時代前期が終わろうとする時代にもかかわらず、まだ前方部端が広がっていません。一般モードとしては、この時期には前方部幅は後円部径と同じくらいになって来る時期ですが、築造時期が当たっているとなると、そういった全国的な傾向からは遅れていると見做されることになります。

 

130
生目1号墳

 公園の最北にある前方後円墳で、墳丘に行くには一旦谷に降りなければならないため、旅行会社で案内していた時はついに一度も行きませんでした。

 


生目14号墳

手前は円墳の15号墳

 


生目5号墳

 現況では他の古墳と違って、5号墳のみ葺石まで復元されています。

 

地下式横穴墓とは

 古墳時代の南九州のみに見られる独特な墓制で、竪穴を掘った後、今度は水平方向に石室を構築します。地下にある横穴墓です。生目5号墳の後円部側には生目19号地下式横穴墓の展示があります。

 

 これを5号墳の墳頂から見てみましょう。

 

 このような形で、周溝の外側に構築されており、横穴は古墳から見て外側に向けて造られています。地下式横穴墓は周溝内に造られることもあります。断面はこのような感じです。

生目の杜遊古館にて撮影(ピンボケしていてすみません)

 地下式横穴墓は、隣接している古墳と同時期に造られるわけではなく、少し経ってから造られるため、地下式横穴墓の被葬者は古墳の被葬者の子孫、もしくは子孫だと思っている人の可能性が高いです。

 

西都原古墳群

 大淀川流域の生目古墳群が既述した通りの繫栄を謳歌していた頃、一ツ瀬川右岸の西都原古墳群でも前方後円墳の築造が続いていました。墳丘規模を見ると、生目古墳群には敵わないのですが、具体的にはどのような古墳が造られていたのでしょうか。まずは、西都原古墳群の全体を把握するところが始めましょう。

『日本の遺跡1 西都原古墳群 改訂版』(北郷泰道/著)古墳分布図

 上図の通り、西都原古墳群は広大な面積を占め、『日本の遺跡1 西都原古墳群 改訂版』によると、現在のところ325基の古墳が見つかっています。内訳は、前方後円墳が31基、円墳が292基、宮崎県は「丸い世界」なので、方墳は珍しいのですが2基あります。

 これだけ沢山の古墳がありますから、西都原古墳群を見学しようと思っても、目的が古墳の悉皆調査でもない限り、全部見ようとするのは現実的ではありません。

 西都原古墳群を訪れる人は、「西都原ガイダンスセンター このはな館」の近くの駐車場に車を停めると思います(私は初めて来たときは西都市中心部のバスターミナルから歩いて来ましたが)。上図に位置は載っていませんが、上図でいうところの第1-B群にある鬼の窟古墳にほど近い場所です。その場合のお勧め探訪箇所は、鬼の窟古墳からはじめて、第2-A支群、第2-B支群、第3-A支群と見学し、西都原考古博物館を見学し、最後に丸山群を見て駐車場に戻るというコースか、あるいはこの逆回りコースです。このコースは博物館へ登る階段を除いてはほぼ平坦です(墳丘に登らなければですが)。

 ただし、このダイジェストコースであっても、博物館の見学を頑張って1時間くらいで終わらせても、余裕で半日掛かります。旅行会社で案内していたときは半日などという悠長な時間はもらえず、制限時間がタイトだったので、つい早足になってしまい、毎回お客様をクタクタにさせていました。

 

第2支群

 もしかしたら、今はお客様に無理させないということで旅行会社では第2支群の見学を省いているかもしれませんが、ここを歩かないと本当にもったいないです。

『日本の遺跡1 西都原古墳群 改訂版』(北郷泰道/著)より加筆・転載

 第2支群ではない後期の鬼の窟古墳(206号墳)は後述するとして、上図を見ると、台地の縁の部分に前方後円墳がたくさん並んでいるのが分かると思います。番号は第2-A支群の中で分かる範囲での築造された順番です。古墳の向きは概ね前方部を南に向けているのですが、これらの中で最古の古墳と考えられる81号墳だけ反対方向を向いていますね。あと、92号墳も横向きです。そして、これだけ沢山の古墳があるのに、ニックネームが付いている古墳は少なく、90号墳には「大山祇塚」というニックネームが付いており、その名の通り、大山祇の墓と伝承されている古墳です。

 弥生時代後期以降、西都原古墳群周辺でも周溝墓が構築されましたが、この地域の特徴は、方形周溝墓よりも円形周溝墓が多い点です。例えば、関東・東北では方形の方が格段に多いのですが、日向の国は「丸い世界」のようです。ただし、西都原古墳群のある台地上からは周溝墓は検出されていません。古墳時代になってから墓域の形成が始まりました。

 

53
西都原81号墳

 西都原古墳群に31基ある前方後円墳の中で最古の可能性がある古墳です。

真中の高まりが後円部で、左側に前方部が伸びています(分かりづらい写真ですみません)

 墳丘長は53mで、葺石はなく、段築は不詳。後円部南東に突出部が見られます。出土した土器は、庄内式から布留式への移行期の土器なので、それだけを見たら箸墓古墳の築造からそれほど時期を経ずに築造された古墳と見ることができ、3世紀第3四半期に収まる可能性もあります。

 九州北部ではその時期にまで遡る古墳はいくつかありますが、九州南部では今のところないため、もしかすると南九州で最古の古墳かも知れませんが、地元では当該土器についての評価は慎重に進められていて、『日本の遺跡1 西都原古墳群 改訂版』では、81号墳の築造時期を4世紀初頭としています。

 地元の著名な学者さんがそういうのですからそうかも知れませんが、庄内式期から布留式期への移行期の土器が出ているのに4世紀初頭というのは、いくらなんでも新しすぎるような気がします。当該土器を実見したこともないですし、知識も浅いので偉いことは言えないのですが、いくら考古学的に遅れている宮崎県だとしても卑屈すぎるような気がします。もっと攻めたほうが良くないでしょうか。

 

48
西都原88号墳

 冒頭に示した編年図では、81号墳に続いて築造された古墳とされています。詳細は分かりませんが、規模的には81号墳と同程度です。発掘調査はされていません。

 

54
西都原92号墳

 冒頭に示した編年図では、88号墳に続いて築造された古墳とされています。前方部が北東方向を向いていますが、自然の地形に沿って築造した結果そうなったのかもしれません。発掘調査はされておらず、詳細は不明です。

 

57.4
西都原100号墳

 これまで述べた第2-A支群とは違って、100号墳は第2-B支群の古墳です。平面的な地図で見るとAもBも一体の場所に見えますが、両者の間には微妙に谷があって、考古学者は古墳をグルーピングするときには、そういった細かい地形も気にします。実際に当時の人がどういう意図をもって造営場所を決めていたのかは、考古学的によくよく調べないとなりません。

モシャ子ちゃん状態のとき

 100号墳は、墳丘長57.4mの前方後円墳で、築造時期は、現地説明板では4世紀前半から中頃としています。発掘調査が行われた古墳です。

美容室に行った後状態の時

 西都原古墳群はあまりにも古墳が多いため、どうしても現地説明板が少ないイメージを抱いてしまいます。本当は結構な数が設置されているんですがね。100号墳もあります。

 

 説明板の写真でも分かる通り、柄鏡形です。生目古墳群の項でも述べましたが、日向の前期の前方後円墳はほとんどが柄鏡形なのです。これがヤマトの桜井茶臼山古墳やメスリ山古墳と関係があるのか。その点が気になる人が多いと思いますが、まだまだ研究途中です。

 

96
大山祇塚古墳(西都原90号墳)

 ひときわ大きなこの前方後方墳の被葬者を地元の人は大山祇(オオヤマツミ)と考えていました。大山祇はコノハナサクヤヒメの父で、ニニギノミコトの義父にあたります。オオヤマツミという名前は単純に考えると、山の神に「大」が付いた特別な存在のことで、特定の個人名を表したものではありません。

 

 墳丘長は96mで、これもまた柄鏡形です。周囲の古墳よりも墳丘長が大きいため、したがって高さもありますから、結構なヴォリューム感があります。

 

 発掘調査はされていません。

 

84
西都原83号墳

 冒頭に示した編年図では、前期の最終段階もしくは中期初頭に築造された古墳とされています。発掘調査はされておらず、詳細は不明です。

 

 第2-A支群の前方後円墳の多くは、台地縁に沿って築かれているため、墳頂からの谷側の眺めはさぞかし良いだろうと思うかもしれませんが、ほとんどの部分が樹木で覆われており、東側の眺望は効いていません。ところが、83号墳は眺望がバッチリですので、現地に行ったときはぜひ83号墳の後円部墳頂から下界を見下ろしてみてください。

 

持田古墳群

 高鍋町に所在する持田古墳群は、小丸川左岸の段丘上に位置し、85基の古墳から構成されます。内訳は前方後円墳が9基、帆立貝式が1基(低地に所在)、円墳が75基です。

現地説明板を撮影

 

78
持田48号墳

 持田古墳群の前方後円墳の中で最初に築造されたと考えられる前方後円墳。

 

120
計塚古墳(持田1号墳)

 48号墳に続いて築造された前方後円墳で、古墳群最大の墳丘長120mを誇ります。