最終更新日:2023年12月23日

はじめに

 過去も現代も、そして未来もそうだと思いますが、人類の歴史は宇宙の運動に左右されます。宇宙というと大げさかもしれませんが、人知の及ばない天体としての地球自身の環境の変化(温暖化や寒冷化)にプラスして、たまに起こる突発的で大規模な火山の噴火などによって大きく環境が変化して、それにより植物や動物が変化を強いられて、当然人間もその影響を大きく被ります。そのため、歴史を勉強するときは、自然環境の変化(とくに気候変動)に敏感にならないといけません。

 地球には一定の周期で氷期が訪れ、氷期と氷期の間には温暖な間氷期が存在します。これについて、間氷期には奇数番号を、氷期には偶数番号を付けて、海洋酸素同位体ステージ(MIS: Marine Isotope Stage)と呼んでいます。下の図は、青色の線が気温ですが、日本でホモサピエンスが活動を開始した4万年前から縄文時代の始まりの頃までは、きわめて寒冷であったことが分かります。1~9の数字がMISです。

『列島の考古学 旧石器時代』(堤隆/著)より加筆転載

 そして、歴史は人間の営みですが、その人が何を考えているのかは、他の人には分かりません。推測はできても本当のことは本人しか分かりません。例えば、本能寺の変で信長が自害したのは事実としても、本能寺を攻めた光秀の心の内は誰にも分からないのです。

 だからこそ、歴史の解釈をめぐっていろいろな説が登場しますし、自分でもあれこれ考えたりして、私たち歴史好きはそれを楽しむことができるのです。真実の追及に全力を尽くすのもいいですが、その気持ちが行きすぎて、例えば恣意的な考えをもとに「邪馬台国は奈良にあった」と決めつけて、その考えを他人に押し付けるとか、そういう恥ずかしいことはせず、他人の考えを尊重しつつ、様々な可能性を考えながら分からない状態でいることをもっと楽しみましょう。

 本稿で述べることは、稲用の説なのか、それとも誰かの説なのか、そして内容は客観的な事実なのか、推測なのかということをなるべく分かるように留意しながら論を進めます。

 

旧石器時代とは

 世界史的な呼び名としての「石器時代」というのは、文字通り人類が石を素材に自作した「石器」を主たる道具として活用して生活をしていた時代で、青銅器の使用が始まると「金属器時代」と呼びます。

 石器時代は、「旧」と「新」に分けますが、日本の場合は、「新石器時代」と呼ばず、縄文時代がそれに相当します。そして弥生時代には青銅器や鉄器を使い始めますが、それを「金属器時代」と呼ぶことはしません。今はあまり使いませんが、旧石器時代のことを先土器時代と呼ぶこともあります。でも、案外この呼び方がいいかもしれません。

 旧石器時代はさらに前・中・後期に分けます。中期旧石器時代というのは、日本ではあまり意味がある区分ではないため、日本の場合は前期と中期をひっくるめて前期と呼び、前期と後期の2期区分で呼ぶ研究者もいます。

時代区分実年代特徴
前期260万年前~30万年前アフリカで私たちホモ属の祖にあたるホモハビリスが登場し、石器を自作して旧石器時代の幕が開く
大分県丹生遺跡が唯一この時代の日本人の足跡である可能性が高い(40万年前)
中期30万年前~4万年前日本各地で見つかる石器からホモサピエンスではない人びとがごく少数住んでいたことが分かる
後期4万年前~1万6500年前ホモサピエンスが日本列島に渡海してきて、中期に比べると遺跡数が増加
多くの研究者は日本の歴史は後期旧石器時代からと考えている

 

 後期旧石器時代は、鹿児島県の姶良(あいら)カルデラの噴火の前後でさらに前期と後期に分けます。姶良丹沢火山灰(AT)の降下の年代は、書籍や博物館の展示によって区々ですが、最新の研究では3万年前とされます。南九州のカルデラの位置は下図をご覧ください。

鹿児島市立ふるさと考古歴史館にて撮影

 ATは偏西風に乗ってほとんど列島全体を覆うくらいの分布を示すため、それが堆積した層は、考古学的には時代を知る上での重要な地層となり、こういう地層のことを鍵層(かぎそう)と呼びます。

指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれにて撮影

 姶良カルデラの噴火では大規模な火砕流も発生し、鹿児島県や宮崎県南部の地形を一変させ、この火砕流によってできた台地をシラス台地と呼び、場所によっては200mもの高さになっています。例えば西都原古墳群に行くと地形が平坦だと気付くと思いますが、ああいった平坦な台地はこのときの噴火によって造られたのです。

福井県年縞博物館に展示してある水月湖のAT付近の年縞

 余談ですが、青森県つがる市にある出来島埋没林は、AT降下直前に起きた急激な温暖化による海面高度上昇によって森林がパックされたものです。AT層を目で見たくて現地に行って見たものの、パックされた3万年くらい前の樹木は散見できましたが、その上に数センチはあると思われるAT層は私の目ではよく分かりませんでした。

青森県つがる市・出来島最終氷期埋没林で見ることのできるAT降下前の森林の形跡

 旧石器時代の日本列島は、既述した通り冷涼で雨が少なく、対馬海峡が非常に狭かったため暖流が日本海側に流れ込んでくることがほとんどなく、そのため雪は少なく、針葉樹林がまばらに生えている寒々とした景観で、列島ほぼ全域がこのような状況でした。しかも火山活動は活発で、噴火も多かったため、人びとが生きて行くには過酷な時代でした。

 

日本列島におけるホモサピエンス以前の人びとの痕跡

 2000年に発覚した「前期・中期旧石器遺跡捏造事件」の影響で、現在は多くの研究者が日本列島に人が住み始めたのは4万年前のホモサピエンスの渡来以降と考えています。ところが、冷静に各地の遺跡を見てみると、それよりも古い人類の痕跡を見つけることができます。しかし、古い人類の痕跡らしきものが見つかっても、大多数の研究者や権威があって政治力のある研究者がそれを認めない限り、公認されません。

 ホモサピエンス以前の日本人の足跡について一般向けに書かれた書籍としては、竹岡俊樹氏が著した『旧石器時代人の歴史』(講談社選書メチエ・2011年)があります。以降では、該書を要約した形で述べますが、正確な内容を知りたい場合は、同書をご自身でお読みいただくことをお勧めします。

 ホモサピエンス以前の人びとの痕跡を探すには、ホモサピエンスではない人びとが作った石器を見つければいいです。彼らは私たちホモサピエンスとは脳の構造が異なるため、作られる石器が異なります。そういう石器は大陸ではたくさん出ていますが、稀に国内の博物館などに展示されているものを見ると、かなり大振りです。例えば下の石器は韓国の佳月里遺跡で出土した8万年前のハンドアックス(握り斧)のレプリカですが、左側の物は私の手では握れないと思われるくらいに大きいです。

東北歴史博物館にて撮影

 列島各地では数は少ないですが、ホモサピエンスではない人びとが作ったと考えられる石器がいくつか見つかっており、竹岡氏はそれらやホモサピエンスが作った石器をそれぞれ石器群として、A、B、Cの3種類に分類しています。

 まず、グループAですが、ホモサピエンスではない人びとが作った大型の石器群です。グループAの遺跡の多くは絶対年代が明確ではありませんが、前期旧石器時代文化とその伝統下にある文化の石器群であると竹岡氏は考えています。

 説明の都合上、グループBの前にCについて述べますが、Cは4万年前に大陸からやってきたホモサピエンスが作った石器群で、これを使った人びとは、私たちが旧石器時代の遺跡として馴染み深い環状ブロック群を形成します。

 グループCが日本列島にやってきたとき、すでにグループAの人びとがいたわけですが、Aの人びとはCの人びととの接触によって石器文化を変容させ消滅。AとCの両者の要素を合わせ持っているのがグループBです。

 これらの遺跡について、該書掲載の図を以下に示します。分かりやすいように、グループAは赤、Bは緑、Cは青で色付けしてみました。

『旧石器時代人の歴史』(竹岡俊樹/著・2011)より加筆転載

 これを見るとホモサピエンスではない人びとの遺跡が意外と多いことが分かります。また、AがCの影響によって変容したBの遺跡は、東京周辺に多いことも分かります。

 それでは、以降ではグループAの遺跡を6か所紹介します。

 

① 40万年前の石器が出土した丹生遺跡

 大分県大分市の丹生(にゅう)遺跡は、この項の最初に示した表に記した通り、国内で唯一前期旧石器時代の可能性がある遺跡です。

 上述書によると、1962年に前期旧石器時代のインドのソーアン文化やインドネシアのパジタン文化の石器に類似しているチョッパーチョッピングツールが出土しました。それらの石器については、人工品であると考える研究者と偽石器(ぎせっき=自然石)と考える研究者がいましたが、人工品と考える研究者が大多数でした。多くの研究者が人工品として認めるのであれば、ホモサピエンス以外の人類が日本にいたことは決定的となります。

丹生遺跡周辺(2022年5月現在遺跡の場所は非常に分かりづらくなっている)

 ところが、問題はそれらの出土場所です。考古学では「層位は型式に優先する」という鉄則があります(だからこそ前期・中期旧石器遺跡の捏造が悪化したのですが)。つまり、出土した地層が最重要なのですが、これらの石器の場合は、地表や攪乱された土層からの出土だったのです。見た目には本物の古い石器であることは確実であるものの、真実の製作年代が確定できないのです。そのため、古い石器を追い求めていた芹沢長介(せりざわちょうすけ)でさえ、縄文時代の石器であると主張したりして、結局はそのうち話題にも上らない遺跡となり、歴史の闇へと葬り去られてしまった感のある遺跡となってしまいました。

 それをなぜ竹岡氏が前期に遡る石器であると主張しているかというと、ある一点のチョッパーが採取された第10地区A地点の崖面は、間違いなく一時堆積の志村砂礫層だからです。そしてその地層は、ミンデル・リス間氷期(MIS11)に比定され、40万年前の地層なのです(MISに関しては、「はじめに」の図を参照していただきたいのですが、40万年前は古すぎてその図にはMIS11まで記されていません)。

 竹岡氏はその石器を実見して間違いなく人工品であるとしており、出土層位も明確であるため、この地に40万年前くらいにホモサピエンス以前のホモ属の人びとが滞在したことは確かと主張します。しかし、その石器は無視され続けているそうです。

 なお、松藤和人氏はその著書『日本列島人類史の起源』のなかで、上述の石器(礫器)に注目しているのは竹岡俊樹氏だけとしています。そして松藤氏は「気になって仕方がない」ため、2010年にその礫器を所有している古代学協会に問い合わせたのですが、実見は叶わなかったそうです。

 

② 幻の前期遺跡・早水台遺跡

 丹生遺跡からそれほど離れていない同じ大分県内の日出町に早水台(そうずだい)遺跡があります。早水台遺跡を発掘した芹沢長介は、今から40万年から30万年前の遺跡で、この遺跡から出土した石器を周口店文化(北京原人の文化)の系統の石器と主張しました。芹沢の最初の発掘は1964年のことで、芹沢が前期旧石器時代の石器と認めなかった丹生遺跡の発掘から2年後のことです。

早水台遺跡(墓石のような標柱が「幻の遺跡」への供養を想起させる)
早水台遺跡の説明板

 『旧石器時代人の歴史』(竹岡俊樹/著)を引用すると、芹沢が発掘した石器はソ連などの海外の研究者は人工品と認めましたが、国内の多くの研究者は認めませんでした。1967年には芹沢の明大時代の先輩で6歳年長である杉原壮介(すぎはらそうすけ)が、芹沢がこの頃発掘した栃木県の星野遺跡や、群馬県の岩宿遺跡ゼロ文化層の石器とともに、芹沢の主張する石器には人工品は存在しないと批判し、それにより当時芹沢が籍を置いていた東北大学と杉原の明大の亀裂は決定的となり、考古学専攻生の交流は途絶えたそうです。

 その後、芹沢は早水台遺跡出土の石器を含めて、自らが前期にさかのぼる石器と考える遺物に関してその証拠を提示し続けましたが、1976年になって芹沢の一番弟子と言われていた岡村道雄氏が、早水台遺跡の石器は約6万年前のものとし、また、星野遺跡や岩宿ゼロ文化層の石器を否定し芹沢から破門されています。なお、さきほど「芹沢の明大時代」と述べましたが、芹沢には杉原と対立したために明大を追われて東北大学に移ったという過去があります。

 現在では早水台遺跡出土の石器は前期まで遡らないと考える研究者が大多数ですが、松藤和人氏は著書『日本列島人類史の起源』の中で、芹沢が石英製の石器として発表したものに関しては、「世にはびこる否定的な評価を離れて白紙の状態から再検討すべきだ」と述べています。

 岡村氏がいうようにもし6万年前の石器だとしても、ホモサピエンス以前の人類が作ったことになりますからその重要性に変わりはありませんが、松藤氏が述べている通り、もっと積極的にこういった遺跡を再検討するべきだと考えます。

 

③ 中期から後期への移行期の遺跡・沈目遺跡

 熊本市にも竹岡氏がグループAとする遺跡があります。沈目(しずめ)遺跡です。

沈目遺跡はこの台地の上にある

 沈目遺跡に関しては、熊本市塚原歴史民俗資料館に遺物が展示してあります。

熊本市塚原歴史民俗資料館にて撮影

 そこに掲示してある「熊本日日新聞」の切り抜き(木崎康弘/著)を元に述べますと、沈目遺跡出土の石器の中でとくに注目すべきものが2種類あります。一つは「類ナイフ状石器」で、後期旧石器時代にはナイフ形石器と呼ばれるものが普及するのですが、それの原型とも呼べる石器であり、その後の後期旧石器時代への文化的な繋がりが見られます。

 もう一つは、縁辺部を鋸歯状に加工した削器(スクレイパー)で、削器という石器自体は後期旧石器時代や縄文時代にも作られるのですが、縁辺部を鋸歯状に加工するのは中期の特徴です。

熊本市塚原歴史民俗資料館にて撮影

 つまり、沈目遺跡から出土した石器を見ると、約4万年前くらいの中期から後期への移行期に存在した遺跡であることが分かるのです。『九州地方における洞穴遺跡の研究』によると、沈目遺跡の第6層から出土したこれらの石器群の特徴や組成、そして二次加工をする技術が、福井洞窟第15層の石器群と共通するといいます。

熊本市塚原歴史民俗資料館にて撮影

 福井洞窟第15層出土の石器は、現状では正確な年代は分からないものの間違いなく後期旧石器時代の開始期より新しいことは無く、それ以前の中期旧石器時代の可能性が高いとされており、それを合わせて考えてみても、沈目遺跡はホモサピエンスではない人びとの遺跡である可能性が高いと考えられます(福井洞窟に関しては、縄文時代の説明で再び述べます)。

 

④ 入口遺跡

 入口(いりぐち)遺跡は、長崎県の平戸島に渡って車で少し走った場所(平戸市中山町)にあります。既述した早水台遺跡や丹生遺跡の発見は1960年代ですが、入口遺跡は1999年から発掘調査が始まった「新しい」遺跡です。そのため、まだ評価が固まっていないような印象を受けます。

入口遺跡

 『日本列島人類史の起源』(松藤和人/著)によると、入口遺跡の基本層序は5層になっており、ATが第2層上位から検出されているため、そこより下は3万年前より昔です。第3層から瑪瑙製の礫器が出ました。

 第3層と第4層には瑪瑙の円礫が含まれますが、瑪瑙製の礫器が出土したのは第3層といってもその下部と第4層最上位で、その層には瑪瑙の円礫(自然石)は含まれていないため、礫器と見られるものは、自然の礫ではなく人工物です。土壌中の鉱物を用いた赤外光ルミネッサンス法年代では、第3層下部が9万年前、第4層が10万3000年前と測定され、遺物が見つかった第3層の黄色粘土は、ステージ4の氷期に形成された可能性が高く、その年代は7万1000年前から5万7000年前です。

 ということで、入口遺跡はホモサピエンスではない人びとが滞在した遺跡と言っていいはずですが、竹岡俊樹氏は前述書の中で、入口遺跡の礫器は明確な偽石器と述べており、いつものごとく、研究者間で意見が一致することはないようです。

 

⑤ 砂原遺跡

 島根県出雲市にある遺跡で、12万年前の遺跡として紹介されることが多いですが、上に掲載した竹岡氏の図には名前すらありません。竹岡氏は、入口遺跡の礫器とともに、当遺跡から出土した礫器は明確な偽石器としています。

 

⑥ 東北を代表する中期の遺跡・金取遺跡

 金取(かねどり)遺跡は、岩手県遠野市にある遺跡で、9~8万年前の人類の足跡があるとして、東北における最古の遺跡として紹介されることがあります。

 地表下、0.1~1.5mに旧石器時代の文化層が3枚あり、上からⅡ、Ⅲ、Ⅳと命名されており、第Ⅳ文化層の包含層準付近で「Aso-4」の火山ガラスが検出されています。「Aso-4」は、約9万~8万5000年前の阿蘇の噴火で噴出されましたが、その層から、ホルンフェルス製のチョッピングツール、チャート製の剥片など計9点が多量の炭化物とともに検出されたのです。

第Ⅳ文化層出土のチョッピングツール(遠野まちなか・ドキ・土器館にて撮影)

 阿蘇は27万年前から9万年前まで大規模な火砕流を伴うカルデラ噴火を4回発生させ、「Aso-1」から「Aso-4」までナンバリングされています。

阿蘇の噴火(熊本博物館にて撮影)

 とくに、Aso-4の際の火砕流の噴出は凄まじく、約170㎞離れた山口市北東部の徳地町からもそれが見つかっており、火砕流の到達距離としては国内最長ということです。余談ですが、筑紫君磐井が造らせた墓である福岡県八女市の岩戸山古墳やその周辺の古墳に立てられていた石製表飾(石人石馬)は、Aso-4で生成された阿蘇溶結凝灰岩で造られており、この凝灰岩は九州の古墳時代について調べているとよくお目にかかります。

鶴見山古墳出土の石人(岩戸山歴史文化交流館にて撮影)

 話を金取遺跡に戻して、第Ⅳ文化層の直上の焼石岳村崎野軽石は資料として使えなかったのですが、その一つ上の層の焼石岳山形軽石をフィッション・トラック法で測定したところ8万2000年前と出ましたので、このクロスチェックにより、第Ⅳ文化層は、8万2000年前よりは古い層であることが確実です。

 石器造りに適した質の良い緻密なホルンフェルスは、第Ⅳ文化層には自然に含まれることはなく、また、チャートが存在する場所は最も近い場所でも30㎞も離れているため、人の手を介して運ばれたものと考えられるとして、松藤氏は人工品として疑問をさしはさむ余地はないとしていますが、竹岡氏は認めていません。

 ただし、第Ⅲ文化層から見つかった31点の石器については、ホモサピエンスが作るような刃部磨製石斧や台形石器は含まれず、その地層は6万年前と推定され、これに関しては竹岡氏も認めており、金取遺跡がホモサピエンス以前の遺跡であることに変わりはありません。

 なお、東北最古の人類の足跡の可能性がある遺跡としては、山形県寒河江市の富山(とやま)遺跡があり、MIS5の間氷期(13万年前~11万年前)に形成された赤色土の中からチョッパーやチョッピングツールなどが見つかり、石器群全体の様相はアフリカから西ユーラシアに広く見られるアシュール文化とおよそ同じですが、あまり注目されていないようです。

 

日本における旧石器時代の発見

 前項では、ホモサピエンス以前の日本人について述べましたが、今度はホモサピエンスの遺跡について述べます。まず最初に、日本の旧石器時代発見の経緯からです。

 以下、後日文章化。

 日本に渡ってきた最初期のホモ・サピエンスは以下のような独特な文化を持っています。
 ・台形様石器を使用 ・・・ 同様なものが中国や半島で見つかっておらず日本オリジナルの可能性がある
 ・刃部磨製石斧を使用 ・・・ オーストラリアにも最古級の物があるが文化的には違う
 ・環状ブロック群を作る ・・・ こちらも同様なものが大陸や半島で見つかっておらず日本オリジナルの可能性がある
 ・世界最古の落とし穴を造営 ・・・ 国内では50以上の遺跡から400ほどの落とし穴が見つかっている(種子島では3万5000年前頃、静岡県の箱根・愛鷹山麓では3万3000年前頃に掘られた落とし穴が見つかっている)

 台形様石器は、台形状をしていますが、槍の先に付けたと考えられ、その際は辺の広い方を先端にしました。刃部磨製石斧は、局部磨製石斧とも呼ばれます。磨かなければ打製石斧と呼ばれます。磨くには砥石として砂岩が用いられていたといわれています。砂岩にはガラス成分である石英が多く含まれており、石英のモース硬度は7。石斧はその名の通り植物の伐採に使われたほか、動物の解体にも使われたと考えられています。この時代はまだしっかりとした住居を作って住むことはなかった。環状ブロック群は、キャンプ(村)の跡とも石器の制作工房の跡とも言われています。

 ところで、Y染色体やミトコンドリアDNAの研究をもとに日本列島に大陸から人びとがやってきた時期を解説する書籍がありますが、考古学的な成果と合致する場合もあればそうでない場合もあります。DNA方面から切り込むのはとても面白いのですが、現段階では参考程度と考えておいた方が良く、まずは現実に遺跡から見つかる考古遺物に着目して日本人の歴史を考察してみましょう。