最終更新日:2023年5月23日

 ※自治体ごとに示し、自治体の並び順は五十音順です。
 ※一覧の見方に関しては、こちらをご覧ください。

 

国分寺市

府中市

  

 

国分寺市


東山道武蔵路跡 西国分寺地区

 
 
 
 
 
 
 

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東山道武蔵路跡 旧第四小学校跡地区(武蔵国分寺跡北方地区)

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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東山道武蔵路跡 恋ヶ窪地区(姿見の池)

 
 
 

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土師竪穴住居跡

聴きなれない表現の遺跡名だが、弥生時代に作られた土器は弥生土器と呼び、古墳時代以降は、まったく同じ製法でも土師器(はじき)と呼ぶ。この遺跡は、武蔵国分寺が稼働していたのと同時期の住居跡であるが、わざわざこのような名前を付けて分かりにくくなっている。目で見えるものも何もないため、より一層分かりにくく、考古学になじみがない人はこの場所できっと思い悩むことだろう。

 
 

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本村八幡神社

 

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武蔵国分寺跡 僧寺伽藍中枢部

武蔵国分寺跡は、伽藍中枢部全体が一面的に整備されているわけではなく、道路や畑などが入り組んでいるが、中門・金堂・講堂のラインは見通すことができる。やや離れた場所に七重塔跡がある。

武蔵国分寺の立地の特色の一つは、多摩川の段丘涯である国分寺崖線(ハケ)を境内に取り込んでいることで、地形的には大きく2段になっているところだ。

ハケ上の武蔵野面では、北方建物が検出されており、現国分寺の薬師堂と仁王門がある。ハケ下の立川面では、北から講堂跡、金堂跡、中門跡、そして七重塔跡が一部復元を交えて説明されている。七重塔は、2番目の塔も検出されている。また、鐘楼跡と東僧房跡も検出されている。

ここ数年で説明板の数も増えて、全国的に見ても整備が進んでいる国分寺跡の一つ。徒歩圏にはこれもよく整備されている国分尼寺跡があるし東山道武蔵路跡もある。武蔵国分寺跡資料館を含め、この近辺は奈良時代の歴史を学ぶには最適のエリアである。少し頑張れば武蔵国府跡へも歩いていくことができ、健脚の人なら一日中歩き回ってお腹いっぱいになるくらい奈良時代を楽しめる。

整備途中(2012年10月10日撮影)
北方建物跡にある全体説明
講堂跡(以降、写真は僧寺伽藍中枢部を北側から順番に表示)
 
 
金堂跡から講堂跡を見る
 
金堂基壇跡は、釈迦三尊と四天王が安置された場所が表示されている
 
中軸線上に金堂跡から中門跡を見る
 
中軸線上に中門跡から金堂跡を見る
 
 
 
中門に接続されていた築地塀跡
 
 
「塔2」跡が検出された付近
  
七重塔跡を望む
 

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武蔵国分寺跡 僧寺北東地域

 
 
 
 
 

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真言宗武蔵国分寺

現代の国分寺。境内は、万葉植物園になっていて珍しい植物を見ることができる。南側には江戸期に建造された楼門、北側のハケを上がった場所には、仁王門と薬師堂があるので、それらも忘れずに訪れよう。

 
 
 
 
 
 
 

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武蔵国分寺跡資料館

武蔵国分寺跡についてジオラマや遺物などで詳しく説明しているが、縄文土器などの展示も少しあって、国分寺市の郷土資料館的な内容になっている。

 
 
敷地内にある七重塔の推定復元模型
 

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お鷹の道・真姿の池湧水群

武蔵国分寺跡へ行くには、国分寺駅南口から歩いて行くのがお勧め。石橋供養塔を見て住宅街歩けば、すぐに「お鷹の道 遊歩道」が現れる。遊歩道を進むと真姿の池という湧水にたどり着くが、その近くに武蔵国分寺跡資料館がある。ここまで駅から15分。

国分寺南口からお鷹の道へ行く途中にて撮影
 
 
 
 
 
 

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石橋供養塔

 
 

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殿ヶ谷戸庭園

 
 
 
 
 

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武蔵国分尼寺跡

発掘調査によって、伽藍地の規模が判明している。主要な建物に関しては、よっぽど後世のかく乱が激しかったようで、講堂跡が見つかっていない。また、南門も位置は想定できているが、その場所を発掘できていないようで確認できていない。

金堂基壇の版築が分かるようになっているところが整備した人の心意気を感じさせてくれて面白い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  

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国分寺市文化財資料展示室

 

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鎌倉街道上道跡

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伝祥応寺跡

 
 
 

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府中市


武蔵台東遺跡

 
 
 

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高倉塚古墳(高倉26号墳)

高倉塚古墳群は、説明板には25基の古墳が確認されているとあるが、2019年に刊行された『新府中市史 資料編1』によると、幅400m、長さ700mの範囲に34基ありすべて円墳。それらのうち28号墳が前期末の築造で、中期の古墳が皆無(市内全体を見渡しても中期は5世紀後半に築造された白糸台1号墳の1基のみ)、残りはすべて後期以降で、市内全体的な傾向として、後期になって急激に古墳が造営されたことが分かる。

なお、多摩川左岸には荏原台古墳群から上流へ向けて、粗密はあるものの古墳が間断なく築造されているのに、高倉古墳群と白糸台古墳群の間は3㎞以上に渡って古墳がまったくない地帯が広がっており、そこには7世紀後葉に武蔵国府が置かれているため、6世紀以降、王権が意図的にその場所を確保していたという考えがある。

その地帯は住居跡は見つかっているが、国府に先立つ先行官衙的な遺構の発見があったかどうかは分からない。无邪志国造を祀る坪宮神社の存在を考えると、无邪志国造の居館があっても良さそうだが、无邪志国造の本拠は府中ではなく、埼玉古墳群の周辺であると考えている。

 
 

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高倉20号墳

 

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首塚(高倉27号墳)

 

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天王塚古墳(高倉29号墳)

 

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御嶽塚(御嶽塚5号墳)

西府駅前の一等地にある御嶽塚5号墳は、中・近世にも塚として使われたため、御嶽塚という通称で「古墳」は敢えて付けずに呼ばれている。

御嶽塚古墳群は、幅100m、長さ700mの範囲に20基が分布し、すべて後期から終末期前半の円墳。

 
 
 

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武蔵府中熊野神社古墳

国内に10基ほどしかない上円下方墳。一辺は32mで、終末期の築造。

段丘縁に展開する御嶽塚古墳群から500mほど内陸に入った場所に、ポツンと1基だけ築造されており、終末期の首長墓に多い「ひっそり型」の古墳。

横穴式石室は上総層群から切り出したシルト石の切石切組積みで、玄室・後室・前室からなる3室構造で各室の区切りには門柱石が据えられ、それに気持ちばかりの短い羨道とハの字に広がった前庭部が付く。

石室の全長は8.8mで、両袖式の玄室の平面形は胴張り、壁はドーム状に立ち上がり、天井高は3mある。床面には扁平な河原石が全体的に敷き詰められていたようで、その一部が残っていた。そして、石室の下は深さ2mにも及ぶ掘込地業が行われており、地盤をしっかり作った上に石室が造られていることが分かった。墳丘は寺院の基壇を造るときと同様な版築工法で構築されている。こういったかなり入念で頑丈な作りは終末期古墳に見られるものだが、ここまでしっかり作らなくても従来の工法で古墳は十分丈夫に造ることができる。

棺は残っていないが鉄釘が多量に見つかっていることから木棺であると考えられ、しかも追葬が行われて最低でも2つは据えられていた。

築造時期に関してはそれを決定づける遺物が見つかっていないため断定はできないが、7世紀中葉から後葉の間と考える研究者が多い。

 
 
 
 

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国史跡武蔵府中熊野神社古墳展示館

武蔵府中熊野神社に隣接する展示施設。実物大のレプリカの横穴式石室もあって入ることができる。切石切組積みの素晴らしい石室をコフンムシちゃんやコウモリさんに怯えることなく安全に見学ができる。

 
 
建物前には石室の平面表示がある

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熊野神社

 
 
 

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武蔵国府跡 国衙跡地区

旧甲州街道に並行して見つかった東西方向の2条の大溝と大國魂神社境内で見つかった南北方向の大溝によって、武蔵国府の中の国衙域が、東西約200m×南北約300mの範囲で判明。さらにその内部では100m四方の区画が見つかり、2棟の大型建物跡を検出。位置的に見ると正殿ではないが、正殿に匹敵する大型の建物であることは間違いない。現在は大型建物跡が検出された場所が小さな史跡広場として整備されいる。

 
 

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武蔵国府跡 国司館地区(徳川家康御殿跡)

国史跡・武蔵国府跡には、国衙跡地区のほかにもう一か所国司館地区というのがあり、少し前までイトーヨーカドーの駐車場だった場所だが、そこが数年前から整備されている。VRを使った最新の野外展示を見ることができる。

 
 

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武蔵国分寺参道口

 
 
 

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多磨寺跡

 

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武蔵国府八幡宮

 

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大國魂神社

由緒によると景行天皇41年(111)の創建。武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。

平安時代には武蔵国の総社となり、一宮から六宮までの6柱の神を祀ったため、六社明神あるいは六所宮と呼ばれた(大國魂神社という社号への変更は1871年)。

ただし、史料上の初見は『吾妻鏡』の寿永元年(1182)8月11日条で、頼朝が政子の安産祈願をした寺社の一つに挙げられていることから、平安末期には、大きな力を持った神社になっていたことは確実。

本殿中殿には、大國魂大神、御霊大神、国内諸神が祀られ、本殿東殿には、一宮・小野大神、二宮・小河大神、三宮・氷川大神が、本殿西殿には、四宮・秩父大神、五宮・金佐奈大神、六宮・杉山大神が祀られている。

現在の本殿は徳川4代将軍家綱の命により寛文7年(1667)に落成。

宮司の猿渡氏は戦国期には土豪として北条氏照に仕えて活躍、北条氏滅亡後は徳川家から500石という破格の待遇を得て、江戸期も土豪時代と変わらない影響力を持っていた。

近代の猿渡氏は歴史学への造詣が深く、境内の発掘を一部許すなどして武蔵国府跡解明に多大に寄与している。

なお、境内社には宮之咩神社があり、上野国の国府跡にある宮鍋神社や、下野国庁のど真ん中(正殿跡)に立つ宮野辺神社と並んで、国府と「みやのめ」の関係は何なのかを考えるのは面白いテーマである。

武蔵国の宮之咩神社の祭神はアメノウズメで、代々の国造が祀っていたと伝わり、例大祭でも他の境内摂社とことなり、宮之咩神社のみ特別に「宮之咩神社奉幣」という神事がある。

ただし、『府中市郷土の森博物館紀要 第15号』所収「国庁跡に建てられた社 -ミヤノメ神社小考-」(深澤靖幸/著)によると、国府が機能していた頃の国府に付随する神祇施設の後継ではなく、総社の制度や一宮の制度ができた11世紀末の頃に総社の機能の一端を担う神社として創建されたと考察している。

 
宮之咩神社(2016年9月11日撮影)
 

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馬場大門のケヤキ並木

国指定天然記念物(都内に15個しかない天然記念物の一つ)

 
 
 

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府中高札場

 
 

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馬霊塔

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天神社・日枝神社(国造山)

 
 
 
 

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坪宮

つぼのみや

大國魂神社の境外摂社。大國魂神社によると、祭神は、武蔵国造(むさしのくにのみやっこ)に任じられた兄多気比命で、出雲臣天穂日命の後裔にあたる。現在でも5月5日の大國魂神社の例大祭では、御旅所への神輿渡御の際に、大國魂神社より国造代が赴き奉幣を受けて長櫃に収め、それを各社御輿に献ずる国造代奉幣式が行われている。これは大國魂神社がかつて代々の国造から祀られていたことの名残であるという。

「武蔵」という表記は、奈良時代の良字改称以前は「无邪志(むざし)」などと記されていたことが木簡からも分かるが、『先代旧事本紀』によると、无邪志国造は、成務天皇の御代に出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうかもろおしのかむさのみこと)の十世の孫・兄多毛比命(えたもひのみこと)を任じたという(大國魂神社の由緒では、兄多「気」比命、旧事本紀では、兄多「毛」比命)。

武蔵には出雲の神を祀る神社がいまだに多いが、系譜上では无邪志国造は出雲臣と同祖となる。

旧事本紀では、无邪志国造のほかに似ている名前の胸刺国造が記され、兄多毛比命の子・伊狭知直(いさちのあたい)が任じられたとあるが、无邪志国造と胸刺国造は別個の国造とする説と同じ国造のことをさしているという説があり、決着はしていない。

国造がこの地に設置されたのは6世紀前半であると考えているが、「安閑紀」で述べられている「武蔵国造の乱」のもとになる歴史事実が6世紀前半に発生し、それにより无邪志国造に任命されたのは埼玉古墳群の勢力で、初代无邪志国造・兄多毛比の墓は、二子山古墳ではないかと考えている。ただし、埼玉古墳群の勢力はその後、荒川流域だけでなく、多摩川流域にまで影響力を及ぼし、兄多毛比は王権の許可を得たうえで、子の伊狭知直を多摩川流域に送り込み、それが胸刺国造として記録されたのではないだろうか。そして、伊狭知直は自身の父である兄多毛比を祀り、それが現在の大國魂神社のベースになったのではないだろうか。

 
 

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称名寺(藤原秀郷館跡)

 

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高安寺

 

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分倍河原古戦場跡 

 
 

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三千人塚 

 
 

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延文之板碑出土之地 

 
 

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国鉄下河原線廃線跡 

 

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府中用水跡

 

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石橋供養塔

 

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ふるさと府中歴史館

府中市には郷土の森博物館という立派な博物館があるのに、市役所の近くにはふるさと府中歴史館という施設まである。ただし、こちらは展示施設と呼ぶにはちょっと弱い。

武蔵国府跡を始めとした大量の遺跡発掘調査報告書を閲覧することができるので机上での調査が必要な場合は訪れるといいだろう。

 

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府中市郷土の森博物館

数年前にリニューアルしてさらに素敵な博物館になった。府中市内の遺跡に関して詳しく説明してあり、武蔵国府跡の展示は巨大なジオラマもあってとくに素晴らしいが、旧石器時代や縄文時代の展示も豊富で、また江戸時代の甲州道中の宿の展示もあり、府中市内のみならず東京の古代史を学ぶ場合は必ず訪れるべき博物館。

ミュージアムショップもあり、書籍などが充実している。

 
 
 
 
 
 

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