うるしやまこふん 100m以上? 10期 6世紀後半

 

説明板には墳丘長70m以上とあるが、最近の調査で100mを超える可能性が指摘されている

山上碑に登場する健守命の墓の候補地の一つ

横穴式石室が開口しているが中には入れない

古墳専用の駐車場がちゃんとあるので間違ってアパートの駐車場に止めないように

 

 

現地説明板

現地説明板(2020年8月22日撮影)

 

探訪レポート

亜撮鉄活動

 ※鉄道に関する記事が長く続くので興味が無い方は「漆山古墳探訪」の節にお進みください

 高尾駅発6時17分の中央線で八王子まで行き、八高線に乗り換えます。

 単線の八高線はのんびりとしたもので、途中の駅で結構な時間停車しながら高麗川駅までやってきました。ここからは非電化区間なのでディーゼルカーに乗り換えです。高麗川駅からがまた長いんですよね。

 9時くらいに高崎駅に到着。乗ってきたキハ110系を撮影。

 しかし東京のすぐ近くでいまだにディーゼルカーが活躍しているなんて面白いですね。

 向こうホームには上信電鉄の車両が止まっています。

 遠くにはブルートレインチックな客車が見えます。

 SLを運転するときにけん引されるようです。

 東海道線直通電車。

 さて、本日の集合場所は上信電鉄の「佐野のわたし」駅です。

 今日は初めて上信電鉄に乗りますよ!

 上信電鉄はSUICAが使えず切符なのだ。

 いいねえ。

 7年前の2013年に初めて高崎の古墳探訪をして、そのときは入場券を買って上信電鉄の車両を撮影し、「いつか乗りたいなあ」と思っていました。

 今日は7年越しの願いが叶いますね。

 電車が出発するまで写真撮影。

 あれ、こんなのは以前あったっけな?

 車両の中にジュースの自販機が置いてあったりして、待合室になっていますよ。

 でも今はコロナのために自販機前より奥には入れなくなっています。

 しかしこういうのは面白い工夫ですね。

 車両の塗装ではこういったツートンが一番好きです。

 やはり、子供の頃にしょっちゅう乗っていた新京成の影響かなと思います。

 当時の新京成は上部が肌色で下部が赤紫のツートンで、赤紫のパンツをはいた上半身裸の人間に酷似していました。

 待合室として使われている車両にはベタベタといろいろなものが貼られていて楽しい。

 「ぐんまちゃん、ゆるキャラグランプリ2014年優勝」とか。

 上信電鉄はいろいろな車両があって楽しいですね。

 富岡製糸場とか群馬サファリパークとかのラッピング。

 群馬じゃなくて富士サファリパークだったら子供の頃、父に何度か連れて行ってもらったなあ。

 ほんとにほんとにほんとにほんとにライオンだ・・・

 今度は自分が乗る車両の中を撮影。

 定刻の9時25分になり、電車は出発します。

 高崎駅を出て2つ目の佐野のわたし駅で降ります。

 ワンマン運転で降りるときに運転士さんに切符を渡しました。

 乗ってきた車両が出発します。

 烏川を渡っていきますよ。

 佐野のわたし駅は小さな無人駅です。

 2014年に開業した上信電鉄では最も新しい駅です。

 ところで、上信電鉄という名称からすると上野(群馬県)と信濃(長野県)を結ぶ路線かと思うかもしれませんが、終点は群馬県下仁田町の下仁田駅で、開業キロ数は33.7㎞となっています。

 以下、「Wikipedia」を元に上信電鉄の歴史を述べますと、鉄道ができたきっかけは、明治4年(1871)に官営の富岡製糸場が操業を始めたことで、乗合馬車の開業を経て、明治28年(1895)に上野(こうずけ)鉄道株式会社が設立され、明治30年(1897)には現在と同じ高崎~下仁田感が開業し、当初は客車と貨車が混合の列車が2時間半もかけて走っていました。

 その後、大正10年(1921)に社名を上信電気鉄道に改名し、電化と線路幅の1067㎜への改軌を行い(今のJRと一緒)、近代鉄道に生まれ変わったのです。

 このときに付けた会社名が現在の会社名のルーツになりますが、名前の由来は長野県佐久地方の中込まで延伸する計画があったためです。

 下仁田から中込までは直線距離で27㎞くらいあり、中込まで行くと現在のJR小海線(八ヶ岳高原線)に連絡できたのですが、今のところ(?)そこまでは開通していません。

 そして、昭和39年(1964)には社名を現在の上信電鉄に改名します。

 次の駅の根小屋って思い切り城跡がありそうな駅名ですね。

 ホームには説明板が設置してあります。

 参加者が全員集合するまでしばし待機。

 烏川の対岸は観音山丘陵です。

 水面は見えませんね。

 高崎行きの電車が来ました。

 日野自動車ラッピングです。

 何人かの乗客を乗せて出発しました。

 今度は高崎方面から参加者が乗った電車が来ましたよ。

 電車を見送ります。

 あれ、なんかこの電車、上越線で見たのと似ている。

JR上越線(2015年5月4日撮影)

 ※帰宅後に調べたら、上述の電車(700形)は元々はJR東日本の107系で、2019年3月から上信電鉄で走り始め、上の写真のように上越線と同じ塗装で走っているものもありますが、私が高崎から乗ってきた車両も旧107系で、他にも群馬サファリパークや下仁田ジオパークのラッピング電車や、上信電鉄の旧標準色で塗装した車両もあって、現在は5編成が運用されているそうです。

 

 

漆山古墳探訪

 上信電鉄の佐野のわたし駅から徒歩7~8分の場所に古墳があります。

 地形図で見ると、佐野のわたし駅周辺は烏川の旧河道ではないかと思え、登り坂を上ると古代においても段丘の上となり、すなわち古墳が築造される場所になります。

 上の写真の車はアパートの駐車場に止まっている車です。分かりづらいですが、古墳の専用駐車場は別にありますので、間違ってアパートの駐車場に止めないように気を付けましょう。

 漆山古墳は、軸線を東西にとった前方後円墳で、駅から歩いてくると、後円部のある西側からのアプローチとなります。

 この周辺には佐野古墳群と呼ばれる古墳群が展開しており、東側に流れる烏川の支流・粕沢川の対岸には、倉賀野古墳群が展開しています。

 佐野古墳群には80基以上の古墳が確認されていますが、現在墳丘を残している古墳は僅かで、古墳群最大の古墳がこの漆山古墳で、説明板には墳丘長70m以上とありますが、2022年6月に高崎市教育委員会の方から聴いたところによると、最近の調査でもしかしたら100mを越える古墳だったかもしれないことが分かったそうです。

 説明板では被葬者は佐野屯倉(さののみやけ)の管理者と推定しています。屯倉というのはヤマト王権が列島各地に設置した直轄地のことで、ヤマト王権は6世紀前半の継体天皇の時代になっても、まだ関東・東北や九州を完全な支配下に置くことはできていませんでした。

 ただ、ヤマト王権とすれば中央集権へ向けて動いていたため、少しずつ支配地域を増やす努力をして、小地域ごとに点と点を結ぶ形で支配を進めていったのです。

 もちろんその際には、各地域の重要拠点(陸上・水上の交通の要衝や経済的に恵まれた場所など)を抑えることを目標としましたが、広大な関東地方にはまだまだ未開発の地域があったため、そういう場所にも新規に進出した様子が伺え、各地の古墳群を見てみると、渡来系の人たちがかなり活躍したようです。

 日本書紀を読むと、継体天皇の次の安閑天皇(在位期間は531年から535年か)のときに屯倉の設置が異様に多く書かれており、上毛野では緑野屯倉が設置されたとあり、6世紀前半が全国的に屯倉の設置が進んだ時期であったことを示しています。

 佐野屯倉や緑野屯倉の場所については、若狭徹さんは、『国立歴史民俗博物館研究報告 第211集』所収「東国における古墳時代地域経営の諸段階」にて、佐野古墳群が展開する地域と烏川の対岸地域を佐野屯倉とし、南の藤岡市周辺を緑野屯倉に比定しています。

 説明板の図を利用して示すと、佐野屯倉と緑野屯倉の位置はこのようになります。

現地説明版の図に加筆して転載

 緑野屯倉の地には、七輿山古墳があります。

七輿山古墳(2017年10月25日撮影)

 七輿山古墳は墳丘長150mを誇る大型前方後円墳で、七輿山古墳が築造された6世紀前半の時点では、関東・東北で最も大きな古墳です。

 七輿山の時代はちょうど継体天皇の今城塚古墳と重なり、その天皇の古墳ですら190mですから七輿山古墳の被葬者がいかに力を持っていたのかが分かるでしょう。

今城塚古墳(2019年1月4日撮影)

 話をこちらの地域に戻します。

 緑野屯倉に関しては、上述のように日本書紀の安閑紀に出てきますが、佐野屯倉は日本書紀には出てこず、「上野三碑」(すべて高崎市内に所在)と呼ばれている金井沢碑山上(やまのうえ)碑で確認することができます。

 古墳の前の説明板にもチョロッと写真が載っていますね。

 左の金井沢碑には「三家子□」(□は判読不能)と見え、右の山上碑には「佐野三家」と刻されており、「三家」はミヤケのことです。ちなみに、本物の金井沢碑はこちらです。

金井沢碑(2019年2月6日撮影)

 こちらが山上碑。

山上碑(2019年2月6日撮影)

 ついでに今は関係ないですが多胡碑も。

多胡碑(2022年6月4日撮影)

 上野三碑には公式サイトがあり、そこに碑文の現代語訳が載っており、「佐野三家」の文字が見える山上碑の訳文を転載させていただくと以下の通りになります。

 「辛巳年(天武天皇十年=西暦六八一年)十月三日に記す佐野屯倉をお定めになった健守命の子孫の黒売刀自。これが、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣に嫁いで生まれた子である(わたくし)長利僧が母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧」

  高崎市教育委員会の上野三碑解説サイト

 山上碑が建立されたのは、天武天皇10年(681)で、古墳が築造されてから100年ほど経っています。山上碑を建立したのは放光寺の僧である長利という人で、長利は母の黒売刀自のためにこの碑を建てたのですが、黒売刀自は、佐野屯倉を定めた健守命の子孫と刻されています。ということは、漆山古墳の被葬者は健守かもしれませんよ。

 一方の金井沢碑は、神亀3年(726)に建立され、内容に関しては現地の説明板が分かりやすいのでそれを示して私は楽をします。

 ここに記されている三家を名乗る一族が、屯倉の管掌者の子孫とされ、つまりはここ漆山古墳に埋葬された人の子孫の可能性があるわけですね。

 古墳の話に戻しましょう。

 石室についてですが、石室は観音山丘陵が原産の凝灰岩の切石積みによって構築され、羨道と玄室からなる2室構造で現存長は7.8m、そのうち玄室の長さは3.7mで幅は2.4mあります。

 玄室の高さはこの図で見ると2m以上はあって、普通に人が立つことができますね。玄室は遺体を安置する場所ですが、必ずしも棺に納められたわけではありません。漆山古墳の場合は、玄室の平面形がやや六角形を呈しているのが気になるところです。

 羨道から玄室に入るときに横幅が広くなりますが、両側が広くなっているこのような形のことを両袖式といい、石室によっては片側のみ広くなる片袖式や、羨道と同じ幅で玄室が造られた無袖式もあります。また、石の形を見てみると、玄室だけが切石積みになっており、玄室側壁の下の方の石はかなり大きいですね。さらに一般的には奥壁の石も大きなものを使いますが、それはここも一緒です。

 なお、既述した通り墳丘は後期古墳でありがちな東西方向を軸として築造されており、陽当たりのよい南側に石室が開口していますよ。

 横穴式室は現在は中に入ることはできません。

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 柵の隙間にカメラを突っ込んで撮影を試みますが、ここは撮りづらい・・・

 奥壁の一部。

 玄室の床には平らな形状の石が敷かれているのが分かりますね。

 本当は石室内に入ってもっとも大きな石である天井石などを確認したいのですが、こういう場合は仕方がないです。

 少し大きめな石が墳丘の裾に転がっていますが、これは葺石ではなく、石室の羨道に使った石でしょう。

 羨道は半ば破壊されており、現在フェンスが設置されている場所は本来であれば羨道の中ほどの位置になります。

 ではつづいて墳丘を観察するために前方部側へ回ってみましょう。前方部は見事にバッサリと切断されていますね。

 前方部は半壊というより全壊に近いかも知れません。

 ここで墳丘図を見てみましょう。

 後円部の外側(私たちが歩いてきた道路)は発掘調査を行っているようで、周溝と外堤と区画溝が描かれていますが、区画溝の実態を知りたいです。

 普通だったらこれは二重堀と考えていいと思うのですが、中堤とせずに外提と表現してあったりして、この図を作った人は二重堀とは認めていないのでしょう。

 前方部側から後円部側を見ます。

 墳丘には辛うじて登れるようです。それほど高さはなくても、やはり墳頂からの見晴らしはそれなりにいいですね。

 後円部墳頂から前方部方向を見ます。

 古墳の周辺は完全に宅地化されており、こういう場合、墳頂でカメラを構えるのってちょっと気が引けますね。

 

周辺の古墳

 漆山古墳から、新幹線の高架下の道に戻ろうとすると、小さな墳丘がありました。

 佐野村28号墳です。

 既述した通り、この周辺には往時は80基の古墳がありましたが、数少ない生き残りの一基ですね。

 新幹線の高架の向こう側に赤い鳥居が見えるので、ちょっと寄り道してみましょう。

 定家(ていか)神社です。

 鎌倉時代の歌人・藤原定家を祀る神社ということですが、珍しいですね。

 おっと、拝殿の横に墳丘がありますよ。

 佐野村30号墳です。

 意外と古墳が生き残っていて嬉しい。

 道路沿いにも目立たない感じで一基ありました。

 佐野村32号墳です。

 ちょっと寄り道したので、軌道修正しましょう。

 と思ったらまた神社がありました。

 放光神社?

 どこかで聴いたことがあるような名前だけど・・・

 そうか、ここも放光寺の候補地の一つなんですね。

 こういう異説は面白いです。

 では、古墳めぐりの続きをします。

 

周辺のスポット

大鶴巻古墳

 

参考資料

現地説明板
『国立歴史民俗博物館研究報告 第211集』所収「東国における古墳時代地域経営の諸段階」(若狭徹/著・2018)
『群馬の古墳物語 下巻』(右島和夫/著・2018) P.30~

『古墳時代東国の地域経営』(若狭徹/著・2021)

 

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