最終更新日:2022年10月8日

 

 福島県のみならず、東北地方全体、もっというと関東地方も含めたそれらの地域に関しては、弥生時代にクニが発生して、それが発展して古墳時代を迎えるというような「西日本的」な歴史の進展はありませんでした。関東・東北でなぜクニが発生しなかったかというと、灌漑稲作が安定して営まれなかったのが最大の原因と考えます。

 現地講座ではこのことについてよく話していますが、関東・東北の多くの地域では、灌漑稲作のように組織化された大人数によって何かの労働を行うようなシステムが成立しませんでした。もしそのようなシステムができた場合は、必ずそれを指導する人びとがいますから、彼らが支配者層となってクニが生まれたでしょう。また、外圧から自分たちを守るために組織化して、それがクニに発展することもありませんでした。

 もちろん、西日本でクニという政治的な集団が普通に見られた弥生時代後期に、関東や東北でも灌漑稲作が営まれていた地域がありましたが、九州や中国地方にある弥生墳丘墓(特定集団墓や特定個人墓など)は関東・東北では築造されていません。このことから、他者よりも高い地位にいる「王」の存在が認められないのです。関東・東北の弥生時代にはまだ縄文時代的な様相が残っていました。

 ではなぜ、そんな組織化された社会がない場所に古墳時代の幕開けとともに突如として古墳が造られたのでしょうか。それは、関東や南東北も弥生時代終わりころの全国的な人びとの移動の渦に巻き込まれたからで、西からやってきた人びとが、関東や南東北において西日本的な社会システムで人びとを組織化して今までになかった新たな社会を創出し、古墳を造ったのです。

 長野県も山梨県も神奈川県も、そして東京都や埼玉県、群馬県も濃尾からやってきた人びとによって3世紀半ばから4世紀初めの頃、西日本的な社会の幕が開けました。それらの地域では、西からやってきた「違う文化の人たち」が古墳を築きました。

 では、前期古墳が多く見られる福島県も濃尾勢力によって古墳が造られたのでしょうか。

 福島県は浜通り、中通り、会津の3地域に分けて語られることが多く、それぞれの地域で文化的な違いが見られるため、以降は地域ごとに分けて述べますが、その前に東北地方の古墳編年を確認してください。

『倭国の形成と東北』(藤沢敦/編)より転載

 

『倭国の形成と東北』(藤沢敦/編)より転載

 これは東北全体の編年図なので、福島県域だけを見ようとするとちょっと分かりづらいと思いますが、浜通り、中通り、会津盆地の列で福島県の古墳を確認してみてください。

 

目次

第1章 会津地方

 (1)杵ガ森古墳・稲荷塚遺跡

 (2)田村山古墳

 (3)鎮守森古墳

 (4)亀ヶ森古墳

 (5)会津大塚山古墳

 (6)山陰の文化の伝播

第2章 中通り地方

 (1)大安場古墳 coming soon!

 (2)団子山古墳

 (3)原山1号墳

 (4)下総塚古墳

 (5)龍ヶ塚古墳

 (6)前田川大塚古墳 coming soon!

 (7)泉崎横穴

 (8)野地久保古墳

 (9)谷地久保古墳

 

 

第1章 会津地方

 会津地方は、弥生時代終末期から古墳時代初頭にかけての遺跡で北陸地方(具体的には能登周辺)の影響を受けた土器が多数見つかり、北陸と同様に平面形が方形の住居跡も検出され、さらには、それまで地元の人びとが構築してこなかった周溝墓も多数見つかっています。

 

 

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杵ガ森古墳・稲荷塚遺跡|会津坂下町

 弥生時代後期の会津盆地では、在地の土器型式である天王山(てんのうやま)式土器が使われていました。

会津坂下町・能登遺跡出土(福島県立博物館にて撮影)

 ところが、弥生末期から古墳時代初頭の遺跡では、天王山式土器の流れを汲まない土器が見つかります。その弥生末期から古墳時代初頭の様相を知るのに格好の遺跡が会津坂下町にあります。稲荷塚遺跡と呼ばれる周溝墓群と杵ガ森古墳という前方後円墳です。

 下の土器は稲荷塚遺跡で出土した古墳時代が始まった頃の土器で、頸の部分に水平に連続して刻み目を入れる北陸の土器の特徴を備えています。上でお見せした天王山式土器とは少し時代が異なりますが、器形も文様もまったく違うことが分かると思います。

会津坂下町・稲荷塚遺跡出土(福島県立博物館にて撮影)

 稲荷塚遺跡は、今までとは違う見た目の土器が出ただけではなく、それまでの会津地方になかった周溝墓が構築されており、現地に行くとその復元を見ることができます。ブリッジが一辺の中央に付く方形周溝墓が多いですが、ブリッジ部分が拡張された前方後方形周溝墓もあります。

 こちらはブリッジが一辺の中央に付く方形周溝墓。

会津坂下町・稲荷塚遺跡

 写真左側にブリッジがあります。

 一方こちらは前方後方形周溝墓。

会津坂下町・稲荷塚遺跡

 これで墳丘が高ければ前方後方墳といってもよいような佇まいですが、このように稲荷塚遺跡は方形周溝墓や前方後方形周溝墓の復元が見られる全国的に見ても貴重な遺跡です。

 これらの周溝墓群は北陸の文化の影響で構築されましたが、この遺跡は北陸一辺倒というわけではなく、一部の研究者から箸墓古墳の6分の1の相似形と言われている墳丘長46mの前方後円墳である杵ガ森古墳も築造されています(註:私自身はいわゆる相似形墳の研究論には全体的に懐疑的です)。

会津坂下町・杵ガ森古墳

 復元の墳丘が低すぎて分かりづらいですが、前方後円墳が復元されていますね。後方部の先端は、箸墓古墳などの初期前方後円墳にたまに見られる「バチ形」をしていると言われています。

 そして稲荷塚遺跡からは畿内の土器によく似た甕も出土しています。

会津坂下町・稲荷塚遺跡出土(福島県立博物館にて撮影)

 杵ガ森古墳の築造時期は、福島県立博物館では3世紀後半としており、周辺の稲荷塚遺跡の周溝墓群もそれと近い時期のものとしています。ということは、北陸と畿内というまったく違う地域に出自を持つ人びとが同じ場所で一緒に墓を造っていたということになります。

 富山や石川などの古墳を訪れて調べた感触では、越中や能登は古墳時代前期後半まで頑なにヤマトの干渉を拒んだ印象があります。これはぜひ実際に富山・石川の現地講座に参加いただいてご自身の目で確認していただきたいのですが、どうも越中・能登はヤマトと仲良くなるのが列島各地で最も遅かった感じがしてなりません。日本海側沿岸は北部九州や出雲の存在のせいかヤマトとしては影響を及ぼすのに苦労した地域と言えます。

  越中・能登・加賀の現地講座

 その北陸勢力と畿内勢力が同居しているという稲荷塚遺跡は非常に興味深い遺跡なわけですが、杵ガ森古墳やその周辺の周溝墓に関しては、一個一個もっと細かく時代を調べていく必要があるでしょう。もしかしたら北陸と畿内で世代が1世代違うなどが原因となって混在しているように見えるだけかもしれません。

 ちなみに、太平洋側の長野・山梨・静岡・神奈川・東京などはヤマト王権の発足からいくばくもなくしてヤマトの影響下に入ったように見えます。これはヤマト王権の「東日本事業部」であった濃尾の勢力の活躍のお陰だと思います。

 いわずもがなことですが、現代の会津地方は郡山などがある中通りと同じ福島県で、高速道路を使えばすぐに行き来ができます。ところが、前近代においては、阿賀野川(阿賀川)によって新潟平野方面と文化的な繋がりが強かったのです。西からの文化は、阿賀野川を遡上してやってきました。

 

 

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田村山古墳|会津若松市

 上述の杵ガ森古墳は、会津地方最古の前方後円墳といわれていますが、それと同じくらい古い前方後円墳があります。会津若松市の田村山古墳で、墳丘長は25m、平野部に築かれており、田んぼの真ん中にポツンと佇む可愛らしい古墳です。

会津若松市・田村山古墳

 昭和初期に墳丘が削られた際に、内行花文鏡2面ほかの遺物が出ており、鏡は意図的に割られていました。

 現地説明板には、古墳の築造時期は4世紀ごろと記されているのですが、このような破鏡の出土を見ると、古墳の築造時期は3世紀後半まで遡ると考えられ、杵ガ森古墳と同じく会津最古級の古墳と考えられます。

 さて、東日本の大部分の地域では、前方後円墳の築造に先立って、その地域では前方後方墳が築造されることがポピュラーです。地域によってはさらにその前段階に前方後方形周溝墓が築造される場合もあります。

 会津でも既述したように稲荷塚遺跡で前方後方形周溝墓が築造されました。では、その近くに前方後方墳は存在するのでしょうか。ここで、会津の古墳の大まかな分布を見てみましょう。

『シリーズ「歴史を学ぶ」029 東北古墳研究の原点 会津大塚山古墳』(辻秀人/著)より転載

 この図で示されている通り、会津盆地には大きく3か所の大型古墳集中地帯があり、杵ガ森古墳は、宇内青津古墳群に含まれます。上図を見ると宇内青津古墳群内には2基の前方後方墳があり、鎮守森古墳ともう1基は名前が書いていませんが、森北1号墳です(上図は墳丘の向きは忠実ですが、大きさは反映されていません)。

 その2基の前方後方墳の内、古い方が森北1号墳です。森北1号墳は、会津坂下町の公式サイトによると、平成10年に発掘調査がされ、墳丘長は41.4m、主体部の掘方は6.7m×2mで舟形木棺の痕跡が認められ、副葬品の中には、放射状区画珠文鏡という全国的に類例の少ない銅鏡がありました。東北地方において前方後方墳から銅鏡が出土した初めての例となります。

 また、周溝や墳丘付近からは赤彩された二重口縁壷などが見つかり、これらの土師器は、男壇遺跡や上述した稲荷塚遺跡、会津若松市の堂ケ作山古墳から出土した土器と似ており、以上のことから、築造時期は4世紀の前半と考えられています。

 現状では、森北1号墳は会津の前方後方墳としては最古級ですから、前方後円墳の杵ガ森古墳の方が早く築造されています。つまり、会津は前方後円墳の築造に先立って前方後方墳が築造されるという東日本での一般原則に当てはまらないのです。この問題は、中通り地方でも同様ですので、中通り地方について述べるときに併せて考えてみようと思います。

 なお、田村山古墳からは濃尾のパレススタイル土器が出土しており、濃尾勢力の影響も気になるところです。

 

 

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鎮守森古墳|福島県会津坂下町

 鎮守森古墳は、墳丘長は55mの前方後方墳です。結構大きいため、会津で最大の前方後方墳かと思いきや、70mを越えると推定されている舟森山古墳が最大となります。鎮守森古墳は、福島県内で最大にして東北地方で2番目に大きい前方後円墳である墳丘長127mの亀ヶ森古墳と並んで築造されています。

現地説明板
現地説明板

 亀ヶ森古墳については後述しますが、鎮守森古墳と亀ヶ森古墳がある場所は、会津盆地でもっとも標高が低い場所で、昔は大雨の際に水害を受けやすい場所でした。水害によって周囲が水没すると、二つの古墳は池に浮かぶ亀の姿に似ていたと伝えられています。

鎮守森古墳(左側が後方部)

 現地説明板を見ると周堀が描かれています。元々水堀ではなかったとは思うのですが、低地にあるせいかいつも水が溜まっている個所があります。下の写真の後方部の手前裾辺りがその場所です。

鎮守森古墳(後方部側から見る)
鎮守森古墳(前方部側から見る)

 鎮守森古墳の築造時期に関しては、二重口縁壺が見つかっているようなので確定し易そうな気がしますが、上に掲載した2つの説明板は、それぞれ4世紀中頃と4世紀後半と違う記述をしています。『倭国の形成と東北』(藤沢敦/著)の編年図では、亀ヶ森古墳と同時期の4世紀後半としています。普通考えたら、亀ヶ森古墳よりも鎮守森古墳の方が古いと思いますが、ここは会津なのでそう短絡的に決めることはできません。

 

 

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亀ヶ森古墳|福島県会津坂下町

 既述した通り墳丘長127mは福島県で最大、現状では東北地方では、宮城県名取市の雷神山古墳(168m)について2番目の大きさを誇ります。

亀ヶ森古墳(後円部側から見る)

 後円部には日本遺産「会津の三十三観音めぐり」の青津観音堂が建っています。

 また、その隣には人工的な塚のようなものがあります。

 塚のようなもの前には説明板があります。

 ここでも北陸地方との関連について述べられていますね。ここに記されている通り、両古墳の西側には、男壇(おだん)遺跡、中西遺跡、宮東遺跡が連なっており、圃場整備に先立つ調査だったためか、現在はまったく痕跡をとどめていませんが、多くの周溝墓が見つかっています。

 『シリーズ「歴史を学ぶ」029 会津大塚山古墳』(辻秀人/著)に掲載されている図によると、男壇2号・3号・4号墓、宮東2号墓が前方後方形周溝墓で、宮東1号墳が前方後円墳です。

 それらの周溝墓や古墳は、位置的に見て亀ヶ森古墳に従属した人びとの墓であると考えられ、その人びとの墓から北陸系の土器が出ているということは、亀ヶ森古墳や鎮守森古墳の被葬者の先祖も北陸に出自を持っていた可能性があります。

 既述した通り、会津では古墳時代始まりの頃の畿内の土器も出ていることから、畿内に出自を持つ大型古墳の被葬者が北陸に出自を持つ人びとを傘下に収めていた可能性もありますが、こういうのは本当は亀ヶ森古墳や鎮守森古墳の主体部を掘ってみれば、多くのことが分かります。でも掘れないんですね。

 亀ヶ森古墳の前方部は現代の墓地となっています。

 古墳を現在も墓地として利用するケースはたまに見受けられますが、東北地方はその傾向が他の場所よりも強い印象を持っています(具体的に数を数えたわけではないので、あくまでも印象です)。

 亀ヶ森古墳の築造時期は、4世紀の後半で、この時期は興味深いことに東北地方全体でその地域最大の前方後円墳が築造された時期です。前述の雷神山古墳もそうですし、山形県の稲荷森古墳、宮城県の青塚古墳、いわき市の玉山古墳、そして前方後方墳になりますが郡山市の大安場古墳などです。

 4世紀後半に東北各地で最大規模の古墳が造られる理由は、ちょうどこの時期、北東北にいた続縄文文化人(アイヌの先祖)が積極的に南下を始めていたため、現地の首長たちが交易で得たものを王権に納めさせることへの見返りとして、ヤマトが東北地方各地の首長を優遇したのが理由の一つではないかと私は考えています。これについては、エミシとの関連を含めて詳しく述べる機会があるでしょう。

 

 


会津大塚山古墳|会津若松市

 一箕古墳群では、古墳時代前期前半に白虎隊で有名な飯盛山の頂上に墳丘長60mの前方後円墳である飯盛山古墳が築造され、つづいて、堂ヶ作山の頂上に墳丘長84mの堂ヶ作山古墳、そして前期後半初頭(4世紀前半)に墳丘長114mの会津大塚山古墳が築造されました。

 会津大塚山古墳の発掘は、1964年5月に行われましたが、その目的は当時編纂が進められていた『会津若松史』の新ネタを仕入れるためです。会津若松の古代史を書くうえで、いまいちパンチがないということで掘って見ることにしたのですが、それが大当たりでした。それまで東北地方の古墳は「掘っても何も出ない」と言われていたのですが、その常識を覆し、多数の副葬品の中には三角縁神獣鏡も含まれており、古墳そのものも重要ですが、「東北の古墳調査史」を語る上でも非常に重要な意味を持つ古墳なのです。

 後円部中心からは、南北2基の主体部が見つかり、両者とも割竹形木棺の直葬でした。北棺の長さは6.5m、南棺の長さは8.8mあり、南棺からは三角縁神獣鏡が見つかっています。宮城県多賀城市の東北歴史博物館には、南棺の模型が展示されています。

 

 

山陰の文化の伝播

 弥生時代の後半に出雲を中心として四隅突出型墳丘墓(よすみ)が造られました。下の写真は島根県出雲市の西谷墳墓群にある2号墓ですが、よすみは、弥生時代の終末期にはこのような姿にまで発展しました。

島根県出雲市・西谷2号墓

 よすみは、3世紀半ばの古墳時代の始まりにはすでに築造されなくなりましたが、方形の4つの隅が舌状に延びたこの形状のものは福井県や富山県でも見つかっており、それらも研究者の間では「よすみ」として認められています。

 さらにそれよりも遠く、会津地方でもそれに似たものが見つかっており、喜多方市の舘ノ内遺跡でみつかったそれは、四隅突出型墳丘墓と呼ぶ研究者こそ少ないですが、福島県立博物館の展示では、「四隅突出墓に似たもの」という微妙な表現で紹介しています。舘ノ内遺跡では、北陸系の甕が出土しています。

喜多方市・稲荷塚遺跡出土(福島県立博物館にて撮影)

 もちろん、出雲の人びとがいきなり会津にやってきて造墓したわけではなく、北陸の土器が共伴していることから分かるように、よすみの文化を保持していた北陸の人びとがやってきてこの地に拠点を構えたということになります。その墓を作った人のお祖父さんが出雲の人だった、という具合でしょう。

 このように古墳時代幕開けの頃の会津地方は、日本海側の文化の影響が濃厚だったわけですが、畿内(おそらくヤマト王権)も北陸勢力の後を追うように会津地方に影響を及ぼし始めていました。また、関東甲信と同じく、会津地方は濃尾勢力の影響も受けています。濃尾勢力との絡みについて、中通り地方について述べるときに一緒に述べます。

 

 

第2章 中通り地方

 

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大安場古墳|郡山市

 

 

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団子山古墳|須賀川市

 以前は径40mの前期の円墳であると言われてきましたが、前方後円墳だったと考える研究者もいて調査を続けていたところ、2017年の第7次調査によって前方後円墳であることが確定しました。その当時は65mとされていましたが、現在須賀川市のホームページを見ると67mと記されています。

 須賀川市の北隣の郡山市には前期古墳として著名な大安場古墳があります。団子山古墳は大きさでは大安場古墳に少しおよびませんが、堂々たる前期の前方後円墳がこの地にあったというのは、東北地方の古墳時代を語る上では結構大きな発見です(冒頭に掲示した編年には団子山古墳は反映されていません)。

 しかも、東北の前期古墳としては初めて埴輪列も見つかりました。東北地方において、前期の段階で埴輪列を備えた古墳が実際に見つかったということも大変意義があることです。

 私が訪れた2019年の時点では、まだ説明板には円墳とありました。

 

 

22?
原山1号墳|泉崎村

 推定墳丘長22mの非常に小さな前方後円墳ですが、見事な形象埴輪がいくつも出土したことで一躍有名になりました。現況は、どこに古墳があるのか分からないような状態になっています。

 事実、封土はほとんど残っていません。

 説明板に書かれている通り、この古墳の調査のきっかけになったのは、地元の子供たちが見つけた力士埴輪でした。

 その後の発掘で、素晴らしい埴輪が続々と見つかったわけですが、出土した形象埴輪たちはほとんど福島県立博物館に拉致されてしまったため、泉崎資料館に展示されているのはレプリカです。でも、これらの発見のきっかけとなった記念すべき力士埴輪のみ、本物が泉崎資料館で展示されています。

 見よ、この堂々たる土俵入り!

 面白いことにここ泉崎村では、江戸時代に音羽山という力士が出て、天下無敵の大関・雷電を倒したこともありました。

 音羽山が強かったのは力士埴輪以来の泉崎村の伝統だ!

 なんていうことはもちろんないのですが、こういう話は個人的に好き。

 泉崎資料館の敷地内には、音羽山の碑も立っています。

 

 


下総塚古墳|白河市

 関東では後期に100m級の大型前方後円墳が数多く造られますが、東北では、福島県いわき市にある塚前古墳が95m以上120m未満で、かなり幅があるものの東北最大の後期古墳となり、それに次ぐのが、この墳丘長71.8mの下総塚古墳です。他には、50mを越える前方後円墳は存在しません。

 ただし、現状は墳丘がかなり削られており、気の毒な状況になっています。田んぼの真ん中にあるのですが、本来の威容は想像できないほど目立たないです。

 

 

 

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龍ヶ塚古墳|天栄村

 田んぼの真ん中にポツンと墳丘が佇んでいます。

 最初に訪れた時は、田んぼの真ん中にある古墳なので、きっと遠くからも目立つから見つけるのは簡単だろうと思ったのですが、なかなか見つからず、結局たまたま道路で立ち話をしていた地元のご婦人に聴いて見つけることができました。

 墳丘長は36mですし、それほど高さもないので、遠くからは見つけづらいです。ちょうど夕方でしたので、視力の悪い私には尚更不利な状況でした。でも今ならスマホがあるからすぐに見つけることができるでしょう。

 説明板は滅亡の危機に瀕しています。

 墳丘長は36mで周溝も備えていますが、改変されてしまっているとのことです。6世紀中葉の築造ということですが、帆立貝式というのは実際の墳丘を見る限りでは当てはまらず、関東・東北で一般的に見られる後期古墳の形状をしています。真横から見てみましょう。

 説明板には興味深いことが書かれています。この古墳の西方には「こくぞう遺跡」というものがあるというのです。「こくぞう」はすなわち「国造」のことですが、そういうネーミングが残っているのは実は凄いことで、「こくぞう」なんて一般的な言葉ではありませんから、中世とか江戸時代とかに付いた名前ではなく、実際に国造が君臨していた頃か、まだその記憶が残っている頃から、この辺を地元の人が「こくぞう」と呼び続けていた可能性が高いと考えます。

 そうするとどの国造でしょうか。

 先代旧事本紀を参照すると、岩背国造が該当しそうです。可能性としては、こくぞう遺跡には国造の居館があって、この龍ヶ塚古墳が国造の墓であったと考えることができます。

 ただし、岩背国造の墓の候補としては、前田川大塚古墳も挙げることができるので、この辺はきちんと考古学的に調べてから考察すべきで、速断はやめておきましょう。

 

 


前田川大塚古墳|須賀川市

 

 


泉崎横穴|泉崎村

 東北地方を代表する装飾古墳ですが、高塚古墳ではなく横穴墓です。泉崎横穴が造営されたのは、6世紀末から7世紀初頭と考えられています。現況は写真の通りで、通常は石室は未公開で、毎年10月の第2土曜日が公開日となっています。

 説明板に書いてあることの復唱のようになってしまいますが、元々は羨門、羨道、玄室という構造でした。現在は羨門は失われており、短い羨道の奥に両袖式の玄室があり、玄室は、幅1.95m×奥行き2.1mでほぼ正方形に近く、天井高は1.12mでドーム状を呈しています。棺は見つかっておらず、玄室奥の一段高い場所に遺体を安置したようです。床には排水溝もあります。

 装飾壁画にはペイント系と線刻系がありますが、泉崎横穴はペイント系で、朱色一色が使われています。ペイント系はさらに抽象文系と絵画系に分けられますが一部抽象的な文様も見えるものの絵画系です。

  

 


野地久保古墳|白河市

 古墳時代終末期の7世紀後半から8世紀初頭に築造された古墳です。年代決定の決め手となる遺物が見つかっていないことから、かなり推定の幅が広いですが、教科書的な説明をすると、そのころの日本は、大化改新のあと、律令国家建設に向けて邁進していた時代です。世の中の流れ的には、古墳を造るより寺院を造る方にシフトしている時代ですが、天皇はまだ古墳を造っていましたし、いまだ古墳築造が流行っていた時代です。

 さて、古墳時代終末期には上円下方墳という、文字通り方墳の上に円墳が乗った形状の古墳が造られます。上円下方墳は大変珍しい古墳で、全国を見渡しても下図に記されているものしか確認されていません。

『山王塚古墳 上円下方墳の謎に迫る』(川越市立博物館/編)より転載

 有名な飛鳥の石舞台古墳は現在封土が失われていますが、上円下方墳だったといわれています。石舞台古墳のように未確定のものを含めて全国で10基。分布としては、東日本に多い傾向があり、武蔵国内には4基もあります。そして最北端の上円下方墳が野地久保古墳です。

 ※12月2日出発の駿河の現地講座にて、清水柳北1号墳を訪れます。

 野地久保古墳は、以前、広瀬和雄先生の講演を聴いたときに、広瀬先生が「もう一度行ってみたい」と激賞していたので、私も心をときめかせて訪ねてみたのですが、現状は非常に残念な様相を呈しています。

 おそらく説明板が無ければ古墳だということに気づかないでしょう・・・いや、説明板があっても古墳に見えない・・・

 まあともかく、説明板を一読してください。

 大きさは、下方部が一辺16m、上円部の径が10mです。有名な東京都府中市の武蔵府中熊野神社古墳の下方部は32mありますから、面積で行ったらその4分の1サイズですね。ちなみに日本最大の上円下方墳である埼玉県川越市の山王塚古墳は、以前は一辺63mと言われていましたが、最近の調査では東西69.1m×南北70mであることが分かっています。

 見づらいですが、墳丘図を拡大します。

 説明板によると、主体部もボロボロだったようですが、横口式石槨だったというところが興味深いです。横口式石槨というのは、例えば有名な野口王墓(天武・持統天皇陵)も採用しており、現地説明板を掲げるとこのようなものになります。

 横穴式石室とどこが違うの?と言われそうですが、棺が納められているスペースは横穴式石室の玄室ではなく、石槨という施設に収められているという考えで、その石槨の小口側に出入口が付いているため、横口式石槨と呼ばれます。

 多分、この説明だと納得されないと思いますが、「横穴式石室の小さい版」だと思ってください。

 文句があったら昔の偉い先生に言ってください。

 ちなみに、野口王墓の場合は、石槨内に仕切りを設置しているようなイメージで、通常の横口式石槨よりもゴージャスです。

 

 


谷地久保古墳|白河市

 野地久保古墳と同様、7世紀後半から8世紀初頭に築造された古墳で、こちらは円墳です。築造の手法から「山寄せ形」と言われる古墳で、山の斜面の一部を円墳として造形しています。こういうタイプの古墳は、前から見ると普通の円墳に見えますが、側面に回って見ると、古墳と山がほとんど繋がって見える場合もあります。後期から終末期に流行った作り方で、例えば群馬県高崎市の「上野三碑」の一つ・山上碑の横にある山上古墳なんかもそうで、正面から見るとこうです。

 でも、横から見るとこうなっています。

 左側が古墳正面で右側が山です。山と繋がっています。

 こういうのを「山寄せ形」というのですが、私が初めて「山寄せ形」の威力を思い知った古墳がまさしくこの谷地久保古墳です。どんな威力かというと、時間の経過によって埋もれてしまって古墳かどうかが分からなくなってしまうことがある、という威力です。換言すると、「威力古墳妨害」とも言い表すことができます。

 正直言って、谷地久保古墳を初めて見た時は驚きました。

 これのどこが古墳なんだ?

 あ、横穴式石室が開口している!

 でも、墳丘がどうなっているのか分かりません。

 これが「威力古墳妨害」です。

 ただし、この探訪の前に野地久保古墳を見ていたお陰で、それほどダメージは受けませんでした。何はともあれ、説明板を読んでみましょう。

 2段築成の円墳で、径は17mですから、形状に違いはあっても野地久保古墳と同程度の古墳といえます。横口式石槨を採用しているところも同じです。最初見た時は横穴式石室かと思ったのですが、横口式石槨だったのです。

 時代的にはすでに国造の時代ではないため、説明板が言っている通り、被葬者は郡司の可能性もありますが、築造年代が7世紀代に収まるのでしたら、郡司ではなく評司あるいは評造でしょう。当地の支配者層です。

 墳丘図をよく見ても、やっぱりこの古墳はよく分かりません。

 今度、AICTで行きますのでそのときに再度詳しく観察してきます。

 

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