最終更新日:2022年9月21日

縄文時代中期(5500年前~4500年前)

 ※かなり長文化してきたため、そのうち分割します。

 

目次

縄文時代中期の集落数

縄文時代中期の関東地方

勝坂式土器の特徴

縄文時代中期の八ヶ岳西南麓地方

縄文時代中期の南東北

縄文時代中期の北東北

御所野遺跡

縄文時代中期後葉の関東甲信

  

 

縄文時代中期の集落数

 中期の開始時期は、早いもので縄文時代になってからもう1万1000年経っています。一世代が20年だとしたら、550世代となります。こんな数字を聞いてもピンときませんね。

 縄文時代中期は前期に引き続き、東日本各地は人びとが生活しやすい気候でした。

『環境と文明の世界史』(石弘之・安田喜憲・湯浅赳男/著)より加筆転載

 中期という時代が縄文時代の中でもっとも人口が多かったことは、東日本各地で発見される住居跡の数から推測できます。下のグラフは東京都の多摩ニュータウン遺跡群の遺跡数と竪穴住居跡数を表したグラフです。

東京都埋蔵文化財調査センターにて撮影

 各時代ごとの左側の棒は遺跡の数で右側の棒は竪穴住居跡の数です。遺跡数は前期よりも減っているのですが、見つかる竪穴住居跡は物凄く増えていますから、この時期は非常に人口が多かったことが分かります。

 次のグラフは、八ヶ岳西南麓の場合です。

長野県立歴史館にて撮影

 八ヶ岳西南麓は極端に中期の人口が多かった地域です。この地域は遺跡の数も増えますが、集落数も増え、そして後半の曽利式の時代には、集落一つ当たりの住居数が増えているのが分かります。集住化が進んだようです。

 このように、人口の多さに加え、火焔土器に象徴されるような派手なデコレーションの土器が造られたこともあり、中期は非常にバブリーなイメージがあります。

遠野まちなか・ドキ・土器館にて撮影(右側のバブリーなおっさんが「縄文のビーナス」に似ている土偶を抱えていることから、ミラーボールが回るこのクラブは八ヶ岳西南麓にあったのではなかろうか)

 この時期、関東や甲信越では非常に派手な装飾の土器が造られますが、そういったものは生活が豊かでないと造ることはできないと考えられ、実際にこの頃の人びとの生活は縄文時代の中では豊かな方であったのでしょう。

 ただし、西日本では決して人口が多くはなく、例えば九州においてもあまり人間活動が活発でなかったことは、中期の土器の展示がほとんどない熊本博物館のこちらの展示でも分かります。

熊本博物館にて撮影

 

 

縄文時代中期の関東地方

 明治10年のモース博士の大森貝塚の発掘は大きな画期ですが、それ以降、縄文時代の研究は多くの研究者が住んでいた東京からほど近い場所にある遺跡が主な調査対象となって発展しました。そのため、縄文土器の編年化(土器の型式を決めて古い順に並べて行く)は、関東地方の土器を中心に行われ、関東地方は他地域と比べて編年が精緻です。そしてその中でも中期は非常に細かく定義されており、例えば関東の研究者が使う「新地平編年」を示すと以下のようになります。

『新八王子市史 通史編1 原始・古代』(八王子市史編集委員会/編)より転載

 一つの型式の時間幅が短いものでは20年となっており驚きを禁じえませんが、これを基準にしてこれから述べて行きます。なお、注意しなければならないのは、関東甲信地方で前葉、中葉、後葉と表現した場合、上の表で分かる通り、それらは中期を綺麗に3等分した時間の長さではなく、前葉が極端に短いことです。ですから、前葉と中葉を中期前半、後葉を中期後半と呼ぶ場合もあります。

 ややこしいのですが、上の表の説明では、勝坂式を1から3までの3つの型式で分けています。ところが、勝坂式をⅠ式からⅤ式まで5つに分類する研究者もいます。中期は、前葉から中葉にかけては、前期と同じく、大雑把に言って東関東と西関東では土器の様相が異なりますが、Ⅰ式からⅤ式に分類した場合で、それに東関東の土器型式を新地平編年に対応させると以下のようになります。

新地平編年西関東東関東期間
1a・1b五領ヶ台Ⅰ式八辺式30年間
2・3a・3b・4a・4b五領ヶ台Ⅱ式阿玉台Ⅰa式60年間
5a・5b・5c勝坂Ⅰ式60年間
6a・6b勝坂Ⅱ式阿玉台Ⅰb式40年間
7a勝坂Ⅲ式阿玉台Ⅱ式30年間
7b・8a・8b阿玉台Ⅲ式170年間
9a勝坂Ⅳ式80年間
9b勝坂Ⅴ式阿玉台Ⅳ式80年間
9c中峠式中峠式?20年間

 なお、阿玉台式は、考古学の世界では伝統的に「おたまだい」と呼ばれてきましたが、最近の研究者は普通に「あたまだい」と呼ぶことが多い印象があります。

 

 

勝坂式土器の特徴

 新地平編年では460年間使われたとされる勝坂式土器は、関東甲信を代表する土器型式の一つです。標式遺跡は神奈川県相模原市南区の勝坂遺跡。大山巌元帥の子で軍人を辞めて考古学者として名を馳せた大山柏が発見した土器が勝坂式土器と命名されましたが、その記念すべき土器は空襲で大山柏の大山史前学研究所が破壊され無くなりました。

勝坂遺跡(神奈川県相模原市南区)

 勝坂式土器は関東甲信各地の考古系の博物館や資料館などに行けばほぼ必ず展示してありますが、勝坂遺跡がある相模原市の市立博物館にも良い土器が展示してあります。

神奈川県相模原市・大日野原遺跡出土の人体装飾付深鉢形土器(相模原市立博物館にて撮影)

 人間のような何か(3本指の造形はカエルと考える研究者もますがカエルの前肢の指は4本)が器面一杯に貼り付いている土器で、いきなり強烈な土器をお見せしましたが、強烈なのが勝坂式土器の特徴で、個人的には日本で一番面白い土器様式ではないかと思っています。

 勝坂式土器の特徴の一つは、器面を区画して文様を施すところです。上の土器も人間のようなものが貼り付きつつ、その体躯によって区画を構成して、その中に文様を施しています。文様は縄文ではなく、沈線です。研究者によっては、この区画一つ一つにストーリーが込められており、自分たちの部族の歴史を後継者に語るときに、土器を見せながら説明していったと考える者もおり、私もこの説には賛同していて、縄文時代は文字は無いのですが、勝坂式土器文化圏の人たちは、ある種の絵文字のようなものを理解していたのではないかと考えています。

 勝坂式土器では、ついに土器と土偶を融合させてしまいました。

神奈川県相模原市・大日野原遺跡出土の土偶装飾付深鉢形土器(相模原市立博物館にて撮影)

 縁の部分に内側を向いて土偶がいるのです。温泉に浸かって気持ち良くなっているイメージではありませんよ。土偶は中で煮られる大切な食べ物を見守ってくれていて、なんだかより美味しくしてくれたり、栄養分をアップしてくれそうな気になります。あるいは、お母さんのお腹の中で大切な食べ物が作られるというイメージかも知れません。土器は裏から見るとこんな感じ。

神奈川県相模原市・大日野原遺跡出土の土偶装飾付深鉢形土器(相模原市立博物館にて撮影)

 キャプションによると、勝坂式の終末期の作だそうです。

 都内では、多摩ニュータウンの遺跡から出た遺物を展示している東京都埋蔵文化財センターに普通の勝坂式土器が展示してあるので見てみましょう。

東京都稲城市・多摩ニュータウンNo.471遺跡出土の深鉢形土器(東京都埋蔵文化財センターにて撮影)

 冒頭で紹介した相模原市の2つの土器に比べたら普通ですね。勝坂式土器の特徴の一つは、器面を区画することであることは既述しましたが、この土器には楕円形の区画があり、勝坂式土器でもっともポピュラーな区画文様はこの楕円形です。

 群馬県は古墳王国として有名ですが、縄文遺跡もたくさんあって、勝坂式土器の優品も見つかっています。

群馬県渋川市・三原田諏訪上遺跡出土の深鉢形土器(渋川市赤城歴史資料館にて撮影)

 上の土器も区画化して文様を施していますね。群馬県渋川市周辺は焼町式土器の文化も入ってきており、勝坂式とはいえ、こんな風合いの土器も出ています。

群馬県渋川市・道訓前遺跡出土の勝坂3式の深鉢(渋川市北橘歴史資料館)

 これが勝坂式なの?と思いますが、資料館がそういうのだからそうなのです。渋川市には焼町式土器勢力もいますので影響を受けたのでしょう。

 以上、関東各地で見られる勝坂式土器を何点か見ましたが、一度に多くの優品を見たいという欲張りな方は、関東から出て山梨県や長野県へ行くとさらに良い出会いが待ち受けています。まずは何としても絶対に訪れて欲しいのは、甲府市にある山梨県立考古博物館です。本数は少ないし、片道30分くらい掛かりますが、甲府駅からは路線バスでも行けますので頑張って行ってみてください。

 同館では、山梨県内の遺跡から出土した縄文土器を編年順に見ることができますが、笛吹市・一の沢遺跡と北杜市・酒呑場(さけのみば)遺跡から出土した重要文化財の遺物たちも見ることができます。両遺跡とも中期の遺跡で、土器は勝坂式土器が多いです。

山梨県立考古博物館にて撮影

 楕円形区画が好きすぎて、というか何かを強調したくて下の土器みたいになることもあります。

山梨県北杜市・酒呑場遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 さきほどは、器面一杯の人間のような文様の土器をお見せしましたが、器面に何かの生き物の文様を付けるという造形は、元々は一本の太い紐のようなものを貼り付けることから始まっており、最初はこういう感じでした。

山梨県北杜市・酒呑場遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 これの先端に頭ができると蛇のようになってきて、そういう文様がどんどんエスカレートしていき、やがて抽象文という文様に進化していきます。抽象文については後述します。

 こちらの土器は勝坂式なのでしょうか?

山梨県北杜市・酒呑場遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 「なのでしょうか?」って反対に質問してしまってスミマセン。勝坂式土器の特徴の二つ目として、縄文をほとんど使わないことが言えます。でもこの土器は地に縄文で文様を施していますね。この土器の正体はまた今度調べてみます。

 下の土器はまるで革製品のような質感で作られています。

山梨県笛吹市・一の沢遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 土器の中には編み籠のような植物製品をイメージして作られたものが見受けられますが、このように革製品のような風合いのものも見ることができ、縄文人はそういった実際に使っているものを土器で再現しようとしたのではないかと考えられます。

 下の土器には把手のようなものが付いていますが、強度的に把手としては使えないと思います。

山梨県笛吹市・一の沢遺跡出土の深鉢形土器(山梨県立考古博物館にて撮影)

 縄文土器を見るときは、現代の私たちが思いつくような合理性とか実用性の目で見てはいけません。そういうのを超越した考えを彼らは持っています。

 一の沢遺跡からは山梨県立考古博物館のマスコットキャラ的な存在の「いっちゃん」が出土しています。

山梨県笛吹市・一の沢遺跡出土の土偶「いっちゃん」(山梨県立考古博物館にて撮影)

 ちなみに、山梨・長野の各施設では、「三十三番土偶札所めぐり」というのをやっていますので、土偶好きな方はチャレンジしてみてはいかがでしょうか。

山梨県立考古博物館にて撮影

 今まで紹介した土器は勝坂式ではあるものの細かい時期までは私の力では明確にすることはできませんでした。ただ、いろいろな資料を見ていると、勝坂式土器が造られ始めて100年くらい経った勝坂Ⅲ式(藤内式)から以前にも増して芸術性の高いものや面白いものがたくさん作られるようです。下の土器も勝坂Ⅲ式土器です。

長野県富士見町・札沢遺跡出土の動物装飾付釣手土器(長野県立歴史館にて撮影)

 勝坂式土器文化圏の人たちは、虫や爬虫類やイノシシなどの様々な動物を土器にあしらうのが好きで、これは他の地域にはそれほど見られない特徴です。

長野県富士見町・札沢遺跡出土の動物装飾付釣手土器(長野県立歴史館にて撮影)

 反対側から見ると、この謎の生き物がもう一匹いて、他の3匹に「ちょっと待ってよー!」と言いながら必死に追い付こうとしているようにも見えます。

 この謎の生き物は何でしょうか?

 『進化する縄文土器』(長野県立博物館/編)の解説によると、生まれた直後のマムシのようだし、ツチノコのようだともしています。ツチノコは幻の生き物で、私が子供の頃もツチノコ探しが小さなブームになったことがありました。マムシの子だとすると健気に生きようとする生命の力を感じます。縄文人はもしかしたら現代の私たち以上に生き物の姿を見て感動したり不思議に思ったりすることが多かったかもしれず、その中でも勝坂の縄文人はその気持ちを土器に表現することに長けていたのかもしれません。

 中期後葉になると、西関東も加曽利式土器の文化圏に飲み込まれますが、後述する通り、加曽利E1式は、南東北の大木8式土器の南下によって形成されたもので、その文化がついに関東地方全体を席巻してしまうのです。

 

 

縄文時代中期の八ヶ岳西南麓地方

 縄文時代中期には、長野県から山梨県にかけての八ヶ岳西南麓地域に「縄文王国」とも形容できる一大文化地域が形成されます。その地域は、早期にはほとんど集落らしきものがなく、前期に入ってもまだ大きな発展が無かったのですが、前期終り頃の諸磯c式期から一気に集落数が増加し、中期になると本格的な縄文文化が栄えました。ただしそれも後期には衰退するので、この地域が栄えた時代はおおよそ1000年間ということになります。

 長野県の八ヶ岳の麓には井戸尻遺跡という学史的にも非常に重要な遺跡があり、膨大な調査の蓄積があります。

長野県富士見町・井戸尻遺跡

 八ヶ岳西南麓地域も前述した勝坂式土器様式の文化圏に入るのですが、地元では井戸尻編年というものが確立されており、その編年で土器の時期を表すことが多いです。上述した関東地方の前葉・中葉の土器編年に井戸尻編年を加えると以下のようになります。

新地平編年井戸尻編年西関東東関東期間
1a・1b久兵衛尾根Ⅰ式五領ヶ台Ⅰ式八辺式30年間
2・3a・3b・4a・4b久兵衛尾根Ⅱ式五領ヶ台Ⅱ式阿玉台Ⅰa式60年間
5a・5b・5c貉沢(むじなさわ)式勝坂Ⅰ式60年間
6a・6b新道(あらみち)式勝坂Ⅱ式阿玉台Ⅰb式40年間
7a藤内(とうない)Ⅰ式勝坂Ⅲ式阿玉台Ⅱ式30年間
7b・8a・8b藤内Ⅱ式阿玉台Ⅲ式170年間
9a井戸尻Ⅰ式勝坂Ⅳ式80年間
9b井戸尻Ⅱ式勝坂Ⅴ式阿玉台Ⅳ式80年間
9c中峠式中峠式?20年間

 長野県や山梨県の施設へ行くと、勝坂式で記している施設と井戸尻編年で記している施設がありますので、時期が分からなくなったときは上表で対応してください。

 ところで、人間や生き物の造形を土器に貼り付ける場合は、前項で述べたように把手として付ける場合と、器面全体にダイナミックに付ける場合があります。先に紹介した相模原市立博物館に展示されている土器などはその一部です。

 把手に生き物の造形があるものを獣面把手顔面把手などと呼び、イノシシやヘビらしきもの、そして人間の顔が取りつきますが、把手といっても実際には把手としては機能しません。また、勝坂式土器文化人が土器にくっつけた生き物としては、ヘビやカエル、サンショウウオ、蛟(みずち・伝説上の生き物)が想像できるような生き物などがありますが、当時の人が実際に何をイメージしたのかは本当のところは分かりません。そういった文様は抽象文と呼ばれ、抽象文が施された土器を抽象文土器といいます。

 それでは、山梨県北杜市の北杜市考古資料館に展示してある中期の各型式の土器を見てみますが、併せて人面把手土器や抽象文土器といった勝坂式土器様式ならではの土器もご紹介します。

 まずは五領ヶ台式土器。

山梨県北杜市・大原1遺跡出土の五領ヶ台式土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 五領ヶ台式土器は勝坂式土器様式が作られる直前の型式で、まだ地味な印象があります。この時期にはまだ顔面把手や抽象文は現れません。

 勝坂Ⅰ式に相当する貉沢式土器では、口縁部に何やら生き物のようなものが付きましたよ。

山梨県北杜市・寺所第2遺跡出土の貉沢式土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 勝坂式土器様式では、今後こういった造形がだんだんエスカレートしていきます。謎の生き物の下には紐のようなものが付いていますが、これは抽象文への序曲です。

 つぎに勝坂Ⅱ式に相当する新道式土器をお見せします。

山梨県北杜市・寺所第2遺跡出土の新道式土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 ゴテゴテと粘土紐によるデコレーションが付き、区画模様もはっきりしています。正面には2つの目のような造形も見られ、先の貉沢式土器よりも抽象文の要素がアップしてきていますが、抽象文土器はこの新道式期に登場し、下の写真のような衝撃的なデザインの土器が現れます。

山梨県北杜市・石原田北遺跡出土のヘビ文様装飾付土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 新道式でもこれは新しい方だと思われます。キャプションでは「ヘビ文様」と紹介していますが、何の生き物なのか分かりませんね。抽象文のことをサンショウウオ文と呼ぶ人もいます。

 つぎに、藤内式土器で、勝坂Ⅲ式土器に相当します。

山梨県北杜市・古林(こべいし)第4遺跡出土の藤内式土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 藤内式期の土器としては、井戸尻遺跡では有名な神像筒形土器(通称・神像)が出土しており、縦長の区画模様が上の土器と似ています。井戸尻考古館に展示してある国指定重要文化財の神像は写真撮影がNGなので、同じ時期の違う神像をお見せします。

山梨県北杜市小淵沢町中原出土・神像筒形土器(井戸尻考古館にて撮影)

 神像のモチーフは人体文で、肩から背中にかけてはまるでヨロイを着ているように見えます。この神像に比べると、先の古林第4遺跡出土の藤内式土器は、まだあまり人体文ぽくはなっていません。

 下の写真は藤内式の浅鉢。

山梨県北杜市・古林(こべいし)第4遺跡出土の藤内式土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 新道式の後半には先に紹介した非常に立体的な造形の抽象文が施されますが、そういう派手な時期は短かく、藤内式に入ると抽象文は徐々に平面的になっていき、文様の持つ意味も継承できなくなってしまったようで、なんとなくそのモチーフは守っているものの、徐々にグダグダになっていきます。下の土器が藤内式期の抽象文土器です。

山梨県北杜市・寺所第2遺跡出土の新道式土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 先の新道式の抽象文土器と比べて抽象文が平面的になってきています。下の土器はさらに簡素化が進んでいます。

山梨県北杜市・古林(こべいし)第4遺跡出土の藤内式土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 既述した通り文様のもつ本来の意味が継承されなかったようで、胴体下部の復元部分を見て分かる通り、意味不明な手か頭か分からないものがくっついていたと想定できます。抽象文は藤内式の次の井戸尻式には継承されず、編年から単純に算出すると240年しか施されなかった文様となります。

 藤内式の顔面把手土器にはこのようなものがあります。

山梨県北杜市・向原遺跡出土の顔面把手付土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 抽象文は藤内式期に終焉を迎えましたが、顔面把手は次の井戸尻式期(勝坂Ⅳ式~Ⅴ式)になっても作られます。下の写真の土器は、出産文土器と呼ばれているものです。

山梨県北杜市・竹宇1遺跡出土の出産文土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 把手に注目すると、井戸尻式には、派手な塔状把手付土器も作られます。

山梨県北杜市・高松遺跡出土の井戸尻式土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 井戸尻式期には、抽象文が見られなくなりましたが、器面に人間がくっついている人体文土器が作られます。

山梨県北杜市・宮尾根C遺跡出土の井戸尻式土器(北杜市考古資料館にて撮影)

 器面に両手を上げた人間のようなものがへばりついています。この土器だと抽象的な表現ですが、人間らしく見える土器として有名なものに、山梨県南アルプス市の鋳物師屋(いもじや)遺跡から出土した有孔鍔付土器の通称「ぴーす」があります。

山梨県南アルプス市・鋳物師屋遺跡出土の人体文様付有孔鍔付土器「ぴーす」(南アルプス市ふるさと伝承館にて撮影)

 南アルプス伝承館に行くと分かりますが、実はぴーすの左腕部分の土器片は見つかっておらず、接合の際は想定で復元しており、もしかしたら左腕は右腕と同様に上にあげていた可能性が指摘されています。そういわれると、他の人体文土器のモチーフは先に紹介した土器のように、両手とも上に上げているのが一般的です。

 なお、ぴーすは同じく鋳物師屋遺跡から出土した土偶の「ラヴィ」とともに地元のアイドル的存在になっていますよ。

山梨県南アルプス市・鋳物師屋遺跡出土の土偶「ラヴィ」(南アルプス市ふるさと伝承館にて撮影)

 ぜひ、ラヴィ&ぴーすに会いに行ってみてください。

 なお、人体文付土器の関連として参考までに述べると、後期初頭のもので地域も全然違いますが、岩手県滝沢市のけやきの平団地遺跡ではこのような土器が出土しています。

岩手県滝沢市・けやきの平団地遺跡出土・人体文付土器(滝沢市埋蔵文化財センターにて撮影)

 この人体文は両手をダラリと下げています。この土器を私が初めて見たのは「発掘された日本列島 2015」の会場でしたが、当時はまだ縄文時代についてはそれほど興味がなかったものの、この土器からは「何か」を感じました。

岩手県滝沢市・けやきの平団地遺跡出土・人体文付土器(滝沢市埋蔵文化財センターにて撮影)

 さて、土器の話が長く続きました。土偶の話はまた後日述べますが、一点だけ紹介します。中期前半の土偶の中でもとくに有名なものとして、長野県茅野市の棚畑(たなばたけ)遺跡から出土した国宝土偶の第1号「縄文のビーナス」があります。

長野県茅野市・棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」(尖石縄文考古館にて撮影)

 顔の作りはこの時期の土器に見られる顔面把手と同じです。全体的にキラキラしている感じがするのは、胎土に金雲母が混ざっているからですが、同じ文化圏でも関東西部から出る勝坂式土器には、金雲母がほとんど混ざっていません。

 縄文のビーナスが作られた時期に関しては、様々な研究者が持論を展開していますが、鵜飼幸雄氏は、『シリーズ「遺跡を学ぶ」071 国宝土偶「縄文ビーナス」の誕生』の中で、貉沢式期の所産としています。

 

 

縄文時代中期の南東北

 南東北では前期に引き続き、大木式土器が造られます。大木式土器の13型式の中で、7a式以降が中期の土器となります。

 大木7式期には関東地方の五領ヶ台式土器が流入し、その影響を受けた五領ヶ台式土器のような大ぶりな波状口縁を持ち、体部下半分がシェイプされた土器が造られます。

 縄文土器の代名詞のように有名な火焔土器は新潟県を中心とした信濃川流域の土器ですが、関東甲信の中期中葉の勝坂式土器もそれに負けない技巧の派手な土器です。全国を見渡すと、関東甲信越以外にはそれほど派手な土器は作られませんが、東北の土器も他の時代と比べるといくらか派手になります。

 大木8式期には、新潟の火焔土器の影響を受けて把手部分が多少派手になります。そして大木式の中でもこの時期の土器は大きなものが多く、恐らく国内最大ではないかと思われる、高さ93㎝の深鉢も作られています。

盛岡市大館町遺跡出土の大木8b式土器(盛岡市遺跡の学び館にて撮影)

 土器だけ撮っても大きさが今一伝わりませんが、これではいかがでしょうか。

盛岡市大館町遺跡出土の大木8b式土器と人間(盛岡市遺跡の学び館にて撮影)

 いや、やっぱり写真だと大きさが伝わらないですね。ぜひ、遺跡の学び館で現物を見て驚いてください。出土した遺跡は岩手県の遺跡なので厳密には南東北ではありませんが、大木式勢力はこの頃から北へ影響力を強めていきます。さらに反対方向の南にも勢力を伸ばし、上の土器もそうですが、下の土器も口縁部分の装飾や全体的なシェイプは関東の人にとっては良く見るデザインじゃないでしょうか。

大木囲遺跡出土の大木式8b土器(七ヶ浜町歴史資料館にて撮影)

 そう、加曽利E式に似ていますね。

加曽利貝塚出土の加曽利E1式土器(千葉市若葉区・加曽利貝塚博物館にて撮影)

 加曽利E式は、大木8式の影響のもと成立したと考えられており、このように南北に猛威を振るった大木8式土器のことを私は「縄文時代の伊達政宗」と呼んでいます。

 大木式は、9式、10式で終わります。

 

 

縄文時代中期の北東北

 北東北の前期後半は円筒下層式土器が造られましたが、中期になると円筒上層式土器が造られます。太平洋側の場合は、馬淵川と北上川の水源は奥中山にありそれほど離れていないのですが、北流する馬淵川流域は円筒土器様式の文化圏、南流する北上川の流域は大木式土器様式の文化圏です。

御所野縄文博物館にて撮影

 岩手県一戸町は両文化が交わる場所ですので、世界遺産にもなっている御所野遺跡の縄文博物館には両文化の土器が展示されています。

御所野縄文博物館にて撮影

 博物館のキャプションには型式は書いていないのですが、大雑把に言って、向かって左側が円筒上層式土器で、右側は大木式土器です。中段の左から2番目の円筒上層式土器を見てみましょう。

 円筒とか言いながら、下層式と比べて胴体下部が締まっています。上層式になると口縁部が大きく波状を呈するものがポピュラーになります。次は、中段右から5番目の土器です。

 大木8b式だと思うのですが、違っていたらゴメンナサイ。では、確実な大木式を。中段右から4番目の土器です。

 これは大木9式でしょう。

 御所野遺跡の詳細については後述しますが、本来的には円筒土器様式の文化圏内です。集落ができ始めたのは5300年前。そのため、古い層からは円筒上層式土器が出るのですが、大木8b式の文化が御所野遺跡に流入してきたとき、御所野遺跡の雰囲気がガラッと変わります。だいたい4900年位前のことです。

 中期の間でも、時代が経つにつれて「縄文時代の伊達政宗」が北へ勢力を伸ばし、中期が終わるころにはほとんど東北全体が大木式土器様式の文化圏に飲み込まれます。政宗さん、奥州統一おめでとう。

 つづいて、さんまるミュージアムの土器展示を見てみます。

 5段になって展示してありますが、一番下から言うと、前期後半の円筒下層式(前半)、円筒下層式(後半)、そして中期の円筒上層式(前半)、円筒上層式(後半)、一番上は、大木式の影響を大きく受けた大木式系の土器で、中期の末です。

 既述した通りで上の集合写真を見ても上層式になると口縁部が大きな波状のものが増えるのが分かると思います。つぎに、さんまるミュージアムの入口に近い場所にある3個の土器を再掲します。

 この3つの内、真ん中と右側が円筒上層式です。下の写真は真ん中の土器。

 円筒土器の特徴は縄文を多用するところですが、上層式になってもその伝統は守られます。つづいて右側の土器。

 もはや形状が「円筒」ではなくなっています。上層式の前半は、関東甲信地方の勝坂式や越後の火焔土器などには遠く及ばないものの、粘土紐を使ってダイナミックな装飾に傾く傾向にあり、いよいよ芸術が爆発する気配が感じられたのですが、南側から「伊達政宗」が侵攻してきたため、大木式の影響を受けて粘土紐よりかは沈線による文様が強くなり、大人しめの文様に落ち着きました。そしてやがて円筒土器の特徴は消えていきます。

 

 

御所野遺跡

 世界遺産にもなっている御所野遺跡は、岩手県一戸町に所在する縄文中期後半の集落跡で、御所野縄文公園として整備されています。

 公園の入口は、駐車場や路線バス乗り場の近くにありますが、遺跡は谷を挟んだ南側にあるため、「きききのつりはし」を歩いて谷の向こう側へ向かいます。

 せっかくなので、「きききのつりはし」を横からも見てみましょう。

 では行きますよ。

 この「きききのつりはし」自体が観光名所にもなるくらい素敵で、渡り切った場所には御所野縄文博物館があります。

御所野縄文博物館(世界遺産登録の前に撮った写真なので今度撮り直してきます)

 遺跡は博物館に向かって右側に展開していますが、先に博物館を見ても良いでしょう。博物館は、1階は御所野遺跡コーナー、2階は縄文晩期の蒔前(まくまえ)遺跡や山井遺跡から出土した遺物(蒔前遺跡出土の重要文化財を含む)などが展示してあるほか、ミュージアムショップがあります。また、2階から1階にかけての廊下には、縄文早期から中世の一戸城跡や姉帯城跡までの遺物展示コーナーがあります。

 遺跡を歩くときは、可能であればボランティアガイドに案内をお願いしたほうがいいでしょう。縄文遺跡を見慣れている方でも新たな知見を得られると思います。

 遺跡は、近代的な人工物がほとんど視界に入らないとても雰囲気の良い場所で、個人的にも大好きな場所ですし、旅行会社で何度も案内したことがありますが、多くのお客様が感動していました。

 東西に延びる舌状台地の長さ500mほどの範囲内に大きく3つの遺構の集まりがあり、地元では東ムラ、中央ムラ、西ムラと呼んでいます。見つかった住居跡は600棟。

 遺跡の存続期間は、出土する土器が円筒上層c式から大木10式までのため、そうなると縄文時代中期中葉の5300年前から中期末の4500年前までの約800年間で、関東の勝坂2~3式、加曽利E式とほぼ同じ時期です。ただし、御所野縄文博物館館長の高田和徳さんは、同じ800年間でも実年代の捉え方が異なり、5000年前から4200年前までと考えています(『環状列石ってなんだ』所収「御所野遺跡から環状列石を読み解く」<高田和徳/著>)。

 博物館の方から歩きだすと、最初に東ムラが見えてきます。途中、漆の木が植えられている箇所もあるので、敏感な方は気を付けましょう。

 復元された住居がいくつか見えてきました。よく見かける竪穴住居の復元と違って、屋根が茅葺じゃないのが分かると思います。

 御所野遺跡では土屋根で復元しているのです。御所野遺跡で見つかった焼失家屋を調べたところ、土屋根だったことが判明したため、御所野遺跡ではこのように復元しているわけですが、御所野遺跡が先例となって、現在は全国的に土屋根での復元が流行っています。

 現在流行の最先端の家はこういうタイプの素敵な住宅ですから、マイホームの建築を考え中の方は参考にしてみてください。

 『シリーズ「遺跡を学ぶ」154 梅之木遺跡』(佐野隆/著)によると、山梨県北杜市の梅之木遺跡では、住居跡を発掘した際の埋土を調べたところ、茅のようなイネ科の植物があったことを示すだけの量のプラントオパールは検出されず、該書が引く岡村道雄さんの焼失住居の集成にも縄文時代の住居跡から茅が見つかった事例は一つもないということです。つまり、縄文時代には茅葺の屋根はなかった可能性が高いですし、そういった植物を刈ってきて屋根に葺くこと自体が、鉄器のない時代には技術的に難しいという話も聴いたことがあります(鉄器が普及した古墳時代には茅葺の家がありました)。

 ただし、土屋根もこれはこれで問題があって、御所野遺跡で復元し始めたころはカビの発生に悩まされたそうです。縄文時代の住居跡に関しては、場所や時代によってケースバイケースであったと考えたほうが良く、また地域によっては、夏の家と冬の家が違った可能性も十分にあります。

 なお、御所野遺跡の復元住居は中に入れるものも多いので、実際に中に入って縄文人の気分を味わってみましょう。御所野遺跡の竪穴住居では入ってすぐに炉がありますが、寒い地域ではこういう傾向が見られます。

 東ムラから中央ムラが見えます。

 少し歩いて、東ムラを振り返ります。

 左側にチラッと見えるのが御所野縄文博物館です。

 なお、現在の御所野遺跡公園に復元されている竪穴住居の数は、それぞれのムラで4棟ずつ、計12棟ですが、最盛期の同じ時期に建っていた家の数はだいたいこのイメージでしょう。たったこれだけと思うかもしれませんが、一般的な縄文時代の集落は2棟とか3棟ですから、10棟を越えていたら大集落です。当時、近所の人が御所野遺跡を訪れた時は、都会に来たなあと思ったかもしれません(三内丸山遺跡の規模は異常)。

 中央ムラに入る手前には栗林が再現されています。

 クリは縄文人にとっては非常にありがたい植物で、収穫してそのまま食べられてしかも美味しいですし、樹木は建物の建材として使えますので、当時はすでにこういった林が人工的に造られていたと考えるのが一般的な考えになっています。

 中央ムラには、環状列石(ストーンサークル)のルーツ的なものがあります。環状列石は北東北では後期になってから盛行するので、それらは後期のページで述べますが、御所野遺跡の場合は、中期末(大木10式期)に造営されたといわれています。

 大木10式期は、御所野遺跡800年の歴史の中の最後の100年間で、このページの最初に示した気温のグラフにも表現されていますが、一時的に相当な気温の低下が起こった時期です。この時期は、北東北各地で大型集落が解体し、分村化が進んだのですが、あの三内丸山遺跡も解体に向かいます。なぜ寒冷化すると人びとが分散して暮らすようになるのかは、一つの説としては、寒冷化によってクリの栽培ができなくなったからであるというものがあります。

 クリは縄文人にとって非常に重宝する植物であるということは既述しましたが、クリを人工的に栽培するには労働集約的な仕組みが必要になります。そのため、集住したほうが作業効率が上がるのですが、クリが育たなくなったら集住する意味が薄れたと考えられるのです。

 クリの切れ目が縁の切れ目。

 とまで極端な話ではないのですが、人びとは分散して生活を始めたものの、やはりコミュニケーションを取りたいと思うのは今も昔も同じのようで、人びとが集う場所として、祭祀的な上述の配石遺構群が形成されたというわけです。

 以上の説明は、北東北全体で後期に環状列石が造られた理由を説明するときによく出てくる話なのですが、その先駆けとして御所野遺跡を評価することができるのです。実際、この時期には御所野遺跡の周辺で住居跡が増加します。

 なお、寒冷化してクリが実らなくなったあとはトチの利用が増えるのですが、トチは水にさらして灰汁抜きをする必要があり、後期以降は低地の水さらし遺構が増え、集落もそれに便利な場所に造るようになります。

 話を配石遺構群に戻すと、当時の人びとは、元々あった土をわざわざ削って整地した上で配石を施しました。

 径2mほどの環状に並べた石を一つの単位としています(上の写真で四角い形状で土が露出して石が見えているのが一つの単位)。このような感じ。

 これらの石の中には元々立石だったものが倒れた状態で見つかることもありますが、下の写真のように今でも立石であることがはっきり分かる石もあります。

 使用している石材は多様なものを使っているようです。

 こういうのを複数個環状に連ねて大きな輪っかを形作っています。そしてその輪っかは東西で2か所見つかっており、現在復元されているものは東側のもので、径は東西40m×南北25mほどになり、環状ですから中央は広場のように空間が空いています。

 配石に使われている石には大きなものもあります。

 この柱状節理の花崗岩はとくに大きなもので、70㎝×130㎝あり、元々は立石でした。発掘時の写真を見るとすでにこのヒビは入っています。花崗岩は、遺跡からも見える茂谷山(もやのやま)から運んできました。下の写真は紅葉の時期の御所野遺跡ですが、奥に見える山が茂谷山で、北西方向に約3㎞、馬淵川の対岸にあります。

 配石遺構を構築するには大変な労力が掛かっているんですね。

 ちなみに、青森市の小牧野遺跡から見える山にも「モヤ山」という山があり、「モヤ」というのは何か意味がありそうな言葉です。

 ところで、御所野遺跡の配石遺構の輪っか状に配置されているものを環状列石(ストーンサークル)と呼んでいいかは、研究者によって考えが異なります。地元の方は、この遺構をそう呼ぶのには慎重な方が多く、配石遺構と呼ぶにとどめています。

 では、この配石遺構はいったい何なのでしょうか。配石遺構の近くからは土坑が検出されます。そこから遺骨や副葬品が出土すれば墓で決まりなのですが、そういった決定的な証拠は出ません。でも、それらを墓として考え、その墓と配石遺構がペアリングされていると考えることができます。

 そして、この配石遺構の外側には1間×2間の6本柱の長方形をした掘立柱建物跡が見つかっており、このように復元されています。

 実際にどのような上物が建っていたのかは不明ですが、配石遺構が墓(というよりかは墓標)だとすると、私はモガリのための遺体安置所かなと考えました。なお、『シリーズ「遺跡を学ぶ」015 御所野遺跡』(高田和徳/著)では、モガリ説も想定できるが、モガリのための一時的な施設にしては柱が太すぎて頑丈な建物だったと考えられるとして肯定していません。

 確かに、そう言われるとそうだと思いますし、そもそもここにもし遺体を長期間安置したとしたら、ムラ全体が異臭騒ぎで大変なことになりそうです。縄文人が臭いに対してどのように感じていたのかは分かりませんが、現代人だったらとてもではないですが、近くに住めないほどの強烈な臭いを発するはずです。

 配石遺構群の横には普通の家も建っていました。

 中央ムラの配石遺構が造られた場所は縄文人が人工的に整地したと述べましたが、その上には奈良時代には末期古墳が築造され、当然奈良時代の遺跡の方が上にありますから、発掘調査を始めたときには末期古墳が最初に見つかりました。

 西ムラには、住居の焼失実験をした跡が残されています。

 今まで歩いてきて気づいたと思いますが、御所野遺跡には基本的に説明板は建っていません。でもここにはあります。

 ここからは西ムラの復元住居が見えます。

 西ムラの奥まで少し台地が伸びているのですが、台地の先端は中世の館跡でした。北東北では舌状台地の先端に1つか2つの郭を作り、台地基部の部分に堀を構築した中世の館跡がたくさん発見されており、それらは「城」とは呼ばず「館(たて)」と呼びます。なお、地元の方の話によると、末期古墳が造られた奈良時代以降、集落として利用されたことはないようで、それよりかは畑や墓域として使われる場所だったそうです。

 それでは戻りましょう。

 写真を撮るときは極力近代的なものが写らないようにするといいです。

 上の写真はよく見ると電線が写っていますが、西ムラ方面から撮ると良い写真が撮れるかもしれません。

 御所野遺跡は昭和52年に見つかりましたが、町はここに農村工業団地を造ることを計画し、平成元年には破壊を前提に調査が始まりました。ところがこのような素晴らしい遺跡であることが徐々に分かってきたため、地域住民などからも保存を求める声が大きくあがり、破壊して農村工業団地を造るべきだという意見を抑え、平成3年に当時の稲葉町長の決断もあって議会で保存が決まりました。

 このような大規模な開発を中止させてまで遺跡を保存した例としては、北東北では野球場建設を中止させた青森市の三内丸山遺跡や、能代空港へのアクセス道路の建設計画を変更させた北秋田市の伊勢堂岱遺跡などがありますが、御所野遺跡の例はそれらに先駆けてのことでしたので、そういう意味でも非常に重要な意味を持つ保存・活用例となったのです。

 

 

中期後葉の関東甲信地方

 「縄文時代の伊達政宗」の登場による影響は、関東甲信地方へも波及します。

 中期中葉には、関東西部と甲信地方は勝坂式土器を作る文化圏としてまとまっていましたが、後葉になると関東東部から加曽利E式土器が西へ向かって勢力を伸ばしていきます。西関東は一時期、勝坂式と加曽利E式が併存しますが、勝坂勢力の退勢は覆うべくもなく、やがて加曽利E勢力によって関東地方から勝坂式土器は消え去りました。

 一方、関東の仲間が加曽利E式を使い始めて独自のアイデンティティを無くしていったころ、甲信地方の勝坂勢力は、加曽利E勢力の侵攻を防ぎ、勝坂式土器をヴァージョンアップしたような曽利式土器という型式の土器にチェンジしていきます。ここにおいて関東と甲斐は文化を異にするに至ったのです。曽利式の流れから、かの有名な水煙文土器が誕生しますが、水煙文土器は、「縄文時代の武田信玄」とも言うべき土器で、新潟の火焔土器、すなわち「縄文時代の上杉謙信」と雌雄を決すべく川中島へ向かいます。

 あ、言い過ぎました。なんでも戦国武将に例えれば良いということでもありませんが、あくまでもイメージとして持っていただくと、各地方の勢力の盛衰を楽しめるのではないかと思います。ただし、縄文時代は組織だった戦いがあった証拠がありませんので、土器の流れは人の流れで、もっと言えば婚姻関係を探ることもでき、平和的な流れですよ。

 さて、話を戻しますが、信州で曽利式土器が発生しても、同じ信州でも松本盆地や伊那谷の方では、唐草文土器様式という独自の土器を作り、曽利式に同調することを拒否します。

唐草文土器を使った埋甕のイメージ(松本市立考古博物館にて撮影)

 唐草文土器をもう一つ。下の土器は、飯田市の土器です。

飯田市・増田遺跡出土の深鉢(飯田市考古博物館にて撮影)

 唐草文土器の特徴は、勝坂式土器のように区画を作らず、土器全体に渡って流れる唐草模様のような文様を施すところにあります。そして、地には縄文を使わず、沈線によってラインを描いています。

 下の土器は埋甕です。

飯田市・平畑遺跡出土の埋甕(飯田市考古博物館にて撮影)

 粘土紐によるダイナミックなデコレーションですが、勝坂式と比べると、区画に捕らわれないダイナミックな装飾です。区画内は沈線によって埋める場所もあれば、区画内が無文の場所もあってメリハリを付けています。埋甕だからかもしれませんが、かなりマジカルな装飾に見えます。

 唐草文土器は文様を沈線で施す場合もあります。

平出遺跡出土・唐草文深鉢形土器(塩尻市立平出博物館にて撮影)

 また長野北部から群馬西部にかけては、焼町(やけまち)式土器という、勝坂式土器とはまったくデザインの志向性の異なる土器を作ります。

 下の土器は東信地方の上田市内の土器です。デコレーションの感じが勝坂式土器なのですが、区画にあまりこだわっているような感じがしないため、焼町式かなとも思いました。

長野県佐久市・寄山遺跡出土の深鉢(佐久市考古遺物展示館にて撮影)

 展示のキャプションには、勝坂式土器と記してありますが、別のパネルに焼町式の影響を受けているとも記してあります。

 なお、松本盆地では、唐草文土器様式と焼町式土器が混在した状況が見られます。中期後葉の関東甲信地方は群雄割拠状態を呈してきました。

 

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