最終更新日:2022年10月29日

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まきむくいしづかこふん

解説

 纒向石塚古墳は、墳丘長80mの前方後円墳です。築造時期は、3世紀初頭から3世紀中葉の間でいくつかの考え方があり研究者間で一致を見ていませんが、後述する通り、私は3世紀初頭と考えています。

 現状ではかなり扁平な円墳か方墳かもよく分からないものに見えますが、前方部は完全に削平されており、後円部も戦時中に旧軍によって軍事施設構築のため削平されてしまいました。ところが、その削平の際にも主体部は見つからなかったそうです。証拠湮滅かな?と疑いたくなりますが、それがもし本当だとすると、さらに深い場所に主体部がある可能性があります。ただし、下の写真の通り、現状を見ても墳丘はかなり低く削られているため、この状態よりもさらに下にある可能性は低いような気がします。

 しかし、いまだ弥生時代の周溝墓の名残があるとすると、地下に近いような場所に主体部があってもいいのかなとも思います。

 なお、上の写真の奥に見えるのは纒向小学校の校舎で、校庭の場所からは「人」の字の形をした大溝が検出されています。また、纒向石塚古墳の墳丘に関しては、後円部から画面こちら側に向けて前方部が存在しました。探訪するタイミングによっては下の写真のように草ぼうぼうのときもあって墳丘まで行く気にならないこともあります。

 現地説明板を読んでみましょう。

 ここに出てくる「纒向型前方後円墳」という定義は現在では破綻していると考えていますが、なぜ破綻しているかと言うと、後円部径と前方部長の比率が「2:1」にきっちりとなっている古墳は少ないからです。一見そう見えても実は違うという古墳もあります。「型」と呼ぶにはある程度の数が必要で、少数の事例をもとに「型」と呼ぶことはできません。ただし、言葉としては結構浸透していますし、初期古墳を説明するときに便利なので、私は「いわゆる纒向型前方後円墳」と言うことがあります。

 「古墳」と呼ぶか「墳丘墓」と呼ぶかについては、私は纒向古墳群の3世紀の古墳たちに対しては、「古墳」と呼びます。箸墓古墳よりも前の築造であっても、もはや「古墳」で良いと考えます。よく、箸墓古墳は「定型化された古墳の第1号」と呼ばれることがあり、私も以前は講義などではそのように説明していたのですが、いろいろな古墳を見ていると、箸墓古墳においても定型化はなされず、前期前半の古墳はあまりにも例外が多いため、現在では箸墓古墳を定型化された初めての古墳と呼ぶことはできないと考えています。

 学者の方々は研究の都合上、「分類」とか「定義」とかが大好きですが、私たちはそれに対して一歩引いて、冷静に対処しましょう。

 墳丘図については現地のものよりも詳しい図が、橿原考古学研究所附属博物館に展示されています。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 広い周濠が確認されており、形状もちょっと変わっています。しかし変わっていると思うのは、私たちがその後の古墳の周濠の形状を知っているからであって、築造当時はまだこのような広い周濠を持った墳墓は、おそらく列島中を探しても存在しないと思います。それ以前の周溝墓と比べて段違いですから、96mという墳丘長を考えても画期的な墳墓であり、築造時期が3世紀初頭であるのなら、纒向石塚古墳こそ古墳の第1号と呼ぶのに相応しいと考えます。

 なお、上記展示パネルにも書いてありますが、葺石は見つかっていないそうです。葺石がないのになぜ「石塚」というニックネームが付いたのでしょうか。石塚と呼ばれるからには、石で覆われていたはずですが、ネーミングの由来については地元の方などでご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 出土遺物に関しては、周濠内から鶏形木製品が2点、弧文円板が1点みつかっているほか、鋤や鍬が多数見つかっています。弧文円板は破片に過ぎないのですが、想定して復元したものが橿原考古学研究所附属博物館に展示してあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 直弧文で構成されていますが、直弧文というと直ちに思い浮かべぶ地域が吉備です。楯築墳丘墓のご神体である旋帯文石も直弧文が施されています。上野のトーハクの平成館にレプリカが展示してあります。

東京国立博物館平成館にて撮影

 直弧文は吉備の専売特許ではないため、ただちに纒向石塚古墳と吉備を結びつけるのは短絡的かもしれませんが、ヤマト王権を結成した時の発起人は私は吉備の王だと考えているため、吉備出身の人物がこの古墳の被葬者である可能性はあると考えています。ただ、その場合は、この古墳から特殊器台か特殊壺が出土してもいいと思うのですが、それが無いのが難点です。

 ところで、年代を決める要素の一つとして土器が挙げられますが、纒向石塚古墳からは時代が異なる数種の土器が見つかっています。

 周濠西側からは、庄内0式期(纒向1類)の土器が出ており、実年代は3世紀初頭のもの。盛土内からは、庄内1式期の土器が出ており、実年代は3世紀前葉。さらに、導水溝跡からは、庄内3式期の土器が出ており、これは3世紀第3四半期になります。

 ということで、どの土器をもって築造時期を決めるかで研究者によって意見が分かれるのですが、古墳は築造した後も再利用されることがあることを考えると、最古の庄内0式期の土器を基準にして3世紀初頭の築造で良いと考えます。

 箸墓古墳もそうですが、どうも纒向古墳群の古墳たちから出る土器は年代幅の広い多種類の土器が出る傾向があるようで、そのために築造年代を決めるのが難しいのです。