最終更新日:2022年10月28日

 本稿では古代葛城地方の主役であったと目される葛城氏について考古学的見地から解明を試みます。いや、解明とかそういう大仰な言葉は止めておいて、「葛城氏について考えてみます」としておきましょう。

 葛城氏を説明する上では、よく馬見古墳群が引き合いに出されますが、多数の文献にあたりつつ、現地を何度も訪れて調べ歩いた印象では、どうも葛城氏と馬見古墳群はそんなに密接な関係に無かったのではないかと思うようになりました。ただし、時期によって密接度は変わり、前期に関してはほとんど関係がなく、中期になって密接な関係となり、後期にはまた関係が薄くなったという見通しを持っています。

 まずは、考古学的にきちんと立証されている範囲で馬見古墳群について明確にして、しかるのちに、日本書紀などの文献史料と突き合わせて考えて行こうと思います。

 

馬見古墳群

 奈良県には、ヤマト王権発祥の地である纒向遺跡をその範囲に含む前期主体のオオヤマト古墳群、そして平城京北部の丘陵地帯に展開している前期末から中期にかけての佐紀古墳群がとくに著名ですが、馬見古墳群はそれらと並び、大阪府の世界遺産・古市古墳群と百舌鳥古墳群を併せて「畿内五大古墳群」と呼ばれることがあります。畿内五大古墳群の位置は下図の通りです。

『シリーズ「遺跡を学ぶ」093 ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』(今尾文昭/著)より転載

 馬見古墳群の範囲は、奈良盆地西側の馬見丘陵がおおよその範囲で、以下の図の通り沢山の古墳があり、あとで細かく説明しますが、200m越えの超大型古墳も複数造営されており、総数は250基を超えています。

『シリーズ「遺跡を学ぶ」026 大和葛城の大古墳群 馬見古墳群』(河上邦彦/著)より転載

 なお、上図の内、地形的に見て馬見丘陵と関係のない島の山古墳(図中右上)は、馬見古墳群に含まないと考える研究者もいて、私も島の山古墳は別に考えています。

 地形を見ると、馬見丘陵は丘陵東側低地を流れる葛城川およびその支流と西側裾を流れる葛下川に挟まれており、丘陵内には南から北へ向かって、佐味田川と滝川という小さな流れが2本走っており、丘陵自体が3つに分割されています。佐味田川と滝川は現在では小さな川なのですが、現地を歩くとそれなりの谷になっていて、そこで丘陵が分割されていることが実感できます。本稿では、説明の都合上、3つに分割された丘陵をそれぞれ、東部、中央部、西部と称することにします。

 広大なこともあって、余所者からするといまいち把握しづらい馬見古墳群ですが、把握しづらい原因としては、古墳群が広陵町と河合町という二つの自治体にまたがっており(厳密にはさらに周辺自治体も少しだけ加わる)、しかももっとも重要な古墳が集まっている場所に町の境界があって錯綜していることも挙げられます。両自治体とも、「町」という規模ですし、こういうケースは文化財調査やその活用という点からもあまり有利に働かないのです。可能であれば県や国といった広域に影響を及ぼせる組織に強力なリーダーシップを発揮して欲しいです。

 さて、馬見古墳群の代表的な古墳の築造順について、白石太一郎氏は下図のように考えています。

『古墳からみた倭国の形成と展開』(白石太一郎/著)より転載

 この馬見古墳群ですが、そう呼んで一つの括りにしているのは現代の研究者であって、当時この古墳を築造した人びとは、一括りにできるようなシンプルな集団ではありませんでした。馬見古墳群の様相は、オオヤマト古墳群や佐紀古墳群にも増して複雑です。現代の研究者の定義に惑わされず、本当の姿を追求していきましょう。

 古墳が史的に重要かそうでないかを単純に選り分けるには、とくに前期と中期に関しては墳丘の大きさがその目安となります。馬見古墳群の場合は、東部に前期後半から中期の大型古墳が集まっています。以下、東部の主要な古墳について一基ずつ見ていきます。

 

126
新山古墳

 「しんやま」古墳と読みます。馬見古墳群で最初に築造された大型古墳で、4世紀中葉の築造とされます。ただし、白石太一郎氏は埴輪編年を元に、4世紀「前半」と表現しています。興味深いことに墳形は前方後方形で、墳丘長は126mを誇り、前方後方墳としては全国4位の大きさです(137mと言われることもありますが、ひとまず126mとしておきます)。直弧文鏡など30面以上の銅鏡が出土しました。

 宮内庁によって陵墓参考地に治定されているため、墳丘内に立ち入ることはできず、現地に行っても周囲から墳丘を伺うのみで古墳マニアにとっては物足りない古墳ですが、史的には非常に重要ですから尊敬のまなざしで古墳を見てあげましょう。

新山古墳

 現在、新山古墳の周りを散策しても他に古墳はない印象ですが、実は周辺には今は湮滅しているものの多くの古墳が存在し、小規模な前方後方墳や方墳もいくつもあって、ここは「四角い世界」を現出していたのです。下図をご覧ください。

『広陵町埋蔵文化財調査概報7 黒石東2号墳・3号墳 発掘調査概要報告書』(広陵町教育委員会/編)より転載

 一番大きいのが新山古墳です。すべての古墳が四角いわけではありませんが、ヤマトにもかかわらず、これだけ前方後方墳と方墳がラインナップされていれば、「四角い世界」と言ってもよいと思います。他に奈良盆地で「四角い世界」を探すと、オオヤマト古墳群内の大和古墳群・萱生支群が著名です(大和古墳群に関してはこちらをご覧ください)。大和古墳群で最後に築造された前方後方墳である下池山古墳の築造と同じ頃、新山古墳が築造されています。

 ところで、この分布図の中に特筆すべき遺跡があります。9番の「黒石10号墓」です。他の遺跡はすべて「墳」ですが、これのみ「墓」になっていますね。この黒石10号墓は、現在は湮滅してありませんが、弥生時代後期の方形台状墓なのです。

 黒石10号墓が築造された場所は、丘陵最高所で、標高76.5mを数えます。黒石10号墓は、一辺10.4mで、周溝に囲まれ、東側の周溝の中央にブリッジがあります。主体部からは東西方向に主軸を持つ組合式箱形木棺が見つかり、周溝跡からは畿内第Ⅴ様式の壺形土器と高坏が出土しています(畿内第Ⅴ様式は、庄内式の前)。

 つまり、この地には弥生時代後期にはすでに墳丘墓があって、他者と差をつけた地位にあるリーダーが存在したわけです。ただし、このリーダーの後裔が新山古墳の被葬者と考えるには、あまりにも世代が空きすぎて無理があります。

 今の私の手元には上図の黒石5号墳とエガミ田3号墳という2基の前方後方墳の資料がないため、本当はそれを踏まえて考えなければならず、また黒石10号墓が一辺の中央にブリッジがあるタイプであることから、そこから前方後方墳に発展する可能性も考慮しないとなりません。

 話を新山古墳に戻します。では、4世紀中葉という時点で、この地に古墳を造営したのは葛城氏でしょうか。

 と、その前に、あまりにも葛城氏という言葉を不用意に使ってきたのを改めます。古墳時代中期までは、まだ「氏」と呼べるものはなく、中期にはカバネのルーツ的なものが生まれていますが、分かりやすく言えばまだみんな苗字がなく、名前(諱)だけで呼ばれていました。そのため、この時代は厳密には葛城氏というのは存在せず、「葛城氏の先祖」というべきですし、系譜関係は不明になるため、「葛城勢力」と呼ぶことにします。

 さて、後で述べますが、葛城勢力は4世紀前半の時点で、鴨都波1号墳を築造しており、今の御所市周辺が本拠地です。その次くらいの世代の時に、まったく違う土地である馬見丘陵に首長墓を築造するでしょうか。

 私の現在の仮説は以下の通りです。4世紀中葉になって、すでに開発が進んでいた馬見丘陵東裾の農地を大幅に拡大すべく、ヤマト王権が動き出した。その際に、王権内で土木工事について最も進んだ技術を持っていた濃尾出身のグループの長が責任者に任じられ、馬見丘陵東裾の農地(水田)を拡大せしめた。その責任者は、功績によってヤマト王権から馬見丘陵にモニュメントの意味を含んで墓を造営する許可を得たが、自らのルーツを根拠に前方後方形の墓を築造した。こういうストーリーです。

 以上、現状では私は新山古墳は葛城勢力とは無関係と考えています。

 

210
築山古墳

 白石太一郎氏が馬見古墳群において新山古墳の次に築造されたと考えているのが、墳丘長210mの築山古墳で、築造時期に関しては、白石氏は「4世紀中葉すぎ」という表現をしています。白石先生はこういう隠微な言い回しが上手ですね。

 ところが、河上邦彦氏は5世紀中頃の築造と考えています。両者の考えにはかなりの開きがありますが、こういうふうになってしまうのは、年代を推定する資料に乏しいからです。こういう状況で私が築造年代を決めるのは難しいですが、白石氏の説を採るとして、4世紀第4四半期としておきます。

 しておきます、って偉そうですが、その線で行きましょう。

 現状では周堀は一重なのですが、南側に周堀の形跡に見える直線状の溜池があって、本来は二重堀であった可能性が高いのではないかと思います。

外堀の跡か?

 そしてその外側(外堀の推定ラインより外側)には、陪塚と考えられる古墳が存在します。宮内庁が陪塚として管理しているものは、「いろはにほへと」でネーミングするのですが、築山古墳には、「い号」から「ほ号」まであります。こちらは、「陵西陵墓参考地陪塚ろ号」です。

 その5基以外にも周囲には古墳があり、そのなかの1基である東側のコンピラ山古墳も、従来は径55mの円墳で築山古墳の陪冢と言われていました。ところが、最近の調査によって、なんと95mもの大きさの円墳であることが分かったのです。国内最大の円墳は、奈良市の富雄丸山古墳(109m)で、2位は埼玉古墳群の丸墓山古墳(105m)ですから、もしかすると銅メダル争いに食い込んでくるかもしれません。それだけ大きいと陪塚ではないでしょう。

 

111.5
佐味田宝塚古墳

 築山古墳の築造時期に関しては、現在のところ決め手に欠ける感がありますが、従来から馬見古墳群の大型墳で最初に築造された古墳といわれているのが佐味田宝塚古墳です。墳丘長は111.5m。

 銅鏡が36面も出土しましたが、とくに類例がない家屋文鏡が出た古墳として有名です。家屋文鏡は4種類の家が鏡に鋳出されているものですが、古墳時代の住居を考察する際に重要な資料となっており、かつては縄文時代の住居跡を復元する際にも参考にされていました。宮内庁が保管しており、橿原考古学研究所附属博物館にレプリカが展示してあります。

橿原考古学研究所附属博物館にて撮影

 現地説明板に掲載されている本物の写真の拡大はこちらです。

 ちなみに、現在では縄文時代の住居は土屋根だったと考える研究者が多く、地域にもよるかもしれませんが、一般的には茅葺屋根はなかったと私も考えています。ところが、弥生時代や古墳時代は茅葺屋根があり、茅というイネ科の植物を住居に使う発想は鉄器の普及した弥生時代以降の可能性が高いです。現地説明板の全体写真はこちらです。

 説明板には4世紀後半から5世紀初頭の築造とありますが、5世紀にかかることはないと思います。

 ところで、佐味田宝塚古墳の立地はちょっと特殊で、周囲よりも低い場所にあるのです。初めて訪れた時は徒歩で行ったのですが、地図上では場所が分かっているつもりでも、そこまで行く道が住宅街から繋がっておらず、えらく遠回りして近接しました。そしてさらに、歩いて行くと段々坂道を下るようになってきて、経験上、古墳はどちらかというと高い場所にあるため、もし引き返すとしてもかなり遠くまで来てしまったなあと不安になってきたころに、ようやく遠くに白く輝く説明板が見えて安堵しました。

 

200
新木山古墳

 「にきやま」古墳と読みます。新山古墳と名前が似ているので、たまに間違えそうになります。5世紀前半に築造された墳丘長200mの前方後円墳です。主軸はおおむね東西方向で、前方部が東側を向いており、新山古墳や巣山古墳のように奈良盆地に対して横っ腹を見せる意図はないようです。

新木山古墳

 丘陵東側の古墳をさらに地理的に分けると、北・中央・南に分けることができ、新木山古墳は中央に含まれますが、中央の主体は巣山古墳群周辺にあり、新木山古墳はそのまとまりから少し外れていて、周囲にある比較的目立つ古墳といえば、すぐ西側に「積極的復元」がなされている帆立貝形の三吉石塚古墳がある程度です。

 墳丘は陵墓参考地に治定されていますが、周堀跡などの周辺は民有地で、これまで数回の発掘調査が行われています。『広陵町文化財調査報告 第3集 新木山古墳第3次範囲確認調査報告』(広陵町教育委員会/編)によると、周堀跡には現在渡り土手状の堤があることから、それを往時のものと見て、堀は渡り土手によって区切られ、階段状に造られていたと推定されています。

 

以下はドラフトなので読まないでください

 先代旧事本紀によると、奈良盆地には倭国造以外に葛城国造がいます。つまり大化前代には、葛城は奈良盆地の他の地域とは別個の国として認められていました。問題は、葛城国造の範囲です。先代旧事本紀では、葛城国造は神武天皇の時に剣根命が任じられたのが始めとします。神武天皇の時というのはないとしても、剣根命という神がキーワードになります。この剣根命を祀る神社を探してみると、葛城市葛木にある葛城御県神社(かつらぎみあがたじんじゃ)は、剣根命を主祭神としています。

 4世紀前半、鴨都波1号墳が築造されており、これは確実に葛城の首長の墓だと考えられますが、墳形は方墳ですし、規模を見たら全く劣っています。ただし、この被葬者は弥生時代から連綿と続く、鴨都波遺跡の首長で、山本山古墳を築造した3世紀後半の時点で、鴨都波遺跡周辺の葛城地方の広範囲を治めていた首長に成長していました。ただし、この勢力が馬見丘陵にまで勢力を広げていたようには思えないのです。

 これが大きく動くのが4世紀末の応神天皇の東征です。このとき紀州の武内宿禰は応神に呼応し、紀ノ川を遡り、葛城地方に侵攻してきます。このときの働きによって武内宿禰は応神天皇から葛城地方の支配を任されたと考えます。武内宿禰=襲津彦。墓は新たな大王家の墓域として定められた佐紀古墳群に特別に作られます。佐紀石塚山古墳。武内宿禰=襲津彦=成務天皇。襲津彦の娘の磐之媛の墓も佐紀古墳群にある。ヒシアゲ古墳。

 襲津彦やその後継者の活躍によって葛城氏は馬見丘陵にも手を伸ばす。巣山古墳や築山古墳などの超大型古墳を築造する。ただし、巣山も築山も築造時期をはっきりさせないと何とも言えない。

 襲津彦は系譜通り武内宿禰の子でも良く、紀州の王・武内宿禰の命により朝鮮半島で活躍していたのが帰国したという流れでもいいと思いますが、宿禰と成務が誕生日が一緒というのが気になるので、やはり同一人物だとすると、宿禰の墓は佐紀古墳群。