【募集終了】11/6~8 or 11/20~22【3日間】世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」19ヶ所全制覇 <第238・239次 AICT>

 本ページは現地講座(歴史ツアー)の参加者募集用ページですが、世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産(+α)についてまとめていますので、現地講座に興味がない方も飛鳥の古代史に興味がある方は「読み物」あるいはご自身で飛鳥を旅するときの資料としてご覧ください。

 

講座概要

 今年7月の第48回ユネスコ世界遺産委員会において、奈良県明日香村・橿原市・桜井市に点在する飛鳥時代を主とする遺跡群が「飛鳥・藤原の宮都」として世界遺産に登録されました。

 「飛鳥」というのは聴き慣れた言葉だと思いますが、「藤原」とは何でしょうか?地名で言った場合は、藤原というのは飛鳥の北側に隣接した地域のことを指します。ただし、世界遺産のタイトルは、地名というよりかは、藤原京に日本の首都があった時代のことを指しています。

 飛鳥の諸宮や藤原宮の歴代天皇を列挙すると以下の通りです(数値は在位年)。

 ※赤色は女帝ですが、この時代はいかに女帝が多かったかが分かります。

 第33代 推古天皇 592~628 ※豊浦宮で即位し、飛鳥時代がスタート。蘇我馬子や聖徳太子がサポート 
 第34代 舒明天皇 629~641
 第35代 皇極天皇 642~645
 第36代 孝徳天皇 645~654 ※乙巳の変の後に即位し、その年の暮に大阪難波に宮を遷した
 第37代 斉明天皇(皇極天皇重祚) 655~661
 第38代 天智天皇 668~672 ※即位前は皇太子として政治を主導
 第39代 弘文天皇 672 ※飛鳥・藤原とは無関係
 第40代 天武天皇 673~686
 第41代 持統天皇 690~697 ※694年に藤原京に遷都
 第42代 文武天皇 697~707 ※藤原宮で即位した初の天皇
 第43代 元明天皇 707~715 ※710年に平城京へ遷都

 この時代の遺跡の中から選ばれたものが世界遺産の構成資産とされたのです。本現地講座では19ヶ所すべての構成資産をめぐります

 ただし、すべての遺跡を濃密に見学しているととてもではないですが2泊3日では終わりませんので、メリハリを付けて、藤原宮跡や一部の古代寺院跡の見学は短く済ませ、その代わり、世界遺産には入っていないものの一見の価値があったり、あるいは史的重要度が高い古墳を追加します。

 また、飛鳥を訪れたら必ず行くべき場所も加えていますので、飛鳥にまだ行ったことが無い方やほとんど行ったことが無い方に特に楽しんでいただける内容になっています。もちろん、飛鳥は何度行っても良いところですから、久しぶりに行こうかな、と思った方も充分に楽しめると思います。

 ※本現地講座を企画した段階では、各館の休館予定はチェックしていますが、もし臨時休館になってしまった場合は、他の箇所で代替させていただきます。

 ※各館に展示してある遺物に関しては、タイミングによっては他館へ貸出している可能性がありますが、その場合はご了承ください。

 ※本現地講座は自動車でめぐりますが、飛鳥の中心部は駐車場に車を停めて練り歩くシーンが出てきます。

 

本講座のテーマ

 AICTの掲げるテーマの内、本講座は主として「◎」に該当します。

旧石器時代日本人のルーツと列島文化の始まりを探る
縄文時代土器と土偶を楽しもう・列島各地の多様な縄文文化に触れる
弥生時代列島各地における国ぐにの発生と邪馬台国の謎を追う
古墳~飛鳥時代リアル日本書紀・ヤマト王権の確立と古代国家成立への軌跡を探る
古墳~飛鳥時代列島各地の古墳をめぐろう・諸国古墳探訪 大和編
奈良~平安リアル続日本紀・列島各地に残る律令国家を見る

 

開催日

以下の2組に分けて催行します(8月24日追記)。

・11月6日(金)~8日(日)
・11月20日(金)~22日(日)

※日程調整にご協力くださった方々、どうもありがとうございました。

日程調整案件です。以下の中から日程をリクエストしてください(いずれも2026年)。

① 10月23日(金)~25日(日)
② 11月6日(金)~8日(日)

③ 11月20日(金)~22日(日)

※③に決定しました(8月20日追記)

※現在エントリーされている方がお一人いて、上記いずれも大丈夫です。
※どれか1つを選んでくださいという意味ではなく、可能な日程が複数あれば複数教えていただいた方が催行率が高まりますのでご協力ください。

  

集合場所と出発時刻

近鉄奈良駅の「東改札口」を出た場所に11時10分集合とします。

⇒ 近鉄奈良駅の構内図はこちら

京都駅から近鉄特急(有料)を利用する場合は、以下の列車があります。
・京都駅10:25発 近鉄奈良駅10:58着

有料特急に乗るほどでもないや、という方は以下の急行がちょうどよいです。
・京都駅10:11発 大和西大寺駅で乗り換え 近鉄奈良駅11:03着

 

宿泊場所

 宿に関しては、参加者にメール等でお知らせしたとおりです(8月24日追記)

 2泊とも大和八木駅あるいは桜井駅から徒歩圏でお取りください。

・予算に余裕がある方は、大和八木駅近くの「カンデオホテル」がお勧め(屋上の男性露天風呂からは藤原宮跡を見下ろせますが、今は不敬罪には問われません)
・普通に良い目のビジホに泊まりたい方は、桜井駅近くの「ホテルルートイン」がお勧め
・価格重視ならルートインの向かいにある「とみやま館」などのトラディショナルな旅館がいくつかあります
・私は泊ったことがありませんが、大和八木駅から徒歩圏にAICTのメンバーが何名か泊って好評な「ビジネス観光ホテル河合」もあります

※なお、大和八木駅近くは飲み屋を含め飲食店が豊富ですが、桜井駅近くは絶望的に少なく、ルートイン1階のレストランが開いていればラッキーといった風情です。そのため、飲み会をやる場合は大和八木でやる可能性が極めて高く、私の場合はもし桜井に宿を取っていても電車に乗って大和八木まで行きます。

 ※以下、8月21日追記。

 宿の調査をしてみましたが、現在、宿が絶望的に取りづらい状況になっています。

 そのため、稲用と8月21日現在申し込んでくださっている3名様はみな、大和郡山市内のビジネスホテルにしました。

 そこも私たち4名で満室になりましたので、これから申し込んでくださる方は、大和八木・桜井から大和郡山のルート上で探していただくと、行程上とても助かります。

 土地勘が無いと難しいと思いますが、分からない場合は稲用までお知らせください。

 

解散場所と帰着時刻

以下の列車に乗れるように近鉄奈良駅に戻ります。

・近鉄奈良駅17:25発 京都駅18:00着 特急(有料)

なお、以下の列車もあります。

・近鉄奈良駅17:44発 京都駅18:35着 急行

 

探訪箇所

※下記は大雑把に古い順に並べたもので、探訪順ではありません。

※当日の進み具合によっては、下記以外にも参加者の趣味趣向にあった遺跡をご案内することができるかもしれません。

 


飛鳥寺跡|明日香村

 『日本書紀』によると、数々の法難に見舞われた蘇我馬子はそれにめげず、587年に法興寺の建立を発願しました。この法興寺は、いつの頃からか親しみを込めて飛鳥寺(あすかでら)と呼ばれるようになりました。

 国指定史跡や世界遺産の名称は「飛鳥寺跡」というように「跡」が付きますが、現在でも「飛鳥寺」と呼ばれているお寺が存在します。古代飛鳥寺の法灯を受け継ぐ真言宗豊山派の鳥形山安居院です。

 

 本尊は国内最古の大仏とされる飛鳥大仏(銅造釈迦如来坐像)です。

 

 推古天皇14年(606)年4月に飛鳥大仏は飛鳥寺に安置されました。身体のほとんどの部分が後世の補修によりますが、頭部の一部などは造立当時のものです。竜山石(凝灰岩)で造られた石造台座も造立当時のもので、台座の位置は創建時から動いていないことが分かっています。この時代の古墳に使用された最高級の石棺は竜山石で造られており、その石材を寺院建築にも利用しているところが興味深いです。

 飛鳥寺は他の古代寺院と比して独特な伽藍配置をしています。南北軸に並ぶのは、南から南門、中門、塔、中金堂です。現在の安居院は中金堂を踏襲しており、既述した通り飛鳥大仏の台座は元々の場所から動いていません。そして、塔の左右には西金堂と東金堂があり、金堂が3つもあったのです。金堂は今でいうところの本堂ですから不思議な伽藍配置です。これらの建物は中門に接続された廻廊で囲まれており、廻廊北の外側に講堂がありました。

 本来的にはお寺で最も大切な建物は、お釈迦様の遺骨を納めた塔です。ですから、その塔の3方向に金堂があるということは、3方向からお釈迦様を拝むことを意味しているのでしょう。

 さて、この「一塔三金堂」の伽藍配置の寺院は現在までも国内からは見つかっておらず、類例を海外に探すと、従来は高句麗の清岩里廃寺(せいがんりはいじ)が同様であるとして、高句麗との関係が取り沙汰されてきました。

 しかしその後、百済の古代寺院の発掘例が増え、百済にて飛鳥寺と共通する伽藍配置が見つかり、また、東西の金堂の基壇は2段構造の特殊なものですが、それは百済の定林寺(じょうりんじ)などに類例が見られることから、最近では百済の影響を重視する考え方が主流の様です。

 飛鳥寺は昭和31年(1956)と翌年に奈良文化財研究所が塔跡の発掘調査を行いました。塔心礎の中心の舎利に収められていたものは、玉類や耳環、挂甲、馬具などで蛇行状鉄器も見つかっており、この時代の古墳の副葬品と同様でした。発掘した人は「まるで古墳を掘っているようだった」と語ったそうです。既述した飛鳥大仏の台座もそうですが、こういった初期寺院と古墳との関連性を探るのは面白いです。

 なお、飛鳥寺では発掘された考古遺物などを展示していますが、創建時の軒丸瓦は、大きく2つにグルーピングされ、「花組」・「星組」と呼ばれています。ネーミングした偉い先生は宝塚ファンだったのです。花組は百済系工人が、星組は高句麗系工人が製作に関与しているとされています。

 


島庄遺跡|明日香村

 しまのしょういせき。蘇我馬子の居館があったと考えられている場所です。

 『日本書紀』推古天皇34年(626)5月戊子朔丁未の条には、蘇我馬子が薨じて桃原墓に葬られたことが記されています。その墓は石舞台古墳というのが定説ですが、その記述に続いて、馬子のプロフィール(薨伝)が記されています。それによると、「大臣は稲目宿禰の子である。人となりは武略があってまた弁才あり。三宝を恭(つつ)しみ敬い、飛鳥河の傍(ほとり)に住んだ。庭の中に小さな池を開き、池の中には小嶋を作った。時の人は、嶋大臣といった」とあります。

 この記述によって、この当時から有力者は池のある庭園を持っていたことが分かるのですが、今でも島庄遺跡の場所を航空写真で見ると、周辺の田んぼが正方向なのに、一部だけ斜めのラインの田んぼがあるのが分かります。そこを発掘した結果、池跡が見つかりました。

 

 池跡は一辺が約42ⅿで、その周囲に幅10ⅿの堤を築いているので、賃貸マンション暮らしの私の感覚からすると、決して小さな池ではありません。

 現地には特に目で見られる物はありませんが、地形を観察しながら往時の様子を想像してみましょう。

 

51m
石舞台古墳|明日香村

 7世紀初頭に築造されたと推定されている古墳です。一辺51ⅿほどの2段築成の方墳と説明されることが多いですが、上段の封土はいつの間にか無くなっており、上円下方墳説を唱える研究者もいます。被葬者は江戸時代後期には蘇我馬子説が囁かれ始めたようで、それ以外にも諸説ありますが、現在では多くの研究者が様々な角度から考察した結果、蘇我馬子説が有力とされます。

 昭和8年(1933)から昭和10年に発掘調査が行われており、6世紀に築造された古墳を破壊した上に築造されたことが判明しました。現在は奇麗に整備されていますが、現地で見られるように周囲は堀で囲まれ、堀を含めると一辺は80ⅿもあります。墳丘下段と横穴式石室は当時のままです。墳丘の封土がなくなり横穴式石室が露出していることから「石舞台」の愛称で呼ばれていることは良く知られていますね。

 

 花崗岩で造られた石室の全長は約18.7mで、羨道は長さ11m、幅2.5m、玄室は長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m。床面に排水施設があります。使われた石の数は30個以上に及び、総重量は約2300tと計算されています。天井石に使われている最も大きな石は約77tと推定され、列島各地の巨石墳を見ても、10tのオーダーに行くと相当大きな石ですので、桁違いなスケールです。石は冬野川を約3㎞遡った地点で採取されました。

 


橘寺跡|明日香村

 たちばなでらあと。世界遺産の名称は「橘寺跡」となっていますが、国指定史跡の名称は、「橘寺境内」です。今もなお遺跡の上には仏頭山上宮皇院菩提寺と称する天台宗の寺院があり、橘寺と呼ばれています。

 

 橘寺という名前は、田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことによりその名が付いたとされます。本尊は聖徳太子・如意輪観音で、聖徳太子建立七大寺の1つとされています。ただし、橘寺がいつ創建されたのかは、はっきりしたことは分かっておらず、史料上の初見は、『日本書紀』の天武天皇9年(680)4月条にある橘寺の尼房が失火し、十房を焼いたと記されている記事です。

 発掘調査からは7世紀第1四半期の複弁蓮華文軒丸瓦が出土し、7世紀半ば以降には本格的な伽藍を備えた寺院へ発展したと考えられています。また、僧寺であった川原寺に対する尼寺として建立されたという説もあります。

 検出された伽藍配置は東西軸で、今の本堂は講堂跡の上に建てられています。

 

 飛鳥には「謎の石造物」が多く残っていますが、橘寺の境内にも二面石と呼ばれる石造物があり、右側には善面が、左側には悪面が彫られているとされ、橘寺の説明によると、私たちの心の持ち方を表しているとのことです。

こちらは「善面」

 


飛鳥宮跡|明日香村

 飛鳥時代は、飛鳥に日本国(倭国)の政治の中心(今風に言うと首都)があった時代ですが、ピンポイントで一か所にずっと天皇(大王)の宮殿が存在し続けたわけではありません。飛鳥時代までは伝統的に天皇の代替わりとともに新たな宮を作っていましたし、何かアクシデントがあると新たな宮を造営して引っ越しました。すなわち、飛鳥という土地の中には多くの宮跡があるのです。

 『日本書紀』に登場する多くの宮の中で、飛鳥岡本宮・飛鳥板蓋宮・後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮の4つの宮が、従来は「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれ、現在は「飛鳥宮跡」と呼ばれている遺跡に重層的に存在したことが分かっています。それぞれの宮を、Ⅰ期、Ⅱ期、Ⅲ-A期、Ⅲ-B期と呼びます。

 『日本書紀』によると、舒明天皇は630年10月に岡本宮に遷ったとあり、それがⅠ期の遺構です。『日本書紀』には636年に岡本宮が焼け、田中宮に遷ったとあり、実際に発掘の結果、火災の跡が見つかりました。

 皇極天皇は643年4月に飛鳥板蓋宮に遷ったとあり、これがⅡ期の遺構で、蘇我入鹿が斬殺された「乙巳の変」の舞台になった宮です。その後、皇極天皇は退位し、孝徳天皇が立ちましたが、孝徳の跡は皇極が重祚して斉明天皇となり、654年にはまたⅡ期の板蓋宮に戻ってきました。

 今現在、私たちが訪れる遺跡はこのⅡ期遺構のほぼ中心にあたる場所になりますが、復元されている井戸や石敷きなどはⅢ期のものですからややこしいです。

 

 板蓋宮は655年に火災にあい、斉明天皇は川原宮(後年川原寺になる場所)に遷り、焼け跡にてⅢ-A期にあたる後飛鳥岡本宮の造営を開始します。

 天武天皇のⅢ-B期には、エビノコ郭が増設され、それが藤原宮からはじまる大極殿のルーツと考える研究者もおり、藤原宮を造営するための準備がこの段階になされたと考えていいでしょう。

 飛鳥にはいくつもの宮がありましたが、最も重要なのがこの飛鳥宮跡です。

 


甘樫丘|明日香村

 あまかしのおか。蘇我蝦夷・入鹿の頃の蘇我氏の本拠地ともいえる標高145mの丘で、古代史へのロマンがいやが上にも高ぶる場所です。飛鳥に来たらこの丘から飛鳥や藤原の地を眺めて往時に思いを馳せましょう。

北側の奈良盆地側の眺望

 

カメラのズームを使えば藤原宮の中心も見える

 

西側には墳丘長330mの蘇我稲目の墓の可能性のある五条野丸山古墳が見える

 

カメラをズームすると入鹿の首塚も見える

 


甘樫丘東麓遺跡|明日香村

 蘇我蝦夷の居館があった可能性の高い遺跡です。入鹿が飛鳥板蓋宮で暗殺された翌日、ここで蝦夷が自邸に火をかけて自害したことを思うと感慨深いものがあります。現地にはとくに何もないので、景観を眺めながら蝦夷の無念を想いましょう。

 


飛鳥寺西門跡・蘇我入鹿首塚|明日香村

 『日本書紀』によると、皇極3年(644)、中大兄皇子と知り合うチャンスを伺っていた中臣鎌足が法興寺(飛鳥寺)の槻の木の下で催された蹴鞠に参加し、中大兄皇子と運命的な出会いをしたというような記述がありますが、そのときの蹴鞠会場がこの辺だといわれています。

 

 上の写真は西門跡から甘樫丘を見たところですが、蘇我入鹿を屠った中大兄皇子や中臣鎌足らは、ここに軍勢を集めて甘樫丘の麓に居館を構える蘇我蝦夷に対して次なる行動を起こす準備をしたと言われています。

 結果的には入鹿惨殺の翌日、蝦夷は自邸で自害しました。

 なお、調査の結果、ここでは槻の木の跡は検出されておらず、やや西側の入鹿の五輪塔(首塚)がある地点が実際の蹴鞠会場の有力な比定地だと考えられています。

入鹿の首塚(背後は甘樫丘)

 


山田寺跡|桜井市

 645年6月12日、飛鳥板蓋宮での儀式の最中、蘇我入鹿は衆目の面前で惨殺され、その翌日には入鹿の父・蝦夷が自殺し、蘇我本宗家は滅びました(乙巳の変)。それによって、入鹿の従兄弟にあたる蘇我倉山田石川麻呂が蘇我氏を代表する立場となり、彼は改新政府で政治手腕を発揮します。その彼が乙巳の変の前の641年に氏寺として造営を開始したのが山田寺です。

 

 山田寺は643年には金堂の造営を開始し、648年には僧が住み始めたと言います。このように自身の氏寺が出来上がりかけた頃、石川麻呂に「順番」が回ってきました。入鹿の次は石川麻呂の番だったのです。

 649年、石川麻呂の異母弟である蘇我日向が中大兄皇子に対して「石川麻呂が皇子を殺そうと企んでいます」と密告しました。これによって、石川麻呂は中大兄皇子から討伐を受けてしまったのです(この時、孝徳天皇は難波の宮に居り飛鳥にはいません)。

 事を知った石川麻呂は長男の興志らとともに完成間近の山田寺に籠りました。

 興志は決戦を挑むことを主張します。ところが石川麻呂は、「私は黄泉の国でも忠誠心を持ち続けたい」と言い残して自害してしまいました。家族や家臣たちもそれに続きました。

 山田寺の接収に赴いた討伐軍は驚きました。普通、一族が自害する際は邸宅に自ら放火して財産が敵の手に渡ることを防ぐのですが、山田寺は奇麗だったのです。しかも重要な書物や財宝類には「皇太子のためのもの」との付箋が貼られていたのです。

 これを知った中大兄皇子は石川麻呂の赤心を知り、大いに後悔して嘆き悲しみました。

 ・・・というドラマがあった古代寺院跡ですが、昭和57年(1982)の発掘調査で大きな発見がありました。土砂崩れによって倒壊した東回廊が柱や連子窓を含めて丸ごと見つかったのです。現存する日本最古の木造建築は7世紀後半に再建された法隆寺ですが、それよりも古い飛鳥時代の建築技法の一端が明るみになったのです。

 復元されたものは飛鳥資料館に展示しています。

飛鳥資料館にて撮影

 


川原寺跡|明日香村

 国史跡名も世界遺産名もともに「川原寺跡」ですが、現在では真言宗豊山派の弘福寺(ぐふくじ)が法燈を護っています。

 

 川原寺の創建時期は不詳ですが、川原寺が創建される前、斉明天皇の飛鳥板蓋宮が655年に火災にあったことにより、この地には一時的に斉明天皇の川原宮が置かれたことがありました。斉明天皇が661年に崩じた後、子の中大兄皇子が667年の近江大津宮遷都までの間に斉明天皇のために発願したのが川原寺の起こりとされています。

 境内には多くの礎石(レプリカを含む)が残っており、当時の伽藍の様子をイメージすることができます。中金堂の礎石として「瑪瑙(めのう)の礎石」と呼ばれている珍しい物もありますが、正確には瑪瑙ではなく大理石だということです。ただし、大理石を礎石に使うこと自体が大変珍しくその価値が失われることはありません。

 

30m
菖蒲池古墳|橿原市

 7世紀中頃に築造された一辺30ⅿの方墳です。平成21年(2009)から4年に渡り橿原市が発掘調査を行いました。南側に開口する両袖型の横穴式石室を備え、玄室内には2基の家形石棺が直列に安置されています。被葬者は、蘇我蝦夷・入鹿父子と考える研究者がいます。

 


飛鳥京跡苑池|明日香村

 斉明天皇は土木工事や石造物が好きな天皇というイメージがありますが、その斉明天皇のときに作られた庭園だと考えられています。日本最古の本格的庭園と呼ばれることがあり、南北約280m、東西約100mという広大な敷地に南北2つの巨大な池(南池・北池)を造作しました。

 

 しかし単に天皇個人が観賞して楽しむ庭園ではなく、海外からの使節をもてなすための大切な場所だったのです。南池では4つの石造物が見つかり、そのうちの3つは、高低差による水圧の原理を利用して自噴する噴水だったと考えられています。そのような水のパフォーマンスを見ながら、美しい音楽を聴き、贅を尽くした食事をいただいていたのですね。

 また、古来より「王」は水を支配する大切な役目を担っており、北池では祭祀が行われたと考えられています。北池の最北端には、水路が接続してたことも分かっており、池の水位をコントロールするための堰がありました。

 『日本書紀』天武天皇14年(685)11月6日の条には、天皇が白錦後苑(しらにしきのみその)に幸(いでま)したとありますが、飛鳥京苑池のことであると考えられています。

 


酒船石遺跡|明日香村

 こちらも斉明天皇が造らせた石造物シリーズと考えられています。

 

 

 


亀石|明日香村

 明日香村周辺には謎の石造物がたくさんあり、それが飛鳥の魅力の一つでもありますが、この亀石はとくに人気者です。

 

 花崗岩で造られた物体で、写真で見ると大きさが分からないかもしれませんが、長さ3.6ⅿ、幅2.1ⅿ、そして高さは1.8mもあります。重さは10t以上と考えられています。

 誰が何のために作ったものなのかは諸説ありますが、斉明天皇の時代に飛鳥の都の四至に置かれて都を守ったもののひとつであるという説があります。

 明日香村の隣には橿原市があり、地図で見ると分かるのですが、橿原市はどんどん宅地開発がなされて、菖蒲池古墳がある丘の西麓まで住宅に侵食されてしまいました。

 菖蒲池古墳は橿原市で、道路を挟んだ東側の小山田古墳がある場所は明日香村です。その辺から東へ直線距離で300ⅿほどの位置に亀石があります。

 明日香村は今後も極力昔の景観を保つと思いますが、面白いことに亀石は明日香村と橿原市との境界近くにあって、橿原市方面からの容赦ない開発の波から明日香村を守っているように見えるのです。

 そんな健気な亀石に会いに行きましょう。

 


鬼の俎・鬼の雪隠|明日香村

 街道の北側高台に「鬼の俎(まないた)」があり、道路の南下には「鬼の雪隠」があります。昔ここに棲む鬼は、時折通りがかった人に霧を降らせて混乱させ、隙を見て略取し、「俎」で調理して食したといいます。

 

 生きながらの調理は御免被りたいですが、一方の「雪隠」はその名の通り、鬼のトイレです。

 

 この話が事実だったとしたら、「当時の役人は何で取り締まらなかったのか!」と憤りを感じる人がいるかもしれませんが、実はこれらは古墳の横口式石槨でした。いつの日か封土がなくなり、石槨が二つに分かれて一つが下に転がり落ちてしまったのです。材質は花崗岩です。雪隠が蓋石で、俎が底石です。生々しい横口式石槨を見られることは少ないので大変貴重な古墳時代の遺跡です。 

 なお、欽明天皇陵(梅山古墳)の陪塚として宮内庁が管理していますが、梅山古墳とは時代が合いません。

 

22m
牽牛子塚古墳|明日香村

 けんごしづかこふん。7世紀後半に築造された3段築成の八角墳。対辺長22ⅿ。被葬者は661年に崩御した斉明天皇である可能性が極めて高いです(宮内庁は高取町の車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵に治定しています)。

 

 主体部は二上山の凝灰岩を使った刳抜式の石槨で、間仕切り壁を備えた2つの部屋に分かれる珍しい物です。

 

 『日本書紀』の天智天皇6年(667)2月27日条には、「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女を小市岡上陵に合わせて葬った」とあり、もう1名の被葬者は斉明天皇の娘で孝徳天皇の后の間人皇女(はしひとのひめみこ)と考えられます。間人皇女は、天智天皇にとっては大切な妹でしたが、665年に薨じています。

 ところで、斉明天皇は661年7月に遠征先の筑紫で崩じましたが、牽牛子塚古墳に埋葬されたのは667年2月です。この間、斉明天皇の遺体はどうなっていたのでしょうか?

 斉明天皇が崩じたときはまだ戦時中でしたが、『日本書紀』によると、遺体は故郷に無言の帰宅をして、11月7日には、かつて一時的に宮としたゆかりの地である川原(のちに川原寺が建てられる)で殯されました。

 その後のことは記録に無いですが、のちの天武天皇や持統天皇を例から類推すると、モガリは1年くらいのはずなので、モガリが終わった後どこかに埋葬したはずです。その陵は分かっていませんが、近鉄飛鳥駅近くにある岩屋山古墳が候補地の一つです。そこが合っているかは分かりませんが、斉明天皇はどこかに一度埋葬された後、牽牛子塚古墳に改葬されたと考えられるわけです。

 牽牛子塚古墳の南東側には接するように7世紀後半(牽牛子塚古墳よりやや後)に築造された一辺10ⅿの方墳である越塚御門古墳があり、石英閃緑岩を刳り抜いて身と蓋を作った石槨が安置されています。

 

 この2つの古墳を見るに、既述した『日本書紀』天智天皇6年(667)2月27日条のあとに「この日、皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬る」とありますので、牽牛子塚古墳が斉明天皇の陵だとすれば、被葬者は斉明天皇の孫の大田皇女である蓋然性が高いです。

 大田皇女は、持統天皇の同母姉で、姉妹揃って天武天皇に嫁しました。早世してしまいましたが、生きていれば天武天皇の皇后になったかもしれません。 

 ※牽牛子塚古墳では現地ガイドに解説を依頼しようと思っており、その場合は各自500円のお支払いをお願いします(現地ガイドは必ずしも予約が取れるとも限りません)。

 


水落遺跡|明日香村

 『日本書紀』の天智天皇10年(671)4月25日条には漏刻に関する記述がありますが、まさにそれとされている遺跡です。

 


檜隈寺跡|明日香村

 蘇我氏の権勢は渡来系氏族の力を背景に持っていましたが、それら氏族の中で東漢氏(やまとのあやうじ)は特に重要な働きをしました。檜隈寺跡の周辺は東漢氏の勢力範囲で、東漢氏はこの場所に7世紀後半に金堂を建築し、7世紀末の藤原京遷都の頃には塔や講堂などの伽藍を整備していたことが分かっています。講堂は、百済でよくみられる瓦積基壇(かわらづみきだん)によって造られています。

 『日本書紀』の朱鳥元年(686)8月の条には、「檜隈寺・軽寺(かるでら)・大窪寺(おおくぼでら)の3つの寺に、それぞれ100戸の封戸(ふこ)を30年間の期限付きで与えた」との記載があり、遅くとも686年の時点にはすでに立派な寺院として存在していたことが文献上からも分かります。

 

42m
天武・持統天皇陵古墳|明日香村

 7世紀後半に築造された、対辺間の長さ約42m 、高さ約13.5m の八角墳です。被葬者は天武天皇とその皇后の持統天皇で、被葬者が確実に分かる数少ない古墳です。夫婦で同じ墳丘内に埋葬されることはそれ以前には見られなかった現象です。夫の天武天皇は従来の通り棺に入れられましたが、妻の持統天皇は、天皇として初めて火葬され、骨臓器に収められて埋葬されています。

 

 築造や埋葬の時期もはっきり分かっており、『日本書紀』によると、天武天皇は686年9月9日に崩御し、1年後の687年10月22日に大内陵の築造に着手し、さらにその1年後の688年11月11日には誅(しのびこと)が終わり埋葬、そして『続日本紀』によると、大宝2年(702)12月22日に持統天皇が崩御し、翌大宝3年(703)12月17日に飛鳥岡にて火葬され、26日には大内山陵に合葬されたとあります。

 古墳は一般的には寿陵(生前に造る)とされていますが、天武天皇の場合は崩御後に造り始めていることが分かります。一口に「古墳」と言っても、前方後円墳が作られていた時代と終末期とではかなり文化が変わってきており、古墳自体も別物の感があります。

 


藤原宮跡|明日香村

 藤原「京」と呼ぶ場合もありますが、それは現代の学術用語で、当時は新益京(あらましのみやこ)と呼んでおり、新益京の中心にある天皇の宮のことを藤原宮と呼びます。遺跡名としては藤原宮跡となりますが、南側には藤原京朱雀大路跡と呼ばれる遺跡もあります。

 新益京は日本で最初の都城で、日本書紀によると持統天皇の694年に久しく天皇の宮が置かれていた飛鳥の地を飛び出て、藤原の地に都を遷しました。建設の開始は天武天皇の時代です。

 持統天皇の孫であり持統天皇の次代天皇の文武天皇は、即位も崩御も藤原宮で行われた唯一の天皇です。若い文武天皇の下、701年には大宝律令が制定され、中国との国交(遣唐使)も再開し、また九州南部や南島へ版図を伸ばすなどして、日本は新たな国造りに邁進しました。

 文武が在位10年余りで崩じた後は、その叔母にあたる元明天皇が即位して新益京に君臨しましたが、元明は710年に平城京へ都を遷し、新益京は都としての歴史を終えます。

 なお、冒頭で述べた通り、本現地講座では藤原宮跡に関してはその中心となる大極殿跡(大宮土壇)を見学するにとどめます。

 

13.8m
キトラ古墳|明日香村

 石室内に描かれた壁画が有名で、壁画の本物は年に原則的に年4回公開されていますが、墳丘自体は綺
麗に整備されていつでも見学できます。古墳は、直径13.8mの2段築成の円墳です。キトラは「北浦」の転訛との説があり、古い古墳の本を読むと「亀虎古墳」と漢字で書かれていることもあります。

 


キトラ古墳壁画体験館 四神の館|明日香村

 地下1階の展示室はいつでも見学可能ですが、1階に保管されている本物は期間限定で公開され、事前予約をしておかないと見られないことがあります(本現地講座では本物の壁画の見学は含まれていません)。

 

23m
高松塚古墳|明日香村

 石室に描かれた国宝の壁画が有名です。墳丘自体は、キトラ古墳と同様に藤原京の時代(694~710年)に築造された2段築成の円墳で、直径は23mです。被葬者は天武天皇の皇子説や渡来人説があります。壁画は2020年3月に保存修理が完了しました。

 


高松塚壁画館|明日香村

 昭和47年の高松塚古墳発見時の壁画を忠実に写した「現状模写」と、描かれた当初はどうだったのかが分かる一部復元の「復元模写」を展示し、原寸大の石室のレプリカや遺物も展示しています。館内の写真撮影がNGなのが残念です。

 


大官大寺跡|明日香村・橿原市

 『日本書紀』などに登場する大官大寺は、「おおつかさのおおでら」とも発音し、その字面から国家の特別な寺であることが理解できますが実態は分かっていません。最初、百済大寺(吉備廃寺)が建立されてその任につき、ついで高市大寺、そしてここの大官大寺跡へと変遷しました。奈良時代には今も奈良にある大安寺が後継寺院となっています(高市大寺のみ場所不明)。大安寺の位置は、大官大寺跡のほぼ真北です。

 ここの大官大寺跡は飛鳥・藤原地域で最大規模を誇る古代寺院跡です。寺域は東西約205m、南北約354mあり、藤原京左京九条四坊の南半と藤原京左京十条四坊の全域に及びます。

 伽藍配置は、南から中門・金堂・講堂が一直線上に並び、金堂の南東には、一辺約35ⅿの基壇上に一辺15ⅿの塔が建ち、九重塔であったといわれ、現在日本で最も高い京都東寺の五重塔よりもはるかに高かったと計算されます。それ以外の建物も大規模で、同一規模・同一構造の金堂と講堂の建物の正面幅は約45ⅿあり、藤原宮大極殿に匹敵する規模でした(したがって基壇はもっと大きいです)。

 現在は塔と金堂の基壇が残っている程度で当時の大伽藍の様子は想像できません。

金堂跡の基壇を北から見る

 

 でも、よくよく写真で基壇の大きさを確認すると、上の写真は金堂の基壇ですが、とんでもない規模であることが分かります。

 平安時代末期に記された『扶桑略記』によると、文武天皇の時期に金堂を創建し、その後、講堂、塔、中門および回廊と順調に造営されていったものの完成を前にして、和銅4年(711)の火災によって焼失してしまいました。もったいないですね。実際、昭和48年からの発掘調査によって火災の形跡も確認され、凄まじい火災だったようです。

 


本薬師寺跡|明日香村

 『日本書紀』によると、天武9年(680)に天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒を祈念して発願した寺です。しかし、完成は遅く、持統天皇11年(697)に開眼会が開かれ、『続日本紀』によると、その翌年に伽藍がほとんど完成したとあります。

 養老2年(718)には平城京に移転しましたが、寺はこの地にも残り、残ったこちらの寺のことを本薬師寺(もとやくしじ)と呼ぶようになりました。

 昭和51年から発掘調査が始まり、伽藍配置は南から中門、金堂、講堂が一列に並び中門と講堂は回廊で結ばれ、その中に塔が左右に配置されていました。

 なんか普通のお宅の庭のように見えるんですが・・・特別史跡ですか!?

 

 実は一般のお宅では無くて、医王院というお寺さんで、ここが金堂跡なのです。

 金堂跡以外にも塔跡の基壇や心礎などが残っています。

 

19.5m
中尾山古墳|明日香村

 現在見られるボッコボコの墳丘からは想像つきませんが、3段築成の八角墳です。第42代文武天皇の檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)の真陵にほぼ間違いありません。

 

 2020年秋にクラツーで訪れた時は、たまたま発掘作業中でした。

 


明日香村埋蔵文化財展示室|明日香村

 ちょっとごちゃっとした印象のある施設ですが、展示内容は素晴らしいです。明日香村の主に飛鳥時代の遺跡のことが良く理解できる施設です。

 


飛鳥資料館|明日香村

 飛鳥の歴史を理解することができる素敵な施設。飛鳥各地にある独特な石造物のレプリカが大集合しているので、それらについて一挙に知ることができます。

 明日香村奥山601 0744-54-3561 9:00~16:30 月曜休館

 

参加費

2名様の場合、お一人様69,000円
3~5名様の場合、お一人様59,000円

 

キャンセル料と発生時期

キャンセル料は、開催一か月前に発生し、25,000円です。
前日・当日のキャンセル料は、50,000円です。
※最近は酷いキャンセルの仕方をする方がいなくなったため、本現地講座に関してはキャンセル料を従来より少し下げました。

 

催行人員

最少は2名様、最大は5名様3名様(8月24日追記)。

 

参加予定メンバー(8月24日現在)

【11月6日(金)~8日(日)】

・えりさん
・おからさん

女性2名様、他、男性1名様、合計3名様(残席0名)。

 

【11月20日(金)~22日(日)】

・球根さん
・ともさん
・勝衛さん

以上、女性2名様、男性1名様、合計3名様(残席0名)。

 

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