亀塚(亀塚公園遺跡)|東京都港区 ~第97次AICT 開催報告 その4~

 


亀塚稲荷神社と弥陀種子板碑

 菊次郎でお得で美味しいランチを食べた後は、午後の探訪を開始します。

 ではここで、午後歩く場所を確認しておきましょう。

稲用章作成(海岸線は16世紀末の推定のつもりで「えいやー!」と引いてみましたが、これだと縄文海進みたいなので、今更ですが、丸山貝塚よりも南側は、もう少し陸地が広がっていたかもしれません)

 AICTでは本シリーズとして、日光道中、中山道、甲州道中をやってきましたが、その特徴は、ほとんどそれらの「五街道」は歩かないことです。タイトルに五街道を謳っておきながら歩かない。旅行会社でこれをやったらアウトです。

 AICTで開催するものは、単なる街道歩きのウォーキングではなく、東京の古代・中世を知るための現地講座ですから、江戸期の五街道をなぞっていてはその目的は達せられません。

 五街道の名を冠しているのは、どの辺を歩くかを表しているに過ぎず、「大体その辺」という意味で付けています。

 さてそんなわけで、今回も午前中は江戸期の東海道はほぼ歩いていません。最後、食事をする前に少し重なったのみです。

 午前中は中世までは海の中だったような場所を歩いて来ましたが、午後は確実に古代・中世の道であった場所を少し進みます。

 田町駅にほど近い、三田3丁目交差点から聖坂という坂を登って行く道があるのですが、その道は古代からの道のはずです。実際、歩きだしたら標柱があって、そこに書いてあります。

 

 絶対にそうとは言い切れませんが、原則として古代・中世の道は台地上の高い場所や、丘の尾根筋を行き、江戸期以降の道は低地を行きます。この原則に大きく反するのは、律令国家の官道ですが、その道は国家権力を背景に、幅12mや9mの道を列島各地に張り巡らせたものです。山を破壊し谷を埋めて、極力直線に作っています。律令国家の官道は、AICTでも何回かご案内していますが(東京都国分寺市や埼玉県川越市など)、江戸時代の五街道などは及びもつかない凄まじく完成度の高い道です。

 前方を見ると何やら工事をしているようです。

 

 私たち歩行者は、右側の歩道を行くように警備員さんに促されました。

 すると、以前は気づかなかったのか、スルーしたのか覚えていませんが、小さな神社があって、「弥陀種子板碑」と書かれた小さな案内表示があります。

 

 板碑と聴いたら無視できませんな。

 この神社は、亀塚神社とか亀塚稲荷神社と呼ばれている神社です。

 

 コンパクトな境内の社殿向かって右側に板碑がありました。

 

 板碑(いたび)というのは中世の供養塔で、とくに埼玉・東京の武蔵地域では緑泥片岩(りょくでいへんがん=埼玉県北部で産出する緑がかった石で古墳の石室や城の石積みにも使われた)で造ったこの形状のものが武士を中心に一大ムーヴメントを起こしました。

 ちゃんと説明板もありますよ。

 

 説明板には「秩父型」とありますが、おそらく一般的には「武蔵型」の方が通りが良いのではないでしょうか。

 板碑をよく見ると、一番上に梵字が刻まれていますが、それを種子(しゅじ)といって、それによって仏様のタイプを表します。

 ※註:弥陀は阿弥陀如来のことで、現地ではサラッと見ただけで確認していませんでしたが、写真を見返すと真中の板碑の種子は阿弥陀如来です。

 ちなみに、普通の板碑はこれくらいの大きさのものが多いのですが、埼玉県には巨大な板碑があります。私は実見したことがないですが、5mの板碑もあるそうです。私が見た中でとくに大きいのは、埼玉県毛呂山町の嘉元の板碑(嘉元4年<1306>造立)で、高さは3.4mあります。

オーメンさんと比べてもその大きさが分かる(2019年3月3日撮影)

 工事をやっていたお陰で板碑を見ることができましたが、板碑があるということは、それが造られた時代にそれなりの身分の人がこの近辺に住んでいたということの証となります。

 武蔵の神社やお寺やときには古墳などにも結構こういった板碑は立っているので、皆さんも歴史歩きをする際には見つけてみてくださいね。

 最後に神社の全景を撮影。

 

 

 

50?
亀塚(亀塚公園遺跡)

 聖坂を登り切ると、左手に亀塚があり、今は亀塚公園になっています。

 到着しました。

  

 今日も親子連れで賑わっていますよ。

 亀塚公園は全体的に亀でコーディネイトされています。

 

 この亀塚ですが、現状は、方墳のような物体です。

2019年9月3日撮影

 具体的にはどのような物体なのか、説明板を読んでみましょう。

 

 ここに書いてある通り、亀塚も芝丸山古墳と同様に明治時代には坪井正五郎が「古墳に違いない!」と評価していました。

 ただし、いまだ古墳である確証が得られていません。過去に5度に渡る調査が行われていますが、主体部が見つからず、周溝も見つかりません。主体部が見つからないケースは多いので仕方がないとしても、古墳の研究者は、周溝の有無を結構重視します。

 古墳は弥生時代の墳墓から発展したものなのですが、弥生時代の墳墓にも基本的には周溝があるため、古墳にもあると考えがちなのです。ところが、事実、周溝が見つかっていないにも関わらず、古墳だと認定されているものもあり、説明板の通り、これは古墳の可能性が高いように思えます。

 元々この場所には弥生時代の住居跡がありましたので、その上に古墳時代になってから人工的に盛土をした物体であることは確かです。

 古墳だと考えた際に気になるのは、「亀塚」という名前です。全国の古墳を見ると、亀塚といった場合は、前期の前方後円墳か前方後方墳であることが多いです。

 前期の前方後円墳あるいは前方後方墳は、前方部が低いため、横から見ると亀が甲羅から首を出している様子を連想させ、亀塚というニックネームが付くことがあります。

 事実、亀塚の北東部側はガッツリ削られた形跡があり、そこに前方部があった可能性があります。

削られた形跡のある一辺(左手の辺)

 現状では一辺が30~35mくらいの方墳ですが、そうすると50mくらいの前方後方墳であった可能性があるわけです。

 東京では現状、確実に前方後方墳であると分かっている古墳は一つもありませんが、亀塚はその候補です。もし、前方後方墳だったとすると、4世紀前半の築造の可能性があり、芝丸山古墳より前の首長墓として考えたいです。

 では、墳頂に登ってみます。

2019年9月3日撮影

 墳頂にある大きな石は、亀山碑と呼ばれる石碑です。

 
 

 私は上述した通り、4世紀前半の前方後方墳の可能性を考えていますが、古墳時代に作られた古墳のような塚が全部墓であったとも限らないと考える研究者もいます。副葬品専用の古墳もありますが、そういう意味ではなく、墓とは関係ない、例えば物見台や通信用の塚ではなかったのかという考えです。

 確かにそういう用途のものもあったでしょうが、そうだとしたら、私は古墳と兼用した可能性を考えます。古墳の中でも、その地域を代表する有力者の墓と想定できる古墳の立地が海や川、道から見える場所であることは、墓であると同時に地域の人びとにみせびらかしたいモニュメントでもあり、またランドマークであったことは間違いないでしょう。そうすると、監視場所であった可能性もあるのではないでしょうか。

 今後も港区には執念で亀塚の調査を継続してくれることを期待したいですね。

 なお、正確な遺跡名は「亀塚公園遺跡」といいます。先ほどもチラッと言いましたが、弥生時代中期後葉の宮ノ台式土器が出土し、その時代の集落跡であることが分かっています。また、少し間が空いて、後期後葉から古墳時代初頭にかけても集落がありました。

 港区の場合、弥生時代後期の始めころの人びとの痕跡は少ないのですが、後期後葉、卑弥呼の時代とほぼ同時期の2世紀後半に一挙に集落が増えます。その一つが亀塚公園遺跡の集落なわけですが、この時期の神奈川県から東京都にかけては、東海地方の人たちが大挙してやってきており、亀塚公園遺跡の後期後葉の人びともそうかも知れません。

 東海地方のどこから人びとがやってきたのかを具体的に述べると、その頃、尾張・三河・遠江の天竜川以西には、山中式系土器を使う人びとがおり、遠江の天竜川以東と駿河には、菊川式系土器を使う人びといました。

 この人たちが準構造船に乗り込んで、海路神奈川・東京にやってきたわけですが、『関東における古墳出現期の変革』(比田井克仁/著)掲載の遺跡の分布を見るとざっくりとした住み分けがあったことが分かります。都内では、武蔵野台地の辺縁部に菊川式の人びとが住み着き(例えば千代田区の紀尾井町遺跡)、多摩川から南には、山中式の人びとが住み着いています(例えば大田区の山王三丁目遺跡)。

 港区はちょうどその境界に当たります。亀塚公園遺跡の人びとがどちらの文化の人びとだったのかは、手元に弥生後期後葉の土器について型式まで説明した資料がないため今は分かりません。

 さらに言うと、この時代にはもちろん神社はないのですが、山中式と菊川式の人びとの間でそれぞれ信じている神様が違った可能性は高く、古墳時代以降の信仰圏や、飛鳥時代以降の神社創建の時代までその影響が残っている可能性がありますから、都内の信仰圏と外来土器の分布を併せて考察してみるのも面白いと思います。

 では、続いて高輪大木戸跡に行きます。

 武蔵野台地から降りなければならないため、近道が無いかなと思って周りを見渡すと、低地に降りる階段がありました。低地とは結構な比高差があります。

 

 亀塚はこのように台地の縁に築造されており、古墳を造る場所としてはポピュラーな場所です。

 今度は下から見上げます。

 

 湧水の説明板もありますよ。

 

 では行きますよ。

 ・・・しまった、伊皿子貝塚を飛ばした!

 低地に降りて少し歩いてから思い出し、元来た道を戻り、先ほどの階段を今度は登ります。

 息を切らして登り切り、皆さんが登って来るのを少し待ちます。

 

 道を間違えることはたまにありますが、よりによって高低差のある場所でしたので、皆さんお疲れになったことでしょうが、都心の地形の最大の特徴を身をもって知っていただいた結果となりました。飛鳥山や江戸城内などで体験していただいた武蔵野台地の高低差が、港区でも変わらないということが分かったと思います。

 ここにも亀さんが。

2019年9月3日撮影

 では、伊皿子貝塚に行きましょう。

 

この続きはこちら

 

「江戸城を五街道から攻める」第4回「江戸城から東海道を攻め下る」

【2023年6月10日(土)】

江戸城和田倉門跡(開始前のソロ活動)

江戸城日比谷見附跡

芝丸山古墳

丸山貝塚

亀塚稲荷神社と弥陀種子板碑

亀塚(亀塚公園遺跡)

伊皿子貝塚遺跡

高輪大木戸跡

鈴ヶ森遺跡(鈴ヶ森刑場跡)

大森貝塚(大森貝塚遺跡庭園)

大森貝墟碑

 

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