鈴ヶ森遺跡(鈴ヶ森刑場跡)|東京都品川区
高輪大木戸跡から東海道を歩き、京急品川駅に到着しました。ここからは京急に乗って立会川駅までワープします。
この区間は、品川宿や社寺が集まっている場所なので、一般的な東海道歩きでしたらネタが豊富な場所です。
通常であれば、そこを端折るのは正気の沙汰ではありませんが、今回は古代・中世がテーマですし、参加者の歩く負担を考えて電車を使うことにします。
でも時刻はまだ14時ですから、この調子だと今日は15時半くらいに終わりそうな気がします。まあ、気にせずに行きましょう。
ランチを食べてから休憩していませんから、電車で座っている時間が休憩時間ですね。
立会川駅で下車。
龍馬がお出迎えです。
龍馬さん、なんか今日は黄色いタスキを掛けていますが、お仕事ご苦労様です。
龍馬が右手を着物の中に突っ込んでいるのは、拳銃を持っているからという話を小学生の頃に聴いたのですが、本当ですか?もしそうだとすると常に発射準備完了で歩いているわけで、相当物騒な人ですね。
私は30歳過ぎの頃、新選組の天然理心流に入門した時に模造刀を一振購入しましたが、龍馬愛用の「陸奥守吉行」モデルを買いました。ある人に「何で敵の刀なの?」と聴かれましたが、そういうことには拘りません。私は大河ドラマで江口洋介が演じた龍馬が好きだったので深い意味はないのです。
亀山社中の「亀山」は、長崎市にある亀山から取ったらしいですが、そういえば、さきほど訪れた亀塚は亀山とも呼ばれていましたね。
すぐそばには立会川が流れていて、涙橋(泪橋)が架かっています。
参加者から、「あしたのジョーも泪橋じゃなかった?」という話が出たのですが、確かにそうだった気がします。
※註:その方も帰宅後にお調べになったようですが、丹下ジムは泪橋のたもとにあり、そっちの泪橋は、「江戸三大刑場」の一つである荒川区の小塚原刑場に向かう日光道中に架かっていた橋でした。ということは、もう一つの八王子市の大和田刑場に向かう甲州道中のどこかにも泪橋があったかもしれません。
テクテク歩いて行くと鈴ヶ森刑場跡に到着。
何故だか知りませんが、私はここに来ると身体が痛くなるような変な感覚になります。
サイトを作る際に写真を編集したりしていても変な感じがします。
気のせいだと思いますが。
江戸期の調査にはなかなか手が回らないため、ガイドする人間としては無責任ながら実際にここでどれくらいの数の処刑が行われたのかは調べていませんが、八王子の大和田刑場の場合は、ほとんど処刑はなかったと言われています。
ただしこちらは、田舎道のような甲州道中とは違って天下の東海道ですから、結構多かったのかなと想像します。
また、街道脇にこういった場所があること自体が犯罪に対する抑止力になると思うので、そういう効果もあったのでしょう。
では、本日最後の探訪地である大森貝塚へ向かいます。
大森貝塚(大森貝塚遺跡庭園)|東京都品川区
鈴ヶ森から大森貝塚へ向かうには、JRの線路を越えなければなりません。
適当に歩いて行くと跨線橋がありました。
何も考えていなかったのですが、この跨線橋凄いじゃん!
大森貝塚と呼ばれている場所は、大田区側の「大森貝墟碑」がある場所と、品川区側の実際にモースたちが発掘した「大森貝塚遺跡庭園」の2か所があるのですが、ここからは両方が観察できるのです。
こちらは大森駅に近い、大森貝墟碑方面。
真中にちょっとした緑が見えますが、あそこに大森貝墟碑があります。
一方、こちらは大森貝塚遺跡庭園方面。
線路左手の森が大森貝塚遺跡庭園。
この線路の左手が武蔵野台地で、右手が東京低地なわけですが、こう見ると現在の線路は低地にそのまま敷かれているのではなく、盛土した上に敷いていますね。
確かに以前、大森貝塚から鈴ヶ森へ向かって歩いたときは、線路の下の道路をくぐった気がします。
では、この2か所のうち、まずは大森貝塚遺跡庭園から行ってみようと思います。
着きました。
遺跡公園ではなく、遺跡庭園というネーミングが珍しいですね。
モースさん、こんにちは。
モースが手に取ってうっとりしている土器は、モースが最初に発掘した時に見つかったほぼ完形の土器で、加曽利B式土器です(以降、本稿の記述は主に『シリーズ「遺跡を学ぶ」031 日本考古学の原点 大森貝塚』(加藤緑/著)を参照します)。
明治10年に日本にやってきたアメリカ人のモース(Edward Sylvester Morse・1838~1925)は、考古学者ではありません。言ってみれば生物学者で、貝が専門でした。
子供の頃は学歴勝負で行くようなタイプではなかったのですが、貝が好きすぎて、その縁で博物館の職を得、それからさらに貝マニアの道を邁進しました。講演家としても活動しましたが、話が面白く、また絵が上手で黒板に絵を描きながら喋るのが好評でした。
日本に来た時もたくさんのスケッチを描いており、この説明板の画は、大森貝塚の報告書の口絵に使ったモースの画を基にしています。
大森遺跡庭園は、遺跡公園というより、その名の通り庭園チックで、予備知識がないとあまり遺跡について分かるようになっていません。ただし、説明板はちゃんとあります。
大森貝塚は、縄文後期が主体の遺跡で、今日はここを含めて3か所の貝塚を訪れましたが、偶然3つとも後期の貝塚でした(ただし、丸山貝塚の時代は確定ではありません)。
庭園内を歩くと穴ぼこのようなものがありますが、それは発掘した場所のイメージを示しています。
もう一度説明板の図を見てみましょう。
拡大して見ていただきたいですが、右側真中の「大森貝塚の貝層の位置」で、オレンジで塗られてい範囲の一部がA貝塚で、おそらく後述する貝層展示の場所です。上の写真の穴ぼこのような場所は、線路側に面した斜面で、B貝塚とあります。
貝層展示を見てみましょう。
説明板には実物の土器や貝殻が貼り付けられていますが、すでにかなり剥落しています。
線路側との現在の比高差はこんなイメージです。
線路側に降りて行くと記念碑がありますよ。
こちらにあしらわれている土器も実際に見つかった土器をモデルにしています。
モースはとくに腕足類という種類の貝を研究しており、アメリカに居た時に、「それだったら日本に行くと良いよ」とアドバイスをもらい、日本にやってきたわけです。銀行家の友人から借金しましたし、すでに家族持ちでしたが、明治10年に日本に行くという勇気は、おそらく貝が大好きでたまらないために沸き起こったものだと思います。
ただしモースにとってラッキーであったのは、その頃の日本は文明開化で、海外の新しい知識を得るためにはいくらでも政府がお金を使っていた時代でしたから、モースは自身が予期していなかったことですが、東大教授としてスカウトされたのです。結果、かなりの好待遇で雇用されました。モースは初来日の翌日、39歳の誕生日を迎えています。
そして、当初はモース自身も思っても見なかったことだと思いますが、日本が大好きになってしまいました。貝の研究から始まり、土器、陶器、民具、そして古墳も調査しています。3度も来日して、晩年には『Japan Day by Day』(邦題『日本その日その日』)という本をリリースしました。画の才能があることは既述しましたが、最初の来日の時から大量のスケッチを描き、そしてまた物凄く観察力の高い人で、その能力が著述に生かされています。
その観察力のお陰もあってか、有名な話ですが、開通してまだ5年の汽車の窓から貝塚を発見し、掘ったというわけです。モースはアメリカですでに貝塚を発掘した経験があったため、日本に来てもすぐにできたのです。ただし、仕方がないことですがその掘り方はまだ近代的ではなく、考古学というのは層位といって遺跡の重なり順が非常に大事なわけですが、そういうことはそれほど気にせずガンガン掘って行ったようです。
最初の発掘の時は、シャベルなどの道具を持ち込むことが禁止されたので、籠を1つだけ現場に持ち込んで素手で掘ったというとんでもなくワイルドな作業でした。でも、その際に成果を上げたお陰もあって、数日後に行われた2回目の発掘ではスタッフも動員出来て、それなりの発掘ができました。モースもちゃんと移植ごてを使って掘っています。そして、この時初めてモースの発掘に参加したのが後述する佐々木忠次郎で、当時はまだ学生でした。
このようにモースが大森貝塚を発掘したことにより日本における近代的な発掘が始まったと言われていますが、この時代に考古学を志した若者たちは、皆モースの影響を受けています。ただし、モース自体が考古学者でなかったこともあってか、モース直伝の日本人の若者はほとんど考古学の方面に進んでいないようで、モースの影響はあまり受けていないことを明言していたらしい坪井正五郎などがそれ以降の日本の考古学をけん引しました。
では、最後に「大森貝墟碑」を見に行きますよ。
大森貝墟碑|東京都大田区
大森貝塚という名前からすると、大田区の大森にあったと思われがちですが、実際にモースが発掘した場所は上述した品川区側の大森貝塚遺跡庭園の場所です。余談ですが、大田区という名前は、大森と蒲田の合成で、古い地名ではないです。
モースが大正14年に亡くなった際に、記念碑を作ろうという話が出て、その際に作られたのが先ほどの記念碑でしたが、それと同時にこれから行く大森貝墟碑の造営もなされました。
NTTのビルの前の床面にはいろいろな絵が埋め込まれています。
この階段を降りて行きます。
階段を降りると説明板があります。
電電公社、懐かしい。
奥の線路間近に記念碑があります。
この碑に刻まれている佐々木忠次郎は、既述した通り実際にモースと一緒に発掘した人ですが、彼は発掘現場はこちらだったと証言していたそうです。発掘時から時間が経って、周りにも建物が沢山建ってしまったとはいえ、当事者が場所を間違えるはずがないと思うので、なぜ忠次郎がこの場所が実際の場所であると言ったのかは今となっては謎です。
でも、この石碑を見ると「理学博士 佐々木忠次郎書」と大書しているため、何となく忠次郎の気持ちが分かるような気がします。
モースは帰国後も日本が好きであることは変わらず、アメリカにおいて博物館の運営や講演などで日本を積極的に紹介しています。大正12年の関東大震災の際、東大の蔵書が焼失してしまったことを聴いたモースは、自身の蔵書を東大へ贈ることを遺言し、モースの死後、1万2000冊のモースの本が東大へ送られてきました。
なお、ビルの通り側には石碑の縮小レプリカが置いてあります。
その脇の説明板を読むと、発起人もちゃんと分かるようになっていますが、当時の錚々たる学者たちが名を連ねています。
浜田耕作、長谷部言人、黒板勝美、小金井良精、柴田常恵など、彼らが一堂に会した場面を想像すると卒倒しそうです。
ということで、16時少し前ですが、本日の探訪は終りです。解散場所の大森駅へ向かいましょう。
AICTでは、今まで結構歩く距離が長くなることが多かったのですが、今回は2万歩行っていないと思います。今後も今日みたいな感じの軽い街歩きをやってみようと思っています。
ところで、今回歩いた場所は、以前クラツーでやろうと思って1度出したことがあったのですが、人数が集まらず催行になりませんでした。
私は自分が訪れた場所で面白いと思った場所は誰かを案内したいと考えます。今日は私的にも念願がかなって良かったです。少数の方々でもいいので、誰かに面白さを伝えることができれば、その方々が今度は違う誰かにその面白さを伝えて、興味を持った人たちが電車に乗って現地を訪れ、食事をしたり何かを買ったりして少しでもその町の景気が良くなると思っています。
さて、少し早いですが打ち上げをしましょう。
🍴
養老乃瀧 大森山王店
さきほど、大森駅へ向かって歩ている途中に養老乃瀧の看板が見えたので、そこへ行ってみます。
大森山王店です。まだ開店準備中のようでしたが、喉が渇いて行き倒れそうになっている私たちを快く迎え入れてくれました。
お店の方々はとても気さくで、居酒屋チェーンですが、懐かしい感じの個人店のような雰囲気です。料理も美味しくてリーズナブル。
養老乃瀧は、昔自分が酒を飲み始めた頃にはかなりの勢力を誇って日本中どこにでもあったようなイメージでしたが、今はだいぶ少ないです。生き残っている店というのはそれだけ良い店だということですね。
結局20時半くらいまで飲んでいたので、4時間半も店にいたことになります。歩いた時間は、正味5時間くらいでしたから、いったいどっちがメインか分かりませんね。
最近は飲み屋に入っても1時間半から2時間くらいで切り上げることが多いのですが、久しぶりに長時間滞在しました。それだけ楽しかったということですね。ご参加いただいた皆様、そしてお店の方々、どうもありがとうございました。
たくさん飲み食いしましたが、近くにある「円月」で、貝塚めぐりをしたあとらしく、ハマグリ出汁のラーメンを食べて帰宅しました。
気分は縄文人。
これも美味しかったですよ。
(了)
「江戸城を五街道から攻める」第4回「江戸城から東海道を攻め下る」
【2023年6月10日(土)】
① 江戸城和田倉門跡(開始前のソロ活動)
③ 芝丸山古墳
④ 丸山貝塚
⑦ 伊皿子貝塚遺跡
⑧ 高輪大木戸跡
⑪ 大森貝墟碑
全部読みました。ありがとうございます。
ここまで詳しく説明されていると、復習にもなるし、全部、自分が行った所がソックリ載っているのは、なんだか嬉しいです。
でも、疲れながら歩いた道を行ってない人に全部お見せしちゃうのは、ちょっと……と、心の狭い私は思っちゃったり
でも、逆に行ってない所を知れる方が遥かに多いのだから、そんな事を言っちゃいけない️と思ったり
山中友子さん
お読みいただきありがとうございます。
今はたまたまAICTの閑散期なので詳しく書きましたが、いつもはこれほど細かく書く時間は無いですよ。
まあ、シークレットでやっているわけではないので、基本的には私はこのようにすべてオープンにしたいのです。
できれば今までやったすべての現地講座をこのように文字化したいですが、さすがにそれは難しいですね。