最終更新日:2023年6月19日
備後も吉備の一部ですが、吉備の中心地から見ると少し離れている感があります。現在は、安芸とともに広島県の領域です。備後の弥生墳丘墓については、広島県三次(みよし)市にある2か所の墳丘墓を紹介します。

花園遺跡|広島県三次市
三次市は、古墳が多く作られた場所として有名ですが、弥生墳丘墓もあります。その一つである花園遺跡を訪れてみましょう。
ここから登って行くようです。

説明板がありましたが・・・
なんだこりゃあ!

図を一見しても意味が解りません。
本来の埋葬施設の総数は400基以上と推定!
かなりゴチャゴチャしていますが、遺構配置図をよく見てみましょう。

メインになるのは、最高所にある第1号墳丘墓で、東西31.3m×南北19.8mの長方形で、215基以上の埋葬施設。その北側には、第2号墳丘墓があり、それ以外にAからFまでの6つの墓域が溝に区切られた形で存在します。
しかし、説明板には最初の方に「弥生時代中期から後期に作られた」とありますが、後段には「弥生時代前期末から古墳時代初頭頃まで」とあります。いずれにしてもかなりの長期間にわたって構築され続けた墓ですね。
説明板にある通り、確かに大きめの石が貼られています。

この大きさは、よくある古墳の葺石よりも大きく、しかもここは丘の上ですから、相当な労力が必要ですね。
第1号墳丘墓に埋葬された215人が、仮に500年間に渡って埋葬されたとして、大体2年少しに1人の埋葬です。埋葬時期が継続的ではなく、断続的だったとしたら、さらに一時期の埋葬数は多くなりますから、一部の支配層だけの墓ではないでしょう。かといって、一般人全員が入れるわけでもないので、当時のこの地域の社会構造を考える上で面白い素材です。
では、第1号墳丘墓に登ってみましょう。

今日はモシャ子ちゃんでした。
石棺墓の蓋石と思われるものも見受けられます。

本当に立派な貼石だ。

もちろんこれは復元されたものですが、その場合も大きさは忠実にしているはずです。
第2号墳丘墓は、第1号よりも一段下がった場所に構築されています。

こちらにも説明板があります。

ここに書いてある通り、副葬品や土器が少ないのは弥生時代の墓の特徴です。これは列島各地にみられる周溝墓も同じです。花園遺跡も各地の周溝墓のみの墓域もそうですが、まだ他者より隔絶した身分の人びとが誕生していないわけです。
時代が下ると、地域によっては集団墓の中に特別な墓が含まれるようになり(特定集団墓)、やがてその特別な人のために墳墓を構築するようになり(特定個人墓)、その次のステップとして古墳が登場します。
下から見上げると、屋敷跡の石垣を見ているみたいです。

不思議な遺跡で面白かった。

矢谷墳丘墓|広島県三次市
出雲の弥生墳丘墓と言えば、西谷墳墓群に代表される四隅突出型墳丘墓(通称「よすみ」)が有名ですが、そのルーツをたどると、三次盆地ではないかという説があります。現在は、出雲地方でも古いものが見つかっていますので、どこがルーツなのかは確実なことは言えませんが、三次盆地で発生して、出雲の方に分布して行った可能性もあります。
三次市は現在の行政区画では広島県ですが、盆地を流れる江の川は日本海にそそぐ川です。地元の方の話によると、文化的には瀬戸内側より日本海側に近いとのことです。
その三次市を代表するよすみが、矢谷古墳(矢谷墳丘墓)です。クラツーでも2019年10月25日と2020年11月13日に訪れており、そのときの写真を見返したらAICTのメンバーも何名か写っていました(本稿の写真は、とくに断りがない限り、2019年10月25日に撮影した写真です)。

突出していますね。

いいねえ。
説明板を読んでみましょう。

説明板に矢谷古墳(矢谷弥生墳丘墓)とありますが、正式な史跡名称は矢谷古墳です。ただ、築造時期が弥生時代の終末期から古墳時代初頭で微妙です。さらに実際の遺跡の様子を見ると、特定の一人の人物のために造った墓とは明らかに違いますし、形状もよすみですから、やはり古墳とは言えないですね。私も墳丘墓と呼ぶことにします。
さて、その矢谷墳丘墓は、よすみといっても、このようにちょっと変わった形をしていて、よすみを2基合体させたような雰囲気の平面形です。

こういうのを「ラディカル墳」と呼びます。
広島県立歴史民俗資料館に模型があるので見てみましょう。

墳丘上には、埋葬施設の位置が分かるように表示があります。

上の写真は初めて訪れた時に撮ったモシャ子ちゃん状態のものです。下の写真の方がいいかも。

このように矢谷墳丘墓は丘の上にあるので、四方の眺望が良いです。
周溝内からは特殊器台・特殊壺の破片が見つかっており、胎土は吉備南部のものです。葬儀の際に持ち込まれて、墳丘に立てられたものが転落したのでしょう。

矢谷墳丘墓の特殊器台は、向木見型です。その次の宮山型は、なぜか本場の吉備では宮山墳丘墓からしか見つからず、畿内では箸墓古墳を含め4基の古墳から見つかっています。

墳墓の編年に関しては、広島県立歴史民俗資料館に良い展示がありますよ。

展示パネルに墳墓名を追記しておきましたが、一つだけ写真を見返しても判読できませんでした。大きいので西谷墳墓群のどれかだと思うのですが・・・
ところで、矢谷古墳から見つかった珍しいものとして、「ローマ帝国のガラス玉」が3点みつかっています。

広島県立歴史民俗資料館に展示してありますが、上段の青い綺麗なのは割れてしまっているようです。通常、ガラス製品は時間が経つと白っぽくなってしまうのですが、下段の2つもまだ青さが残っていますね。
ガラス小玉が出土した「方形区画墓2」のあたり。

矢谷墳丘墓の築造の次は、いよいよ古墳が造られても良いのですが、三次盆地では前期の古墳はあまりないようで、目立つような大きめの前方後円墳は一基もありません。三次盆地の造墓活動が活発になるのは、中期以降です。
なお、北西側斜面では6世紀後半の須恵器窯跡も見つかっています。


以上、備後の弥生墳丘墓について簡単にご紹介しましたが、本文中でもたくさん写真を使わせていただいている広島県立歴史民俗資料館はお勧めの施設です。広島県立みよし風土記の丘にもなっていて、裏山には、中期から構築の始まった群集墳である浄楽寺・七ッ塚古墳群もあり、古墳群の奥まで探索するとなると、資料館の見学を含めて3時間くらいは確保しておいた方が気持ちにゆとりが持てるでしょう。
なお、花園遺跡、矢谷墳丘墓、広島県立歴史民俗資料館、浄楽寺・七ッ塚古墳群は、AICTにて2024年には開催したいと思っています。もちろん、広島県内の他の古墳や遺跡ともくっつけますよ。