最終更新日:2023年7月1日
第1章 高野、称徳として重祚
称徳天皇
・第48代天皇
・養老2年(718)生誕
・孝謙としての在位は、天平勝宝元年(749)~天平宝字2年(758)
・称徳としての在位は、天平宝字8年(764)~神護景雲4(770)
・宝亀元年(770)崩御(享年53)
<略系図:表示環境によっては崩れますがご了承ください>
40 47
天武――舎人皇子――――――――――――淳仁
|~686 676~735 733~65
|
| +――――――光明子
| | |
| 藤原 | | 46・48
| 不比等―+―宮子 +―――孝謙・称徳
| 659~720 | | 718~70
| | |
| | +―――基
| | | 727~28
| | 45|
| +―――聖武
| | 701~56
+―――草壁皇子 |
| |662~89 |
38 41 | 42|
天智――+―持統 +――――文武
626~72 | 645~702 | 683~707
| |
| | 44
| +――――元正
| 43| 680~748
+―――――元明
| 661~721
| 49 50
+―――――――――――志貴皇子―光仁―――桓武
~716 709~82 737~806
いきなりの道鏡抜擢
■ 天平宝字8年(764)9月20日、討賊将軍・藤原蔵下麻呂(くらじまろ)が凱旋すると、高野天皇は詔して少僧都(しょうそうづ)の道鏡を大臣禅師とした
⇒ 小僧都は、僧の位では真中ほどだが、僧として偉いかどうかは関係なく、僧籍の者が大臣相当になることは前代未聞で、おそらく廷臣たちからは大きな反発があったと考えられる
⇒ 道鏡は一旦は辞退したが、高野の強い要請で承諾(ただし、辞退もパフォーマンスだろう)
■ 翌日の叙位で、従五位下の蔵下麻呂は一気に従三位となる(8階特進)
■ さらにその翌日には、唐風の官名をすべて元に戻した
■ なお、仲麻呂の謀反が明らかになった9月11日の叙位で、道鏡の弟・浄人は従八位上から一気に従四位下に上がっている(15階特進の異様な人事)
⇒ 道鏡はほぼすべての廷臣から好まれていないはずなので、この後も身内をどんどん登用して与党を増やすのが最も良い手であろう
淳仁の廃位と高野の重祚
■ 10月9日の早朝、兵部卿・和気王、左兵衛督・山村王、外衛大将・百済王敬福らが淳仁天皇が住む中宮院を包囲
⇒ 外衛府の正式な設置は翌年の2月だが、このときすでに稼働を始めている
■ 淳仁は即日、中宮院から追い出され、大炊親王の身分に戻され、淡路国へ向かった(以降、淡路公と呼ばれる)
・船親王も仲麻呂と共謀した罪で諸王に格下げして隠岐へ流罪
・池田親王も同様に諸王に格下げして土佐に流罪
⇒ 淳仁、船親王、池田親王3名はみな舎人親王の子
■ 淳仁が退位させられたこの日、高野天皇は重祚したが、即位式は挙げていない
舎人皇子略系図
40
天武 ―― 舎人親王 ―+― 守部王
|
+― 三原王 ――― 和気王
|
+― 船王(隠岐に流罪)
|
+― 池田王(土佐に流罪)
|
+― 三島王
|
+― 三使(みつかい)王
|
| 47
+― 淳仁 ――― 安倍内親王
※舎人には上述以外の子がいたが省略した
※舎人の子の多くが生没年不詳
※ただし、淳仁が廃されたときに族滅はしておらず、今でもどこかに子孫がいるであろう
叙位
■ 翌年(765)の正月7日、天平神護(てんぴょうじんご)に改元し、以下の人びとが勲二等を授かった
・正三位・諱(いみな) ・・・ のちの光仁天皇
・従三位・和気王 ・・・ 祖父は舎人親王で有力な皇位継承者
・従三位・山村王 ・・・ 用明天皇の後裔
・正三位・藤原永手 ・・・ 房前の次男(北家の当主)
・正三位・藤原真楯 ・・・ 房前の三男
・従三位・吉備真備 ・・・ 壮絶な人生を経験した71歳
・従三位・藤原蔵下麻呂 ・・・ 宇合の九男(式家のホープ)
・従四位上・日下部子麻呂
・従四位下・佐伯伊多智、坂上苅田麻呂、牡鹿嶋足
■ 弓削浄人(道鏡の弟)には勲三等が授けられ、2月2日には従四位下から従四位上に上がった
墾田永年私財法の一時停止
■ 天平神護元年(765)2月3日、授刀衛を改めて近衛府とし、2月8日には32歳の蔵下麻呂がその長官である近衛大将に就任した
⇒ 没落しかかった式家も復活を遂げてきた
■ また、弓削秋麻呂が右兵衛佐となった
⇒ 秋麻呂は道鏡の近親者と思われるが不詳
■ 3月5日、墾田永年私財法を停止
⇒ 同法は、天平15年(743)5月27日に発布されていたが、この時期は飢饉や凶作により農民の困窮化が進み、そういった農民を使役して合法的に開墾を進める「勢力の家」が急増しており、それによってさらに農民が困窮化する悪循環に入っていた
⇒ 宝亀3年(772)には再開される
和気王の呪詛事件
■ 天平神護元年(765)8月1日の条では、何の前触れもなく「従三位の和気王が謀反の罪に問われて誅せられた」と出てくる
■ 和気王が先祖の霊に祈願した文書が発見され、そこには以下の内容が記されていたことにより罪に問われた
・遠方に流されている方たち(船王や池田王たち)を都に戻したい
・自分の仇敵である男女二人を殺してください
⇒ この男女二人が道鏡と称徳と判断された
■ 和気王は仲の良い巫女である紀益女(きのますめ)に上述の祈願(呪い)を依頼していた
■ 和気王は伊豆国へ配流されることになったが、流刑地に赴く途中絞首された
⇒ この時点で和気王は有力な皇位継承候補者であったため殺害されたと考えられる
■ 益女も絞首された
道鏡、位人臣を極める
■ 天平神護元年(765)9月21日、行幸の準備のために各地に行宮の建設をはじめ、10月13日には出発
⇒ 行幸の一行は、蝦夷征討の軍勢と見紛うような人員配置
■ 10月29日には弓削行宮に到着し、翌30日に弓削寺に行幸
⇒ 弓削行宮のあった大阪府八尾市は、道鏡の本拠地
⇒ 弓削行宮はこのあと拡張が施され、西京として建設が進む
■ 閏10月2日には、称徳は道鏡を太政大臣禅師に任じ、引き連れてきた文武百官を道鏡に対して礼拝させた
⇒ ついに道鏡は位人臣を極めた
⇒ 道鏡は皇族でもなく、臣下が臣下に礼拝するという前代未聞の状況が現出
■ 実はこの行幸のさ中の10月22日、淡路公(淳仁天皇)は住居の垣根を乗り越えて逃亡したが捕まり引き戻され、その翌日には押し込められた部屋の中で薨じている(享年33)
神仏習合が進む
■ 天平神護元年(765)11月6日から大嘗祭の準備を始めた
■ ただし、称徳が出家の身であるため、直会の豊明節会(とよあかりのせちえ)の際には、三宝(仏)に仕えることを第一とし、つぎに天つ神・国つ神を敬い、つづいて親王や文武百官を憐れみ慈しむという序列になった
■ 天平神護2年(766)7月23日には、伊勢大神宮寺に丈六の仏像を造立
⇒ 伊勢大神宮司というのは、伊勢神宮の神宮寺のこと
■ 『京都府埋蔵文化財論集 第6集』所収「神仏習合史の再検討」(上田正昭/著)によると、『太神宮諸雑事記』には、天平14年(742)11月に橘諸兄が伊勢神宮に参入して、聖武天皇の御願寺(のちの東大寺)の建立成就を祈願したとあり、おそらく天平年間には伊勢の神宮寺が造営されたとしている
【コラム】神宮寺とは
■ 神宮寺というのは、神仏習合が進む中で建立されていった神社に付属する寺のことで、神宮寺では社僧が神事を仏式で行った
■ 全国の神宮寺は、明治初年の神仏分離令により神社に転向するか、天台宗あるいは真言宗の寺となるか、もしくは廃寺となった
■ 例えば、奈良県桜井市の大神神社末社の大直禰子(おおたたねこ)神社は、明治までは、大神神社の神宮寺の一つ大御輪寺(だいごりんじ)だった
重要人物の薨去
■ この時期、重要人物が相次いで亡くなり続日本紀には薨伝が記されている
・天平神護元年(765)11月27日、従一位・右大臣・藤原豊成が薨去(享年62)
⇒ 仲麻呂の兄で、薨伝には人となりについては明朗に書かれていない
・天平神護2年3月12日、正三位・大納言兼式部卿・藤原真楯(房前三男)が薨去(享年52)
⇒ 藤原道長・頼通父子の先祖
⇒ 薨伝には「度量が広く、私情に流されず公平に物事を処理した」とある
・同年6月28日、従三位・刑部卿・百済王敬福が薨去(享年69)
⇒ 蝦夷征討などで武勇を発揮する俊哲(しゅんてつ)の祖父
⇒ 薨伝には「大酒飲みで細かいことにこだわらず、人に施しをすることが多く、遺産がほとんどなかった」とある
伊治城の造営
■ 神護景雲元年(767)10月15日、道嶋三山の指揮よって伊治城(これはりのき)が完成
■ 伊治城は、現在の栗原市の一迫川と二迫川に挟まれた河岸段丘上に位置し、山道(陸奥国府から玉造・栗原、さらに北上川流域に延びた道)の蝦夷に備えるために造られた城
⇒ 造り始めてから完成まで30日に満たない
■ 11月8日、出羽国の雄勝城下の俘囚400人余りが申し出て城に服属することを願い許可された
■ この月、陸奥国に栗原郡が設置された
⇒ 栗原(くりはら)と伊治(これはり)は語源が一緒で、これにより、現在の宮城県域は、北東部三
陸側(登米市や気仙沼市周辺)を除くほぼ全域が日本の領土となった
道嶋嶋足の威勢
■ 神護景雲元年(767)12月8日、道嶋嶋足(みちしまのしまたり)が陸奥国の大国造(国造に「大」が付くのは陸奥国だけの特例)に任じられた
■ 神護景雲3年(769)3月13日、道嶋嶋足の申請によって、陸奥国の多くの人々が姓を賜った
■ 嶋足は蝦夷出身だが朝廷で出世し、在地の蝦夷たちにもすこぶる影響力が強かった
■ 4月7日にも陸奥国行方郡の下毛野公田主(しもつけののきみたぬし)ら4人に朝臣の姓を賜った
■ 11月25日、陸奥国牡鹿郡の俘囚大伴部押人(おおともべのおしひと)が、「先祖は紀伊国の人だが陸奥国小田郡嶋田村に住み着き、その後蝦夷の捕虜となり数代を経て俘囚となったので、もとの公民に戻りたい」と言上し許可された
■ 同様の例は、翌宝亀元年(770)4月1日にもあり、このときは黒川・賀美など11郡3920人の俘囚が申請をして許可されている
不破内親王と氷上志計志麻呂
■ 神護景雲3年(769)5月25日、称徳は「不破内親王は八虐に相当する罪だが、とくに許して、厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)の姓名を与え、平城京中には住まわせないことにする」と詔した
⇒ 不破内親王の夫は仲麻呂の乱の際に仲麻呂によって天皇に擁立された塩焼王
■ また、子の氷上志計志麻呂(ひかみのしけしまろ)も土佐国に配流
■ 5月29日の詔によると、呪詛によって称徳を殺し、志計志麻呂を天皇に立てる計画が行われていたことが分かるが、のちにこの事件は冤罪であることが判明する
第2章 恋人を天皇に
宇佐八幡宮神託事件
■ 神護景雲3年(769)7月10日、道鏡は「法皇宮職」の印の使用を認められた
■ この頃、大宰府の主神(かんづかさ)の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)は、道鏡に気に入られようとして、宇佐八幡宮の神託と偽り「道鏡を皇位に即ければ天下太平になる」といい、それを聴いた道鏡は喜んだ
■ 称徳は、和気清麻呂を呼び、八幡大神の神託を聴いてくるように命じ、道鏡は出発する清麻呂に対し、吉報をもたらせば重く用いると告げた
■ ところが、八幡大神は、「臣下を君主にすることは未だなく、天つ日嗣には必ず皇統の人を立てよ」と託宣した
■ 清麻呂は帰朝するとそれをそのまま奏上した
■ 道鏡と称徳は激怒し、清麻呂は「穢麻呂(きたなまろ)」と改名された上で大隅国へ流された
大宰府の蔵書が充実
■ 神護景雲3年(769)10月10日、大宰府が五経(『詩経』、『書経』、『礼記』、『易経』、『春秋』)はあるが、三史の正本がないため、史書を賜りたいと言上
■ 結果、朝廷は大宰府に『史記』、『漢書』、『後漢書』、『三国志』、『晋書』をそれぞれ一部ずつ配備した
諦めない称徳
■ 神護景雲3年(769)10月30日、由義宮(ゆげのみや)を西京とし、河内国を河内職とし、長官の藤原雄田麻呂以下が任命された
⇒ 雄田麻呂は宇合の八男で、このあと百川と改名して中央政界で活躍する
■ また、この日の叙位では道鏡の一族の名が列挙され、異様な印象を受ける
■ この頃、新羅の使者が来朝しており、在唐の藤原河清と朝衡(阿倍仲麻呂)の家族への手紙を託されて持ってきている
精神的打撃
■ 宝亀元年(770)2月23日、西大寺の東塔の心礎を破壊したが、その経緯は以下の通り
・塔心礎として使うために東大寺の東にある飯盛山の巨石を運び出したが、数千人を使ってもなかなか動かず、9日かけてやっと運んできた
・その間、巨石はうなり声をあげることがあった
・ようやく据え付けると、巫のなかに祟りがあるかもしれないという者がいたため、柴を積んで石を焼き、酒を注いだうえ細かく砕いて廃棄した
■ その後、一か月余りして称徳は病となったが、占ったところその石の祟りであることが分かったので、石を供養した
■ 6月10日の時点で「身体が不調となり一月経った」とあるが上述の通り、「石の祟り」のせいで、3月後半から調子が悪かったようだ
称徳の崩御
■ 宝亀元年(770)8月4日、称徳は崩御した(享年53)
⇒ 聖武天皇の嫡系は途絶えた
■ その日、左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備、参議・藤原宿奈麻呂、同・藤原縄麻呂、同・石上宅継、近衛大将・藤原蔵下麻呂らが禁中で策を練り、諱(白壁王)を皇太子とし、称徳の遺言として、皇太子選出の結果を公表
■ また即日、叙位が行われたがその中に道鏡一族の名は無い
■ 称徳は西京にて体調不良となり、すぐに平城京に戻ったが、それから亡くなるまでの100日余、まったく政務を執れず、道鏡も含め群臣とも謁見せず、ただ一人吉備由利のみが寝所に出入りしていた
⇒ 由利は吉備真備の娘または妹といわれる
■ 道鏡は称徳崩御後の儀式からも外され、陵に奉仕していた
ウクハウの不気味な宣告
■ 称徳が崩じた6日後の8月10日、蝦夷宇漢米公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)が一族を率いて朝廷の支配下に入っていない本拠地に逃亡してしまった
⇒蝦夷も中央の政局をきちんと見ていると考えられる
■ 使者を遣わして呼び戻そうとしたが、ウクハウは「同族を率いて必ず城柵を侵略しよう」と不気味な宣告をして戻らなかった
■ 朝廷は近衛中将兼相模守の道嶋嶋足を派遣して調査させた
⇒この頃の海道地方の蝦夷は、嶋足の絶大なる影響下に入っており、もしかするとウクハウは「反嶋足」を標榜する蝦夷であり、その意思表示のために朝廷から離反したのかもしれない(蝦夷内での派閥争いがあったのかもしれない)
道鏡の失脚
■ 称徳の死から17日後の8月21日、皇太子が令旨を下し、道鏡を造下野国薬師寺別当に任じ、現地に派遣することが発表された
■ 即日、道鏡は下野へ下向させられた
■ 翌22日、道鏡弟の浄人とその子である広方・広田・広津が土佐国に流された
■ それから2年後の宝亀3年(772)4月7日、道鏡が亡くなったとの報告が下野国から光仁天皇に言上された
坂上苅田麻呂の策謀
■ 道鏡に下野下向が命じられた2日後の8月23日、坂上苅田麻呂が正四位下を授けられたが、その理由は「道鏡法師が奸計を告ぐるを以て」とある
■ 詳細は一切不明だが、道鏡の失脚に苅田麻呂が大きな働きをした模様
■ 道鏡が権勢をふるっていた数年の間、苅田麻呂の動静が不明となるため、道鏡権勢下では不遇だったように見えるが、その苅田麻呂が反撃に出たか
■ ただし、苅田麻呂は9月16日には陸奥鎮守将軍に任命されて、多賀城に赴いている
■ 鎮守将軍だった期間は半年ほどで短いが、ほとぼりが冷めるまでの避難ではないか
⇒ なお、このときまだ10代の田村麻呂は父に同道して多賀城へ行った可能性があり、さらに言うと、多賀城でアテルイと会っていたらドラマとして面白いだろう
まとめに代えて 称徳と道鏡の関係を振り返る
■ 両親・兄弟・夫・子のいない44歳あるいは45歳の称徳が病気となって心身ともに弱っていた時、道鏡は現れた
■ 仏教に傾倒していた未婚の称徳にとって、道鏡は価値観の合う理想の男性であり、初めて心身共に愛した男性だった
■ 二人の好ましくない関係を知った淳仁は称徳に諫言したが、称徳は好きな男の悪口を言われたことに激怒し、淳仁との関係が一気に悪化
⇒ 悪化の仕方が尋常ではないので称徳はすでに正常な思考ができなくなっていたか
⇒ 淳仁が淡路に流された後、彼を訪れる人が大勢いたということから、淳仁は人に慕われる人物であった可能性があり、ある意味淳仁は二人の恋の犠牲者ともいえる
■ 称徳は道鏡のことしか考えられなくなり、道鏡に天皇を譲りたいと思うようになった
⇒ 「恋は盲目」とは言うが、皇位を譲りたいとまで考えるのは常軌を逸しており、続日本紀は本当に史実を伝えているのだろうかと疑いたくなる
■ 称徳と道鏡にとって最も邪魔なのは仲麻呂であったが、その仲麻呂の権力を削ぐために、称徳は藤原式家や吉備真備などの反仲麻呂勢力を糾合し、仲麻呂一派を一気に殲滅
■ 仲麻呂滅亡後、称徳は道鏡を抜擢するが、廷臣たちから反発されることは分かっており、詔などで一々言い訳をした
■ 廷臣たちは道鏡に対して嫉妬があり、道鏡一族以外の廷臣たちのほとんどは反道鏡派だったため称徳が危篤となると反道鏡派は一気に道鏡外しを推し進め、称徳崩御後には朝廷に道鏡の居場所はなくなっていた
■ 称徳が道鏡へ皇位を譲る計画は、冷静に考えれば成功することはないことが分かるはずだが、道鏡と知り合ってからの10年は愛する人のことしか考えられず、夢の中で生活していたようなものなのかもしれない
■ 道鏡は称徳と違って冷静であったと考えられ、称徳が危篤になったとき、自分の運命も終わったと悟ったのではないか
■ 道鏡は国家の最高権力者から愛され続け、最後まで裏切られなかったことを誇りに思い、また位人臣を極めた愉快な人生を送ることができたことに満足して死んだのではないか