最終更新日:2023年7月30日
本稿では滝山城跡について説明しますが、文章で読んでも中々理解出来ないかもしれません。その場合は、「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」が開催するガイドツアーに参加したり、あるいはガイドを依頼して実地で解説を聴きながら見学することをお勧めします。詳しくは同会の公式サイトをご覧ください。
滝山城跡の概要
滝山城主北条氏照の経歴については現在作成中ですが、その養父である大石氏については、こちらにまとめてありますので本稿で重ねて述べることはしません。
滝山城跡の全体図と概略は以下の通りで、非常に無駄なく簡潔にまとまっています。
八王子市は2021年に滝山城築城500年を大きくPRしていましたが、それを史料上で裏付けることはできず、確実なものとしては、上の現地説明板の解説の通りです。
現地説明板の縄張図は、「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」で理事を務める城郭研究家・中田正光氏が描いたものです。現地の駐車場には中田先生が描いた鳥観図もあり、縄張図に慣れていない方は、こちらの方が感覚的に分かりやすいかもしれません。
再度、縄張図をご覧ください。
滝山城は、北西から南東方向に延びる北加住丘陵の一部分に占地し、北西側は切通しによって丘陵と切断されていますが、南東側はしばらく丘が続きます。
北東側には多摩川が流れ、そちらの方面は急崖をなしており、比高差は70mほどあります。反対側の南西側は北東側と比べるとなだらかな斜面で、谷地川が流れ、谷地川との間には古甲州道(ここうしゅうみち=近世以前の甲州街道)が通っており、城下町が形成されていました。また、東側には河越と小田原を結ぶ幹線道が南北方向に走り、「平の渡し」によって多摩川を越えていました。
古甲州道側に大手があったと考えられていますが、そちら側からの入口は3か所考えられます。一つが、現在の観光駐車場の近くにある「天野坂」と呼ばれる入口で、滝山城址下のバス停が近いため、現代の多くの人びとがここから滝山城跡に登ります。一般的にはここが大手口と考えられており、上図に「大手口」とあるように、中田氏もここを大手と考えています。
もう一つは、上の図で「滝山街道」と記されている「山」の部分から城に入っていく道です。私はここが大手であると考えていますが、ここでいう大手というのは、最も格式の高い出入口のことで、城主や重臣、客人などが通る道です。天野坂はいわゆる通用口で、一般農民が納税や用務がある際に使用したり、氏照の主力部隊である小宮氏武士団が出入りする道であると考えています。
最後の一つは、上図に「鎌倉道」と記されている場所から延びた道の延長で、カゾノ屋敷から入る入口で、ここも通用口的な用途ですが、城主や重臣たちも使用したと考えます。
永禄12年(1569)に武田氏が攻めてきた際に戦いのあった「宿三口」は、この3つの出入り口のことと考えられ、その出入口をめぐって攻防が繰り広げられたのではないかと推測しています。
それでは、城内の遺構について説明をしようと思いますが、私はここ5年くらい滝山城のことはまったく考えておらず、本稿は久しぶりに考えた素案のようなものですので、今後考え方が変わる可能性があることを最初にお断りしておきます。
城域は、西側の山の神曲輪から、東側のカゾノ屋敷までと考えます。その範囲内の丘陵を私は下図の通り、便宜上5つの区域に分けます。
以降掲載する写真は、様々な季節に撮ったものが混在しており画的に統一感がありませんが、ご了承ください。
軍団域を歩く
天野坂から入る
現在の滝山城跡のメインの出入り口になっている天野坂から城内に入ってみましょう。
なおこの場所の少し手前のアパートの前に自販機がありますが、城内には自販機の設置がないため、飲み物を持っていない人はここで入手しましょう。とくに夏は想定以上に喉が渇くことがあるので、飲み物は多めに用意しておくのが良いです。
天野坂を登り始めると道が鉤の手に曲がっています。
中田氏は最初の曲りの左手に櫓があったと想定していますし、もしこの道を敵が侵入した場合は、両側から弓・鉄砲の洗礼を受けることになります。
歩き始めると最初のこの坂がちょっときついと感じますが、ここを登りきるとあとはそれほど大変に感じませんよ。
坂を登る途中に見えてくるのは、小宮曲輪との間の空堀です。
その先には説明板①が設置されています。
※説明板の番号は、城跡内で入手できる「滝山城 城攻めマップ」記載の番号と対応しています。
桝形虎口と推定される箇所は、現在はストレートの道になっています。
さらに進むと、右手は三の丸ですが、道との比高差があって簡単に侵入することはできません。
小宮曲輪下の園路を歩く
ここでT字路になりますが、小宮曲輪へ行ってみましょう。
小宮曲輪は三の丸と同じく、「D)軍団域」に入ります。小宮曲輪の名前の由来は、元々独立的な武士であった小宮氏が北条氏に服属したあと、ここに居住したことによると考えます。曲輪はかなり広いため、いくつかのブロックに分けられていたと思われ、そこに小宮衆とも言えるような武士団が常駐しており、彼らは氏照の手足のように動く部隊であったと考えています。
説明板には桝形虎口が描かれていますが、現在は形跡はありません。
小宮曲輪の現況は、夏に行くと草ぼうぼうです。
曲輪からまた降りて、園路を北へ200mほど進むと、もう一つの桝形虎口が現れます。
この説明板の背後右手は、桝形ではなく、小宮曲輪の西側をグルッと囲む空堀の延長です。
桝形虎口は説明板に向かって左手にあり、つまりはこの場所に降りてきたときに、知らないうちに通り過ぎていたのです。小宮曲輪の外側から桝形虎口へ登る道を下から(北から)見上げます。
この右手の高まりは土塁が幅広になっている部分であり、中田氏は櫓があったと想定しています。
ここから北側は、「E)住民避難域」になりますが、その前にここに至るまでにもう一つ道があるのでそれを紹介しましょう。
小宮曲輪西側の空堀を歩く
天野坂の鉤の手部分を通った時に見えた小宮曲輪南端部分の空堀に降ります。ここから続く空堀部分の遺構はスケールが大きく面白いので、下草が枯れている時期は、山の神曲輪に行く際にはここを通ることをお勧めします。
ここから降りて行きます。
左手が城外側で縁の部分には土塁が築かれており、右手の上に小宮曲輪があります。このラインは西から敵が攻めてきた際、まっさきに攻撃に晒される可能性があるラインです。
城外とこの部分との比高差は20~30mほどで、それほど急峻ではない場所もあるため、攻撃側は意外と簡単にこの空堀までは登ってくるかもしれません。
ところが、この空堀まで到達できたとしても、小宮曲輪に侵入するためにはもう一段登る必要があるため、攻撃側はここで小宮曲輪からの攻撃に晒されます。
現在、辺縁部分の土塁がひときわ高く分厚くなっている部分があります。
櫓が立っていたのではないでしょうか。
ここで歩いてきた場所を振り返ります。
土塁の上に登って振り返りつつ進みます。
説明板③の場所に到達しました。
雑な造りの住民避難域
説明板③から北側は、「E)住民避難域」です。
園路は下り坂になります。
このエリアは、城郭研究家から城としての造成が甘いと言われている場所で、防御力も低いです。本来は城域に取り組む必要がない場所ですが、敢えて城域に取り組んだ理由としては、山の神曲輪の場所は本丸よりも標高が高いため、ここを占拠されると守備側にとっては不利であるからだと説明されることがあります。
中田正光氏は、このエリアは地域住民の避難場所であると考えており、実際、他の拠点城郭を見ると、造りの甘い大雑把なエリアが見つかり、そういうものも同類だと思われます。もし住民避難用エリアだとすると、城域に取り込んだ理由は標高云々というよりかは、場所的に住民が避難する場所として適当だったことがその理由かも知れません。
恐らくですが、山の神曲輪から本丸へは大筒ならともかく、普通の鉄砲では弾が届かないと思いますし、このエリアは万が一放棄しても城にとっては致命傷にはならないと考えます。
説明板③から300mほど歩くと、上記の北西端の山の神曲輪に到着します。
もし、このエリアに敵が攻め込んだとすると、ここにいるのは避難民です。避難民からすると逃げ場がないため、「窮鼠猫を嚙む」の例えのように、攻撃側は意外と手痛い損害を受けるかもしれません。南隣の小宮曲輪から小宮衆が救援に来る可能性もあります。
攻撃側としたら、ここを打ち破った場合、東側の谷を降りて反対側に登ることができれば、そこはもう本丸近くです。しかし、その谷はかなり深く、当然ながら本丸西側の防衛体制は万全であることが予想されるため、リスクを低減するためには南側の小宮曲輪を陥落させに向かうでしょう。
小宮曲輪は、このとき、天野坂方面からの攻撃にも晒されているはずですが、氏照麾下の最強軍団である小宮衆の守るこの場所を攻撃側はそう簡単に打ち破ることはできないと考えます。
なお、山の神曲輪からの眺望はこのような感じです。
多摩川に架かる睦橋の向こうの赤い看板は福生のコジマで、約4㎞の距離です。
北東側11㎞の地点にある西武ドームが望見できます。
いまはベルーナドームと呼ぶそうですが、ちょうどその背後が筑波山です。
ここから筑波山までは約91㎞あります。
(つづく)