蛇塚古墳の見学を終え、帷子ノ辻駅へ向かいます。
商店街を歩いていると突然、巨大な武人埴輪のようなものが現れました。
なんか見たことがあるぞ。
大魔神だ!
私の世代では馴染みがないのですが、テレヴィで見たことがあります。
というか、この近くには大映の京都撮影所があったんですね。
映画は詳しくありませんが、聞いたことがあります。
しかし、大魔神って挂甲を装着した6世紀の武人みたいなデザインですね。
帯刀はまるで蕨手刀のように見えます。
関東人の私は「おおきに」という言葉に慣れていないので、こちらで食べ物屋さんとかに入って「おおきに」って言われるとなんか嬉しい。
さて、帷子ノ辻駅に着きましたが、古墳は線路の向こう側です。
地下通路があるのでそこを通って反対側へ行きましょう。
通路にも映画についてのパネル展示があります。
なんだこりゃ!
まるで映画のセットのようですが、この改札口は機能しているのかな?
嵐電は降車時の支払いで、一律料金のため乗車時に改札でSUICAをタッチする必要はありません。
看板も古ぼけていないですし、この改札は機能しているんじゃないかと思います。
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仲野親王墓古墳(垂箕山古墳)
反対側に抜けて、坂道を登っていくと古墳らしい森が見えてきました。
これが仲野親王墓古墳ですね。
宮内庁の制札もあります。
陵墓ですからこうやって外から眺めるだけでおしまいです。
古墳は台地の縁にあることが分かります。
この道路は前方部墳端に沿っており、墳丘長は65mです。
仲野親王墓古墳は、垂箕山(たるみやま)古墳とも呼ばれています。
『平安京以前』(京都市文化財保護課/編)によると、築造年代は不明ということですが、掲載されている墳丘図を見ると造出があることから、中期以降の古墳であることが分かります。
また、高さについては平面図ではあまり分からないのですが、平面形は前方部墳端が広がっているので、中期よりかは後期の古墳に見えます(なお、Wikipediaには6世紀後半の古墳と書いてありますが、論拠は不明です)。
被葬者とされている仲野親王は、桓武天皇の第12皇子ですが、平安時代の人なのでまず合っていませんね。
さすがに仲野親王については知らないのでWikipediaを頼らざるを得ませんが、『日本三代実録』からの引用として、「寿詞と宣命を宣読することに優れ、その音儀詞語は模範とされたが、当時の皇族でその作法に通じていることは非常に珍しいことであった。これは左大臣藤原緒嗣より伝えられたもので、のちに清和天皇の命により、当時参議であった藤原基経や大江音人らが仲野親王の住む六条第に赴いて、その音詞曲折を学んだという」とあります。
藤原基経は北家の人で、史上初めて関白に就いた人ですが、そういう人に寿詞や宣命の宣読を教えたということで、仲野親王って凄い人じゃないですか。
京都の古墳の面白いところは、本墳のように平安時代の皇族の陵墓が治定されているものが散見できることで、どう考えても時代が合わないのは、江戸末期でも分かっていた上での確信犯的治定じゃないかと勘繰ったりします。
それでは、嵐電に乗って嵐山へ向かいます。
先ほど見た、帷子ノ辻駅の改札が気になるので行って見ます。
まだちゃんと機能してた!
なんかたったこれだけのことなのに凄い充実感。