たけだのぶやすこうのれいびょう |
山形県山辺町大寺 |
広い駐車場あり |
坊主窪1号墳の場所から県道に出てくると、すぐ近くに「武田信安公の霊廟」なるものがあります。面白いことに、信安は武田信玄の大叔父だというのです。いったいこれはどういうことか、すぐに考察はできないとしても、現地がどうなっているかだけは確認したいです。
驚いたことに駐車場が広くてバスでも来れそうです。
説明板があります。
15世紀の名君ですね。でも、甲斐武田家の系図にはこの人物は現れないのです。
駐車場から一段上がると、霊廟が見えました。
向こう側にある入口に回ります。
お坊さんのお墓に囲まれて1基の墓石のようなものがあります。
霊廟といっても露天です。こういう石は江戸期以前の墓石にも見られますから、墓石なのでしょうか。
文字は判読できません。
信玄の祖父・信縄(のぶつな)は、文明3年(1471)生まれで、永正4年(1507)に亡くなっています。その弟であれば、説明板が言うような宝徳元年(1449)にこの地にやってきたという話は、時代が合いません。
そのため、まずは信玄の大叔父という説はいったん忘れて、年代に注目しましょう。
同族のよしみで最上家を頼ってきたということですが、武田家と最上家は、かなり大きな括りでは同じ源氏であるものの実際的にはまったくの他人ですから、「同族のよしみ」と言えるような関係にあった可能性はなく、よしみがあったとしたら、同族とかを抜きにしたよしみです。
甲斐武田家は、応永23年(1416)に発生した上杉禅宗の乱で大きなダメージをくらいましたが、これだとタイミング的に早いです。
宝徳元年に近い時期を見ると、その翌年の宝徳2年(1450)に、当主信重が穴山伊豆守に殺害される事件が起きています。もしかすると、記録に無いだけで、この直前に武田家内で何か事件が発生し、信安という人物が奥州へ移り住んだのかもしれません。
こういった家系図に載っていない人物が思いもよらない場所で活躍しているという話は、中世ではたまにあります。こういうケースではその人物の出自を証明する史料がないのが普通ですから、研究者によっては歯牙にもかけません。でも私はこういった伝承を大切にしたいと思っています。
現在のところは、これ以上のことは分かりませんし、調査をしている時間はないため懸案事項としておきますが、甲斐武田一族の誰かがこちらにやってきて、地元民から慕われているというのはなんだか嬉しい気がします。
霊廟南側の眺望。
では、つづいて朝日町にある大隅遺跡を目指します。
「岩宿の発見」よりも前に旧石器が見つかっていたという遺跡ですが、大隅遺跡の近くでちょっと休憩。「道の駅あさひまち りんごの森」に寄ります。
施設名の通り、美味しそうなリンゴが安く売っていますよ。
さすがにここでリンゴを買って、自宅まで持って帰ることはできないので買いませんが食べたい。