恒川官衙遺跡(伊那郡衙跡)|長野県飯田市【AICT開催レポート】第118次現地講座「南信の縄文と飯田古墳群」その8


恒川官衙遺跡(伊那郡衙跡)

 高岡1号墳の駐車場まで戻るには、恒川官衙遺跡を見て行くのが良いでしょう。

 ところで、恒川って「ごんが」と読むのですが、調べているときにあるサイトに「ごんがわ」とルビがふってあって、普通読んだら「ごんがわ」だよな、と勝手に思って自分でも「ごんがわ」とルビをふって資料を作ってしまいました。

 ところが真実は「ごんが」だった・・・。

 飯田線の踏切を渡ります。

 この線路上、高架の手前が先ほど訪れた新井原12号墳です。

 反対側。

 右手の森が高岡1号墳ですね。

 恒川官衙遺跡は、律令時代の伊那郡衙の跡なのですが、郡衙跡といっても、その中心となる政庁跡は見つかっていません。

 郡衙というのは郡の役場ですが、郡衙域は広大なため、なかなか全貌がはっきりすることはないでしょう。納められた税を保管しておく正倉院などは良く見つかります。

 お、ここに何かありますよ。

 ここは先ほど、高岡1号墳から新井原12号墳へ向かう途中に線路の向こう側に見えていました。

 なるほど、ここが郡衙の北限ですね。

 ここで述べられている通り、7世紀後半に設置された当初の呼び名は、伊那「評(こおり)」でした。

 それが、大宝元年(701)の大宝令の制定により表記が「郡(こおり)」に変わりました。

 民家の敷地との境界もあまり分からない感じですね。

 というか、普通に分譲された一画のような佇まいです。

 でも、国史跡ですからこの部分が破壊されることはありませんよ。

 しかし、良い景観ですな。

 冬は寒いでしょうが、とても良い場所です。

 また説明板が現れました。

 「厨」と記された墨書土器が出土した場所です。

 こういった土器は、その器の所有者が書かれることが多いため、ここに厨房あるいは食堂があったことが分かります。

 そんな単純な話なのかと思われるかもしれませんが、考古学的にはそうなのです。

 他の墨書土器も出ています。

 「官」は、官の所有するものであることを示したのかも知れず、具体的な施設は分かりません。

 「信」は何でしょうねえ・・・

 信濃の「信」かなとも思えますが、人の名前の省略かもしれません。

 清々しい朝の散歩を終えて、高岡1号墳の駐車場に戻ってきました。

 今気づきましたが、ここは「古墳ひろば」って言うんですね。

 地元の方々の古墳愛を感じる場所です。

 次は、素晴らしい遺物と出会える飯田市考古博物館へ行きますよ。

その9はこちら

 



 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です