新井原12号墳|長野県飯田市【AICT開催レポート】第118次現地講座「南信の縄文と飯田古墳群」その7


新井原12号墳

 日本国内で政府が主導した大掛かりな馬の生産が始まったのは5世紀からだというのが一般的な見方です。

 馬はどこでも飼えるというわけではなく、それに適した場所があり、とくに今回訪れている長野県や隣の山梨県、そして関東地方では群馬県が有名です(近世には千葉県でも盛んでした)。

 そういう馬を飼うのに適した場所には、5世紀後半以降、馬を飼う技術を持った人びとが移住してきて、彼らのリーダーは古墳に葬られました。

 これから訪れる新井原12号墳もそういった馬との関連が濃厚な人物が葬られた古墳です。

 高岡1号墳を出て、県道を東へ歩いて行くとすぐに古墳の場所が見えてきました。

 その先は標高が下がっているのが分かりますが、そこには天竜川の支流である南大島川が流れています。新井原12号墳は、その南大島川に臨む部分に築造された古墳です。

 墳丘は完全に隠滅したと思っていましたが、わずかながら残欠があり、説明板も立っていますよ。

 説明板を読んでみましょう。

 

 新井原12号墳は、6世紀前半に築造された帆立貝形(式)古墳です。

 この短い説明文は何も語っていませんが、この古墳の重要なポイントは、下の墳丘図の中に隠れています。

 

 図中にひっそりと「馬の墓」とありますね。

 これが興味深いのです。

 私がはじめてこの古墳の存在を知ったのは、白石太一郎さんの『東国の古墳と古代史』を読んだ時です。

 5世紀から始まった馬生産の手法は渡来人が持ち込んだとされており、彼らが持ち込んだとされる馬を生贄とする祭祀があった形跡が列島各地で見つかっています。土壙の中から馬の遺骨が発見され、中には首を切断して、首の向きと体の向きをわざと違えて葬ったケースもあります。そういう遺構を馬の犠牲土壙と呼ぶのですが、とくに伊那谷からの発見が多いのです。

 新井原12号墳傍の馬の犠牲土壙からは馬具が見つかっており、5世紀中葉のものです。

 現地説明板には、6世紀前半の築造とありますが、白石さんは、古墳の築造時期も馬の犠牲土壙と同じく、5世紀中葉としています。

 2022年5月にAICTでは群馬県高崎市の剣崎長瀞西遺跡を歩きましたが、そこでも渡来人と馬との関係を話しました。そこでは、5世紀後半に築造された剣崎長瀞西古墳を見ました。

 剣崎長瀞西古墳も帆立貝形古墳です。

 関東各地の古墳を見ると、とくに6世紀に今まで人が住んでいなかったような場所に突如として大型前方後円墳が築造されるケースがあります。

 その場合、それを築造した人びとがどこから来たのか、そしてその経済基盤は何だったのかが問題になりますが、馬の生産をそのヒントとして考えることができます。

 それでは、僅かに残った墳丘に登りましょう。

 馬の墓が見つかった遺構は線路の向こう側です。

 東国といわずとも古代史を探る上では、馬の生産は非常に重要なファクターになるわけですが、それを考える上では、こんな姿になってしまった新井原12号墳を見ていただくことも大事じゃないかなと思います。

 それでは、恒川官衙遺跡を歩いて駐車場へ戻りましょう。

その8はこちら

 



 

 

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