最終更新日:2024年4月11日
方形周溝墓は弥生時代前期から古墳時代前期にかけて築造された墓で、その分布範囲は末期古墳を除いた古墳の分布範囲とほぼ重なり、北は宮城県から南は熊本・宮崎県までです(鹿児島県にあるかどうかは分かりません)。
ただし、地域によってかなり濃淡があり、古墳時代になってから造られ始めた地域もあります。弥生時代に築造されたものに関しては、近畿・東海・南関東に集まっている傾向があるため、その地域の文化と見て良いでしょう。
最古のものは弥生時代前期にまで遡るため、稲作文化と一緒に朝鮮半島からやってきたと一瞬思いがちですが、九州には古いものがなく、むしろ近畿地方に最古級があることから、単純に稲作文化と絡めて考えることはできず、日本人によって考え出された墓の可能性があります。
見た目は掲載した写真を見てもらえれば良いと思いますが、イメージ的には古墳に似ています。その名の通り、方形の低い墳丘を持ち、周囲に溝が巡っています。弥生時代に造られ始めたため、弥生時代の遺跡に行くとたまに復元があったり、説明板の文面の中に登場したりします。そのため、弥生時代のお墓というイメージが強いと思いますが、冒頭述べた通り、地域によっては古墳時代前期まで造られ続け、場所によっては、前方後円墳の隣に方形周溝墓群が展開しているという情景が当時は見られたはずです。
方形周溝墓を語るには弥生時代からですので、ここで弥生時代の実年代を示しておきます。
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実は私自身はこれに完全に従う気持ちはないのですが、実年代を知りたいというオーダーをよく古代史ファンの方からいただくので、最近はひとまずこれで説明することにしています。
※補足1:例えば、兵庫県尼崎市の東武庫遺跡の方形周溝墓は、前期前半から中期初頭にかけて築造されたと言われていますが、1号墓で見つかった木棺木材は、年輪年代測定法によると紀元前445年に伐採された木で、上の表に当てはめると、前期後半になります。
※補足2:大阪府の池上曽根遺跡の大型建物跡でみつかった柱は、年輪年代測定法によると紀元前52年に伐採された木でした。上の表に当てはめると、中期後葉になります。
※補足3:本文とは矛盾しますが、『愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第40集 山中遺跡』(愛知県埋蔵文化財センター/編・1992年)(P.110)によると、福岡県・東小田峰遺跡例が最古といいます。ただし、九州地方では定着せず、むしろ古墳時代になってから流行します。中国・四国地方では、前期まで遡る方形周溝墓はありません。そのため、九州から畿内へ伝播したとも考えられません。畿内と伊勢湾岸の方形周溝墓は平面形態が異なります。これらのことから、方形周溝墓は複数地域で多発的に発生した可能性があります。
※補足4:補足3の書(P.111)によると、四隅にブリッジを持つA4形方形周溝墓は、弥生時代前期に伊勢湾岸地方で発生し、三河・遠江地方、ついで関東地方に伝播したと推定され、北陸地方へは美濃・飛騨を経て伝播したと推定されます。

宇津木向原遺跡|東京都八王子市
方形周溝墓というネーミングは、昭和39年に行われた東京都八王子市にある宇津木向原(うつきむかいはら)遺跡の発掘調査が発端です。墓であることが確実なその遺構には当時はまだ名前が付いていなかったのですが、國學院大學の大場盤雄が名づけ、定着しました。
つまり、八王子市は方形周溝墓という名前の発祥の地なのです。しかし、日本で最初に方形周溝墓が見つかった場所ではないので、その点は勘違いしないでください。

宇津木向原遺跡では5基の方形周溝墓が見つかりましたが(調査2区から4基、5区から1基)、完全に破壊されました。今の八王子ICがその場所です。
学史的に非常に重要な遺跡なのに、現地には説明板一つもないという体たらく。
方形周溝墓は、その名の通り四周に溝がめぐっていますが、ブリッジ(溝を掘り残した陸橋部分)の場所で分類する考え方があって、宇津木向原遺跡の調査2区の方形周溝墓は、2基がブリッジがないタイプ、もう2基が四隅の一か所にのみブリッジを設けたタイプです。
関東地方の弥生時代後期の方形周溝墓にはこのタイプが多くて、もっと古い中期のタイプに関しては、次項の大塚歳勝土遺跡で説明します。
方形周溝墓から見つかる遺物としては、底部穿孔土器とガラス玉類がポピュラーですが、宇津木向原遺跡ではそれらがセットで見つかっていることが特に重要とされています。
八王子市は宇津木向原遺跡の出土遺物を持っていますので、いま建設中の新しい郷土資料館にはきっと充実した方形周溝墓コーナーが設けられ、そこに遺物が並ぶことと想像しています。
そうじゃなかったら怒る。

大塚歳勝土遺跡
ダスキンに入社する少し前の2012~13年の頃は、長く苦しんだ体調不良からようやく脱出できそうな気配があり、なるべく外に出るようにしていました。お金はなくても時間はあったので、各自治体などが主催する歴史講座によく参加して勉強に励んでいました。
当時はすでに古墳好きでしたが、それにアドオンする形で異様に方形周溝墓に興味が出てきていた頃でした。まだ一つも復元を見たことが無い時に、八王子市主催のとある歴史講座を受け、そのとき会場にいた職員の方が、「一番近い所では横浜の大塚歳勝土(おおつかさいかちど)遺跡で見れますよ」と教えてくれました。
そしてようやく念願かなって対面できたのが2015年8月。
初めて方形周溝墓の復元を見て異様な喜びに包まれました。

それ以降、クラツーで案内した時を含めて、3度訪問しています。

なお、国史跡としての名称は大塚歳勝土遺跡ですが、隣にある環濠集落の方が大塚遺跡で、こちらの方形周溝墓群の方を歳勝土遺跡といいます。ちなみに、現地の言葉ではクワガタムシやカブトムシのことを「さいかち虫」と呼び、そういった虫が多いことから歳勝土という地名になったようですが、どうやら今でも昆虫採集のメッカのようです。

説明板に記されている通り、大塚歳勝土遺跡の集落跡と方形周溝墓群は、弥生時代中期の築造です。もっと細かく言うと、中期の後半で、宮ノ台式の時期になります。
以前は、関東地方の方形周溝墓は、灌漑稲作や環濠集落と共に宮ノ台式の時期に西から伝わったと考えられており、方形周溝墓では歳勝土遺跡が最古級といわれていましたが、今では宮ノ台式期よりも古い方形周溝墓が千葉県や埼玉県で検出されており、神奈川県小田原市の中里遺跡も有名です。
宇津木向原遺跡の項で説明した通り、方形周溝墓は、四周する溝のブリッジの場所で分類する考え方があって、関東地方では、四隅にブリッジがあるタイプが最も古いとされています。
歳勝土遺跡の方形周溝墓がまさにそうですが、このタイプは、四隅のブリッジが長大化して、四隅突出型墳丘墓に発展したと考える人もいます。この説については、四隅突出型墳丘墓の初源が出雲あるいは安芸北部の出雲との境界辺りですので、その地域の方形周溝墓を調べてみないと何とも言えません。
歳勝土遺跡で現状見られるものは土を盛って復元したもので、実際には各墓の中央部に主体部が1基ありました。

安満遺跡|大阪府高槻市
私個人としては、初めて見た復元が上述の歳勝土遺跡だったので、方形周溝墓といったらそのイメージが強いです。墳丘はそれほど高くなく平坦で、溝の法面の角度はするどく掘られているイメージです。
ところが、大阪を代表する方形周溝墓群である亀井遺跡の発掘時の方形周溝墓の写真を見ると、もっと盛り土が高くて、溝の法面もなだらかで、古墳とほどんと変わらないように見えます。
『方形周溝墓研究の今』にも、実際に調査した人間の感覚として、関東と近畿では方形周溝墓の様相が違うと述べられています。
方形周溝墓の本場といってよい畿内で優れた復元を探してもなかなか無さそうですが、例えば大阪府高槻市の安満(あま)遺跡に復元があります。

安満遺跡は淀川流域を代表する弥生時代の環濠集落跡で、集落跡と水田跡と墓跡の主要3点セットが見つかっており、墓は100基以上見つかっています。

今は親子連れで賑わうファンシーな遺跡公園になっているのですが、その一番奥に方形周溝墓が復元されています。
上述した大塚歳勝土遺跡の復元とはだいぶイメージが違うと思いますが、これが畿内の方形周溝墓のイメージです。

周溝無し状態で復元されたものもあります。

そのうちの1基は人工芝が張ってあり、子供が登って遊ぶのに最適な状態ですが、主体部の木棺のイメージ画が張り付けてあります。

早川和子さんの画による解説。

ここではコウヤマキ製の組合式木棺を使ったわけですが、主体部は必ずしも木棺というわけでもなく、地域や時代によって変わりますし、加美遺跡の項で説明する通り、墳丘上の埋葬主体が必ずしも1基というわけでもありません。また、地域によっては周溝に葬られるケースもあります。
家族ごとに造られたという理解が一般的ですが、いったいこの「家族」というものがどういうものだったのか、現代人の発想で簡単に考えることはやめたほうがいいです。
ちなみに、AICTでは過去に安満遺跡を3回ご案内していますが、墓域まで案内したのは1回だけでした。
だって入口から遠いんだもん!
墓域まで案内できなかった回にご参加いただいた方には大変申し訳ございませんでした。
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加美遺跡|大阪市平野区
畿内では、弥生時代前期末には方形周溝墓の築造が始まりますが、墳丘内に複数の主体部を持っています。主体部には上述した安満遺跡の復元で表現されているような木棺のほか土器棺も使用されました。
大きさは一辺が10m前後のものが多いのですが、加美遺跡では、弥生時代中期後半の大型の墓が見つかっており、東西15m×南北26m、高さ約3mという規模から、方形周溝墓ではなく、墳丘墓とされています。それは、Y1号墳丘墓と呼ばれています。
合計23基の木棺墓が検出され、墳丘中心部の5号木棺は、二重の組合式木棺で、30代の男性が納められていました。それ以外の木棺墓の内訳は、成人13人、子供9人です。5号木棺からは副葬品は見つかりませんでしたが、他の木棺からはガラス製小玉やガラス製勾玉などが見つかっています。なお、すべての木棺に水銀朱がまかれていました。
畿内では、後期の方形周溝墓があまり見つかっておらず、実態が良くわからないのですが、後期初頭の東大阪市・巨摩遺跡で見つかった方形周溝墓もやはり多数埋葬です。方形周溝墓というと、墳丘中心部に主体部が1基造られるイメージがあるかもしれませんが、地域による違いが見受けられます。ただし、畿内でもこの時代以降は多数埋葬はなくなるようです。
後期には東海地方や南関東地方に多くの方形周溝墓が造られたのに、畿内で見つからないというのは一体どういうことなのか興味深いです。また、畿内で後期初頭まで続いた多数埋葬の風習は、東日本とは様相が異なります。

田能遺跡|兵庫県尼崎市
私が訪れた畿内の弥生遺跡の中では、兵庫県尼崎市の田能遺跡の方形周溝墓の展示がかなりユニークでした。田能遺跡の方形周溝墓は、中期後半の築造です。


田能遺跡は、AICTでは1度だけご案内しています。


ここの復元は、最早アートと言っても良いかもしれませんが、方形周溝墓の痕跡を残そうとした情熱は感じることができます。
なお、第3号方形周溝墓は、2基の木棺墓から銅釧1点と碧玉製管玉632点以上が出土し、木棺には水銀朱がまかれていました。墳丘の大きさは19mで、伊都国の王墓である三雲南小路遺跡に対比しうるという考えもあります(『史跡で読む日本の歴史1』所収「集団墓から首長墓へ」<飛野博文/著>)。
田能遺跡の方形周溝墓も先述した加美遺跡のY1号墳丘墓も墳丘は正方位を意識して築造されています。

尾ノ崎遺跡|和歌山県御坊市
方形周溝墓の本場といってよい畿内でリアルな復元が見られないのは残念ですが、少し離れた和歌山県には素晴らしい復元があります。御坊市の尾ノ崎遺跡です。
ここでは古墳時代前期の方形周溝墓が18基見つかり、そのうちの11基を復元整備して見学できるようになっています。畿内の方形周溝墓は、古墳ぽいでしょう?



この場所は海に飛び出た突端部分で、本来であれば関西電力の敷地として破壊されるはずだったのですが、貴重な遺跡だということで、海を埋め立ててまで予定変更をして、この場所は遺跡公園として守られたのです。
海が望める方形周溝墓群で、素敵な場所ですよ。

過去にAICTでご案内して好評でしたが、来月(1月)の和歌山現地講座でも再訪します。

上の平遺跡|山梨県甲府市
築造時期は古墳時代前期になりますが、山梨県甲府市の上の平遺跡の方形周溝墓群は、このような復元になっています。

実際はもう少し盛り土があったと思いますが、周溝の法面が急角度になっているところなどは、関東の方形周溝墓のイメージと合致します。
なお、ここでは、その他の方形周溝墓はこのような植栽で表現されており、迷路遊びができるようになっています。

AICTでは、何と4回も訪れており、毎回好評を頂いています。

飯郷作遺跡|千葉県佐倉市
千葉県佐倉市の飯郷作(いごうさく)遺跡は、弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡で、千葉県でも最古級の前方後方墳を始めとして、方墳や方形周溝墓が見つかっています。
その内訳は、前方後方墳が2基、方墳が2基、方形周溝墓が23基で、これらは古墳時代初めの頃の築造です。方墳と方形周溝墓はほとんど見分けがつかないように思えますが、発掘調査時にマウンドが確認できたものを古墳としたようです(『方形周溝墓研究の今』所収「方形周溝墓の築造計画」駒見佳容子/著)。
遺跡の上には県立佐倉西高校が建設されましたが、その敷地内に一部が保存されています。古墳群最大の墳丘長30mの前方後方墳である2号墳と方墳の3号墳、4号墳、それに方形周溝墓のD01~D05までの5基です。


これだけでは、方墳なのか方形周溝墓なのか良くわかりませんね。


この遺跡はクラツーでもAICTでも一度も案内しておらず、秘蔵の探訪箇所として取ってあります。

仁所野遺跡|愛知県大口町
愛知県で2番目に大きい前方後円墳である犬山市の青塚古墳からほど近い、隣町の大口町の仁所野遺跡には、方形周溝墓だけでなく、これまたレアな台状墓があります。

ここの凄いところの一つ目は台状墓が見られるところです。

1号台状墓は、祠が乗っていて参道が造られていますが、それ以外は自然な状態だと思われます。
なお、台状墓と言った場合は、私は丘陵部分の地山を削り出して墳丘を形づくるタイプの墓と認識しているため、これは方形周溝墓ではないかと思うのですが、大口町が台状墓と言っているのですからちゃんと根拠があるはずです。
そしてもうひとつ。方形周溝墓も周溝は埋まっていますが、ほとんど手つかずに近い状態でしょう。

第1号方形周溝墓は弥生時代中期の築造。

第2号方形周溝墓は、弥生時代後期の築造です。


大口歴史民俗資料館は写真撮影NGだったのが痛かった。
今でもたまにそういう施設があるんですよね。
来館者数を増やしたかったら写真撮影OKにすることですが、それほど来館者数の増加に対して意欲は無いのでしょう。

王山古墳群|福井県鯖江市
方形周溝墓は北陸にもあり、福井県にはこれまた素晴らしい復元整備の場所があります。
王山古墳群といって、丘の上に弥生時代の方形周溝墓と古墳時代の古墳(って変な言い方ですが)が一緒になって築造されており、総数は54基。ここでは、方形周溝墓も「○号墳」という呼び方がされています。
それらの中で、1・3・4・7号墳(墓)が、弥生時代後期の方形周溝墓です。大きさは一辺が8~12mで、高さは大体1~2mあり、副葬品は見つかっていませんが、3号墓の周溝から見つかった土器は、東海や近江地方の影響を受けています。


こちらは方形周溝墓の3号墳。

そしてこちらは、4世紀の方墳である9号墳。

どこが違うんだ!と怒り出す人がいそうですが、そういうものなので諦めてください。
王山古墳群もAICTで2度ご案内しています。

塚原古墳群|熊本県南区
方形周溝墓は九州には比較的少ないのですが、それにもかかわらず素晴らしい復元が見られる場所があります。
一つは、熊本市南区にある塚原古墳群です。

古墳が集まる区域と隣接して、方形周溝墓群が営まれており、なかなか素敵な景観です。
説明板によると、塚原古墳群の方形周溝墓の築造時期は、4世紀後半から5世紀中頃とあります。

私の理解では、古墳時代の方形周溝墓は前期に終焉を迎えると思っているのですが、この説明の意味をきちんと考えないといけないと思っています。
AICTでは、3月の熊本の装飾古墳群現地講座の際にここも訪れます。

赤塚方形周溝墓群|大分県宇佐市
大分県にも良いのがあります。
宇佐風土記の丘にある赤塚方形周溝墓群です。



AICTでは、ここには5月の大分の現地講座で訪れます。

東町田墳墓群|岐阜県大垣市
ここまで方形周溝墓の話をしてきましたが、方形があれば円形もあります。しかし、地域差はあるものの数的には圧倒的に方形が多いため、円形周溝墓の復元が見られる場所は貴重です。
その貴重な場所の一つが岐阜県大垣市の東町田墳墓群です。

周溝は埋まっていますが、円形周溝墓です。
墳丘は3mほどもあって、見た目はほとんど円墳ですが、円形周溝墓とされます。
こちらも来年考えている岐阜の現地講座で訪れます。
以上のように、各地の周溝墓を見ていると、個人的には従来の周溝墓のイメージがだいぶ変わってしまいます。本項では単に各地の周溝墓を紹介しただけに留まりましたが、いずれもう少し突っ込んで考察した結果を掲載しようと考えています。
なお、方形周溝墓好きの人のことを「ホーケーシューコーバー」と呼ぶのは稲用語であって学術用語ではありませんから注意してください。
ここに書くのもおかしいのですが、全国円墳ランキングにコメントが記載できずでこちらに書かせてもらいます。
岡山県岡山市北区の小盛山古墳はランキング外でしょうか?
現地は放置状態で説明版はありませんが…一応造出つきの円墳だと思われます。
うさぎさん
コメントありがとうございます。
本サイトは、ページの造りによってコメントが書けない場合もあるので、適当な場所に書いていただいて大丈夫ですよ。
小盛山古墳は108mもありますが、造出付き円墳にするか帆立貝にするかで研究者によって意見が分かれるようですね。
私はまだちゃんと考察したことが無いので、ひとまず保留とさせていただきます。
今度、吉備に行く機会がありましたら調べてみようと思います。