有年原・田中遺跡
AICTでは、2023年3月24日(金)から3日間の行程で播磨の現地講座を開催しました。
3日間かけて、播磨の東端からどんどん西へ侵攻していったのですが、最終日の3日目は宿泊地の姫路から播磨西端の上郡町まで駆け、井の端遺跡の古墳群を見た後、上郡町郷土資料館を見学し、そこで興味を覚えた中山古墳群を訪れ、つづいて赤穂市に移動しました。
赤穂市ではまず、赤穂市立有年考古館を見学し、つぎにやってきたのが有年原(うねはら)・田中遺跡です。
有年原・田中遺跡は複合遺跡です。弥生時代の集落跡のイメージが強いようですが、現在は、「有年原・田中遺跡歴史公園」として整備され、墓域にあった墳丘墓の復元が見られるということで非常に楽しみにしてやってきました。
公園内を見渡すと、葺石で覆われた円墳のようなものが2つ見えます。
さっそく取り付きましょう。
パッと見では円墳ですね。
でもこれは、墳丘墓なのです(研究者によっては円形周溝墓としていますが、ここでは現地の説明板に従って墳丘墓として説明します)。
周溝がめぐっています。
復元で葺石(あるいは貼石)が施されているのは、発掘調査時に周溝内で多数の石が見つかったからです。
説明板を読んでみましょう。
墳丘墓と古墳との違いは何か。
これは難しい話で、研究者によって定義が違い、教科書に書いても大丈夫なような共通の見解がないのです。
これは考古学会の問題の一つですが、墳丘墓と古墳の境界に当たる3世紀を二つに割って、前半の土器型式で言うところの「庄内式期」(地域によっては庄内式併行期と呼ぶ)に造られたものは墳丘墓で、3世紀後半の「布留式期」に造られたものは古墳と呼んでおくのが無難です。
もちろんこの説明で納得できない人も多いと思いますし、こう言っている私も厳密にはこの考え方ではないのですが、これ以上は話しません。
有年原・田中1号墳丘墓は、2世紀後半から3世紀初頭の頃の築造ですから墳丘墓です。
では、墳丘に登ってみます。
おー、独特。
弥生チックですね。
というか、弥生時代の墓ですから当たり前です。
でも、これは実際の状況を忠実に再現したのではなく、ある種のイメージのようです。
説明板に書いてある通り、これらの器台と壺は、周溝内から見つかったもののレプリカです。
古墳の円筒埴輪もよく転落した状態で見つかりますが、それらは墳丘の縁に並べられていたからです。ですから、ここの場合も実際には墳丘の縁に立てられていたものもあったのではないかと想像します。中央部に立ててあったものであれば、転落せずに中央部から見つかると思います。
墳丘からブリッジを見ます。
このブリッジ部分が時代と共に伸びて行って、前方後円墳が生まれるという説が一般的で、私もその説に従っています。
弥生時代の墓としては、方形周溝墓が有名ですが、地域によっては円形周溝墓が卓越している場所があって、大雑把に言って、弥生時代の日本列島には、四角いのが好きな人たちと円いのが好きな人たちがいたのです(正確には単なる好き嫌いの問題ではありませんが)。
よく、現代においても四角い文化と円い文化をお餅の形で説明したりしますが、単に四角と円の違いだけで大袈裟なことを言うな、と軽視してはいけないのです。特に墓というのは、その民族の文化や思想の最も深い部分の現れですから、四角い墓を作る人たちと円い墓を作る人たちでは、極端に言うと民族が違うくらいの違いがあります。
方形周溝墓は主として畿内や東海、そして南関東地方で流行りましたが(古墳時代になるとさらに分布は広がります)、吉備や讃岐などの東瀬戸内地方は、円い世界なのです。
そういう中において、畿内と吉備との間にある播磨の位置づけというのは面白くて、それを探るのが今回の現地講座のテーマの一つです。
有年原・田中遺跡のこの墳丘墓を見ると、播磨西部は円い世界、つまり東瀬戸内地方の勢力下にあるように見えますが、果たしてそうでしょうか。
周溝内に木棺のレプリカがあります。
実際に木棺は見つかっていませんが、木棺があった形跡が見つかっています。
古墳の場合は、周溝内に土壙を掘って遺体を埋めるというやり方は目につきませんが、弥生時代の方形周溝墓では見かけます。こういうものは弥生的な要素ですが、列島各地を見渡すと、地域によって独特な墓制を見かけることがあるため、この場合は、「弥生時代後期の播磨西部ではこういうものがある」という認識をまずは持ってください。
第1号墳丘墓の独特なところはこれです。
ブリッジとは反対方向に造出状のもの(突出部)があるのです。
これを見ると、造出付円墳のように見えますが、時代はまだ弥生時代です。造出が普及するのは古墳時代中期からで古墳の場合は祭祀場です。説明板によると、この突出部の場合も祭祀場だったということなので、古墳時代の造出祭祀がこの時点ですでに行われているということが興味深いです。
ただし、もっと古い吉備の楯築墳丘墓も円丘の両側に突出部があるため、すでにツール的な物はこの時代には生まれていました。
ところで、先ほどはブリッジが伸びていて前方後円墳の前方部になったという話をしましたが、前方後方墳の場合はそうであっても、前方後円墳の場合は、1号墓のこういった突出部や楯築墳丘墓の突出部と考え合わせると、ブリッジではなく、こういう突出部が前方部の元になった可能性もあるのかなと思いました。
なお、ブリッジの場合は、その名の通り土橋であり、墳丘へ登るための通路です。
それは、古墳時代になってからも変わらず、横穴式石室が普及するまでは、初葬のときもそうですし、その後の儀式や追葬、そして考古学的には証明されていませんが、もし古墳を維持管理するのであれば、草刈りなどの定期清掃で墳丘に登る必要もあるため、ブリッジが必要です。いや、空堀の場合はなくても可能ですが、あった方が便利です。
横穴式石室の古墳の場合は、石室への通路があればよいので、墳丘に登るためのブリッジは必要なくなります。ただし、その場合は、考古学的に証明されていない「定期清掃」をする際に不便です。定期清掃などは無かったかもしれません。古墳は造ったら造りっぱなしかもしれません。
1号墓の墳頂から2号墓を見ます。
1号墓を降ります。
現代人もブリッジを使って墳丘と出入りしていますね。
おや、溝の復元がありますよ。
ただの溝のようですが、わざわざ復元展示をしているのですからそれなりに史的な意味があるのでしょう。
幅3mもあるので、単なる区画溝にしては大きいです。
多くの土器が見つかっており、こういう現代人的に訳が分からない遺構を説明する場合には、考古学者の必殺技というべき「祭祀」を繰り出すしかないのでしょう。
溝の位置的には墳丘墓群と木棺墓群の間にあるため、現代人的感覚だと、どちらの祭祀でも土器捨て場として利用できるようにこの場所に作ったと想像してしまいますが分かりません。
つづいて、木棺墓群を見てみましょう。
おっと貨物列車!
貨物列車ってカッコいいですよね。
貨物列車には男のロマンを感じます。
AICTの現地講座の特徴は、列車が姿を現すと中断してしまう点です。
鉄道好きな人が多いときは撮り鉄タイムになりますよ。
さて、話を戻して木棺墓群です。
古墳時代には陪塚あるいは陪冢と呼ばれるものが造られますが、そういうのは立派な墳丘を持っていて、特に百舌鳥古市古墳群のような大王級の墓になると、陪塚自体が普通の大型古墳みたいに大きいです。
そういった陪塚的な性格の墓は規模の大小を問わず、列島各地で見られるのですが、ここの場合は、陪塚的な性格とはまた違って、墓域内でその身分に応じて墓を作る場所を分ける意識が働いています。
地表面に単に穴を掘り、そこに木棺を置き遺体を納めました。
上の説明の優れているところは、「現在のもののように持ち運びできるものではありませんでした」と明記してあるところです。
現代の私たちが行う葬儀では、遺体を棺に納めて、霊柩車に載せて火葬場へ送ります。
ところが、ここのケースのように、棺を備え付けておいて、そこに遺体を運び入れるというやり方もあったのです。特に、古墳時代中期以降、身分の高い人たちは大型の石棺に葬られますが、そういうものは墳丘内に備え付けられてあったと考えられるケースが多いです。
有年原・田中遺跡は、こういったものや先ほどの溝など、墓域の様相が立体的に分かるように復元整備されているところが素晴らしいです。ただ墳丘を一基ボーンと復元するだけでは、意を尽くしたことにはなりません。
順番が変ですが、ようやく全体的な説明板に会えました。
そういえば、2号墓を見ていませんでしたね。
1号墓の後ろから廻り込みます。
1号墓の造出状部分の近くの周溝は、外側につづく溝と接続されています。
最初の方に見た説明板に、排水溝という説明がありましたね。
2号墓の説明板。
墳丘に登ります。
1号墓と同じような佇まいですが、土器の数が少なく復元されています。
一周歩いてから、駐車場側の道路近くに説明板が集まっている場所を見つけました。
有年原・田中遺跡の墳丘墓の築造年代を実年代で表した場合、この説明板では1800年前、つまり3世紀初頭ということになりますが、2世紀代という説明の資料もありますので、私的には2世紀後半から3世紀初頭の頃の築造という説明をしています。
遺構の写真。
1号墓の墳丘は削平されており、埋葬主体は見つかりませんでした。そのため、既述した通り、復元された墳丘上の展示はイメージです。帯状に攪乱されており、攪乱を免れた場所からは、1号墓が造営されるよりも古い時代の住居跡が検出されています。
また、2号墓も同じく肝心な部分が分かっておらず、端の方に主体部の掘り方のようなものがあります。
先ほど復元を見た溝は明瞭ですね。
しかし、物凄い穴の数ですが、こういう写真を撮るときって、調査員が穴という穴の縁に手作業で白線を引きますから、結構手間がかかっているのです。
周辺の航空写真もあります。
さて、既述した通り、有年原・田中遺跡の墳丘墓を見ると、この地には円い世界が展開していたように見えますが、有年原・田中遺跡の東方約1㎞地点の場所にある有年牟礼・山田遺跡では、弥生後期末〜古墳初頭の築造とみられる方形周溝墓が2基みつかっています。
しかもそのなかの1基はかなり大きい。長辺は19.5m、短辺は15.4mあって、単純に面積を測ると約300㎡ですから、方形周溝墓の中では大型の部類で、大きさ的には充分に墳丘墓と対峙できます。
また、以前の調査で見つかっていた土器片を改めて分析したところ、大阪府の生駒西麓と讃岐の祭祀用の土器であることが分かりました(以上、有年牟礼・山田遺跡についての情報は、「赤穂民報 2012年3月16日号」より)。
その方形周溝墓は、弥生時代中期以降の方形周溝墓の分布範囲としては西限界に当たり(ただし、古墳時代のものは除く)、方形周溝墓が盛行した大阪府でも、後期には数が減って、方形周溝墓を造ることができる人物がさらに高身分化していることが推測できます。
方形周溝墓はよく「家族墓」と説明されることが多いですが、古墳時代が始まる前には、王の一歩手前くらいの身分の高い人物が葬られるようになっていた可能性があり、円い文化の有年原・田中遺跡の墳丘墓の1~2世代くらいあとには、1㎞くらいの距離の場所で東からやってきた四角い文化の有力者が勢力を蓄え、虎視眈々と西方進出の機会を伺っていたように見えます。
なお、ここまで四角と円を強調して、両者は排他的な関係であると思わせるようなことを書いてきましたが、実は、両者が混在している地域もあるのです。それに関しては、また機会があったら述べます。
ところで、赤穂市立有年考古資料館の弥生遺物コーナーには、有年原・田中遺跡から出土した遺物が展示してあります。
下の写真の左側に2つある壺と器台のセットは、有年原・田中遺跡のもので、その手前の石包丁のうち、左側の打製石包丁もそうです。また、その右側の磨製石包丁のいくつかもそうです(具体的にどの磨製石包丁が有年原・田中遺跡出土のものかはキャプションでは判断できません)。
現地に置かれているレプリカはこれを元に作ったのです。
有年原・田中遺跡は複合遺跡ですので、他の時代の遺物も展示してありますよ。
補足
播磨では、弥生時代後期前半(1世紀末から2世紀初頭頃)に集落や墓が少なくなります。集落が少ないということは、単純に考えて人口が減ったということで、そういう場合の原因としては大きな気候変動による病気や災害の発生や社会的緊張(戦争状態)が考えられますが分かっていません。
そして、そういう時期を経た後、この有年原・田中1号墓が築造されるわけですが、それまでの播磨地域の伝統にはない突然変異的な墳丘墓が突如として現れた印象をぬぐえません。
後期という時代は、方形周溝墓の本場である大阪府でも方形周溝墓が激減する傾向があり、「何か」がありました。激減してさえも造られた方形周溝墓には、それ以前に増して高い権力を持った人が葬られるようになったと推定されます。
古墳は地域の王ともいうべき人物が葬られる墓として造られ始めますが、その前段階の後期の列島内では確実に社会が転換し、それまでとは異なる支配秩序が生まれ、古墳を築造する新たな世界に向けて助走を開始していたのです。