クインテッサホテル大垣に戻り、荷物を取って再び大垣駅へ向かいます。
さあ、貴方はどの武将に大事な荷物を託すかな?

秀吉は使用不可になっています。
空いているのは、稲葉良通と戸田氏鉄。
大垣に縁の深い武将の人気が無いのは何事か!
ちなみに私はここではなく、もう100円安い違うコインロッカーに荷物を託しました。
それでは、美濃赤坂駅に向かいます。
美濃赤坂駅は、東海道本線のいわゆる盲腸線である美濃赤坂支線の終点です。
終点と言っても大垣駅から2駅しかありません。
ホームに来ると先ほど乗った養老鉄道のホームが見えます。
600系が来た。

先ほどはラビットカラーの600系に乗りましたが、こちらが一般的な塗装のようです。

美濃赤坂支線が入線してきた。

養老鉄道の7700系は、赤帯のカラーリングもあります。

では、美濃赤坂支線に乗り込みます。
少し前に不気味な朝焼けを映していた西側の空には、今は暗雲が立ち込めています。
やはり天気が崩れるかな。
美濃赤坂駅にやってきました。

嫌ですねえ、雨が降っていますよ。
というか、氷の粒です。
では、最初は家康が本陣にした岡山へ向かいます。
岡山の麓には安楽寺があるので、安楽寺を目指しましょう。

おっと、廃線跡!

いいねえ。

しかし、こんな場所になぜ線路があるんだろう?
※註:帰宅後に調べたところ、美濃赤坂駅から延びる貨物専用の西濃鉄道(金生山からの石灰を輸送している)の昼飯線の跡でした。
あの機関車の塗装は、見たことが無いような気がする。

EF510とありますが、私には馴染みがない・・・

※註:機関車が引いているのは石灰ですね。西濃鉄道が運んできた石灰を美濃赤坂駅からはJR貨物が引き受けて運ぶそうです。
安楽寺に着きました。


本堂の裏から岡山に登れるようですが、立入禁止の札が立っているので遠慮します。
境内以外から登れるか、周りを歩いて調べてみます。
南側に回ると、関ヶ原合戦慰霊碑がありました。

慰霊碑の裏山が岡山ですが、家康は戦いの後、勝山に改名させたそうです。


こちらの碑文には、「杭瀬川の戦」というのが出てきますが、杭瀬川はここから東に数百メートルの位置に南流している揖斐川の支流です。
その戦いに至る家康の動きを述べましょう。
家康は9月1日に江戸城を出陣し、11日に清須城に入りました。このとき、家康は風邪を引いてしまいちょっとお休み。家臣がそれをやったら「緊張感がない!」と怒られそうですが、ずっと歩いてきた兵たちを休息させる目的もあったのかもしれません。
そして、13日に清須城を出て岐阜城に移りました。この時点で三成たちは大垣城にいますから、両者は直線距離で17㎞の位置にいます。
14日未明には岐阜城を出て、船橋を使って長良川を越え、神戸で休憩し、池尻村に付くと諸将からの出迎えを受け、それに対応した後、正午には赤坂の岡山に到着しました。
この日の移動は直線距離で19㎞ですが、実際はもう少し長いはずです。長良川での船橋の用意や神戸での休憩、そして池尻村での応対などの時間を引いて、仮に6時間かけて移動したとしてもいたって普通の行軍速度で、急いではいません。
岡山と大垣城は直線距離で4㎞しか離れていません。家康が赤坂に到着したらしいことを察知した三成は宇喜多秀家とともに自ら兵を率いて偵察に出向くと家康は赤坂にいると確信しました。しかし、三成側近の島左近や蒲生郷舎(さといえ)らは「家康が移動したと見せかける策略に違いない」と否定します。
そのため、三成・秀家・行長が再度選りすぐった斥候を出すと、帰ってきた彼らは「渡辺半蔵の旗が見えます。半蔵は必ず内府(家康のこと)に付き添う人間なので内府がいることは確かです」と報告しました。
それを聴いた島左近は、三成から許可を得て出陣。そこで発生したのが「杭瀬川の戦」です。
左近や郷舎は、杭瀬川の手前に伏兵を置いた上で、杭瀬川を渡り、敵から見える場所で稲刈りをして挑発しました。それを見た中村一栄(かずしげ・関ヶ原合戦の直前に病死した一氏の弟)の兵が怒り攻撃を開始。戦端が開かれました。
左近らはわざと退却し川を越えると、中村隊は川を越えて追撃。そこに左近らが置いていた伏兵が現れ、中村隊は挟み撃ちを受け、名の知られた戦士を含め三十数名が討ち取られました。
中村隊の苦戦を見た有馬豊氏が救援に駆け付けますが、中村隊とともに撤退し、戦いは止みました。このような小競り合いが「杭瀬川の戦」ですが、三成たちはこれを勝利と喜んだのです。
実はこの戦いを家康は食事をしながら高みから観戦していました。
最初は、中村隊の統率の取れた動きを見て「兵の訓練が行き届いておる」と喜んでいたのですが、川を渡りかけた時点で「いかん!」といい、「これは無駄な戦いじゃ」というと本多忠勝に命じて撤兵させるように指示したのです。忠勝はすぐさま数騎を従え前線まで駆けて行くと、戦いを収束させて戻ってきました。三成方も深追いする気がなかったため戦いが収まったのです。
さて、岡山の山頂に登るための唯一の道らしい道がありますが、そこにも「立入禁止」の札があるため、登るのはやめることにして、ここから江戸期の中山道(おそらく戦国期も同じ道)を歩いて西へ向かいたいと思います。
関連楽曲
『決戦、関ヶ原。』
作詞&作曲:稲用章
Vo:Saki(ボカロ) Gt&Key:稲用章
この日の探訪でインスピレーションを受けて制作した楽曲です。