60
双子塚古墳|栃木県宇都宮市
雀宮牛塚古墳跡から東谷古墳群を目指します。
ファミマがある。
最近、梅干しがマイブームなのです。
2個も買っちゃった。
先日、お客様から「先生、妊娠してるの?」と聴かれましたが、そういう覚えはないので大丈夫なはずです。
いや、それ以前に生物学的に大丈夫だと信じています。
いかにも栃木の平野部といった風景。
日光のお山にはあまり雪がありません。
田川を渡ります。
やがて、東谷(とうや)古墳群のエリアに侵入。
双子塚古墳がありました。
「下毛野の中期大型古墳と古式群集墳」(米澤雅美/著)によると、双子塚古墳は、元々は墳丘長60mの前方後円墳です。築造時期に関してはその名前から5世紀か6世紀だと思いますが、ひとまず中期としておきます。
現在は、前方部が削平されています。前方後円墳データベースの古墳アイコンの絵を見ると、西側に前方部があったようなのですが、説明文には「1891年に学校建設のため削平」とあります。現在は北側に高校がありますが、昭和9年の地図を見ると現在墳丘がある辺りに「文」のマークがあります。
墳頂には神様が祀られています。
墳頂から南側の東谷笹塚古墳方面を見ます。
なお、双子塚古墳は、二子塚古墳と表記する資料もありますが、すでに私はこういう細かいことはどうでも良い気分になっています。
東谷神社|栃木県宇都宮市
今はもうマイカーを欲しいとは思わないのですが、以前は、ポルシェが欲しかった時期がありました。ポルシェに乗って古墳めぐりをしたいと思っていました。
現実的には、あんなでかくて車高の低い車で遺跡をめぐることは困難なわけですが、それ以前に購入と維持が困難を極めます。
道端から東谷笹塚古墳を眺めていたら、古墳の前の道をポルシェが走って行きました。
あのドライバーは別に古墳に行くわけではないと思いますが、思い描いていたのはこういう風景だな。きっと。
風景を見たからには現実化したりして。
よしんば、誰かが車をくれたとしても維持できない。
今日のメインは東谷笹塚古墳なのですが、そこへ行く前に豪族居館跡が見つかった権現山遺跡に行ってみます。
おや、神社がありますよ。
なんか良い雰囲気の神社です。
由緒書きの掲示はありませんが、拝殿の扁額には「東谷神社」とあります。
こういう地名ズバリな名前の神社って気になりますね。
豪族居館と大型前方後円墳に隣接している神社ですから、古代史のロマンを駆り立てられる神社です。
権現山遺跡|栃木県宇都宮市
豪族居館跡が見つかった権現山遺跡は、東谷神社の北側に展開しています。
説明板を始めとして何もないことはあらかじめ分かっていましたが、つい、その面影を追い求めてしまいます。
ここに古墳時代の豪族居館があったわけですが、そうすると東谷笹塚古墳との関係が非常に気になりますね。
比較的最近まで発掘作業は行われていましたが、古墳と絡めてきちんと考察した論文は読んだことがありません。
私自身も今は何とも言えないわけですが、一応、その場所だけは見てみたかったのです。
20
糠塚古墳跡|栃木県宇都宮市
糠塚古墳は東谷笹塚古墳の周囲にある古墳のひとつで、後円部の北側にあります。
これから向かう先に東谷笹塚古墳の後円部が見えますが、その右手側にあるはずです。
しかし、そこには民家が立て込んでいて、敷地内をジロジロ覗きながら歩くわけにもいかず、いかにも古墳らしい盛土は確認できませんでした。
※註:帰宅してから、ご〜ご〜ひでりんさんのブログ「古墳なう」を読んで知りましたが、糠塚古墳はすでに削平されており、その痕跡が田んぼの中に残っています。墳丘があるはずという先入観で探していると見つけられないですね。
101
東谷笹塚古墳|栃木県宇都宮市
いよいよ、本日のメイン古墳です。
入口は墳丘西側の県道沿いにありました。
簡単な説明板もありますよ。
前方部墳頂に登りました。
墳丘頂部は改変を受けているのが分かります。
後円部墳頂には薬師堂がありますが、その周辺もやはり改変されています。
でも、むしろ綺麗に整形されていて、往時とは違う形であることが理解できていれば、美しくて良いと思います。
なお、こういうのを稲用語では「デザイン古墳」と呼びます。
後円部墳頂から見下ろすと段築が分かります。
3段築成です。
後円部の南側くびれ近くが大きく抉られています。
これはもしかしたら、プロの盗掘団の仕業かな?
※註:帰宅してから「古墳なう」を読んだら、やはり盗掘孔で、後円部にあった石槨まで到達していたということで、それを埋めたようです。
前方後円墳データベースには、主体部からの遺物はひとつも記載されておらず、円筒Ⅳ式が見つかったことしか書いてありません。
なお、円筒埴輪にはB種ヨコハケ調整が施されており、それによって築造時期は5世紀半ばとされます。
ここで少し休憩です。
時刻は11時を過ぎましたが、朝とは違って晴れてきてポカポカ陽気になってきました。
東谷笹塚古墳は、同じく宇都宮市の塚山古墳と並んで、栃木県を代表する中期古墳です。ただし、大きさに関しては、東谷笹塚古墳が101mで塚山古墳が98mですから、ほぼ同じなのですが、塚山古墳は一重の周溝なのに対し、東谷笹塚古墳は二重周溝で、しかも内側の周溝もかなり広く、周溝を含む総長は194mになります。
栃木県最大の古墳は墳丘長127mの吾妻古墳ですが、吾妻古墳の総長は162mですから、東谷笹塚古墳の勝ちです。しかしなんと、栃木県で3番目に大きい摩利支天塚古墳の総長は197mあって3m負けた!
別に大きさで勝負してどうのこうのってわけではありませんが、東谷笹塚古墳は二重周溝ですから、中堤もきちんとあって、航空写真で確認するとその様子が分かります。中堤の一部にも埴輪が並んでいました。
さて、塚山古墳にはもう何年も前に行っていますが、こちらには中々来る機会がなく、ようやく今日、来ることができて感慨深いものがあります。
宇都宮市内では、100mクラスの東谷笹塚古墳と塚山古墳のあとは大型前方後円墳の造営はなされず、少し間を開けて、5世紀末から6世紀初頭に小山市の摩利支天塚古墳が築造され、やがて著名な下野型古墳の大フィーバーに繋がります。
東谷笹塚古墳の後継者的な古墳は、この次に訪れる鶴舞塚古墳(53mの円墳)になります。
さて、古墳での休憩は「5分(こふん)」が基本です。
休憩は長ければよいというわけではなく、遺跡めぐりはスポーツの試合と同じように考えると良いです。反対に、時間がないからと言って、休憩ゼロにすると体力の消耗が激しくなります。
53
鶴舞塚古墳跡|栃木県宇都宮市
東谷笹塚古墳を降り、すぐ南側にあった鶴舞塚古墳跡を見てみます。
鶴舞塚古墳は円墳です。
いかにも元々円墳がありました的な地割になっていますよ。
住宅が建っている場所が元々墳丘があった場所で、その周辺の周溝の形跡が明瞭に残っています。
これは分かりやすい。
しかも、航空写真で確認するともっと分かりやすいのですが、鶴舞塚古墳の周溝は、東谷笹塚古墳の周溝と重なっています。
周溝を重ねる意味合いについては、弥生時代の方形周溝墓では、周溝を共有するケースが多く、その場合は、血縁者同士であった可能性が高いため、そこから類推すると、両古墳の被葬者同士の関係が非常に近かったことが推測できます。
墳丘を破壊して新たな古墳を造った場合は、まったく違う氏族や民族による行為と考えられますが、周溝の破壊は反対に親しさの証である可能性が高いです。
終末期を除いて古墳には原則として夫婦は一緒に埋葬されないわけですが(近年では、方形周溝墓でもそうだと言われている)、周溝をある意味共有しているように見える場合は、両墳は夫婦である可能性があるように思えます。
東谷笹塚古墳と鶴舞塚古墳のケースでは、鶴舞塚古墳の方がほんの少し築造時期が遅いようです。今後、このようなケースに遭遇した場合は注意したいと思います。
52
松の塚古墳|栃木県宇都宮市
鶴舞塚古墳跡から東へ進み、高速道路をくぐりました。
あれが松の塚古墳でしょう。
松の塚古墳は、周溝を含めた直径が101mにもなる円墳です。
ここも円いのが分かりますよ。
※註:帰宅後にブログ「古墳なう」を読みましたが、それによると墳丘西側は削られており、この円いラインが元々の古墳の墳丘ラインとのことです。そうなると、帆立貝形に見えるんですがどうでしょうか。下の写真を見ると、削られてしまった部分を含め、元々の墳丘の大きさが分かるような気がします。
既述した通り、松の塚古墳は周溝を含めた直径が101mもありますが、「未来をひらけ!しもつけ古墳群」(下野市教育委員会/編)所収の古墳編年によると、築造時期は7期(中期後葉)で、墳丘の大きさは52mとあります。
以上のことから、東谷古墳群では、5世紀中葉から後葉までの50~70年位の間に、東谷笹塚古墳(前方後円墳・101m)、鶴舞塚古墳(円墳・53m)、松の塚古墳(円墳・52m)が連続して造られたことになります。
今日は東谷笹塚古墳と権現山遺跡の豪族居館跡を確認できれば良いという気分で思い付きでやってきましたが、東谷古墳群は思っていたよりも面白いです。
手元の資料が少ないため、今一良くわからないのが歯痒いですが、周辺には群集墳がたくさんありますので、今後はそういった小規模な古墳や権現山遺跡などと総合して考察してみたいと思います。
なお、今回の記事を記述するにあたっては、帰宅後に読んだ、ご〜ご〜ひでりんさんのブログ「古墳なう」がとても参考になりましたので感謝の意を表して付記しておきます。